第7話『美少女JCの家庭教師になったけど何か質問ある?』後篇
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──ガチャッ……バタンッ!
「お父様、ありがとうございました」
クルマから降りてドアを閉めたカリンは、運転席に向かって頭を下げる。
「あぁ、うむ。がんばってな」
ゴツい顔を少しだけ緩めると、宗治郎はアクセルを踏んで去って行った。
「それにしても……少し早すぎたでしょうか」
このエリアには逢坂聖神女学院の中等部・高等部の校舎があり、今、カリンは校門のすぐ前に立っているのだが、始業予鈴の30分以上前ということもあってか、ほとんど人影が見当たらない。
あと10~15分もすれば校門前に登校する生徒があふれるだろうし、もう30分ほど早ければ部活の朝練などに出る一部の運動部系所属の子たちと鉢合わせしたのだろうが、ちょうどその谷間の人のいない時期にあたったようだ。
幸いにしてカリンが所属するバスケットボール部の朝練は、放課後に部活がない火曜・木曜だけなので、今日はそちらについては気にする必要がない。
「……って、ゆっくりもしてられないんでした。教室にカバン置いて、すぐ職員室に行かないと」
門柱横に立っている“見覚えがないのに顔見知りの”警備員に「おはようございます」と声をかけつつ、校門をくぐる。
校舎に小走りに向かい、玄関で上履きに履き替える。その際、立ち並ぶ靴ロッカーの群れから「1-A」の「逢坂」と名札が貼られた場所の前に無意識に来ていることにも気付いたが、昨日からの一連の出来事と考え合わせて「まぁ、ありうることだよね」と自分に言い聞かせる。
不思議だし不気味でもあるが、これもまた「立場を交換する」といった超常的な現象の一環なのだろう。
(そう言えば、今朝、自分の部活を自然とバスケ部だって認識してましたけど……)
“本来の”朝倉花梨もまた運動部所属ではあったはずだが、バスケットボールのような団体競技ではなく、個人技系の部活ではなかったろうか?
(──何となくラケットみたいなモノを以前、部屋で見かけたような……?)
その記憶が正しければテニスかバドミントン、あるいは卓球部あたりに属しているのだろう。
もっとも、“それ”はあくまで“元”の花梨であり、今ここにいる
確かに、“本物”ではなく
「そういうトコロまで改変されているんですね」
小声で呟きつつ、まずは職員室に向かう。
100年近い歴史を持つ逢坂聖神女学園だが、中等部の校舎は10年程前に建て替えられたばかりなので、未だ比較的新しい。その分、デザイン面でも機能面でも随分と現代的で、校舎内は全館空調が効いており、またはめ殺しの強化ガラスを使用した大きな窓が壁代りに多用されているため、全体に明るい印象があった。
最近の公立学校の教育では廃れつつある「日直」という制度だが、この聖神ではしっかり残っており、クラス内で持ち回りでやることになっているのだ。
とは言え、女子校ということもあり荷物運びなどの重労働をさせられることはない。
聖神での日直の主な仕事は、朝の教室の鍵開け&放課後の施錠、各休み時間毎の黒板消し、あとは花瓶の水換えや授業開始時の号令掛けぐらいだろうか。
玄関口から歩いて10秒とかからずにたどり着ける職員室の扉の前に立ち、「失礼します」とひと声かけてから入室する。
「1年A組の日直の朝倉です。教室の鍵を借りに来ました!」
「ああ、ご苦労様」
入口から右奥に近い位置の机の前に座っていた初老の男性教師──確か社会科担当兼任の教頭先生が立ち上がり、カリンの声に応えて机を開けて取り出した鍵を渡してくれる。
「それが1-Aの鍵だよ。今日は教室移動はあるかね?」
「はい、3時間目に体育があります」
「ならばそれは預けておこう。わかっているとは思うけど、今日一日、失くさず大切に持ち歩いて、放課後になったら返しに来なさい」
「了解しました!」
ペコリと頭を下げてから職員室を出て、玄関を挟んで真逆の位置にある1-Aの教室へと向かう。
鍵を開けて中に入り、まずは窓際から二番目で一番後ろにある“
「とりあえず黒板は……うん、問題なさそうですね。なら、あとは花瓶の水換えくらいでしょうか」
てきぱきとやるべきことを片付け、少々手持ち無沙汰になった……かと思った、ちょうどその時、クラスメイトのひとりが教室にやって来た。
「おはよう、花梨。今日はあんたが日直だったのね」
カリンよりはやや小柄だが、それでも160センチ近くあるのは中一女子としては背が高い方だろう。クセのない銀色の髪をサイドテイルにまとめた、ちょっと気の強そうな少女だ。
(えーと、この子は……)
──塩崎香津実(しおざき・かつみ)。
そんな六原豪は知るはずもない/朝倉花梨なら知ってて当然の 情報が、脳裏に浮かんでくる。
「……おはようございます、香津実。テニス部は朝練があるのではないですか?」
自然に口にして、初めて目の前の相手がテニス部所属だったことを「思い出す」。ある種異様な感覚だった。
「なぁに、あんたにしてはずいぶんと丁寧な話し方をして。お母さんにでもお行儀を叱られたの?」
面食らったような表情で聞き返す香津実に向かって、カリンは小首を捻りつつ反論する。
「そうでしょうか。私はいつもこんな感じだったと思うのですが」
「! そんなワケないでしょ。あんたはいつも……」
彼女が言いかけたところでガラリと教室のドアが開き、別のクラスメイトらしき少女が姿を見せた。
