僕たちの帰り道
ゆうすけ
第1話 バス停 「たぬき坂上」
「ぜぇぜぇ ……。この最後の百メートルが地獄なんだよな ……」
自転車を降りて押す僕の眼前に急な上り坂がそびえている。息もきれぎれにひたすら重く感じるハンドルを、僕は押し上げていく。
十月の始めのある日、学校からの帰り道、僕はバス通りを一人たぬき坂を登っていた。息は上がってるし、手は冷たいし、押している自転車は重いし。気分は最悪だ。
少し前まで僕も当たり前のように乗っていたバスが、通学生を乗せて青息吐息の僕を抜き去って行く。車内にうちの学校の制服姿の学生が何人か乗っているのが目に入った。文明の利器のありがたみを改めて感じる。
うちから学校までバスでおよそ二十分弱。自転車で行けない距離でもない。しかし、途中のたぬき坂を自転車で越えていくのは、地元の僕たちは絶対にやらない大変なことだった。
行きは下り坂なのでスピードの出しすぎにだけ注意すればいい。問題は帰りの上り坂。運動部の筋肉猛者でも最後まで漕ぎ切れるやつはいないだろう。たぬき坂を自転車で上り切ろうとすると、最後は必ず息も絶え絶えに手押しすることになってしまう。
秋も深まるこの時期にもかかわらず、じっとり汗ばんできていた。
たぬき坂の途中は人家も街灯も歩道もない暗い道で、特に女子が夜間に通るには危なすぎる。同じ中学からうちの高校に行った者のほとんどがバス通学なのは、ごくごく自然で当然の判断の結果だった。僕もそんなバス通学生の一人だった。つい先週までは。
高校に入学して最初の頃は、定期券を持つこと自体が新鮮で嬉しかった。今では子供っぽい発想だとは思うが、定期券を持っていると言うだけで大人になった気分になっていた。案の定、半年もすると、慣れてどうってことなくなってくる。2年生になって半年たつ僕はすっかり定期券の価値やありがたみというものを忘れてしまい、ついには買ったばかりの定期券を紛失してしまう愚挙を犯してしまったのだった。
「自業自得。自己責任。歩いて学校に通いなさい」
バスの定期代が電車のそれと比べると極めて割高なことを考えると、母の冷徹な裁きの声は至って正論だった。ぐうの音も出ない。こうして僕は自転車で強行登校をするはめになっていた。
たぬき坂という名前の由来は地元の僕も知らない。坂道の部分の長さは全部で一キロメートルもないが、結構な急坂で、とりわけ最後の百メートルはスキーでもできるほどの傾斜だった。何年かに一度、この地方に珍しく積もるほど雪が降ると、たぬき坂の前後がものすごい渋滞になる。
そのたぬき坂の最後の百メートルを息もたえだえになって僕は登ってきた。しかし、これをあと年末まで続けるのかと思うと先が思いやられる。
坂を上りきったところには、たぬき
僕はほうほうの体で自転車を押し上げる。ちょうどバス停のベンチは陽だまりになっていて、そこだけが季節が違うかのようにのどかな、猫が昼寝をしていそうな風景だった。
「
女子はスマホの画面から顔を上げると、柔らかな声で話しかけてきた。杉津とは僕のこと。僕は、ヤバい奴と会ってしまった、と一瞬ひるんだ。しかし、タヌキ坂との格闘で心身ともに疲労の極限に達していて、とてもじゃないが取り繕う余裕はない。僕は彼女の座るベンチの横にどさっと座り込んだ。
「……はー、つれーよ。……バスから …… 見えた?」
彼女は同じ中学出身で同じクラスの北浦美春。僕は呼吸が整わないままミハルに切れ切れに話しかけた。
「うん。思わず杉津くん待とうかな、と思ってバス降りちゃった。自転車通学、楽しそうだねー」
そう言ってミハルはころころと笑った。ポニーテールが秋の抜けるような青空にふわりと揺れる。気温はだいぶ低くなってきているが、たぬき坂との戦いを終えたばかりの僕は汗だくだ。
