第6話『ボクがバスガイドになったワケ』後編

*(5)*


 女三人集まれば何とやら。“愛子”も含めると4人のうら若い(いや、さすがに中高生には負けるが)女性が、ひとつ部屋に泊まるとなれば──さらに職場の同僚でそれなりに仲が良いこともあって──なかなかおしゃべりが止まらないのも道理だろう。

 とは言え、時計の短針が1時を指す頃合いになると、さすがにそれもクールダウンしてくる。

 「ふわぁ……ちょっとはしゃぎ過ぎたかしらね。そろそろ寝ましょうか?」

 4人の中で二番目に年かさ(そして一番のしっかり者)である摩美子が、生アクビを漏らしたのを契機に、茶飲み話もお開きとなった。

 「うむ、そうじゃな。明日の仕事もなかなかハード故、休養はしっかりとっておくべきであろう」

 最年長(推定25歳前後)のはずなのに、小柄で童顔なせいで中高生に混じっていても違和感のなさそうな利香が、もっともらしく頷き、「われは歯を磨いてこよう!」と、入口横の洗面所に消える。

 「う~ん、寝る前にホントは軽くイッパイいきたいところですけど~、明日もお仕事ですから、ポーラ、ガマンします~」

 ショルダーバッグから取り出したスキットル(たぶんなんらかの酒が入っているのだろう)を未練がましく見つめていたポーラも、明日の仕事と秤にかけてあきらめたのか、それをバッグに戻し、布団を敷くために机を片付け始める。

 ポーラを手伝って机を隅に寄せた後、“愛子”は押入れから布団を出……そうとしたのだが。

 (う……お、重い)

 身長168センチ・体重55キロと、同級生に比べれば心持ち痩せぎすではあるが、運動が得意な孝雄であれば、布団をまとめて2組運ぶくらいは本来余裕だったろう。

 しかし18歳の女性の立場になっている影響か、今の“愛子”には、掛け敷き1組だけでもひと苦労だった。

 「おっと! 大丈夫、呉多さん?」

 フラついたところを、ほぼ同身長の摩美子に支えられる。

 「アイコ~、酔ってもいないのに、フラフラ~」

 ケタケタ笑いながらも、ポーラが上に載った掛け布団を運んでくれたおかげで、いくぶん楽になった。

 「愛子は背が高い割に力がないのぅ。運動不足ではないかえ?」

 洗面所から戻って来た利香にまで笑われる始末だ。

 小柄な利香だが、純粋な筋力はともかく運動神経や持久力(スタミナ)ならこの4人の中ではピカイチなので、“愛子”としても反論できない。

 本来の呉多愛子はインドア派で、学生時代は家や図書館で本を読むことを好むような女性だ。

 その立場になっている以上、仕方ないのかもしれないが、スポーツ万能とまではいかなくとも、どちらかと言えばアウトドア派で、体力的にもそこそこ自信のあった“愛子”には、今の己れの非力さが恨めしかった。

 「ぅぅ……ジョギングとかジムに通うとかしたほうがいいかもしれませんね」

 確か自宅うちの近くにも最近スポーツジムが出来っていうチラシが入っていたはずだし──と考える“愛子”。

 無論、この場合の自宅とは京都市内の一画にある呉多家のことだ。どうやら自分がナチュラルに呉多家ソコを“自分の家”だと認識していることには気づいていないらしい。

 加えて言うなら、明後日の夜には、元の立場に戻る予定だということも(少なくともこの瞬間は)完全に失念しているようだ。


 4人で手分けして布団を敷いた後、“愛子”も私服から寝るために旅館の浴衣に着替えることにした。

 薄手のブラウスとミニスカートを脱ぎ、ほとんど(と言うか現状まったく)必要はないが“成人女性のたしなみ”として着けているブラジャーも外してから、浴衣を羽織り、合わせや襟の位置を調整して帯を締める。

 女物特有の左前ボタンの扱いやスカートの着脱、あるいはブラジャーの外し方など、普通の男なら苦戦しそうな諸々についても、なんら戸惑うことなく──むしろ慣れた手つきで済ませられるのは立場交換の恩恵だろうか。

 単なる知識面だけでなく、日常的無意識な動作というべき面まで、完全に“年頃の女性”になっているのだ。

 そもそも本来の孝雄であれば、ちょっと年上の美人3人と同じ部屋で寝たり、彼女たちの前で(しかも女装状態で)着替えたりすることに対して、羞恥や戸惑い、抵抗感を感じたはずだ。

 なのに今の“愛子”はそういった類いの感情と無縁で、それどころか、寝る前のスキンケアをしたり、肩にかかるくらいに伸びた金髪を緩い三つ編みにまとめたりといった“女の身だしなみ”をごく自然にこなしているのだ。

 未だ完全にはその“立場”に馴染みきっていないのか、頭の中で自分の言動をどこか不思議な目で見ている部分も無いではないが、少なくとも他の人間が見る限りでは、まったく“いつもの呉多愛子”そのものだった。

 「じゃあ、電気消しますね──あ、常夜灯は点けておきますから」

 「うむ。明日は6時半起床じゃ。まぁ、万が一寝坊しても吾が起こしてやるから、心配は無用じゃぞ」

 摩美子と利香のそんな言葉を耳にしつつ、精神的にも身体的にも色々あってやはり疲れていたのか、“愛子”は布団に入って目を閉じるのとほぼ同時にまどろみの世界へ落ちていくのだった。



*(6)*


 ゆめ……夢を見ていた。

 幼い頃、まだ須賀家が京都市内の呉多家のすぐそば──子供の足でも歩いて10分弱の場所に住んでいたころの夢。

 2歳違いのイトコ同士で、お互いひとりっ子だった孝雄と愛子は、帰る家こそ離れていたものの、姉弟と幼馴染の中間のような関係だったと言っていいだろう。

 愛子はお姉さんぶって孝雄の世話を焼き、孝雄も面倒見がよく優しい愛子を姉のように頼りにしていた。

 けれど、幼子もやがては大人になる──少なくとも、その階段を上り始める。

 小学校に上がった愛子は、孝雄より学校の友人たちと過ごす時間が多くなり、それを寂しく思っていた孝雄も、2年後には同じく“いとこのあいこねーちゃん”よりクラスメイトと遊ぶようになる。