「おはよぉございます~。あら、花梨さんと香津実さんは、もう来てらしたんですね~」
──雲居雁真弥(くもいかり・まや)。香津実同様、
そんな情報が頭に浮かんでも、もはやカリンは驚かなかった。
(私と同じくらい長身で、高校生並みにスタイルいいのに、実は運動苦手なんだよね、この子)
……と、追加で余計な感想が浮かんできたくらいだ。
「おはようございます、真弥」
「はい♪」
ニッコリ笑って真弥は、その笑顔を今度は香津実に向ける。
「──おはよ」
言わされた感アリアリながらも、流石にこんなことでは意地は張らず、彼女も挨拶する。
「って、あんたまたぁ? ねぇ、真弥、さっきからこいつ変なのよ。妙に口調が丁寧って言うか」
「あら……でも、花梨さんはぁ、いつもこんなお話し方だったと思いますよ~」
こてんと小首を傾げて、真弥もまた香津実の意見を否定する。
「そ、そんなわけ……」
敵(ライバル)への思わぬ援軍に、香津実が言葉を詰まらせるが、その時、一度だけ聞いた覚えのある高周波めいた“音”が、カリンの耳に聞こえてきた。
──キィーーーーン
「……あるわね。あたし、何勘違いしてたんだろ?」
どうやら予想通り、
(私にとっては好都合なんだけど、深く考えるとちょっと怖いかも)
とは言え、コレは意図してやってることでもないので、カリンにもどうしようもない。
その後は、特に日直としてやることもなかったので、カリンは友人ふたりととりとめもない雑談を交わしていたのだが、そのことに自分でも内心驚くほど違和感がなかった。
先ほど一瞬、カリンに不審な感覚を抱いたらしい香津実も、既に
そうこうしているうちに、ポツポツとクラスに人も増え、予鈴が鳴ると担任の木村昌子(30代初めの温厚な女性だ)が入って来る。そのままHR経て、木村が受け持つ1時間目の国語の授業となった。
カリンは一度当てられたものの、ちゃんと授業は聞いており、かつ(あくまで中一としてはの話だが)それなりに学業優秀なので、なんなく答えることができた。
2時間目が始まる前の休み時間には、カリンは香津実や真弥と連れ立って“用足し”に行き、女子特有のトイレでの雑談も経験することになる。
さすがに女子トイレ(というかここは女子校なので大半がそうだが)に入る際には、ほんの少しだけためらいのようなものを感じた。中に入り、小便器(あさがお)が無く、複数の個室だけで構成されている空間を目にした時も、僅かに背徳感のようなものが心をよぎったことは否定できない。
しかし、いざその中に入ってしまえば、これまでの人生で目にしてきたトイレの個室とさして変わるモノではない。せいぜい水洗擬音装置(おとひめ)が備え付けられているのと目立たないように小型のサニタリーボックスがあることくらいだが、それらの使い方はカリンは「ちゃんと心得ている」ため、未知に慌てるようなこともなかった。
スカートの後ろをまくり上げつついったん便座に腰掛け、腰を浮かせて
そのままお尻を再度下ろし、何気なく下半身に視線がいったところでビクッと身体を強張らせるが、すぐにその緊張を解く。
(ビックリしたぁ……いや、私にオチ〇チンが付いてるのは当たり前なんだけど)
生まれてこの方ずっとつきあってきた“相棒”のはずなのに、今の「朝倉花梨」の立場となっているカリンからすると、「突如自分の身体にできた見慣れない器官」のように感じられるのだ。
幸い、その部位は倒錯的な状況に興奮して硬くなるようなこともなく、力なく下向きに垂れ下がっており、そのまま小用を足すことができた。
カリンは、トイレットペーパーを心持ち多めに手に取って折り重ね、できるだけ手に感触を感じないようにソコの“清拭”を済ませて、ショーツを上げる。
(でも、今が夏でよかった。冬場だと重ね着してるから、色々大変なんだよね)
スカートを下ろし、軽く身だしなみを整えながら、「経験したはずもないの実感のある記憶」を噛みしめながら、“彼女”は個室を出て、友人たちに合流したのだった。
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2時間目の英語の授業も終わり、3時間目は体育の時間だ。
周囲のクラスメイト達に続いて、カリンもサブバッグを手に教室を出て、(日直なので部屋の鍵を閉めてから)更衣室へ急ぐ。
「今日みたいに暑い日は、プールに入れるのは嬉しいわね!」
「あらあら~、香津実さんはぁ、体育ならいつでもうれしそうな気がしますけど~?」
はしゃいでいる香津実に真弥が珍しくツッコミを入れるが、その真弥の顔も楽しそうに綻んでいる。
「そうですね。でも、冬の日の外での持久走だけは、好きではないようでしたが」
カリンも、初等部時代からの香津実にまつわる記憶を「思い出して」茶々を淹れる。
「そんなの、好きなヤツがいるわけないじゃない!」
──確かに香津実の言うことももっともだった。
さて、漫画やアニメなどのフィクションの世界では、女体化した元男や女装中の男の娘が、女子更衣室に連れ込まれ時のお約束とでも言うべき流れがある。
「この間、お母様に買っていただいた新製品のインナーを試してみましたの」
「あら、素敵! 肌触りも良さそうですね」
「えぇ、とっても♪ よかったら触ってみてください」
「まぁ……優しい感触。これなら夏場でも快適ですわね」
キャピキャピとした口調の女の子たちによるロッカールームトークは、本来ウブな六原豪が耳にしたら、いたたまれない気分になって赤面し、その場を離れようとしただろう。
