第7話『美少女JCの家庭教師になったけど何か質問ある?』中篇
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ゴウが“帰る”のを見送ったあとの朝倉家では、本来の豪であるカリンは、多少戸惑いながらも、“自室”である花梨の部屋へと“戻って”来た。
初めて訪れたときから数えてすでに30回近く出入りしているので、それなりに見慣れた場所ではあるが、それでも他人、それも年頃の女の子の部屋にひとりでいるなんて落ち着かないだろう──と思っていたのだが。
事前の懸念に反して、意外にくつろげている。
薄いピンクのベッドカバーがかけられた、白いデコルテ風のベッド。
同じ系統のデザインでまとめられた衣装箪笥や化粧台。
中学の教科書や参考書、漫画などと並んで、数は多くないが、いくつかのぬいぐるみも一緒に飾られた本棚。
壁際に置かれた小洒落た衣装掛けに掛けられた逢坂聖神女学院中等部の制服。
どれもこれも、そこにあるのが当たり前のように感じる。
いや、ここは花梨の部屋だから、それはそれで正しいことなのだろうが、それとは別に、「今の自分」にとっても此処が「いちばんくつろげる場所」のように感じられるのだ。
おそらく魔法の名札の説明書に書かれていた「現在の立場にふさわしくなるような矯正」というヤツの影響なのだろう。
「うぅん、改めて考えると、大変なことになってしまいましたね」
そんなことを呟きつつも、カリンが無意識に勉強机の前の椅子……ではなく(何のためらいもなく)ベッドにちょこんと腰掛け、小首をかしげているのも、その証左だろう。元の豪のままであれば、いくら妹分のように思っているとは言え、
とは言え、今更うろたえてもどうにもならない。
こうなったら、元に戻るまでの1ヵ月の間、できる限り周囲の人々──
何とか自分の中でそう折り合いをつけると、とりあえず明日金曜の学校を乗り切るために、時間割でも確認しようか……と思っていたところで、花梨の部屋のドアが「コン、コンッ」とノックされる。
「お嬢様、お夕飯の時間ですよ」
使用人のひとりで、母付き執事的なポジションの女性、由梨が夕食に呼びに来たようだ。
「(!) は、はい、今行きます」
一瞬声が上ずりそうになるのを懸命に抑え、至極無難な返事をしてから、カレンは部屋を出ると、
食堂には、すでに宗治郎と華蓮がテーブルに着いて“娘”の到着を待っていた。
「すみません、お待たせしてしまいましたか?」
恐縮しながら、“母”の隣り、“父”の斜め向かいの椅子に、そそくさと座るカリン。気が付けば自然にその席を選んでいたが、どうやら花梨のいつもの席はそこで合っていたようだ。
「いや、待ったというほどではない」
「ええ。それではいただきましょうか──いただきます」
華蓮の言葉に追従するように宗治郎、そしてカリンも(そして家長である宗治郎さえも)キチンと両手を合わせて「いただきます」の挨拶をしてから夕餉を食べ始めた。
幸い……と言ってよいのか迷うところだが、この朝倉家では食事中に騒がしく会話するようなことは好まれない。別に一言も発してはならないというわけではないのだが、端然と目の前の食事を味わうことに意識を注ぐのが、料理を作った者(この場合は華蓮)に対する礼儀だという気風は確かにあった。
おかげで「朝倉家のひとり娘」の立場になったばかりの
──もっとも、食後のお茶の際に華蓮から「今日のあなたは随分お行儀いいわね」と不意打ち気味に指摘されて驚くことになる。
「(ごく普通にしてただけなのに、これでお行儀いいって……)そうですか? いつもこんな感じだと思いますけど」
内心では花梨(真)の奔放さに呆れつつも、あえてさらりとかわすカリン。
「うむ、そうだな。花梨が礼儀正しくて慎ましいのはいつも通りじゃないか。どうしたんだ、母さん?」
ところが意外なことに、“父”である宗治郎の方からも、それを肯定するような言葉が飛んできた。
それを聞いた時は、単なる親馬鹿かとも思ったのだが……。
「そう、だったかしら」
その言葉に眉を寄せた華蓮だったが、その直後、その目つきが茫洋としたものに変わる。
と、同時に!
