第7話 バス停「梅谷町」

「なあ、ミハル、さーみんってさ、アヤネに似てると思う?」


 僕は、ミハルの作ってきたおにぎりを食べながら聞いた。ミハルは売店で買ったコロッケを箸でつついている。やわらかい陽射しが総合運動公園中央広場のまだ緑の薄い芝生に降り注ぐ。春はもうすぐだ。僕たちはサッカーが2ゲーム同時にできるぐらいの広場の一角にレジャーシートを広げてお昼ご飯を食べていた。


 もともとミハルの母親は、アヤネに負けず劣らずの料理音痴だ。小学校低学年のミハルも、それこそガスコンロの使い方すら分からないレベルだった。そんなミハルに料理を仕込んだのは、うちの母親だ。小学校高学年ぐらいからミハルはうちの母親の師事のもと、いろいろな料理を覚えていった。うちの母親は僕にはろくに教えなかったくせに、ミハルにはとても丁寧にテクニックを伝授したもんだから、僕としては面白くない。ミハルに負けたくない一心で、僕は母親の見よう見真似で料理を覚えた。ちなみに母親は 「あの子には才能がないわ。お父さんに似たのね」 とアヤネに料理を教えるのはすぐに諦めていた。


 それもあって僕が作る料理とミハルが作る料理は基本的に同じ味がする、とアヤネに言われている。アヤネは、自分は食うだけのくせにやたら味にうるさい。まったく面倒な奴だ。


 それはともかく、僕はミハルのおにぎりは食べ慣れていた、いや、細かく言うと食べ飽きていた。「ミハルのおにぎりだけじゃなんだか味気ないから」 と言って、僕は売店でコロッケを買い足してそれをおかずにしていた。ミハルは曖昧に微笑んで、僕の買ってきたコロッケをおにぎりを包んでいたアルミホイルの上に並べた。


――― 僕はここでも地雷を踏みぬいている。常識的に考えて人の作った料理おにぎりを味気ないとか言うのは反則だ。


「え? カズヤくん、今さらそんなこと言うの? アヤちゃんよくバスでさーみんですかって声かけられるって言ってるじゃない」

「…… 知らなかった。アヤネ、あんなにかわいくない」

「そう? むしろアヤちゃんの方がかわいいと思う。だってさーみん、実物見ると笑顔がなんか硬いっていうか ……」


 午前中遠巻きに見ていた僕たちの前で、ドラマのロケは粛々と進んだ。レフ板やカメラを持ったスタッフの向こうでさーみんが笑顔で恋人役の俳優と戯れるシーンを撮影していた。そのあまりに完璧すぎる笑顔を思い出した。僕はコロッケのかけらを箸で口に運ぶミハルにむっとして反論する。


「ミハル、さーみんのこと悪く言うなよ。やっぱ、さーみんかわいいよなー。あの笑顔がいいんだよ」

「アヤちゃんの笑顔もかわいいよ?」

「アヤネの笑顔はたいがい悪だくみの黒い笑顔だろ。さーみんの純白の笑顔はサイコーだわ。あれは見てるだけで幸せになれるよな。アヤネにはできない笑顔だよ」

「そうでもないと思うけど ……」

「ああいう笑顔が毎日見れたらいいよなー」

「 …… 」


 なんとなくいつもより反応の薄いミハルに対して僕はついさーみんの良さを長々と力説してしまった。


――― 今から思うと、これも大減点ポイントだよな。分かってるって。


 芝生公園でおにぎりを食べた後、ミハルは案の定遊具に上って遊んだ。少し機嫌が直ったようで僕もほっとする。


 その日の夕方。運動公園北口を出て梅谷町のバス停まで歩いてきた。僕はベンチにリュックを置き、ミハルはその横に腰掛けた。なんだかんだで一日遊んだ。僕的にはさーみんのロケも見れたし満足だ。ただ、午後少し戻ったとは言えミハルの機嫌がイマイチ良くなかったのが気がかりだった。僕が遅刻したのがそんなに気に障ったのかな、とガラにもなく心配してしまう。ミハルはバス通りを見つめたままぼそりとつぶやいた。


「ねえ、カズヤくん」

「ん?」

「もうすぐ高校生になるの、不安とか、心配とか、そういうのない?」

「そんなのないよ」


 意外なミハルの質問を僕は笑い飛ばした。


「だって通う学校が変わるだけじゃん。俺たちの周りはなんにも変わんないんよ。俺もミハルも、アヤネも父さんも母さんも。ミハルのお父さんお母さんも、星が丘の街並みも。高校生がどんなもんなのかまだよく分かんないけど、別に不安なんか何もない」

「…… そうなんだ」


 ミハルは不安なのか? と聞こうと思ったら赤の38系統のバスが来た。車内は少し混んでいたがどうせすぐ降りる。僕たちは二人で乗り込むと車内のつり革にぶら下がってエンジンを唸らせながらたぬき坂を上るバスの車窓を黙って見つめていた。


 僕たちはすぐ降車ボタンを押して、夕陽が赤く射すたぬき坂上のバス停でバスを降りた。二人で並んで走り去るバスを見送りながら、夕陽に向かってゆっくり歩く。


 ほどなくうちのマンションのエントランスが視界に入る。僕はてっきりミハルもうちに来て、アヤネと晩御飯食べて行くと思っていた。だから特段ミハルにそれを尋ねることなくマンションのエントランスをくぐろうとした。


 その時、背後からミハルが僕を呼び止める。


「カズヤくん」


 僕はミハルのいつもより幾分こわばった声に後ろを振り返った。


「今日はとっても楽しかった」


 ミハルはそのセリフに似合わない固い表情で僕を見上げていた。


「カズヤくん、私、もう、カズヤくんち、行かない」

「え? な …… なんで?」


「今日は行かない」 じゃなくて 「もう、行かない」 って言ったよな? 僕は一瞬ミハルが何を言っているのか、理解が追い付かなかった。ミハルがそんなこと言い出すとはつゆほども思っていない。


 まじまじと僕はミハルを見つめてしまった。ミハルは目にうっすら涙をためている。


「カズヤくん、私のことときどきウザいって思ってたでしょ? 私、分かってたから」

「ミハル、そんなことない ……」

「ううん、もう、行かない。カズヤくんとも、もう、会わない」


 ミハルはそれだけ言うと、静かに涙を流した。

 そのまま長い間二人の時間は止まっていた。

 これは別れの言葉だよな?