実際に更衣室に入れば、幾許かの躊躇いや罪悪感を抱くのではないか──そう、本人も多少は危惧していたのだが……。
しかし、今ここにいるのは、紛れもなく“朝倉
「いいなぁ、真弥……」
“彼女”の目は真弥の(その年齢に似合わぬ巨きさの)胸に釘付けになっている。と言っても、その視線には(男)性的な要素は一切なく、純粋な讃嘆と羨望と僅かな嫉妬心から構成されているのだが。
「わたくしは母も大きいものですからぁ、たぶん遺伝ですわね~」
ぽややんと笑う真弥の余裕がニクい。
「ププッ! それに引き換え、アンタは春から全然成長してないのね」
香津実の言葉に、ちょっとカチンとくるカリン。
「そ、そんなことは……それに、成長してないのは香津実も一緒でしょう?」
「残念でしたー、あたしはこの間測ったら、春の69.5から71に1.5センチ増えたモン♪」
勝ち誇る香津実と、ぐぬぬと唇をかむカリン。あらあらと困ったような顔でふたりを見守る真弥……というのは、まったくもって「いつもの3人」そのものの平常運転だ。(肉体的には♂なはずの)カリンも、完全にこの女子更衣室の空気に同化している。
ともあれ、いつまでもフザケてばかりはいられないので、カリンたちも水着に着替えることにする。
逢坂聖神女学院のスクール水着は、最近多いスカート付きやショートスパッツ型ではなく、いわゆる“競スク”──競泳型スクール水着と呼ばれるタイプだ。布地の色は空色で、前面から伸びた肩ひもが左右の肩甲骨の間の少し下の一点でV字に交わる形で伸びているため、肩も含めた背中の上部がかなり大きく露出している。ボトムラインも、ハイレグとは言わないまでも、脚ぐりの位置はかなり高めで、スク水にしてはなかなかお洒落だ。
お嬢様学校らしくない大胆さと言うべきか、逆に女子校だからこそデザインには拘ったのだと見るべきか。ただし、頭に白のスイムキャップを被るため、どの道、イケテるとは言い難いという説もある。
ともあれ、そんなデザインの女子水着に、(生まれて初めて)袖を通すことになったカリンだったが……。
「ウチの学校の水着は伸縮性が高いから着易くていいですね」
「ホントですねぇ、わたくしはちょっと身体が堅いから助かります~」
「そう? あたしは、どうせなら競泳選手みたいな身体にフィットする感じの方がカッコいいと思うんだけど」
──さして意識することもなく、友人ふたりと会話しながら、下着まで脱いで全裸になり、そのままスク水に足を通し、胸元に引き上げて肩紐に腕を通してている。水着を着た際、偶然か意図的かソレが下側に折り曲げられる形で押し付けられたおかげで股間部の隆起もそれほど目立たないのは、色んな意味で幸いだった。
もっとも、ほんの短時間その(一応ツイてる)股間がさらけだされたにも関わらず、本人含めて誰も気にとめてもいないので、仮に股間が「モッコリ」していても、周囲から不審に思われることはないのかもしれないが。これが「立場交換の名札」の副次効果なのだろう。
「はーい、みんな集合ーっ!」
プールサイドでは、黒の競泳用水着(生徒たちの“競泳風”の代物と異なる本格的なものだ)を着用した体育教師の半田仁美(はんだ・ひとみ)が、先に来て待ち構えていた。
「半田先生! まだ始業のチャイムは鳴っていませんけど……」
バスケ部所属であり、その顧問を務める半田と親しいカリンが声をかける。
「あはは、堅いことは言いっこなし。二学期最後のプールの時間なんだし、今日はまるごと自由時間にするから」
20代半ばとまだ若く、感性的にも学生寄りである半田は、ざっくばらんで生徒からの人気も高い。この時も、彼女がそう宣言すると1-Aのクラス一同から(お嬢様学校らしからぬ)歓声が上がった。
「ただーし! 水に入る前にちゃんと準備体操はしないとね。てことで、みんな、始めるよーッ!」
そういう事故に繋がりそうな部分はキチンと避けているあたり、やはり気さくでも名門校に採用された教師ということなのだろう。
5分ほどの準備体操の後、半田のお許しが出たので、1-Aの生徒たちは我先に……というほど行儀悪くないが、それでも競ってプールへと走る。
カリンも、プール横の鉄梯子を伝って水に入り、香津実や真弥と水のかけっこしたり、何故かプールサイドに転がっていたバレーボールを使って、トス回しをしたりして、プール遊びを満喫していた。
「半田先生は、こういう融通が利かせてくれるからいいですよね」等と友人達に話しかけつつ、「“僕”としては今年初めてのプールなんだけどね」とどこか頭の片隅で考えていたりもする。もっとも、後者の考えは、すぐに女子中学生としての立場に沿った思考と行動に流し去られてしまったが。
如何に活力に満ちた思春期の少女たちと言えど、さすがに授業時間の45分間ずっとはしゃいでいることはできない。30分ほどが経過すると、大半の生徒がゆったり水に浮かんだり、あるいはプールサイドに腰掛けて足先を水に浸けながら雑談したりするようになる。
カリンたちのグループもその例に漏れず、水から上がって談笑していたのだが、どういう話の流れか最後の5分にカリンと香津実が25メートル自由形で競争することになっていた。
おもしろがった半田の肝煎りで、右端の2コースが空けられ、ふたりは並んで飛び込み台の上に立つ。
「じゃあ、位置に着いて……よーい、ドン!」
口でそういいながら、半田が大きく掌を打ち鳴らし、「パンッ!」という音が響き渡る。
それを耳するや否やふたりは、どちらも水泳部でもない素人にしては比較的綺麗なフォームで水面に飛び込み、ほぼ同時に着水してクロールで泳ぎ出した。