 それでも、休日や長期休みなどに会う機会はまだまだ多かったのだが、やがて須賀家が職場の都合で東京に引っ越したことで、ふたりがともに過ごす時間は劇的に減ることになった。

 引っ越しがあったのは孝雄が小学4年生、愛子が6年生になった年の秋口で、ちょうどその頃あたりから、ふたりの関係も緩やかに変化を始める。

 姉貴分弟分という関係は保ちつつも、そこに微妙に異性に対する感情も入り混じってきたのだ。

 その年の暮れに、東京と神奈川の境い目付近にある須賀家の新居に遊びに来た愛子は、夏までと異なり孝雄と一緒に風呂に入ることはなかったし、孝雄も同じ部屋で寝ることを嫌がったので、彼女には客間が提供された。

 依然として“姉のような女性”、“弟みたいな男の子”ではあったが、ふたりは無自覚に互いに異性を意識していた──もっと言うなら互いを好ましい異性として捉えていたと言ってよいだろう。

 そして普段は離れていながらも、夏と冬に定期的に会うという関係は、なおさらその想いを強くする。

 とは言え、“姉・弟”でいた期間が長すぎたふたりにとっては、“仲のいい従姉弟同士”という今の安定した関係を壊すには、なにがしかのキッカケが必要だろう。


 (──あぁ、だから、ワタシ/私は、あんなうさん臭いお札に手を出したのか)

 そう考えたのは、果たして元々の愛子か、それとも“愛子”の立場になっている孝雄か……。


  * * *  


 「そろそろ起床時間じゃぞ、愛子」

 聞き覚えのある女性の声とともに軽く布団越しに揺すられて、“彼女”はゆっくりと目を開いた。

 「ふわぁ~~……いま、何時ですか、利香先輩?」

 「7時15分前じゃ。白守高校の生徒たちの朝食時間が7時半からじゃから、吾たちは、それまでに身支度と朝食を済ませておかねばならぬ」

 ティーンエイジャーみたいな幼げな外見と裏腹に、プライベートでは婆言葉というのか独特の古風なしゃべり方をする利香だが、この4人で一番年かさなこともあって、仕事に関してはキッチリ把握している。

 「そうでしたね……起きますおきます……あふ」

 生あくびをかみ殺しつつ、“彼女”は思い切って布団から出る。

 はだけた浴衣の襟を直しつつ、眠い目を傍らに向けると、もうひとりの先輩である摩美子が、同僚のポーラを揺さぶって起こそうとしていた。

 (あー、ポーラ低血圧だからなぁ。あれだけお酒が好きなのに低血圧って、イタリア人ってどういう体質してるんだろ?)

 他のイタリア人が聞いたら「一緒にするな」と怒りそうなことを考えながら部屋付属の洗面所に入り、洗顔&クレンジングを済ませる。

 歯磨きと本格的な化粧は朝食後に済ませることにして、とりあえず化粧水を付け、寝乱れた髪は三つ編みをほどいて軽くブロウし、首の後ろで束ねておいた。

 まだ寝ぼけ顔でフラフラしている同僚の手を引きつつ、ふたりの先輩のあとについて旅館の食堂へ向かい、ご飯・味噌汁・焼鮭・海苔・卵・お漬物といういかにも“日本の朝ご飯”という感じの朝食をいただく。

 食べ終わった時点で7時15分。あまり時間の余裕はないので、お茶のお替りは断念して、急いで部屋にとって返した。

 他の3人とは朝食中に話し合って、先に利香と摩美子が洗面所でメイクし、その間にポーラと“彼女”が部屋で着替える手はずになっていた。

 旅館備え付けの丹前と浴衣を脱ぎ、アイボリーホワイトのシルクのフルカップブラジャーを「哀しいほどに真っ平らなバスト」に装着する。こっそり小さめのヌーブラを入れるのは、ささやかな抵抗として大目に見てほしい。

 旅行鞄から新しいブラウスとストッキングを取り出して着替え、壁にかかったハンガーのひとつから紺色のタイトスカートを外して履く。

 すでに今の観光会社に入ってから3ヵ月以上経つはずなのに、“なぜか”微妙に歩きにくさを感じつつ、ポーチからブラシと朝用の化粧品ひと揃えを取り出した。

 「利香先輩、摩美子先輩、そろそろ交代できます?」

 「うむ。問題ないぞ」

 「わたしはもう少しですね」

 利香と入れ替わりに洗面所に入り、摩美子と並んで鏡の前に立った“彼女”だったが──そこに映った自分の顔を見て、激しい違和感に襲われた。

 (え! だ、誰!?)

 僅かにウェーブした肩までたなびく蜂蜜色の髪。

 UVファンデと入念なケアのおかげか、屋外にいることの多い仕事の割には、あまり日焼けしていない白い肌。

 細く剃られた眉。ムダ毛の一本もないつるつるの肌。


 ──コレハダレダ……


 くらりと目まいがするような感覚とともに“彼女”、いや彼は自分の置かれている状況を“思い出した”。

 (そうだ、ボクは、愛子ねーちゃんと昨日立場が入れ替わったんだった)

 魔法だか霊力だか奇跡だか知らないが、どう考えてもうさん臭いはずの“おまじないのお札”が効力を発揮して、現在、孝雄は“呉多愛子”だと他人からは認識されるようになっているのだ。

 無論、その代わりに本物の愛子が今は“須賀孝雄”の立場になっている。

 立場交換に伴って、髪の長さや各自の服のサイズなども現在の立場にふさわしいものへと変化しているようだった。


 ──それは、まぁ、いい。いや、本当はあまりよくないが、とりあえず戻る方法もあるということで、一応納得はしている。

 問題は、“自分が今、呉多愛子の立場になっていることに何ら違和感を抱かなかった”ことだ。というより、完全にそのコトを忘れていたと言う方が正しい。

 確かに昨日、本物の愛子とふたりで“現在の立場に必要な知識はひととおり備わっている”ことは確認している。

 しているが……その時は何と言うかコンピューターにたとえると「データベースにアクセスして必要なデータを読み込んでくる」的な、ワンクッションある感じではなかっただろうか?

