第4話 バス停 「県立西平高校前」

 翌朝。


「おいこら、カズ。起きろ!」


 アヤネの怒号ないしは罵声で目が覚めた。カーテンの向こうは明るい。ああ、今日もいい天気だな、と安心してもっそりと枕元の目覚まし時計を見ると6時40分だった。うーん、あと三十分、いや四十分は寝てられるなー、とぼやけた頭で考える。


 難行苦行の自転車通学ではあったが、悪いことばかりではない。こと天気のいい日の朝に限っては、バスで行くよりも二十分は家を遅く出て大丈夫という素晴らしいアドバンテージがある。バス停まで行かなくてもいいし、バスを待つ時間も要らないし、バスを降りてから学校まで歩かなくてもいい。朝の二十分はかなり大きい。その分を睡眠時間に充てるのは男子高校生的には至極当然の思考の帰結だろう。


「なんだよ、まだはえーよ。もう少し寝る ……」 とつぶやいてふとんにもぐりこむ。アヤネの蹴りの追撃が来てもそのまま寝続けるつもりだった。


 ところがアヤネの口からはまったく予想外の言葉が出た。


「早く起きろって、カズ。ミハが迎えに来てるよ!」

「え!? まじ!?」


 ミハルが来てるって? マジか。なんだ? 昨日の話の続きか? そりゃあ、一大事だ。

 僕は一瞬で覚醒してベッドから飛び起きる。血相を変えて立ち上がった僕の目の前には、すでに身支度を終えて手に原付のヘルメットを持ったアヤネが、くちびるの端っこだけで笑いながらこっちを見ていた。


「へえー、うちの愚弟は、お姉さまが、や・さ・し・く・起こしに来ても知らん顔するクセに、ミハだったら二秒で起きるんだー」


 朝からうぜー。どこが優しくだよ、どこが!


「このばーか、ウソだよ。ミハが迎えに来てくれるわけなんかないよねー。常識で考えな、このダメおとこ!」


 ちくしょー、アヤネの単純なトラップにまたやられた!


「アヤネ! てめー、言っていい嘘と悪い嘘があるだろーが! ぶっ殺すぞ!」


 僕の部屋は朝からエクストラハイボルテージの姉弟喧嘩が勃発寸前の状態だ。


「私、もう行くからね。朝ごはん作っといてあげたから。遅れないように学校行きなよ」


 しかし、アヤネは僕の怒鳴り声を受け流して、それだけ言うとひらりと部屋を出て行った。


 中学生の時、ミハルはたまに中学校の門を素通りして僕のマンションに寄って、僕を起こしに来てくれていた。特に二人が付き合っていた中学三年生の時は週に一回は来ていたと思う。それも決まった曜日とかではなくランダムに。


 鍵はどうしてたかって? ミハルは小学校低学年のころから、うちの合鍵を持っているんだよ。家が隣同士で窓越しに互いの部屋を行き来するのに比べたら、そんなに大したことじゃないだろ? 異論は聞かない。使用する機会は著しく減ったが、今でもミハルはうちの合鍵を持っているはずだ。


 ミハルは、中学時代、僕が朝寝坊した日に限って測ったかのように起こしに来てくれていた。ある時、通学途中に不思議に思って聞いてみたことがあった。

「なあ、ミハル。なんで俺が寝坊する日が分かるの?」

「ふふふ、なんとなくだよ。寝る前にね、明日あたりカズヤ君、朝寝坊するんじゃないかなー、って気がするのよね。インスピレーションってやつ?」

 ミハルはにこにこ笑っていた。


 いまだにミハルが僕の朝寝坊をなぜ分かったのか、分からない。

 そしてこれから先、その理由が分かる時は永遠に来ないだろう。それを考えると朝からとてつもなくブルーになる。


 ちくしょー、アヤネのせいだぞ。この沈鬱な気分は。覚えてやがれ。


――― いや、違うな。悪いのは僕なんだよな。 …… くそっ、分かってるっての。


 僕はムカつき半分、やるせなさ半分の、おそろしく爽やかな秋の朝に似合わない陰鬱な気持ちになりながら、制服に着替えて部屋を出た。


 ブルーな気分を引きずりながらダイニングに行くと、食パンとやけに黒いベーコンエッグとコーヒーが出してある。アヤネがついでに作ってくれたのか。しかしなあ ……。


 このスクランブルエッグもどきは、明らかに目玉焼きを作ろうとして失敗してかき混ぜたやつ。しかもベーコンは焦げまくりだ。ベーコンを極限まで焦がすと、歯ごたえのないぱりぱりのビーフジャーキーみたいになるんだ。知らなかったよ。


 僕はダイニングテーブルに座って、消し炭に近いベーコンをバキバキかじる。もちろん味なんかしない。これはどっちかっていうと、ベーコンに近い消し炭だ。ここまでベーコンを焦がせるのってある意味才能だぞ、アヤネ。比較的食べられる部分をアヤネが食べて行った残りなんだろうけどさ。


 濃すぎるけど辛うじて飲めるコーヒーをすすって、ぱりぱりの食パンをちぎって口に放り込む。アヤネ、何作るにしても火を通しすぎだぜ。アイツは昔から料理音痴だけど、…… こりゃいくらなんでもないわ。だいたい僕かミハルが料理作ってやってたからなあ …… 。あれじゃ嫁の貰い手ないぞ。いや、まじで。