──キィーーーーン
高周波めいた音のようなものが、ほんの一瞬だけ脳内に響き、それと共に奇妙な感覚がカリンを襲った。
“それ”が何なのかは具体的に言葉にしづらいが「何かが変わった」あるいは「書き換えられた」ような気がする。
「そうよね。花梨はわたしたち自慢の可愛い娘ですものね」
先ほどの胡乱げな目つきが嘘のように慈愛に満ちた優しい視線を、華蓮はカリンに向けてきたのだ。
(??? どういうことなんでしょうか)
さすがに“何やら奇妙なこと”が起こったらしいとはカリンも気づいたが、それを追及するわけにもいかない。むしろ、不信感を抱かれなくなったのだから(少なくともこの場では)良かったのだろう。
食休みが終わり、“自室”に戻ったカリンは、何となく化粧台備え付けの鏡の前に立ってみた。
鏡に映るのは、この「立場交換」が成立した直後に見た時と同様、花梨の格好をした自分。
「幼い頃から密かに自慢の」真っすぐで艶やかな長い黒髪。
「先日買ってもらったばかりでお気に入りの」ふくらはぎ丈の白いワンピース。
化粧などはしていないが「きちんと整えられた眉」。
(うん、別に何も変わってませんよね──「いつも通り」です)
心の中でそう呟きかけて、はたと気づく。
そう、「いつも通り」であるはずがないのだ。少なくともほんの2時間ほど前までは、自分は六原豪という今年大学に入ったばかりの男性で、男子大学生相応のカジュアルな服装をしていたのだから。
「立場交換」直後に鏡を覗いた時もこの格好を普通にスルーしかけたが、あの時は自分が一時的に「朝倉花梨である」と思い込んでいたからこそで、自分を取り戻してからは、さすがにその不自然さ(非日常さと言い換えてもよい)を自覚していたはずなのだが……。
「──何かが、違うような」
もう一度、鏡に映る自分の姿を検分してみる。
正面から右に左に体を傾け、あるいは鏡に背中を向けてから首を捻って後ろを振り返ってみたり、さらには化粧台の前のストゥールに腰かけて笑ったり膨れたり百面相してみたり……。
その結果、はっきりと確信は持てなかったものの、何となくわかったことはあった。
「もしかして、仕草や表情が女の子らしくなってる?」
自分の動作や表情を鏡で念入りに観察するようなナルシーなシュミはなかったので断言はできないが、それらが立場交換した直後よりも心なしか“13歳の女子中学生”である花梨にふさわしい淑やかなものに変わってきているような気がした。
豪は元々それほどガサツでもワイルドなタイプでもないが、それでももうじき19歳になる青年としてのごく普通の立ち居振る舞いをしていたはずだ。
実際、立場交換直後にトレイを届けに台所に行った時など、初めて履いたスカートの感触に戸惑っていたりもした。
それなのに現在の
もちろんこれは例のお札の“
その影響で、顔の造作自体は(豪の頃と)変わっていないはずなのに、全体的な雰囲気がとても女の子らしく見える。これなら、仮にお札の魔法的な誤魔化し効果がなくても、カリンの姿を目にした人の殆どが普通に「あ、女の子がいるな」とスルーするのではないだろうか。
「あ、アハハ……私、もしかして早まったかも」
想像以上に大きな影響があることを実感して、今更ながらに花梨(真)に安請け合いしたことを後悔するカリンだったが……。
実はカリンが気付いた(そして花梨が想定していた)以上に大きな影響が、この“世界”にもたらされているのだ。
というのも、先ほどの食卓でのやりとりを見てわかる通り、本物の花梨は(その気になればちゃんとソレらしく振る舞えるとは言え)普段はあまりお淑やか・おとなしやかとはいえない言動&気質の主だ(本人的には両親の前では猫かぶっているつもりだったがバレバレだった)。
それに比べて“今のこの”カリンは(本人が“お嬢様”というものに幻想を抱いていたこともあって)、
そして、本人がソレを「いつもそう」だと言い切り、さらにそれを