 それがひと晩寝たら、今度は“自分が本当は須賀孝雄であること”の方をむしろ忘れがちで、ごく自然に“呉多愛子”として(ことさら意識せずとも)振る舞っているような気がする。


 (はたして、このままでいいの?)

 どこか恐いモノを感じて思考の海に沈みかけた“愛子”だったが……。

 「は~い、アイコ~、顔色悪いけど、大丈夫ぅ?」

 「あ、うん、平気へいき」

 いつの間にか摩美子と交代していた陽気な同僚の、珍しくどこか気遣うような言葉に、反射的に平静を装って返事をしてまう。

 「えっと、ちょっと肌が荒れてパウダーの乗りが悪いかなぁ、って気になっただけだから」

 「どれどれ? ふぅむ……問題ないと思いますよぉ。いつも通りモルト・カリーナ(とても可愛い)で~す」

 「あはは、お世辞でも嬉しいわ」

 そんな風にポーラと“いつも通りのやりとり”を交わしながら、“愛子”は先ほど抱いた危惧を心の奥に棚上げすることにした。

 (どの道、明日の夜までは戻れないんだもん。だったら、ヘンに意識してギクシャクするより、ごく自然に振る舞える方がいいんだろうし、ね)

 コーラルピンクの口紅を軽く引いてメイクを終えると、“彼女”は洗面所から出て、ハンガーに残った藍色の上着を取って羽織り、キチンとボタンを留めていく。

 キャビンアテンダント風の少しタイトな制服を着ると、身も心も引き締まるような気がした。

 最後に制服と同じ色のベレー帽をかぶり、部屋の入り口でパンプスを履けば、そこにいるのは──4月からの新米ではあるが──立派な“きょうと観光”のバスガイド・呉多愛子そのものだった。


 「皆、準備はよいな? よし、それでは、今日もお客様方の旅を楽しいものにすべく、吾たちバスガイド一同、微力を尽くすのだ!」

 「「「はいっ!」」」



◆(7;タカオside)◆


 「それでは皆さま、右手に見えますのが本日最初の見学場所となる清水寺、北法相宗大本山である清水寺です。まもなくバスが停車しますので、バスを降りたら出席番号順に2列になってお並びください」


 “僕”たちのクラスである2年B組のバスの担当ガイドを務める根府川さん──利香先輩が、落ち着いた流暢な口調で、目の前の観光スポットについて解説しつつ、次の行動に関する指示を出したはる。

 プライベート……というか身内のあいだでは、古風というか風変わりな「のじゃロリ」言葉でしゃべる人なんやけど、こういう風にお客さんの前でキチンと標準語の丁寧語で会話しているのを見ると、なんや新鮮に感じるなぁ。

 “僕”になっている私は、元々京都の地元民で、バスガイドになった際の研修でこの清水寺にも来たことがあるんで、とりたてて物珍しさとかは感じてないんやけど……。

 「おおっ、これがかの有名な“清水の舞台”かぁ」

 「よし。青葉、アンタ、度胸試しに飛び降りてみなさい」

 「加古川、無茶ぶりすんな! むしろお前がやれ!!」

 「ゆ、ゆかちゃん、危ないよぉ」

 やれやれ、ウチの班は大騒ぎやなぁ。ちょっと釘刺しとこか。

 「笠井さんの言う通りやで。加古川さん、もし落ちたらこの高さやと無事では済まんから、冗談でもそういうコト言うたらいかん。青葉君もや」

 冗談抜きに命に関わることやから、ピシッと言うとかんとな。

 「あ、うん、ごめんなさい、須賀くん」

 「わりぃ、ちょっと調子のってた」

 比較的偏差値の高い私学で、育ちのよい子が多いせいか、白守高校うちの生徒は、高校生にしては素直な子が多い気がするなぁ。

 なんせ、4月からのこのひと月間で、私も10校ほどは修学旅行生を案内したんやけど、こっちの言うことなんてロクに聞かん悪ガキの、まぁ、多いこと多いこと。

 それに比べたら白高の生徒のヤンチャなんて可愛いもんやわ。

 「すまんな、須賀。本来は、班長たる俺が注意せねばならぬのに」

 「あー、まぁ、古田くんはしゃあないわ。バスの車酔いでまだ本調子ちゃうんやろ。 大丈夫か?」

 「ああ。だいぶ落ち着いた」

 班長の古田くんとそんな会話をしつつ、遠目に見えるC組のガイドをしている“女性”の方に、チラッと視線を向ける。

 ブレザーのような紺色の上着とタイトミニスカートを着て、同じ色のベレー帽をかぶった“彼女”。

 本物のタカくん──須賀孝雄であるはずの少年は、けれどわたし自身の目から見ても、きょうと観光の新人バスガイドの女性にしか見えなかった。

 子供の頃は嫌がっていた金髪を長く──高校時代の私と同じくらいに伸ばし、ちょっと薄めやけどキチンとメイクもしてる。もともと優しげな顔つきであることもあいまって、それなり以上のルックスに仕上がってた。