 朝ごはんというよりも、バーベキューの焼野菜の残りに近いものをかじりながら、僕は今年の春の教室での出来事を思い出していた。



 高校二年生のクラス発表の時、僕はミハルの名前を同じ壁に張り出されたクラス名簿の中に見つけた。ミハルと同じクラスになるのは小学校三年生以来の二回目。小中九年間で毎年「同じクラスになれたらいいね」と言ってて叶わなかったのに、何もこんな風になってから引き当てなくてもいいのに、とひそかにため息をついた。正直気まずい。高1の時はクラスが違ったので、避けようと思えばいくらでも避けることができたが、同じクラスになるとそうもいかない。


 その上、偶然か、それとも運命なのか。高2の最初の席替えで、僕はミハルのすぐ前の席を引いてしまった。4番の席を探している時、5番の席に座るミハルを見つけた僕は、どういう表情をすればいいのかまったく分からなくなって、番号札を持ったまましばらく立ち尽くしてしまった。


 背後のミハルに気が付かないフリをしながら、僕は自分の席にそーっと腰を下ろした。めちゃくちゃ緊張している。座ったとたん、首筋に近い背中に、チクリと痛みが走った。割とガチで痛い。びっくりしながら恐る恐るうしろを振返ると、晴れやかに微笑んだミハルがシャーペンで僕をつついていた。

 そして軽やかに声を出さずに笑いながら、みんなに聞こえないようにこう言った。


「ねえ、仲直りしようよ」


 まじか! それは願ってもないことだ! 良かった、助かった、まずは謝罪だ、と思わずニヤつきそうになったところに、ミハルの声が続いた。


「ね? ……


 杉津くん。


 それまでの十年にわたる彼女との付き合いの中で、そう呼ばれたのは始めてだった。


 僕はこの時に、悟った。

 ミハルが僕に望んでいるのは、…… ただのクラスメートとしての関係だ。 


  ――― ミハルが僕を「カズヤ君」と呼ぶことは、もうない。

  ――― これ以上ミハルに近づくことが許されることは、もうない。

  ――― 僕は、ミハルを、諦めなければいけない ……。


 そして、僕はミハルと元どおり恋人同士に戻ることを、…… 諦めた。完全に。諦める以外になかった。


「…… うん。あの時はごめんな。

「ふふふ、いいよ。改めてよろしく。ね?」


 ミハルは柔らかく微笑んだ。

 僕も頑張って笑った。

 でも、心の中では、何とも言えない苦みを、目一杯噛みしめていた。


 かくして高校2年生の僕たちは、「北浦さん」「杉津くん」というよそよそしい苗字呼びの、ただのクラスメートとしての関係が復活することになった。



「どーせ、俺は女々しいよ。くそっ」


 僕は、誰にともなく悪態をつきながらマンションの自転車置き場から自転車を出してペダルを踏んだ。外は快晴の秋晴れ。憂鬱な気分も吹き飛ぶぐらい爽やかだ。


「ま、でも、終わったことはしょうがないよな」


 たぬき坂を軽快に下っていると自然と鼻歌が出てくる。ほとんどペダルは漕いでいない。それでも運転の下手なオバちゃんの軽自動車ぐらいのスピードは出ている。頬に触れる秋風はひやりと心地よい。


 ミハルとは恋人同士には戻れなかった。でも幼馴染でクラスメートには戻れたじゃないか。それだけでも高1の時に比べたら格段の進歩だ。

 

 それでいいんだ。

 それで満足しておけよ。


 梅谷町、美倉橋、下美倉三丁目とバス停を三つすぎる。今日は信号にもひっかからず、快適にとばせている。まったく爽快だ。もう坂は終わっていて、僕は平坦な道をペダルを踏みしめながら走る。鼻歌はいつしか本当に歌になっていた。


 うちの高校の正門はもうすぐだ。バスに乗って来ると、二百メートルほど行き過ぎたところにある「県立西平高校前」のバス停まで連れて行かれる。僕たちは毎朝正門とバス停の間を歩いて往復していたが、自転車通学をしているとこれが案外無駄なことに思えてくる。


 おかっぱで眼鏡の小柄な女子を、バス通りから折れて正門に続く道で追い抜いた。あれ、と思って僕はブレーキを握って自転車を降りて振り返る。女子は笑顔で手を振っている。


 やべえ、歌ってるの聞こえちゃったかな?


「おはよう。気分良さそうだね、杉津君」

「おはよ。サナエちゃん、もしかして俺が歌ってるの聞こえた?」

「すごいよく聞こえたよ。何かいいことあったの?」

「いや、むしろ逆。目覚めは最悪だった」

「どうしたの?」

「それ、聞かないでくれない? 思い出したら腹立ってきた。いつもの姉弟喧嘩だよ。じゃ、先行ってるから」

「また後で聞かせてねー」


 僕の喫緊の課題の一つ、米原よねはら早苗を残して、僕は再び自転車にまたがり、正門の横の自転車置き場に向かった。


   




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