 僕はどうしていいか分からずに戸惑うばかりだ。


 そう言えばこうやってミハルの顔をまじまじと見たのはどれぐらいぶりだろう。すっかり子供っぽさがなくなった表情に、意思の強さをたたえた瞳。僕はミハルと付き合いだしてから、ちゃんと、まっすぐに、正面から、ミハルのことを見ていたんだろうか。


 ミハルはうつむきながら泣いている。

 僕はなんとも持て余した右手を、戸惑いながらミハルの肩にそっと置いた。

 次の瞬間、ミハルは僕の手を振り払った。それは、中学生のガキの僕にもはっきりと分かるほど、余りにも明確な、確固たる意志に基づいた 「拒絶」 だった。

 近寄らないで。触らないで。もう話しかけないで。

 ミハルは声に出さずに、僕の手を振り払う仕草だけで、これでもかというぐらい冷徹にそう僕に告げたのだった。


「ミハル …… 。なんで …… 」


 ミハルは、やっとのことで絞り出した僕の問いかけに、顔を上げる。その視線は僕を非難していた。僕に落胆していた。そして何よりも、ミハル自身を悲しんでいた。


 不意にミハルは後ろを向いて駆けだした。


「ミハル!」


 ニュータウンの道路は夕陽に向かってゆるく弧を描いている。

 そこを駆けて行くミハルを追うこともできずに、僕の伸ばした手は何も掴むことなく宙をさまよった。



 その日の夜。

 ミハルからメッセージが入った。

 僕はミハルが謝ってくるものだと思っていた。

 また明日から元通りの二人に戻れると思っていた。

 しかしメッセージには 「カズヤくんと一緒にいると私がだめになる。私と一緒にいるとカズヤくんがだめになる。私たちは、やっぱりもう会わない方がいいと思う」 と書いてあった。

 

――― こうして同じ高校に行こうと頑張って、まさにそれが実現する寸前。

 入学式の直前に僕たちの関係はだめになってしまった。



 新入生気分も落ち着いた高校一年生の夏休み前。新しい友達にも新しい環境にも慣れてきた僕は、何も不満がないはずなのに、何かが足りないと思っていた。僕はたぬき坂を登るバスの中で、車窓を見ながら思いをめぐらす。

 

 何が足りないかなんて痛いくらいに分かっていた。


 僕の帰り道に、ミハルがいない。

 僕の帰り道に足りないのは、ミハルだ。


 僕は 「分かった」 とだけメッセージに返信したことを死ぬほど後悔していた。気付くのが遅いと非難されても仕方ない。僕はあの時 「分かった」 ではなく、ミハルのことを少しでも鬱陶しく思ったことを許してもらえるまで、ミハルが別れ話を思い直すまで謝るべきだったんだ。それでミハルの決心が変わったかどうかまでは分からない。彼女は意志の強い子だ。それでも僕は、ミハルを押しとどめる努力をするべきだったんだ。


 しかし、もう遅い。

 僕には、もう弁明の機会は巡って来ない。


 いつでも、いつだって、僕のすぐそばでにこにこと笑っていたミハルは、簡単には手が届かない存在になっていた。



 ゆさゆさ。

 ゆさゆさ。


「あー、だから、俺が悪かったって!!」


 僕は声を上げた。そして周囲からの冷たい視線に気づく。うげ、数Ⅱの授業中? なんだ? 僕はもしかして授業中に居眠りしてミハルの夢を見てたのか? なんだよ、それ。かっこわりー。信じられねー。


 隣の席では僕をゆすって起こそうとしてくれたサナエちゃんが、申し訳なさげに顔を伏せている。教壇の鈴原先生が赤い眼鏡の奥にこれ以上ない冷たい眼光をたたえて、僕を睨んでいた。「あの絶対零度の視線ビームがいいんだよ。あれが浴びたくて数学の授業受けてるみたいなもんだからな」と常々公言していた悪友トモアキが羨ましそうに僕を見ている。いや、そんなこと言うならおまえ浴びてみろ。耐えられんぞ?


「杉津一哉君、キミが悪いのはよーく分かってるから、いきなり大きな声出して授業の邪魔しないでくださいね」


 鈴原先生の冷たい声が教室に響く。そして、教壇から教室の出口を指さして冷酷に言った。

 

「せっかくですから、廊下で頭を冷やして来ることをおススメします。さあ、どうぞ」


 静寂のあと、教室がドッと笑い声で包まれた。

 僕はすごすごと先生が指差す教室の出口に向かう。途中、面白いものを見た、とにこにこ笑顔のミハルの前を通る。

 ちくしょー、なんか悔しい。

 ミハルは満面の笑顔のまま、声に出さずに右手の人差し指を五回タクトのように振るう。唇の形から言ってることは分かった。


 「お・ば・か・さ・ん」


 へいへい。

 どーせ僕は、ばかですよ。


 僕はそのままそっと教室を出て、数学の残りの授業時間を、廊下で立ちんぼの刑に服した。

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