 外見だけやのぅて、歩き方も、初めて“女装”(しかもタイトスカートにヒールが高めのパンプスていう組み合わせやのに!)したとは思えんほど自然なものや。

 女の私でさえ──元々、ああいうフェミニンな格好は着慣れてなかったということもあるけど──初めて出社した時は、何度か転びそうになったっていうのに。


 「──有名な“清水の舞台”のある本堂以外にも、仁王門や西門、三重塔なども重要文化財であり、また隣接する地主神社も元は……」

 微かに漏れ聞こえてくるスポットの解説も、なかなか堂に入ったモンで、誰も“彼女”がにわかガイドやなんて疑わへんのとちゃうやろか。


 「お、アレが噂の孝雄の従姉のねーちゃんか?」

 「どういう噂よ。でも……へぇ、なかなか美人さんじゃない」

 青葉くんと加古川さんが、僕の視線の先をたどって“呉多愛子”に気付いたみたい。

 「須賀くん、声をかけなくていいんですか?」

 「ん? ああ、別にええよ。コッチが自由行動中でも、アッチは今まさに仕事中やし。とりたてて話したいことがあるワケでもないしな」

 気を利かせてくれたのだろう笠井さんに、ニッと笑いかけてみせて、僕は他の班員とともに清水寺見学に戻るのだった。



*(8)*


 「ふわぁ~、極楽ごくらくじゃのぉ」

 5月半ばの少し時季外れの菖蒲湯に浸かりながら、利香が気の抜けたような声を漏らす。

 時刻は午後5時過ぎ。白守高校の修学旅行日程の2日目が無事に終わり、新たな宿泊先に着いたところで、バスガイドである彼女たちのお仕事も本日分はひとまず終了だ。

 「利香せんぱーい、ババくさいですよ?」

 「利香姉さんは三度のご飯よりお風呂が好きだから……」

 ちょっと呆れたような“愛子”の言葉に、摩美子が苦笑しつつそうフォローする。

 「あれぇ、リカとマミコってソレッラ(姉妹)じゃ、ないですよね~?」

 「ん? あぁ、吾と摩美は正確には従姉妹じゃな」

 ポーラの疑問に、湯船の中でリラックスしてたれ気味な利香が答えた。

 「と言っても、自宅は近所でしたし、子供のころから本物の姉妹みたいな感じでしたけどね。なので、プライベートでは今でも“姉さん”って呼んでいるんです」

 「──どこかで聞いたような話な気が……」

 自分と、同じ建物のどこかにいるはずのイトコの関係を連想する“愛子”。

 ちなみに此処は京都市内にある老舗……というほどではないが、そこそこ歴史と格式のある旅館だ。

 修学旅行生が泊まるにしてはちょっとお高いはずだが、さすがはボンボンの多い私学だけあって、ヘンに金はケチらなかったらしい。

 「それにしても……」と、湯船から上がって洗い場で身体をボディシャンプーとスポンジで洗いながら、“愛子”は改めて感心したような気分になる。

 (ワタシ、今、全裸なんだけど、ぜんぜん男だって気づかれないなぁ)

 一応内股になり局部だけは隠しているとは言え、普通の女性と比べれば肩幅は広めだし、胸に至っては視認できる膨らみは皆無な、見事なまでのAAA(トリプルエー)のまな板状態だ。

 ラテン系美人のポーラや長身でプロポーションのいい摩美子が巨乳なのは、まぁ納得がいくにしても、中学生並に小柄な利香ですら、トランジスタグラマーとまではいかなくとも少なくとも平均程度の膨らみはあるのだ。

 ペタペタと自分の胸に手を当てて、無性に哀しい気分になる“愛子”。

 ──と言うか、他の3人の胸部に向けられる“愛子”の視線に男性的な“いやらしさ”がまったく含まれておらず、むしろ同性としての羨望が見え隠れするあたり、本気で今の立場に馴染んでいるのだろう。

 「だ、大丈夫よ、呉多さん。スレンダー系が好みって男性も、いるから」

 「アイコ、あまり大き過ぎても、肩がコリますよ?」

 その姿が憐れを誘ったのか巨乳コンビが励ましてくれるが、彼女達にだけは言われたくない。

 「そ、それに、ほら、呉多さん、色白で若いからお肌もスベスベだし……」

 「ポーラの姉様も綺麗なブロンドですけど、アイコの金色の髪も素敵で~す」

 本気で落ち込んでいる様子の“愛子”を、ふたりが必死にフォローするが……。

 「まぁ、お主は今18歳じゃろ? あと2年くらいはまだ成長の余地がある故、努力してみてもよいのではないか?」

 ふたりよりは、まだ“彼女”の悩みが分かりそうな利香の言葉の方が、多少は救いがあった。

 「ぅぅ、ガンバります。牛乳、いやむしろ大豆製品が効くんでしたっけ?」

 「イソフラボンが豊富じゃからな。それと、吾が十代の頃に実践していたバストアップ体操を教えてやってもよいぞ」

 「! ぜひ、お願いします!!」

 時間が早めなせいか彼女たち以外に女風呂の客がいないとは言え(ちなみに白高生たちは現在ホールで全体集会の真っ最中だ)、若い女性が大浴場でバストアップ体操を教え、教わる光景はなかなかシュールだ。

 そして、そんなキャッキャウフフな騒ぎに紛れて“愛子”は、せっかく思い出した「自分が本来は従弟の男子高校生の須賀孝雄である」という事実を、またしても意識の片隅に棚上げしてしまうのだった。



*(9)*


 「しまった……寝過ごしちゃった」

 5月半ばの朝6時といえば、現代日本では十分に「早朝」と言って差し支えない時間帯だが、6時半過ぎに目を覚ました“彼女”は、すっかり明るくなった窓の外や壁に掛けられた時計を見て茫然としていた。

 部屋の中には、“彼女”以外にも3人若い女性がいるのだが、その3人とも見目麗しい乙女というには、かなりはしたない(←婉曲な表現)格好で布団の上にひっくりかえっている。

 ひとりは、浴衣を完全に肌蹴たほとんど裸の状態で大の字になって大いびきをかき、もうひとりはその女性の片足を枕にして何やら桃色な夢でも見ているのか、鼻息を荒げつつ体をくねらせている。

 残るひとりは──「銘酒・美中年」とラベルにかかれた一升瓶を抱えて布団の上で丸くなりつつ、よだれを垂らしながらだらしない笑みを浮かべて白河夜船。完全に酔っ払いオヤジの所業だ。

 (なんでこんなコトに……)