無我夢中で水を掻くカリン。よそ見をしている余裕はないので、香津実がどの位置にいるかなんてわからない。
本来の“豪”であれば、特別運動が得意というわけではないが、そこは男の子、水泳部でもない中学生の女の子に負けるはずはないのだが、カリンとしては「今の自分の実力を自覚したうえで」香津実を手ごわい相手だと本能的に認識しているからだ。
20秒をいくらか切る程度のタイムで反対側の壁に手が付き、水面から顔を上げると、香津実の方もタッチしたところのようだ。
「「半田先生、判定は!?」」
ふたりの呼びかけに首を傾げる半田。
「うーん、ほぼ同時だけど、半呼吸程度、朝倉さんの方が早かったかしらね」
「……ちぇっ、胸の分の水の抵抗が仇になったかしら」
「ちょっと! 有意な差が出るほどじゃないでしょう。真弥ならともかく」
ワイワイじゃれているうちに、ちょうど終業のチャイムが鳴り、着替えるために一同は更衣室に向かったのだった。
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その後も、朝倉花梨としてのカリンの学校生活は、特にトラブルもなく過ぎて行った。
授業時間は元より、お昼休みの学食でのランチ(ただし、カリンは母親お手製の弁当持参)の時間も、香津実や真弥と「いつも通り」楽しく雑談しながら、摂ることができた。
放課後は、部活のためクラブ棟へ向かい、バスケットボール部の部室で体操服に着替える。
逢坂聖神女学院の小中高等部の体操服は共通で、上が白地に赤い襟の半袖ポロシャツ、ボトムは3分丈の黒いスパッツだ。スク水同様、現在の主流から見れば、やや時代遅れな感のあるデザインだが、この学院に通うお嬢様にとってはさして気にならないらしく、あえて変えようという動きは今の所見られない。
体育会系の部活と言えば、「脳筋・厳しい上下関係・時代錯誤な特訓」の悪しき三点セットが連想されるが、お嬢様学校のせいもあってか、少なくともバスケットボール部は、そういう傾向は“あまり”見られない(皆無とは言わない)。
さらに言えば、顧問教師は“あの”半田なのだ。ゆるい……とまでは言わないまでも、ガムシャラに勝つことより和気あいあいとバスケを楽しむことに主眼を置いた活動内容で、当然それほど強くもない(市大会でベスト8が最高記録だ)が、その分、部員たちの仲は極めて良い。
1学期最後の部活(と言っても、当然夏休みにも練習はあるのだが)とあって、今日は各学年ごとに2チームに分かれて紅白戦をやることになった。
160センチオーバーで、中1の女子として見ればかなり背の高いカリンのポジションは、無論センターだ。
実は豪も中学時代はバスケ部に所属しており、スタメンではないものの、控えとして何度か試合に出た経験はあるくらいの力量だったのだが、その当時から男性としては小柄だったためポイントガードかシューティングガードを任されることが多かった。
センターの役目など一応頭ではわかっているものの、実際にプレイした経験はない……はずなのだが、そこは立場交換の副次効果と言うべきか、カリンは自然とそれらしい動きがとれていた。
無論、「いくら背が高くてもまだ1年生」なので動きそのものは拙いのだが、それでもキチンと自分の役割を呑み込んでいる分、的確に動いて敵のチャンスを潰し、リバウンドボールを確保して攻撃の起点となることができている。
“彼女”の働きもあって、1年生同士の紅白戦では見事勝利を掴むことができたのだ。
「いいよいいよ、朝倉さん。ちゃんとセンターの“仕事”ができてるね」
顧問の半田は名指しで褒めてくれたし、2年や3年の先輩も好意的な評価を下してくれたようで、カリンとしては非常に嬉しかった。
(“僕”の場合、ロクに褒められたことが無かったからなぁ)
ほんの一瞬そんな思いが脳裏を掠めるが、その悔しさの記憶もすぐに“今”の喜びに上書きされ、心の奥に埋没していく。
改めてカリンは「自分はバスケットボールが好きだ」という想いを噛みしめるのだった。
部活が終わると、クラブ棟備え付けのシャワー室で軽く汗を流してから、制服に着替える。
午前中の体育の時は、まだ多少なりとも違和感や羞恥心が湧くかもと思ってはいた(結局、それは取り越し苦労だった)のだが、この頃になるとそういう事すら思い浮かばず、カリンはシャワールームで全裸になったり、部室で“同世代の女の子”たちと間近でおしゃべりしながら着替えたりしている。
完全に「女子校に通う体育系クラブ所属の中学生のいつもの日常(こと)」として、意識すらせずに受け入れているのだ。
日直として教室の鍵を閉め、書き込んだ当番日誌と共に職員室に鍵を返したのち、帰路につくためカリンは校門を出る。
「──遅かったわね」
校門前に待ってくれて人物がいた。
「香津実! 待っててくれたのですか?」
「別に、たまたまよ、たまたま」
何というツンデレ! 嬉しさと微笑ましさに顔がほころぶのを抑えきれない。
「……何笑ってんのよ。そろそろ下校時刻だし、さっさと駅まで行きましょ」
「ふふっ、そうした方がよさそうですね」
あえて、香津実の頬が夕焼けのせいでなく赤くなっていたことには言及しない。
香津実とは乗る電車が同じ方向なので、しばらく一緒にいることができた。
「あたしは次の駅で降りるわ。それじゃあ、また明日」
「はい、また明日」
笑顔であいさつを交わし、彼女が電車を降りるのを見送ってから10分ほどで、自分(カリン)も家の最寄り駅についた。