だからこそ、最初に「いつもとの違い」を指摘した母・華蓮も、すぐに「自分の思い違い」だと認識を改めた。これは華蓮ばかりでなく宗治郎や他の人間にとっても同様だ。
つまりいま現在に於いては、“朝倉
あるいは、この事に気が付いていれば、その後のカリン(豪)の行動も色々と異なったのかもしれないが、こんな途方もない話に気付けというほうが無茶だろう。
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自分の“現状”をうっすらとながら理解した(ただしホントのヤバさにはまだ気づいていない)カリンだが、今更焦っても仕方ないので、とりあえず無難に「朝倉家のひとり娘としての日常」を過ごすことにする。
まずは、「今日学校で出た宿題」を把握する。
これは、「花梨が今日学校でどんな授業を受けたのか」と考えることで、すぐに「思い出す」ことはできた。
カリンの元となっている六原豪は、まがりなりにもそれなりに高いランクの大学にストレート合格する学力を持っている。その豪の学力からすれば、中学一年生の宿題など楽勝かと思われたのだが……。
「あ、れ? 意外と難しい?」
そう、思ったより手こずるハメになったのだ。
「あ! そういえば、学力も立場に相応な
先ほど本物の花梨とふたりで色々試行錯誤した時のことを思い出すカリン。
もっとも、実は単純に「元の花梨と同じ学力や学習知識」になったわけではなく、「12歳の女子中学生カリンとしての実力」になっているのは不幸中の幸いだったろう。
本来の花梨も決して成績が悪いわけではなく、むしろいい方だが、
さすがに高校や大学などの「中学生が知るはずもない勉強内容」に関する知識はないが、中学一年生としては非常に優秀と言ってよいだろう。
おかげで、多少は手間取りながらも英語と国語で出ていた宿題を1時間程度で片付けることができた。
「花梨、お風呂が沸いたけど、入れるかしら?」
ちょうどそのタイミングで、母から声をかけられる。
「あ……大丈夫ですけど、お父様やお母様はよろしいんですか?」
「わたしは最後にゆっくり入らせてもらうわ。あの人は今はホラ、ナイター中継に夢中だから」
どうやら宗治郎氏は野球観戦が趣味らしい。
(意外──ってこともないですね。むしろ納得)
クスッと笑いを漏らしつつ、カリンは「手慣れた仕草で箪笥を開けて、パジャマと替えの下着を取り出して」1階のバスルームへと向かう。
「フン、フン、フ~ン♪」
脱衣場で鼻歌を口ずさみながら、ワンピース、ブラジャー、ショーツの順に脱ぎ、ガラリと横開きのガラス戸を開けて風呂場に入る。
日本の街中では珍しいレベルの豪邸である朝倉邸にふさわしく、風呂場は畳換算で8畳分くらいの広さがあり、2×1.5メートルくらいの主浴槽に加えて、1×1メートルの水風呂と直径1メートル程度の壺湯も設置されていた。
洗い場の方もシャワーと椅子が3組備わっており、複数人で入ることも想定されているようだ。
そのまま入浴すると、腰近くまである長い髪がお湯に浸かってしまうため、髪をタオルでまとめようとして、何気なく壁面の鏡を覗き込み……そこでカリンはふと我に返った。
「あ……あれ? 今、私、すっごく自然に女の子してた?」
そもそも
もっとも社会に出れば男女関係なく公式な場では「俺」や「僕」ではなく「私」と言うのが現代日本の慣習だから、そちらはまだいいのだが……。
「服の脱ぎ方とかも、すっごく女の子らしかった、よね?」
それもAV女優などが演技で行う「(わざと)色っぽい仕草」ではなく、ごく普通の──しかし、明らかに男のガサツな動作とは違う動きだったような気がした。
何となく気になったので、壁面の鏡に近づいて、もう一度、今の自分の姿をカリンはじっくり検分してみる。
髪が背中の半ば以上、腰の近くまで伸びているのは知っていたが、枝毛などは見当たらず、