 ズキズキと痛む頭を堪えつつ、“彼女”は昨夜のことを思い出そうとした。


 ◇ ◇ ◇ 


 白守高校修学旅行3日目、そして孝雄オレ愛子ワタシの立場になってバスガイドするようになってから2日目のスケジュールも、万事滞りなく進行していた。

 今日のバスは大阪市内に向かい、そこで大阪城や法善寺、住吉大社などを巡ることになっている。

 元地元の京都と異なり、こっちの方の土地勘は孝雄オレにはそんなにないはずなんだけど……“本物”から受け継いだ知識のおかげか、ワタシはすこぶる順調にガイド稼業をこなせている。

 それに、勉強の方はイマイチだけど、口八丁かつ人見知りしないことには多少自信があるんで、こういう多数の御客にんげん相手にペラ回すような職業しょうばいは、存外ワタシの気性に合ってるみたいだ。


 「ガイドさーん、このお店でオススメのお土産はなんですか?」

 「呉多さん、午後の自由行動で梅田の方に行くつもりなんだけど、ランチのオススメとかあるかな?」

 年齢も近いせいか、こんな風に白高生(おもにC組の女子)から気軽に声をかけられるようにもなったし。

 「オススメをひとつに絞るのは難しいですけど、そちらのお煎餅とおかきはこの売店でしか買えないものですね。

 梅田周辺のランチは少々お高い店が多いですけど、1000円ちょっと出せるならいくつか候補がありますから、行ってみてはどうですか」

 その子(たしか如月さんと中川さん、だったと思う)たちにアドバイスしつつ、今日最初の観光スポットである某劇場の売店スペースの前で、受け持ちの学生たちをさりげなく見回る。

 (バスガイドって、バス内で適当にウンチクこいてれば務まるワケじゃないんだなぁ)

 そのヘンは観光会社にもよるみたいだけど、呉多愛子ワタシの勤めている「きょうと観光」では、観光スポット内に入るまでの誘導や、スポット前での解説などの業務も含まれてる。

 加えて、半自由行動中のお客さん(売店にいる今の2-Cの生徒たちもそうだ)から質問されて、それに答えることもお仕事の一部ってワケ。

 それに、お客さんが朝乗る前、乗った後の夜にバス内を掃除するのもガイドの仕事だし、仕事時間外にもガイドとしての観光知識を詰め込んだり、マナー講習を受けたりと、想像以上に忙しい仕事だったりするのだ。

 (でも、やり甲斐はあるよねぇ)

 少なくとも、何に使うのかわからない数式やら理科・社会の用語やらを暗記するよりは、勉強する内容も納得がいくし、地理や歴史、古典なんかで学んだことの一部も地味に役立つもん。

 そういう「地に足がついた仕事」に就いた“本物”のことがちょっと羨ましいかな。


 「──呉多さん、そろそろ移動の時間よ」

 摩美子先輩がこっそり注意してくれたので、ワタシから監督の先生にそのことを告げて、2-Cの生徒たちが集まるのを待ち、バスへと誘導する。

 カツカツカツ……と、アスファルトに軽快なハイヒールの音を鳴らして歩くのもすっかり慣れたなぁ。昨日の朝は、ちょっとだけおっかなびっくりだったのに。

 (──そう言えば、昨日初めてこのバスガイドの制服を着た時はちょっぴり窮屈に感じたけど、今では我ながらごく自然に着こなしてるし、オシャレだし、むしろ背筋がピンと伸びる感じがして、結構気に入ってるんだよねー)

 頭の片隅でチラッとそんなことを考えつつも、言葉や表情は至って真面目にバスガイドとしてのお仕事を遂行しているワタシ。

 (もしワタシ……いや、“オレ”が女の子だったら、愛子ねーちゃんと同じく、きょうと観光のバスガイドになるのを目指すのもアリだったかな)

 ふと、そんな事も一瞬思い浮かんだものの、その後は特に意識することもなく、そのまま“ガイドのお仕事”に没頭していった。


 で、そのまま市内観光のガイドをして夕方になり、本日の引率ガイドは無事終了。

 明日は、朝イチで空中庭園展望台のある梅田スカイビルに生徒たちを我が社のバスで送り届けたら、ワタシたちバスガイドの仕事はそれでお仕舞なんで、実質的にはほぼ終わったようなものだ。

 今回のお仕事──白守高校修学旅行のガイドを最終日前夜まで大きなトラブルもなく乗り切ったということで、その夜はガイド4人で、ちょっと早いけど“お疲れ様会”を部屋でやることになった。

 とは言え、ワタシの場合、元に戻るためにタカちゃん──本物の“愛子ねーちゃん”と会う必要があったから、適当なところで抜け出すつもりだったんだけど……(メールして24時ごろに会う約束もしてたし)。

 でも、ほんの1時間程度のはずが、ポーラが酒を持ち出し、それに利香先輩が便乗して、真面目な摩美子先輩もついハメを外し……流れでそのままワタシも飲まされちゃったんだよね。

 (ぅぅ~、ワタシ、まだ20歳になってないのにぃ)

 いや、雰囲気に流されて強く拒否しなかったワタシも悪いんだけどさ。

 で、初めて飲むアルコールと意識してなかったけど結構疲れが溜まってたののダブルパンチで、そのままあっさり眠りに落ちて……気が付いたら、朝になってたってワケ。

 スマホを見たら、タカちゃんからのメールが何通も来てる。当然、“彼”は激オコですよ、ええ。

 謝罪と釈明のメールは入れたんで、何とか理解はしてくれたけど──でもこのままだと、今からもう一度立場交換とかしてる暇はなさそう。

 だって、ガイドであるワタシたちの方は、すぐさまシャワー浴びて、着替えて、7時までに身だしなみを整えないといけない。白高生の方だってそろそろ起き出す時間だしね。

 いくらワタシたちがイトコだからって、これから短時間とは言え“密会”するのは、不可能じゃないけど色々勘繰られるリスクも大きいだろうし。


 ──え? その割に焦ってないみたいだって?