7月は昼が長い時季だが、さすがに6時半を過ぎれば、そろそろ暗くなってくる。
カリンは、できるだけ人気のある道を通って、寄り道などせず真っ直ぐに家路を急ぐ。部活のこともあって逃げ足と持久力にはそれなりに自信のある“彼女”だが、そもそもそのふたつを使わなくて良いならその方がいいに決まっているからだ。
──本来の自分が18歳の青年で、少なくとも痴漢などに遭う心配はしなくてよいだろうということは、既に頭の片隅にすら浮かばなかった。
幸いにして何事もなく
「ただいま戻りました」
制カバンとサブバッグを机の上に置き、制服姿のままちょこんとベッドに腰掛けたところで、ホッとひと息つく──そして、そんな自分に気付いて、カリンは無性におかしくなった。
(ふふっ、すっかりこの部屋の主としてくつろいじゃってるなぁ)
“名札”の解説によれば「言動の矯正に要する期間は半日~2、3日」とかなり振れ幅があったようだが、どうやら自分は24時間足らずで心までほぼ完全に適応したらしい。
僅かに残った六原豪としての心が「これでいいのか」と疑問を呈さないでもなかったのだが、カリンは「まぁ、同じことをして元に戻ればいいワケですし、それならこれもいい思い出になるでしょう」と、あえて気にするのを止めることにした。
「そうと決まれば、朝倉花梨としての暮らしをできるだけ楽しんでしまいましょう」
制服を脱いでハンガーに掛け、箪笥から取り出した某有名ブランド製の白いシフォンレースのロングワンピースへと着替える。これまた“本物”の花梨が箪笥のこやしにしていた中の一着だが、(意外というか納得というか)ガーリーでロマンティックな雰囲気を好むカリンの“乙女心”には、ぴったりマッチしているのだ。
ドレッサーの前に座って髪型もいじり、上半分の髪を両側面から後頭部に持って来てまとめて後ろでひとつに結んだ、俗に“お嬢様結び”とか“ハーフアップ”と言われるヘアスタイルにしてみる(知らない人には「SAO」の明日奈の髪型と言えば分かりやすいだろうか)。
「うん、この方がいいですね」
客観的に見ても、上品でフェミニンな今の服装にはよく似合っていた。
浮き浮きしながらカリンは自室から出て1階の台所に趣き、夕飯の支度をしている華蓮(はは)に対して「何か手伝うことはないか」尋ねる。
華蓮は一瞬驚いたように目を見張ったものの、すぐに笑顔になった。
「! ──じゃあ、そちらのお味噌汁の仕上げを手伝ってもらおうかしら」
白い服を汚さないよう予備のエプロンを渡し、“娘”に丁寧にやるべきくことを指導していく華蓮。
「貴方、今日のおゆはんは、花梨が手伝ってくれたんですよ」
その日の晩餐の席で、華蓮が
「ほぅ、それはそれは……」
無論、
「お父様、過大な期待はしないでください。私が手伝ったのは、お味噌汁の味付けとお新香を切ったことくらいですからね」
慌てて弁解するカリンだが、実は本人も満更ではない様子で、今後も暇を見つけて母に料理や裁縫を習ってみようかなどと考えていたりする。
──こうして、
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【六原ゴウの日記】
7月22日(土)
せっかくなので、今日から「元に戻るまで」日記をつけることにしよっと。
昨日は、この立場交換の事実に興奮して、あまり寝つけなかったけど、今日から本物のひとり暮らし! しかも、男子大学生として! いやぁ、テンションが高くなるなぁ。さて、昨日は繁華街の吉〇屋に行ったから、今日は駅前の立ち食いソバ屋に行ってみようっと。
……
8月1日(火)
立場交換して10日が過ぎた。ひとり暮らしって気楽だけど、ご飯の準備とか、部屋の片づけとかがめんどいよねぇ。定食屋も飽きてきたから、コンビニ弁当に切り替えようかなぁ。ま、男だと着る物はラフでいいから、夏なんかは楽ちんなんだけど。
そーだ! せっかくだし商店街にある銭湯にいっぺんくらい行ってみてもいいかも♪
……
8月10日(木)
食べるものもそうだけど、暇潰しが本かテレビかネットくらいしかないのが結構キツい! いや、バッセンとかゲーセンも行ってはみたけど、「六原豪」の財力だとそう度々行くわけにもいかないし。「大学の友人」とカラオケやボーリングに行ったのは割と楽しかったけど、これもお金の問題があるしなぁ。
バイト雑誌見て、日払いの運送屋のバイトとかも1度やってみたけど、筋肉痛になって一日で懲りた。そりゃあ、かてきょのバイトが当たりだって言われるわけだ。
そうそう、夏休み中もわた…ボクは“朝倉花梨”の家庭教師のバイトは普段通り週2回続けている。教え子としてのせんせ……じゃなくて“カリンちゃん”は、本当に知識が交換されているのかと思うほど優秀だ。まぁ、その分、教える側としては楽できてるからいいんだけど。
……
8月20日(日)
ようやく今日で約束の1ヵ月だ。
“カリンちゃん”の前では見栄はってたけど、いやぁ~、正直ひとり暮らしってものをナメてたわ。炊事も掃除もゴミ捨ても洗濯もしなくていい、実家暮らしバンザイ! これがまた、「お金持ちのボンボンの豪華マンション暮らし」とかなら、また違ったのかもしれないけどさぁ。
男子大学生ライフの方も、気楽ではあったけど思ったほど楽しくはなかったかな。いや、バイトとか夜更かしとか、最初の頃は新鮮ではあったけど、結局これって大人になったら別に朝倉花梨のままでも経験できるだろうし。男子トイレとか銭湯の男湯とかも、想像してたほどいいモンじゃなかったしなぁ。
