第19話 美倉橋公園 遊歩道


 自転車に二人乗りで疾走すること十分ちょっと。ユカは横すわりでなく、荷台にまたがって僕の背中をつかんでいる。


 僕は気合いでペダルを踏みしめる。ユカの体重の分だけ重たくなった自転車を、先へ先へと漕ぎ進める。


 ―――― ショウタロー、早まるんじゃねーぞ。せめてユカの話を聞いてやってくれよ。そうじゃないとユカがあまりにかわいそうだ。ユカはおまえに嫌われたと思ってたんだぜ、ホント。


 二人乗りの場合、ある程度スピードを出している方が二人乗り特有のペダルの重さを感じなくて済む。僕は先生に見つかったら軽く呼び出しをくらいそうな勢いで、自転車を走らせていた。人も車も多いバス通りを避けて、一本裏の住宅街にハンドルを向ける。まだ午後四時前なのに、陽は傾いて、すぐ夕暮れになりそうだった。


「ねえ、カズヤ。ショー、どこにいるかわかってるの?」


 背後の荷台から、ユカが風の音に負けないように大声で聞いてきた。


「……美倉橋公園だよ、きっと。……アイツ、あそこの川が見える……ベンチが、……異常に……好きだからさ」


 僕の答えは息もきれぎれになってしまった。そんなに重くはないユカとは言っても、二人乗りで全力疾走しながら大声を出して答えるのはなかなか難しい。しかし、日頃たぬき坂で鍛えて来ているので、体力的にはまだまだ余裕だ。


「そこにいなかったら?」

「そうじゃなかったら……総合運動公園か月ヶ瀬神社だな。あいつが一人で……思索にふける場所なんて……限られてるだろ。……さすがにユカに別れ話するとか言ってて、……駅前のアイドルショップなんかには……行かんだろう」

「あはは、それもそうだね。あのさ、カズヤ」


 赤信号に差し掛かったので、僕は自転車を止めて両足で立つ。ちょうど息切れしてきたところだったから、少しほっとする。ユカも地面に足をついて、荷台から腰を浮かせつつ「座り心地悪いー」と文句を言っている。緊急事態なんだから贅沢言うな。


「……どうした? ケツ痛いのか?」

「そりゃあ、痛いわよ。あ、いや、そうじゃなくて。今日の昼休みなんだけど……」

「ああ、サナエちゃんと部室行ってたんだってな。ミハルに聞いたよ。サナエちゃん連れて何しに行ったんだよ、あんなとこ」


 信号が青になった。僕は呼吸を整えながら、再び荷台に座ろうとするユカを手で制する。


「横断歩道渡ってから乗りな。あの歩道の段差を二人乗りで超えるの、結構あぶないし」


 ユカは素直にうんと頷いて、横断歩道を走って渡って行った。いや、走らなくてもいいんだけどな。渡り終わったところで手ぐすね引いて待っているユカを乗せて、再び二人乗りで走り始める。ユカは、荷台に座りなおして、言いにくそうにぼそっと呟いた。


「イインチョーヤローさ、ミハちゃんに『放課後打ち合わせしない?』って誘ってたんだよ」

「ああ、その話ならミハルに聞いた。文実はこの時期がヤマ場だからなあ」


 途端に背中をバシッと叩かれる。あぶねー。僕はふらつくハンドルを握りなおした。


「いてーな! やめろよ、あぶねー。こけるとこだったぞ。二人乗りには微妙なバランス感覚ってもんが必要なんだぜ!」

「なにのん気なこと言ってんのよ! イインチョーヤロー、『打ち合わせしないか?』ってミハちゃんを誘ったんだよ! 私たちの目の前で!」

「へえ。あいつ、ミハルの家行くの断られたら、今度は自分ちに来させようってか。イケメンはマメじゃねーとつとまんねーんだな」


 その途端、今度は背中にずしりと鈍痛がした。ユカが僕の背中にヘッドバットをかましている。バランスは崩れなかったが、めちゃくちゃ痛い。なんちゅー石頭してんだ、コイツ。