顔立ちそのものは、眉が細く整えられていること以外、パッと見では変わりないような気がしたが、よく見れば肌の色が白くなり、また僅かな産毛以外、髭などもまったく生えていない。そのせいか頬っぺたなどの肌自体もぷにぷに&つるつるで手触りがよくなっている気がする。
「細かいところがけっこう変わってるのかな」
そのまま視線を下げていくと、顔と同様に首から下の肌もずいぶんと生白くなっているような気がした。腕や脇の体毛もほぼ目立たないくらいに薄くなっている。
「胸は……ペッタンコかぁ」
呟いた声に混じっていたのは安堵か、それとも失望か。
実は、胸の膨らみは皆無にせよ、よく見れば乳首がひと回り大きく、また色鮮やかになっていたのだが、さすがにそこまでは(今の段階では)気付かなかったようだ。
さらにその下──具体的に言うなら、両足の付け根の股間が視界に入った瞬間──。
「ッ!」
もの凄い勢いで目を逸らし、それから再び恐る恐る視線を向けるカリン。
「ぅわー、
昨日まで、いやほんの数時間前まで、そこにあるのが当然──というか格段意識したこともなかったはずのソレの存在が妙に気恥ずかしく感じるのも、例の名札の“副作用”なのだろうか。
ソレの存在はできるだけ意識しないようにしつつ、慣れた仕草で長い髪をタオルに包んでまとめ、身体に軽くシャワーを浴びてから、カリンは一番大きな湯船に入った。
「あぁ~、やっぱり大きなお風呂って気持ちいいなぁ♪」
その(ある種庶民的な)感覚が残っていたことにカリンは安堵する。
──もっとも、
その後のボディスポンジで身体を洗う様も妙に丁寧だし、(男にはまずいない)腰までの長い髪を洗うことにも、とりたてて手間取った様子が見られなかった。
風呂から上がって身体を拭き、バスタオルを胸から下に巻いた状態で、別のバスタオルを使って丁寧に髪の水気を吸い取り、冷風モードのドライヤーを当てながら髪をヘアブラシで梳く。
(どうせなら温風ドライヤーを使った方が……ってダメか。そんなコトしたら髪が痛んじゃう)
どうやらこの「ぬばたまの黒髪」を維持するにはひとかたならぬ手間暇がいるようだ。そういうことも、ごく自然に「わかる」のだ。
ある程度髪が乾いたところで薄水色のショーツを履き、レモンイエローの七分丈パジャマに着替える。
入浴前に着ていた服や下着を浴室と隣接する洗濯室の「女物用ランドリーバスケット」に入れてから、カリンは畳敷きの座敷──朝倉家の居間へと姿を見せた。
「ふぅ……いいお湯でした。お父様、お母様、お先にお風呂いただきました」
くつろいでいる宗治郎と華蓮に声をかける。
「はい、カリン。冷たい麦茶が淹れてありますよ」
「ありがとうございます、お母様」
ペコリと頭を下げ、カリンはキチンと椅子に座って麦茶のグラスを手にする。
両手で持ったグラスに口をつけ、コクコクとゆっくり麦茶を飲み干していく“彼女”を尻目に、両親が会話していた。
「では貴方、お風呂はわたしがお先にいただいてよろしいですか?」
「──うむ。まだしばらくナイターを観ているからな」
一見強面で厳格そうな父・宗治郎だが、テレビの中の野球チームの攻防に夢中な様子は、いい意味で“普通のおじさん”っぽくて、カリンはクスリと笑った。
洗面所に寄り、あたりまえのように「花梨が普段使っているピンクの歯ブラシで」歯を磨いてから“自室”に戻ったカリンは、まだ寝るのには少し早いので、ベッドに腰掛けて本棚から「読みかけの少女向けライトノベル」を取り出す。夢中になって読みふけっていたところで、玄関ホールの掛け時計が11時の鐘を鳴らしたことでふと我に返った。
「はぁ~、名残り惜しいですけど、続きはまたにしましょうか……って、アレ、なんで私、これの前半のストーリーもまで知ってるの!?」
「読みかけ」ていたのは“本物の花梨”であり、元・豪であるカリンは、今までその本を手にとったことすらないはずなのに、平然と栞がはさまれていた部分からの続きを読んで楽しむことができたのだ。
(これも、あの“魔法の名札の影響なのでしょうか?)