当初は、明日の21日は月曜だから、次のかてきょのバイトのある22日まで待つつもりだったんだけど、もう我慢できないから、明日せんせ──“カリンちゃん”をこの部屋に呼んで、例の名札を使うつもりなんだ。
“彼女”の方は、この1ヵ月どうだったのかなぁ。ボクと同じで、最初の目新しさが薄れたら、案外退屈してたりするのかもしれないね。
【朝倉カリンの追憶】
<7月25日>
今日、立場交換してから初めてのゴウ先生の授業がありました。教え方は、最初はちょっと拙い面もありましたが、すぐに慣れたのかスムーズに進行するようになったので、ひと安心です。
授業後の雑談で先生は「女子中学生としての暮らしにちゃんと順応できてる?」と心配そうに聞いてこられましたが、さて、どうなんでしょうか。少なくとも、自分ではごく自然に振る舞えていると思うのですが。
週3回のバスケの部活にはキチンと行ってますし、練習でも熱心かつそれなりに(あくまで「13歳の長身の女の子」としての範疇ですが)優秀な成果を出せていると思います。
香津実や真弥たちとも部活の行き帰りに顔を合わせることもありますし、時々LINEやケータイでもおしゃべりもしてます。今度の土曜日には、みんなでプールに行く約束もしました。
朝倉家のひとり娘としては……これもそれなりに両親の期待に応えるべく努力はしています。
いえ、決して嫌々がんばっているというわけではありません。“六原豪”だった頃から、朝倉家の方々には好感を持っていましたが、いざ家族として接するようになると、それまで知らなかったような一面も見えてきます。ですが、その大半が私にとっては好ましいもので、使用人の方々も含めて、ますますこの家のことが好きになりました。
お母様から教えていただく手習い──お料理やお裁縫、あるいは
お父様との仲も、お友達などの話を聞く限りにおいては、たぶんそれなりに良好な関係を築いていると思われます。これはもともと私が男だった(いえ、今でも肉体的には♂なのですけれど)ということも関係しているのかもしれませんが、それを抜きにしてもお父様──朝倉宗治郎さんは、温かくて頼りがいと包容力のある素敵な男性だと思います。将来私もお父様みたいな殿方と結ばれたら……って、いけない。これは飛躍し過ぎですね。
その点、お母様──朝倉華蓮さんは、私にとって(目指すべき)理想の女性、という感じです。30歳を超えているとは思えないほど若々しい美人で、淑やかかつ華やかなオーラをまとっておられます。外見だけでなく、性格の方も穏やかで知性的、かつ茶目っ気もそれなり持っておられるという、男女問わず好かれるタイプ。料理を始めとする家事の腕前は言わずもがな。頭脳面でも、私が通っている逢坂聖神女学院の大学部日文学科を首席で卒業されているのだとか。ここまで才色兼備のスーパー大和撫子を射止めたお父様は流石と言えるでしょう。
おふたりの娘として恥じぬよう、日々精進を重ねていきたいと思います……って、違った。私、いや“僕”は本当はおふたりの子供じゃないんだった。あとひと月足らずで、元の「六原豪」としての立場に戻るんだよ。
ちょっと残念な気分。でも、僕、おふたりに「花梨の婿に来ないか」って誘われてるんだよね。冗談だと思ってたけど……ちょっと真剣に検討してもいいかもしんない。
<7月29日>
今日は香津実たちと電車でふた駅離れたレジャーセンターのプールに行く予定──だったんですが、女子中学生3人だと物騒だということで、田村さん(普段はお母様の秘書兼ボディガードみたいなコトをされてます)がクルマで送り迎えと引率をしてくださることになりました。
目的地の最寄り駅の改札前でふたりと合流し、プールへ直行……する前に、目の前にあるファッションビルでお買い物です。
目的は今日着る分の私の水着。いえ、去年買ったものはあるんですけど、ちょっとキツくなってまして(さすがに校外でスク水というのも恥ずかしいですし)。
「それって絶対胸じゃないわよね、もしかしてお腹? ププッ」て、失礼ですよ、香津実。お腹がポッコリ出てたりはしません! む、胸は……将来に期待です。
「まぁまぁ、花梨お嬢様も香津実さんも落ち着いて~。ほら、これなんて花梨様に似合いそうですよ」
さすが年の功(といっても確かまだ27歳のはずです)で、田村さんがさりげなく話題を逸らしてくださいました。
「どれですか~? あら、本当ですねぇ」
私達の中で一番センスのいい真弥も、賛成してくれたのですから、候補のひとつに入れておきましょうか。
それから1時間あまりの試行錯誤ののち、私が選んだのは、白いレース地のオフショルダートップスとブルーのショートパンツを加えて4点セットになった赤白ボーダー柄のタンキニ。ちょっと大人っぽい白黒チェック柄のスカート付ワンピースとどちらにしようか悩んだのですが、後者について「胸ぐりが深いから、アンタだと悲しいコトになるわよ」と香津実に指摘されたので、断念しました(ヲノレ……)。
試着してサイズも確かめたので購入し、休憩がてらスターバックスで軽く昼食をとってから、いざプールへ。
滑り台のあるプールや流れのあるドーナツ型プールなどに加えて、浮輪やフロート、ビーチボールの類いもレンタルしたので、学校のプールと違っていろいろ楽しめました。
そうそう、それでひと通り施設を堪能してから三人でひと休みしてたら、ちょうど田村さんが飲み物を買うために離れていたせいか、大学生くらいのちょっと軽そうなふたり組の男の人たちに、なんとナンパされちゃったんです!