「カズヤのバカ! ちょっと、止まって!」


 なんだよ、急いでるのに。ショウタロー捕まえられなかったら、絶対別れ話のメッセージがユカに届いてしまう。それが届いてしまったら、二人の仲の修復が一層難しくなる。ショウタローが別れ話をスマホで打つまでが勝負なんだ。時間の余裕なんかない。とは言いつつ、僕の背中をバシバシ叩くユカの勢いに負けて僕は自転車を止めた。


「カズヤ、いい? 状況分かってる? あのさ、イインチョーヤローはさ、一人暮らししてるんだよ!! 私んちの近くの学生マンションで!」

「え?」

「そこにミハちゃんを誘う意味、分かるでしょ? ミハちゃん、あいつの家なんかに行っちゃったら、完全にゲームセットだよ?」

「ま、まじで? それミハル、行くって答えたのかよ! いや、そもそもミハルはイインチョーが一人暮らしって知ってるのか?」

「多分知らない。それを知ってるのは、学年でもごく少数だと思う。私も知ったの偶然だもん。一年生の時、イインチョーがアゼリアの制服の子と歩いてるの見かけてさ。こっそり後付けたら、学生マンションに二人で入って行ったんだよ! ちょうど私に言い寄ってたころだよ? 人にさんざん愛想ふりまいといて、この人何やってんの、と思うじゃない。だから私、アイツのこと嫌いなの! がああ、思い出したらまた腹立ってきた!」

「それ、まじ?」

「うん。さすがにミハちゃん、打ち合わせなら学校でやった方がいいんじゃない、って答えてたんだけどね、そこでサナエちゃんがさ、『私、杉津君に誘ってもらったら、いつでも行けるように準備してあるんだよ。ミハルちゃんも行けばいいのに』とか私にぼそっと言うもんだからさ。ミハちゃん、聞こえてたかどうか分かんないけど、このままサナエちゃんをこの場に居させるのはヤバいと思ってね。引き離したんだよ。それで、いい場所が思いつかなかったから、とりあえず部室に連れて行ったのよね」


 僕の頭の中で断片的な情報が次々と組み合わさっていく。

 一人暮らしの自分の家にミハルを誘うイインチョー。

 僕に誘われたらいつでもOKと言ったサナエちゃん。

 僕にはサナエちゃんみたいな子の方がお似合いだ、と言ったミハル。

 その時のミハルの陰のある表情。


 これは、……客観的に見て、かなりまずい事態だ。ミハルは、サナエちゃんのセリフと行動から、僕とサナエちゃんが完全にカップルとして成立したと誤解したんだ。サナエちゃんに聞けばいろいろ話すだろうけど、そこにはサナエちゃんの妄想がふんだんに盛り込まれてて、何が真実なのか分からなくなってしまったのだろう。

 能天気に「行けばいい」というサナエちゃんのつぶやきは、ミハルにも聞こえたはずだ。まさか一人暮らしだとは思わずに、イインチョーの誘いにあくまで委員の打ち合わせとして行く気になった、そんなところに違いない。

 サナエちゃん、全方位に不用意すぎるぜ! その発言は!


 ―――くそっ。止めなきゃ。ミハルを。なんとしてでも。


「ユカ! 早く乗れ! とにかく先にショウタローだ!」 


 ◇


 僕はスピードを上げて住宅街を突っ切った。住宅街を抜けると美倉川沿いの遊歩道公園に出る。ここから先は車は進入禁止だ。

 ペダルに込める力を倍増させてスピードを上げる。ユカは黙って僕にしがみついている。

 遊歩道沿いには、夕暮れの川面に向かって一定間隔で並ぶベンチ。しかし、そのどれにも人影はない。


「ちくしょー、ショウタロー、……どこに……いるんだ!」


 川沿いの公園の遊歩道を上流に向けて自転車を走らせる。

 次々見えてくるベンチには、どれもショウタローの姿はない。

 気持ちばかりが焦りながらしばらく進むと、前方に美倉橋が見えてきた。遊歩道は美倉橋の下をくぐっていて、橋の下にはベンチはない。僕は思い切りペダルを踏みしめて、さらに加速した。だいぶ息が上がってきたが、たぬき坂に比べたらまだまだ。


 美倉橋をくぐったところでユカが、あっと声を上げた。

 肩をすぼめてベンチに座り、スマホをいじっている制服の男子高校生。

 ショウタローだ!