 うん、まぁね。

 確かにこれが赤の他人と立場交換してるんだったら、この機を逃したら元に戻るチャンスがあるかわからないから焦りもするんだろうけど、ワタシたちの場合、よく見知った従姉弟同士だもん。

 お互いの家や家族のこともわかってるし、その気になれば家を訪ねることもできる。今の立場における学校や会社関係の知識があることもすでに判明してるワケだし、しばらくこのままでも大丈夫でしょ。

 (どのみち、夏休みになったら、タカちゃん、京都のうちに遊びに来るやろうしなぁ)

 最悪、元に戻るのはその時でもいいかなー、なんて。


 で、そのヘンの対応策コトを──多少は不可抗力だというニュアンスをにじませつつ──メールでタカちゃんに投げたところ、“彼”も賛同してくれた。

 いかにも「仕方ないなぁ」という文面だったけど、その割にレスポンスが早かったし、“彼”の方も内心、神奈川での男子学生生活に興味があったのかもね。


 とにかく、そういうワケで、ワタシはこのまましばらく18歳の女性・呉多愛子として京都でバスガイドライフを続けることになったんだ♪



◇(10)◇


 「それでは白守高校の皆さま、お疲れ様でした。バスはまもなく新大阪駅に到着します。今回の京都・大阪の旅は如何でしたでしょうか? 少しでも楽しんでいただけたなら幸いです。またこちらにいらしたときは、よろしければわたくしども「きょうと観光」をご利用ください」

 ワタシはニッコリ笑いながらバスのマイク越しに2-Cの生徒たちに向かって、そうアナウンスする。

 無論、7割くらいはセールストークだけど、3割くらいは本音。やっぱり、よそから来た人に故郷の土地を気に入ってもらえた方が嬉しいしね♪


 やがてバスが駅前に停まり、ドアが開いたところで、まずは先に降りて、生徒さんを誘導する。

 ちょっとした広場になっている場所に、他のバスも含めた白守高校の生徒さんたちがざっくりクラス別に整列した後、やがてA組から順に新幹線の改札へと移動し始めた。

 ワタシたち4人のバスガイドは、まずは並んで皆さんに向かって深くお辞儀をし、そのあとは姿勢を戻し、顔の位置まであげた手をヒラヒラと振る。

 これは、「ずっとお辞儀したままじゃと顔が見えぬから、むしろ失礼ではないかのぅ?」という利香先輩の意見で始めた“お見送り”時の“儀式”。実際、こっちのほうがお客様の評判いいのよね~。


 2-Bが移動を始めたとき、列の真ん中くらいに並んでたタカちゃんが、ちらっとこっちを見た……ような気がしたので、軽く頷いておく。

 (次に会えるのは8月のお盆の頃だろうけど、あとでメール入れておくね)

 その一瞬だけ、ワタシは自分が「孝雄オレ」であることを思い出したものの、今はまだ勤務時間中だから、すぐに“お仕事モード”に戻って、笑顔で手を振り続ける。


 そして、お客様──神奈川県から来た私立白守高校の皆さんの姿が駅の構内に消えたところで、口々に互いの労をねぎらう。

 「お疲れさまー」「うむ、お疲れじゃ」「オツカレサマドスエー」

 あとはバスに乗って会社の駐車場へ移動し、担当バスの中をひと通り掃除して会社の机で報告書を書いたら、本日の業務は無事終了だ。

 4人で1号車に乗り込み、会社までのしばしの道中を雑談しながら過ごす。

 「アイコ、帰り際にKARAOKE、行きませんか?」

 「あ、いいわね。利香先輩と摩美子先輩もどうです?」

 「ふぅむ、では久しぶりに吾の美声を披露してやろう」

 「ふふっ、でも3人とも、その前に業務報告書はキチンと仕上げてくださいね」


 (色々大変なこともあるけど……ワタシ、この仕事、好きだなぁ)

 同僚達ととりとめもないおしゃべりをしながら、ワタシは、何となくそんなコトを考えていた。



[エピローグ]


 以上のような経緯で、従姉弟同士のふたり──須賀孝雄(神奈川在住・男子高校生・16歳)と呉多愛子(京都在住・バスガイド・18歳)は、その立場を交換して、しばらく暮らすことになったのである。


 立場交換のキッカケとなったのは愛子の持って来た“おまじないのお札”であるが、修学旅行中に戻れなかったのは、孝雄が寝過ごして待ち合わせに来なかったことが原因だ。

 双方にそれなりの負い目があるため、ふたりは現在の状況をもたらしたことで互いを責めるようなことはしなかった。

 もっとも、ふたりとも今の立場に何ら問題なく適応し、それなりに充実した毎日を送っていたので、文句が出ようはずもなかったのだが。

 愛子の立場となった孝雄は、受験に向けて徐々にピリピリと緊張感のある空気になっていく高校から抜け出し、ひと足早く社会人として(しかも郷里である京都で)働けることを、ちょっとした幸運だと受け止めていた。

 対して孝雄の立場になった愛子の方は、もともと真面目な優等生志向の人物であり、レベルの高い私立進学校の真面目な雰囲気の中で充実したスクールライフを送れることを内心非常に喜んでいたのである。

 学校・職場以外の家庭環境についても、もともと親しく行き来していた伯母/叔母の家であり、子供の頃から見知った相手なので、気楽に暮らすことができた。

 ただし、以前よりふたりがメールやLINE、電話などで連絡を取る機会が増えたのも確かだった。


 そんな風に日々を過ごすうちに、ふたりとも「もうずっとこのままでもいいんじゃないかな」と思わないでもなかったのだが……。

 なんだかんだ言って愛子、そして孝雄も根が善人で誠実なタイプであり、「いや、でも約束したんだから」と次の夏休みに再会した時、(多少の未練は感じつつも)元に戻ることにはしっかり合意していたのだ。