……と言っても、私や真弥の背が高い(香津実も155くらいはあります)から、後ろ姿で高校生だと誤解されてたようです。振り向いた私達の顔を見て「あれ?」という表情になって、その後、戻って来た田村さんから険しい視線を受け、私達が中一だということを聞いて早々に退散してっちゃいました。
ふたりの内のひとりは、最後まで真弥の胸に未練たっぷりな視線を投げかけてましたけど──まったく男の人ときたら、もぅ!
「大丈夫です、お嬢様。奥様は人並みよりは大きめですし、お嬢様も食生活に気を付けていれば、すぐに大きくなります。それに……」
「それに?」
「胸の大きさで女性の価値を計るような男にロクな人間はいません!」
真弥やお母様以上に巨乳な田村さんが言うと、説得力ありますね。
そんなハプニングはありましたけど、プールで楽しいひと時を過ごして、私達は帰路につきました。
ふたりとは、また学校で会うこともあるでしょうが、8月20日夜の花火大会にも一緒に行くことを約束して別れました。
<8月13日>
昨夜から私たち家族は、毎年恒例のお盆の里帰りで、お母様の実家の故郷である仙台に来ています。
関東地方よりは北にある分、いくらかは涼しい……ような気もするのですが、それでも連日30度を超えているので、暑いことには変わりありません。
もっとも、母方のお爺様のお家は、仙台市の郊外にある昔ながらの大きな屋敷(もとは村一番の地主だったそうです)で、クーラーよりも扇風機、扇風機よりも団扇が似合うような、いかにも「古き良き日本の民家」といった感じなのですけれど。
一応、市の外れには位置しているため完全な田舎というわけではないのですが、それでも
こちらには15日のお盆まで滞在し、お墓参りを済ませたあと、地元に帰って今度は父方のお墓参りをしないといけません。明後日は強行軍になるでしょうから、今日と明日くらいはゆっくりさせてもらいましょう。
とは言っても、明日は2歳年上の従姉の美晴さんが定禅寺通りと壱弐参横丁に連れて行ってくれる予定ですから、あまりのんびりという感じではないかもしれませんが。
<8月20日>
今、私は香津実や真弥と一緒に花火大会に行って、縁日も冷やかしてから
……いえ、自宅ではなく“朝倉家”と表現すべきでしょうか。
明日の今頃、私は“僕”、六原豪の立場に戻っているはずなのですから。
正直に言えば、こんなに「朝倉花梨」としての立場に馴染むとは、思ってもみませんでした。「六原豪」は、確かに長身でも筋骨逞しくもありませんでしたが、だからといって女装趣味でも性別違和でもないはずだったからです。
もっとも、今の私──「僕」は、そう断言できる自信はありません。女性──13歳の少女の立場で1ヵ月を過ごした結果、趣味や嗜好そして思考は完全にその年代の女の子らしいモノに変化しているという確信があります。
加えて、朝倉家の人々や学校の友人達、今でもたまに連絡する従姉の美晴さんたちとの関係が断ち切られてしまうというのも辛いところです。
この想いもまた、明日、ゴウ先生と立場を交換、いえ「元に戻せ」ば、やがては消え去ってしまうのでしょうか。
それなら安心なような、それはそれで寂しいような複雑な気分です。
でも、ゴウ先生──“本物”の花梨さんは、一日予定を早めるようわざわざ電話をしてくるくらいですから、きっと早く元に戻りたいんでしょうね。
私は机の上に置いた例の「魔法の名札」を見つめます。
(これを破いてしまえば……)
そうしたら、少なくとももうしばらくは、このままでいられるのかもしれません。
そうしたい気持ちが無いと言えば嘘になるでしょう。ですが……。
私はお札をそっと引き出しの中にしまい込み、寝間着に着替えてベッドに吐き入りました。
-12-
8月21日、約束通りカリンはゴウの、「六原豪」の部屋を訪れ、そこで1ヵ月前と同様の手順を踏んで、立場を交換──いや、「元に戻した」。
「いやぁ、ひさしぶりのスカートは、なんだか照れるなぁ」
あっけらかんと笑う花梨。
どうやら、男子大学生としての1ヵ月の生活は、元々花梨がかぶっていた猫を放り捨てるのに十分な期間だったようだ。
(お父様とお母様、ビックリして腰を抜かさないといいけど……)
そんなことを考えつつ、豪は曖昧に微笑む。
「つもる話はセンセの方も色々あるだろうけど、今日のところはこれで、帰るわ」
「あぁ、そうですね。そうした方がいいと思いますよ」
慈愛に満ちた(けれどどこか寂しそうな)笑みを浮かべて豪も同意し、花梨は帰っていった。
ひとりになり、ちょっと散らかった“自室”を見回す豪。
「掃除と整理、しなくちゃ……」
そう自分に言い聞かせるのだが、何となくそんな気分になれない。
大事なモノを喪ってしまったかのような感覚が、心の裡に貼り付いて剥がれないのだ。
(元に戻れば、忘れられると思ったのに……)