「まったく知らないはずの記憶がいつの間にか植えつけられている」と考えると、ちょっと怖い気もするが……。
(──でも、もう一回、あの名札を使えば、また元に戻れるんですよね。だったら……)
むしろ“六道豪”がコレまでまったく知らなかった事柄や状況に、新たに触れるまたとない機会かもしれない。
ポジティブ方向にそう考えると、何となくワクワクしてくるのをカリンは感じた。
「ふふっ、明日学校に行けば、どんな“新体験”があるのかな──おやすみなさーい」
明日の時間割に合わせて制カバンの中身を揃えた後、灯りを消してベッドにもぐりこんだ“彼女”は微笑みながら眠りの世界に落ちて行くのだった。
-interlude-
小さい頃のあたしは、陳腐な言い方だけれど「蝶よ花よ」と育てられて、それに何の疑問も持たずにいた。
でも……4歳になって幼稚園に入った頃からかな。
両親の「大和撫子育成方針」に違和感を感じるようになったのは。
どうやら“素”のあたしは、かなりお転婆というかボーイッシュな気質だったみたい。
幼稚園の制服も女の子用ピンクスモックより男の子用の水色のが着たかったし、スカートより半ズボンの方がはいてみたかった。
ただ、自分で言うのもどうかと思うけど、あたしは結構頭(あるいは要領)のいい子だったから、両親に表だって反抗するような真似はしなかった。
もしかしたら、あからさまに反抗して父や母に失望されたくない、という臆病な心根もあったのかもしれない。
ともかく、あたしは、言われるがままに「少し古い、昭和的な価値観での、良家のお嬢様」っぽい立ち居振る舞いと言葉遣いを身につけ、「はしたない」とされるような行動は極力(少なくとも両親の前では)とらないように努めた。
──まぁ、その裏(つまり父母や教師の目の届かないところ)では、“イイ子ちゃん”でいるストレスの解消も兼ねて、それなりに好きにさせてもらったけど。
とは言え、通っている(そして、たぶん大学部まで通うことになる)のが私立のかなり名の通ったお嬢様学校である限り、あたしが真に望むような「男の子らしい生活」には関わりようもない。
いや、そう思っていたのだけれど……。
数ヵ月前、中等部への進級祝いに買ってもらったPCで何気なくインターネットを覗いていたときに、とあるサイトで売られていた“商品”を見て、あたしの頭にトンデモナイ計画がひらめいたんだ。
その計画を実行にうつすべく、4月になって中学生生活に慣れた頃、あたしは父に家庭教師をつけてもらえるようお願いをした。
そして……。
-07-
翌朝、6時に目覚まし時計が鳴るのほぼ同時に、カリンは目を覚ました。
自堕落……とは言わないまでも、一限の講義がない日は8時半ごろ、ある日もせいぜい7時過ぎ起床が普通だった六道豪と比べると、1時間以上早く起きたことになる。
「うっ、うーーーん……よし、と。顔洗って着替えないと」
ベッドの上に半身を起こし、大きく伸びをして、ベッドから出るカリン。
昨晩寝たのが11時過ぎということもあって十分な睡眠時間がとれたようで、特に寝起きが辛そうな様子もない。自室を出て、2階廊下端にあるトイレへ向かい、まずは朝の小用を済ませる(もちろん座ってシた)。
屋敷内は全館エアコンである程度温度調整されてはいるのだが、睡眠中の健康のことも考慮して、花梨や朝倉夫妻の寝室はわざと冷房を利かせ過ぎないよう温度設定がされている。
そのぶん、この季節は朝起きて冷たい水で顔を洗うのがことさらに気持ちよい──トイレを出たカリンは、そんなことを考えながら、隣接する洗面所で二度三度と顔を洗うい、花梨用のピンク色のタオルで顔を軽く拭くと、使い捨てコットンパフに化粧水をつけて丁寧に肌を潤していく。