 そして、その年の8月12日。“孝雄(本来の愛子)”が京都の呉多家へとやってくる。

 「タカちゃん、久しぶり」

 「うん、お久しぶり、愛子さん」

 呉多家の居間で再会したふたりは、互いの雰囲気が以前とは随分違ったものになっていることに気が付いた。

 本来の須賀孝雄は、よく言えば陽気で楽天的、悪く言えば能天気なお調子者だったが、今の(愛子であるはずの)孝雄は「知的で落ち着いたハンサムボーイ」といった印象だ。

 逆に呉多愛子は「真面目な努力家だが融通が利かず内向的」な女性だったのだが、(孝雄がその立場になっている)愛子は“以前”よりずっと社交的で人当たりがよく、ややもすれば“本物”以上に女らしい感じさえする。

 いや、5月の立場交換当初もその兆候はあったのだが、あの時は互いが互いの立場に馴染むので手一杯で、そこまで落ち着いて確認できていなかった。

 しかし、こうして改めて立場交換したお互いの姿を自分の目で確かめた結果、“姉貴分”“弟分”として見ていた相手が“気になる魅力的な異性”であることを、ふたりに明確につきつけることとなったのだ。


 それでも、事前の取り決めに従い、再会した日にふたりは早速例のお札を使って“元”の立場に戻ったのだが……。

 「う……なんか」「ちょっと……」

 ((微妙にしっくりこない!!))

 本来は“元に戻った”はずだというのに、5月に立場交換したときと違い、妙な気恥ずかしさと違和感をふたりは感じていた。


 これは、実は例のお札による立場交換のシステム的な問題だった。

 Aの人物がBという“未知の立場”になった時、Aの心身には、Bとしての立場に必要な知識・技能・習慣・癖などが“インストール”されるが、だからと言ってA本来の立場のそれらが上書きして消されているワケではない。

 パソコンに例えるなら、Aとしての立場に付随するそれらは、“普段使わないもの”として圧縮ファイルにして専用のサーバーに退避・格納されているようなものだ。

 故に、立場交換中も(意識を集中すれば)本来の立場での記憶などを思い出すことは不可能ではないのだ(無論、本来の状態に比べれば時間はかかるし、やや曖昧にはなるが)。

 しかし、立場を元のAに戻した際は、Aとしての知識その他が改めてインストールされるわけでは“ない”。

 当然だ。必要なモノはAの中にすでにある“はず”なのだから。

 結果的に、Aは、Bとしての立場に伴うソレと、Aの立場としてのソレを併存して持つことになる。

 ただし、AがAとして暮らすためには、圧縮ファイル化された(元は自分のものであるはずの)「Aとしての知識その他諸々」を、少しずつ解凍して使用することになるのである。違和感やズレ、ぎこちなさを感じるのも当然だろう。

 すべてのファイルの解凍が終われば、この違和感やぎこちなさは(理論上は)なくなるのだが、それまでにはしばらく──時間にして2、3週間からひと月くらいかかるのだ。

 一応、この問題を即座に解決する方法はある。元の立場に戻る際、いわば“履歴”がある以前使用したお札ではなく、新規の同様の機能を持つ札を使えばいいのだ。

 ──もっとも、このあたりのシステムやテクニックは、お札を販売している裏サイトでも解説はしていないので、購買者が気づくことはまずないのだが。


 そして数日後。

 「なぁ、タカくん。ちょっと相談があるんやけど」

 「愛子ねーちゃん、実はオレもなんだ」

 以心伝心と言うか、ふたりとも相手が何を言いたいのか、お互いの顔を見ただけで理解できた──当然だ。それは自分の願望でもあるのだから。

 明日になれば孝雄が東京に帰るという日の夜、ふたりは例のお札を使って三度目の立場交換を実行する。

 それと言うのも、この数日間、本来の須賀孝雄、呉多愛子の立場に戻ったにも関わらず、前述のような理由で、どうにも物足りない感覚を味わっていたからだ。

 「うん、これこれ。やっぱスカートの方が落ち着くわぁ」

 「そう? 僕はなんだか恥ずかしくて大変やったよ」

 それぞれ“今の立場”に相応しい服装になって、ホッとひと息つくふたり。

 結局、彼と彼女の立場交換は、次に会う予定の12月まで延長されることとなったのだ。


 しかしながら、その年の年末は前述の通り“愛子”の仕事のスケジュールが巧く合わず、神奈川の須賀家への訪問は中止となった。

 電話でそのことを話し、謝る“愛子”に対して、「別にええよ」と寛大な態度を見せる“孝雄”。

 「今年の年末年始は予備校の冬期講習入れたから、あんまり愛子さんと一緒に出掛けたりはできないだろうし。それに、いきなりこの勉強缶詰状態に戻るのも嫌やろ?」

 「あ~、確かにそうかも。いや、受験のこと考えたら、そろそろ本腰は入れないといけないんだろうけどね」

 そんな会話を電話で交わした後、“須賀孝雄”は予備校の冬期講習に熱心に通い詰めるが、同時に正月には学校の友人達と神社にお参りに出かけたりと、適度な息抜きも忘れない程度の要領の良さは発揮していた。

 この辺りは実質僅か一ヵ月足らずとは言え、愛子として社会人経験を積んだことが影響しているのかもしれない。


 一方、“呉多愛子”の方は、12月30日までガイドに入る予定があったため、その仕事はキッチリこなしつつ、休みに入った大晦日は、母の妙子にお尻を叩かれて渋々家と自室の大掃除に励むこととなった。

 年が明けた三が日は、今度こそ家でゴロゴロしているつもりだったのだが、これまた妙子に「何やの、ええ歳した女の子がだらしない!」と怒られたため、やむなく会社の同僚を誘って初詣に出かけることにした。