実はコレ、魔法のお札の抱える構造的な欠陥のひとつで、新しい札ではなく、1度使った名札を使って、元に戻ると、立場交換していた間の記憶も、消えずにそれぞれの脳内に残ってしまうのだ(※『ボクがバスガイドになったワケ』参照)。
抱えきれない想いに息苦しくなった豪は、半ば無意識に部屋を出て、足の向くままにあちこちを彷徨う。
そして──気が付けば、「
うっそうと生い茂る木々に囲まれた小さな広場にある祠……いや、小さめとは言え、手水や鳥居などもあることからして神社と呼ぶべきなのだろう。
『悩める者よ、汝の願い、叶えて進ぜよう』
そうして頭の中に響く不思議な声に逆らうことなく、青年は己れの願う事を口にしたのだった。
-エピローグ-
それから10日ほどの時が流れ……。
朝倉邸の2階にある自室で、心地よい眠りに身を委ねていた少女──花梨は、ゆさゆさと揺さぶられて、重い瞼を開いた。
「ん~、だーれー?」
「花梨、そろそろ起きないと遅刻しますよ」
乱暴ではないが格別優しくもなく、それでも必要十分な刺激を与えて彼女を目覚めさせたのは、母の華蓮でも、使用人の田村でもなく……。
「ふわぁ~、なんだ、おねーちゃんかぁ」
そう、朝倉家の“長女”であり
双生児だけあって顔立ちそのものはよく似ているのだが、花梨が父に似た茶色がかったくせっ毛であるのに対し、姉は母同様「ぬばたまの」と表現されるような黒く真っ直ぐな髪を持ち、それを腰の辺りのまで伸ばしている。
肩にかかるくらいのセミロングにしている花梨としては「暑そうだし洗うのも面倒くさそう」と思うのだが、恵恋に言わせると“慣れ”なのだそうな。
もっとも、やや古風なところのある両親は、女の子が髪を短くすることにあまりいい顔をしないので、「姉がいなければ花梨が同じくらいの長さに伸ばさせられた」可能性は多々ある。
そればかりでなく、姉は両親が女の子に抱いている(今となってはある種、時代錯誤ともいえる)幻想を、自ら進んで体現しようと努める優等生(そんざい)だった。
その姉と比較されることで、微妙におもしろくない気持ちを抱いたことも、幼い頃には何度かあるが、成長するにつれて、そのような姉がいるからこそ、自分の
「そう考えると、お姉様さまさまなんだなぁ」とのんきに感謝の念を抱く花梨の肩に恵恋は手を起き、ガクガクと揺さぶってくる。
「花梨、二度寝はしないでくださいねッ」
「わわ、わかった、わかったから。ちゃんと起きるわよ」
ググーッと伸びをして、ベッドから飛び降り、着ていたパジャマをパパッと脱ぎ捨て、ショーツ1枚になる。
「そ、それじゃあ、私は先に下に降りますから」
「なぜか頬を赤らめた」恵恋は、そそくさと部屋から出て行った。
「? ヘンなの」
小さい頃は同じ部屋で一緒に着替えてたし、そもそも同性じゃん──と思った花梨だったが、ふと時計を見て、登校時間が迫っていることに気付き、慌てる。
「ぅわ、急がないと!」
超特急で身支度を整え、食堂へ急ぎ、間一髪、家族一同会する朝食に同席をすることに成功する花梨。
「まったく……花梨、今日から新学期なのですから、いつまでも夏休み気分が抜けないようでは困りますよ」
「えへ、ごめんなさーい。じゃ、いただきまーす」
溜息をつきながら軽くお小言を漏らす母にペロリと舌を出して謝り、そのまま朝ごはんをパクつく。
13歳の少女にしては健啖な食欲を見せるが、これは育ち盛りなのと、体育会系のテニス部員であることから仕方あるまい。その点では、バスケ部所属の姉も変わりはない。
やがて、ほとんど同時に朝ごはんを終えた双子の姉妹は席を立ち、洗面所に向かう──その前に、姉が妹を引き留めた。
「花梨、今日のお弁当は私が作りました。お母様に比べれば拙い出来ですが、貴女の分もありますから、良かったどうぞ」
「え、お姉ちゃん、もうそこまで腕を上げたの?」
確か、恵恋が料理を本格的に習い始めたのは、中等部に上がった春からだから、まだ半年も経ってないはずなのだが。
「ええ、ですから“拙い出来”だと言っているでしょう? それでも、まぁ、食べられないという程ひどくはないと自認しています。無論、いらないのなら仕方ありませんが……」
そう言いつつも、このしっかり者に見えて案外打たれ弱い姉は、自分が断れば内心結構傷つくだろう。
「あ、もらうもらう!」
それが分かっているので、花梨は慌ててランチクロスに包まれた弁当箱を受け取る。
「──ふたりとも、ゆっくりしていていいのか? そろそろ7時半だぞ」
父に指摘され、我に返った朝倉家の双子姉妹は、急いで歯磨き・整髪・身だしなみを済ませ、自室から持ち出した制カバンとサブバッグを手に玄関から飛び出していく。
「花梨、急ぎましょう!」
「わかってる。おねーちゃんこそ遅れないでね♪」
スカートを翻し(無論、中は見せないで)つつ、走り出すふたりの姿は、誰の目から見ても、微笑ましい仲良姉妹にしか見えなかった。
-おしまい-
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