「カズヤ! あれ! 止まって!」


 僕は言われるまでもなくブレーキを握って自転車を減速させたが、ユカは止まり切るよりも先に自転車から飛び降りた。そして、一直線にショウタローに向かって走って行く。

 良かった! 間一髪間に合ったんだ!


「ショー!!」

「ユ、ユカ!」


 ショウタローは一瞬驚き、そして逃げ出そうと立ち上がった。


「ショー!!」


 走りこんで来るユカに目を見張りながら、ショウタローは及び腰で後ずさる。ユカはそんなショウタローの腕を逃がすもんかとばかりにガシッとつかんで、強引に自分の方に振り向かせた。


 ああ、良かった。恋人同士の熱い抱擁が見られそうだな。しかしショウタロー、逃げてどうすんだよ、と思っていたら……、


 正対させたショウタローに向かって足を踏ん張ったかと思うと、ユカは右手の拳を思い切り振りかぶって、ショウタローの頬に力一杯パンチを打ち込んだ。


 おお!?

 クロスカウンターのクリーンヒット!!

 ゴキッという音とともにショウタローの首が横を向く。


「ぐえっ!」


 のけぞるショウタロー。

 肩で息をするユカ。


 僕は眼前に繰り広げられた光景に驚きのあまり硬直した。

 あれは、……痛そうだ。


 ユカは地面を踏みしめて涙声で叫んだ。


「ショーのバカ! カズヤのために身を引くだって? バカバカバカ!! そんな理由じゃ、私、絶対別れてあげない!」


 殴られた頬に手を当てて茫然と突っ立っているショウタローに、ユカは泣きながら、今度はちゃんと両手で抱き着いた。


「別れるなら、私を嫌いになってよ! 私より好きな子、見つけてよ! 私の顔なんか二度と見たくないって言ってよ! そうじゃないのに別れるなんて、イヤだからね! 私、絶対にイヤだからね!!」


 おいおいと泣き続けるユカを抱きとめて、必死に言い訳を並べるショウタロー。

 元の原因がコミュニケーション不足からくる誤解なんだから、後は二人で腹を割って話せば自然と元の鞘に収まるだろう。これ以上、僕の出る幕はなさそうだ。


 僕は二人に気付かれないようにそっとその場を離れて、再び自転車を漕ぎ出した。


 ◇


 ――― コミュニケーション不足からくる誤解、か。


 美倉川沿いの遊歩道を走る僕の頭の中に去来したのは、中学生の時、僕たちが付き合っていたころのことだった。日常的に顔を合わせてはいたが、あれでコミュニケーションが取れていたと言えるのだろうか。僕はミハルの気持ちに正しく向き合っていただろうか。


 僕は邪念を振り払うように頭を振って、再びペダルに力を込めた。反省は今するべきことじゃない。とにかく今は、ミハルを止めなきゃいけない。


 もうすぐ下校時間だ。

 ミハル、イインチョ―ヤローの家に単身乗り込むなんて、ヤバいどころの騒ぎじゃないぜ。それこそ「私を食べて」状態だ。

 いやな光景の想像ばかりが脳裏をかすめる。

 いわし雲の秋の夕空なんか、てんで目に入ってこない。


 ◇


 大急ぎで正門前の通りまで戻ってきた。校門がすぐ目の前に見えている。

 下校時刻を告げるドヴォルザークの新世界のメロディに合わせて、校門から一群の生徒が吐き出されてくる。その一群にミハルの姿を必死になって探す。

 ――― ミハルの姿は、ない。

 間に合わなかったのか? くそっ。どうする? とにかくバス通りに出て、ユカの家の方に向かおう。


 バス通りに向けて自転車を乱暴にターンしていたところで「杉津君! 今から帰りなの?」と呼び止められた。僕はブレーキを握りしめて自転車を止める。その声はサナエちゃんだな? ちょっと今サナエちゃんにかまっている暇はないけど、ちょうどいい。僕は自転車に乗ったまま振り返ってサナエちゃんを見た。