 その際、“愛子”は美容室で振袖をレンタルしてみた。ひとつには母の強いススメがあったからだが、“愛子”自身も振袖を着るという稀有な体験に興味があったからだ。

 せっかくなので日本文化大好きイタリア娘のポーラと一緒に、同じ美容室で着付けをしてもらう。

 「マ・ケ・ベッラ! アイコ、とってもキレイですぅ」

 「ありがと。ポーラもよく似合ってるよ」

 「グラッツィエ……ン~、でも、ちょっと胸がキツいで~す」

 「──くっ」

 まぁ、ちょっとした葛藤なんかもあったようだが、それでも仲良く北野天満宮にお参りして帰った(ちなみに詣で先が天神様なのは受験生である孝雄のことを慮ったからだ)。


 そうして、冬が過ぎ、春が来て、再び白高修学旅行生(孝雄の1学年後輩たちだ)のガイドを勤め、さらに時が過ぎて、今は夏真っ盛り。あの三度目の立場交換からちょうど一年が経過した計算となる。

 愛子は(時折毛先を揃えたりしつつも)髪を切らずに伸ばし続けたため、今では腰のあたりまでのロングヘアになっていた。染色では出せない見事な蜂蜜色の髪がふわりと揺れるさまは、男女問わず周囲の目を引き付ける。

 “以前”に比べて随分と明るくオープンな雰囲気となったこともあって、交友関係も広がったが、かといってビッチ系というわけではなく、むしろ恋愛関連からは意識して距離をとっている。

 また、週に2回通っているジムでの運動の成果か、あるいは利香に教わり、毎晩風呂で実践している体操のおかげか、シルエットというか体型にも変化が見られた。

 良くも悪くも無駄な贅肉のない少年らしい細い体つきから、トレーニングに応じた適度な筋肉、そして随所に多少脂肪ののった“女らしい丸みを帯びたグラマラスなプロポーション”へと徐々に変わっていったのだ。

 特に(初詣時の着付けでポーラの発言に心底悔しさを覚えた後の)胸部の成長が著しく、わずか半年あまりのあいだに“愛子”は4回もブラをまとめて買い替えるハメになった。

 もっとも、金銭的にはかなり痛手だが、女としての自尊心(プライド)は大いに満たされたので、“彼女”的には大歓迎だったようだが。


 「タカちゃ~ん、いらっしゃーい」

 「え!? 愛子さん……だよね!?」

 その変貌っぷりは、翌日、久々に逢った“孝雄”が、思わずそう確認し、無意識に顔と身体(というか胸の辺り)の間に数度視線を往復させたくらいだ。

 「もっちろん。ふふっ、どぉ? 見違えた?」

 今日の“彼女”の服装は、オフショルダーでノースリーブなクリーム色のサマーニットに、ストレッチデニムの膝丈スカートという組み合わせなので、身体の線が如実に出ている。

 ちょっと悪戯こあくまっぽい微笑を浮かべつつ、少々わざとらしいくらいに露骨なグラビアポーズ──片手を頭、片手を腰に当てて「うっふーん」とやるアレだ──をとって見せる“愛子”。

 冗談半分でからかいつつも、相手の反応もそれとなく探りたいという複雑な乙女心(?)だったのだが……。

 「あ、うん。と、とっても、その、魅力的やと思う」

 とことん真面目な“孝雄”に赤面されながらそう返されて、思わず“彼女”も素に戻って頬を赤らめる。

 「あ、アハハ、お世辞でもうれしいわ♪」

 よく見れば、“孝雄”の方も“愛子”ほど劇的な変化ではないが、背丈が5センチばかり伸び、顔つきもより大人びてきたように見える。

 そんな“彼”に“異性”としての魅力を感じて、“愛子”の鼓動がドクンと跳ねた。

 「えっと……ここじゃあなんだから、座敷に行きましょ」

 暑い中を歩いてきた“彼”がタオルで汗をぬぐい、“愛子”が入れた麦茶を飲んでひと息ついたところで、ふたりの間に沈黙が落ちる。

 おりしも、愛子の母たる妙子は、孝雄を歓待する夕食のために買い物に出かけているため、この家には今ふたりきりなのだ。

 「あのね、ワタシ、タカちゃん会ったら言いたいことがふたつあったんだ」

 気まずい──とは言いきれない奇妙な空気の中、口火を切ったのは“愛子”の方だった。

 「実は僕もなんや。でも、まず愛子さんの話から聞かせてもらえるか」

 「う、うん。たぶん、タカちゃんは賛成してくれると思うけど……」

 一瞬ためらって言葉を切った後、思い切って続ける。

 「ワタシたちさぁ、もぅずっとこのままでいてもいいんじゃないかな?」

 具体的に何のことかは明言しなかったが、もちろん“愛子”が言いたいことは“孝雄”に伝わっていた。

 だから、躊躇うことなく頷く。

 「ええよ。むしろ、僕の方からお願いしようかと思ってたくらいやし」

 「! じゃ、じゃあ、これからは、ずっと、ワタシ──ううん、ウチが呉多愛子で……」

 「僕──いや、俺が須賀孝雄ってことだな」

 こうなるであろうことは、一年前の三度目の立場交換の時にふたりとも何となく予感していたので、それほど驚きはなかった。

 「おおきに、タカちゃん。それともうひとつ……」

 「ごめん、悪いけど、ソレは俺の方から言わせて。古臭い考え方かもしれんけど、こういうのは“男”の方から言うモンだと思うし」

 キリッとした真剣な目つきで見つめられて、愛子の鼓動がいっそう速まる。

 「うん、もちろん。聞かせて、タカちゃん」

 真剣な表情で見つめ合う孝雄と愛子。

 「俺・須賀孝雄は、呉多愛子さん、貴女が好きです。恋人になってください」

 それは、かつての孝雄が密かに夢見ていた言葉とシチュエーション。

 その妄想そうぞうの中では、“彼”自身が“従姉”に対して言っていたはずの台詞を、今は彼女が従弟に言われている──でも、それがたまらなく気恥ずかしくも嬉しい。

 「うれしい……タカちゃん、ウチもあんたのことが大好きや!」

 そのまま、孝雄の腕の中に飛び込み、その顔を見上げるような姿勢でそっと目を閉じる。


 ──彼との初めてのキスは、ほんのり麦茶の香りがした。


~end~

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