「瀕死の ……、この俺を見て……、楽しそうとか……、よく言えるよな。天気が良い日の……、下り坂だけだよ……、楽しいのは」
「ふふふ、頑張ってねー。陰ながら応援してあげるよ」
「表だって ……、応援してくれても、いいんだぜ?」
「それはタダというわけには行かないねー」
「…… まったく相変わらずミハルはがめついなあ」
あ、やべえ。呼吸が戻って来たんで油断した ……。
僕は咄嗟にポケットから小銭入れを取り出して、自販機に五百円玉を突っ込む。
「どれがいい? カフェオレ?」
「え? なに? 買ってくれるの?」
どうせこいつが選ぶのはこれだろ、と黙ってカフェオレのボタンを押して、出てきたペットボトルをぽんとミハルにほうり投げる。ミハルはそれをふわりとキャッチすると「ありがとね」と笑ってキャップをひねった。僕もポカリを買って一気に半分ほど飲み下す。
ふう。やっと一息ついた。
「しかし、定期なくすとかどんくさいよねー、杉津くん」
ミハルは柔らかく微笑みながら横目で僕をディスっている。
「それ、言わないで。アヤネにもさんざん馬鹿にされたし」
「アヤちゃん、駅までバイク乗って行ってるんだってね」
「そうだよ。自分がちょっとたぬき坂軽々と駆け抜けられるからって調子乗ってんじゃねーよ、って思うよ。言うと喧嘩になるから言わないけど」
「こないだYマートでアヤちゃんに会ったんだよ。コーヒーごちそうになっちゃった」
「アヤネにおごってもらうと後が怖いぜ? 俺は絶対アヤネのおごりは拒否するなあ。どうせロクなこと考えてねーもん」
彩音は二つ年上の僕の姉。今年から大学生になって原付に乗っている。 「原付だとたぬき坂なんか敵じゃないね。日ノ沢駅まで十五分だよ? いやー、快適だわー」とか抜かしてやがる。自分だって高校生の時はバス通学してたクセに偉そうなんだよ。
「…… 北浦さんさ、ここでバス降りちゃったら家まで歩かなきゃいけないじゃん。次のバス乗るの?」
「ううん、天気いいから歩いて行くよ。中学の時は歩いてたからね。これぐらいはいいお散歩」
「そっか」
ミハルは三分の一ほど残ったペットボトルをかばんの中にしまった。僕は、飲み干した五百ミリリットルのペットをゴミ箱に放り込んで立ち上がる。
「 …… 北浦さん、うちでなんか食ってく?」
言ってから僕は自分に驚愕した。
何を言ってるんだ、僕は。
なーにを言ってるんだ、僕は。
いくらたぬき坂を登りきった解放感があったとしても、これは言い過ぎだ。まずいなんてもんじゃない。ミハルは少し驚いたように目を丸くすると、次に一瞬だけ思案顔をして、ゆっくりと首を横に振った。
「ありがと。でも、今日はやめとく」
断られてほっとするのも失礼な話だ。それでも、僕は正直ほっとした。そしてほっとしなきゃならない自分が改めて嫌になる。
「そっか。じゃ、送ってくよ。行こうか」
「乗せてってくれるの?」
「えっ!?」
今度は僕が驚いて目を丸くする番だった。ミハルは僕の反応を予想していたように、嬉しそうに笑いながらすぐに言葉をつなげた。
「ふふふ、うーそ。冗談。杉津くん、二人乗りヘタだもん」
「…… 荷物は持つよ」
僕はミハルの通学かばんを取って自転車のかごに乗せた。そして歩き出す。
たぬき坂上のバス停から先は、ゆるやかな下り坂になって住宅街が続く。このバス停の周囲がここらあたりで一番標高の高い場所だった。
バス通りのセンターラインは落ちかかった夕陽に向かってゆるく弧を描いて伸びている。
それは、少し前まで僕たちが当たり前のように二人で見ていた、僕たちの帰り道の風景だった。
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