「サナエちゃん! ミハル見なかった?」


 あ、ミハルって言っちゃった。まあ、この際、伝わりゃいいや。

 今は言い直しているヒマも惜しい。

 サナエちゃんは、カバンを持ってちょうど下校する途中だったようだ。サナエちゃんに向かって、本人のいないところではっきりミハルと呼んだのは始めてかもしれない。でも、今はそんな些細なことはどうでもいい。


「ミハルちゃん? 古田くんの家行くからって二人でバス停に行ったよ。ついさっき」

「古田と一緒にか!!」


 思わずちっと舌打ちした。いいよ、この際古田なんかぶん殴ってでもミハルを連れ戻してやる。ついさっきなら、まだ間に合う。イインチョ―ヤローの家の場所なんて知らないけど、ユカの家の近くなら、乗るバスは61系統日ノ沢本通り循環のはずだ。あの系統は十五分間隔。まだバス停でバスを待っているに違いない。


 僕はサナエちゃんに背を向けて、再び自転車に跨った。


「杉津君、待って! どこ行くの? 私、杉津君待ってたの。一緒に帰ろ?」


 とことことサナエちゃんが駆け寄ってくる。正直、今はそれどころじゃないんだよ、サナエちゃん。僕はいてもたってもいられず、無言で自転車をこぎ始めようとペダルに力を込めた。


「サナエちゃん、ごめん、ちょっと急ぐ」

「杉津君、ミハルちゃんになんか用事なの?」

「まあ、用事と言えば用事だ」


 気が急いているので返事がぞんざいになってしまったのは、仕方がないとこだろう。しかしサナエちゃんは食い下がった。


「杉津君、ミハルちゃんたちのこと邪魔しちゃいけないよ。せっかく上手く行きそうなのに……」

「それがダメなんだよ!」


 思わず大声で叫んでしまった。

 急に怒声を浴びて硬直するサナエちゃん。

 僕はいきなり怒鳴ったことをさすがに申し訳なく思って、声を落とした。

 いい機会だ。僕は覚悟を決めて、サナエちゃんに向き直った。


――― しっかり、ばっさり、すっぱり、だったよな。行くぜ。


 サナエちゃんは大きな瞳で僕を見つめている。


「サナエちゃん、あのさ、悪いけど、サナエちゃんとは……一緒に帰れない 」

「あ、そ、そうなのね……」


 ドヴォルザークの新世界の最後の旋律が終わって、数名の運動部の生徒が僕たちを遠巻きにしてバス通りへと駆けて行った。


「サナエちゃんがいてもいなくても、俺は家に帰れる。でも、アイツが、……ミハルがいないと、俺の帰り道には、何かが足りないんだ。俺の帰り道には、ミハルが必要なんだよ。だから、ミハルを古田の家なんかに、……行かせちゃいけない。絶対に止めなきゃいけない」


 僕はそれだけ言うと、立ち尽くすサナエちゃんを振り返らないで、再び自転車にまたがった。


 がしっ。

 ペダルが回らない。


 振り向くと、サナエちゃんが自転車の荷台に取りすがって、必死の様子で押さえていた。


「杉津君、どうして! どうしてなの! それじゃ、まるで、……まるで杉津君がミハルちゃんのこと、好きみたいじゃない! 付き合っているみたいじゃない!」


 僕は、何も言えない。

 サナエちゃんに不義理を重ねた自覚は、ある。

 サナエちゃんに不誠実をした自覚も、ある。

 サナエちゃんの一途でまっすぐな気持ちに応えられなくて、申し訳ない、とは思う。

 でも、それが偽りのない僕の本心だ。


「私にあんなに優しくしてくれたの、なんだったの? 全部嘘だったの? ねえ、杉津君!」

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