これまで豪は「朝のフェイスケア」なんて洒落た行為はしたことがないはずなのに、一連の動作はほとんど遅滞なく行うことができた。いや、自分が“そう”したことすらこの“少女”は意識していないだろう。
洗顔が終わると自室にとって返し、着替え……る前に、まずは夜の間に寝乱れた髪をブラッシングしなければならない。
ドレッサーの前のスツールに腰掛け、毛の柔らかいブラシでゆっくりと髪を梳く。こうすることで、寝ている間に分泌された髪の油成分が髪全体にいきわたり、髪に艶やかな輝きとしなやかさがもたらされるのだ。
日本人形を思わせる長い黒髪の頭頂部付近に見事な“天使の輪”が出来ていることを鏡で確認すると、満足げに頷いてカリンは着替えにとりかかった。
と言っても、今日はまだ普通に学校があるため、「いつも通り」制服を着ればよい。
カリンはパジャマの上下を脱ぐと、まずは今履いているショーツとセットになったブラジャーを着けた。
ブラジャーと言っても、「まだほとんど乳房は膨らんでいない」ため、ワイヤーなどの入っていない俗にいうファーストブラで、カリンの場合は、ワ〇ールのフェアリーティアラブランドを愛用している。
「資産家の娘の割に、国産の安価な量産品使ってるの?」と思うかもしれないが、侮るなかれ。圧倒的な数の顧客データと長い歴史の積み重ねを基に作られているソレの品質(特に着け心地)は非常に良いのだから。
(と言っても、私程度の胸では“揺れ”動いたりもしませんから、注意すべきは乳首を保護する感触くらいなんですけど)
自虐的なコトを考えつつ、カリンは白いブラウスを手に取って羽織った。男物とは左右逆についているボタンを嵌めることにも、もはや手間取る様子はない。
続いて黒いボックスプリーツのスカートを履く。
花梨の通う名門女子校・逢坂聖神女学院の中等部と言えば、胸に6つ飾りボタンのついたジャンパースカートと黒のオーバーニーソックスが有名だが、アレは春・秋の合服で、夏場は上半身部分のない普通のミニスカートだ。ブラウスも夏用のものだけ半袖で、足元はグレーのハイソックスになっている。
ちなみに合服の上に白いボレロを着て、脚には厚手の黒タイツを履くのが冬服となる。
スカートのあと、そのハイソックスも履いてから、再度ドレッサー前のスツールに座る。
「えーと、確かココに……ありました!」
小物入れに綺麗に巻かれてしまってあった紅いリボンタイを取り出して、襟元で結ぶ。基本的には蝶結びなのだが、結び目から垂れるリボンを長めにしておくのが今の聖神での流行りだ。
そんな学院の生徒たちのあいだの些細な
(うーん、たったひと晩でずいぶんと今の立場に馴染んだみたいですね)
昨日は、「意識すれば花梨の
(──今更じたばたしても始まりませんね)
本来の(小市民な)六道豪であればウジウジ悩んだのかもしれないが、あるいはメンタル面でもいくらか影響があるのか、アッサリそう割り切ると、カリンは1階の食堂へと降りて行った。
両親や使用人たちと朝の挨拶を交わし、テーブルについて朝食を摂る。
ひとり暮らししている豪は、朝はコンビニで買ったおにぎりやアンパン1個で軽く済ませるのが常だったが、朝倉家ではキチンとした量と種類の朝食が用意される。
今朝のメニューは
朝からこんなに食べられるのか、密かに危惧していたカリンだが、食べ始めてみれば、無理なく用意された料理をペロリと平らげてしまった。
両親もそのカリンの食べっぷりに違和感を抱く様子はなく、逆に「ごはんお替りしなくていいの?」「今朝は小食だな。ダイエットか?」などと聞かれる始末。一体、本物の花梨はどれだけ健啖家だったのだろうか。
(まぁ、12歳は育ち盛り、なんでしょう、うん)
加えて、学校で体育系のクラブに所属していることもその食欲の後押しをしてはいるのだろう。
カリンが花梨の部活について思いを馳せようとしたところで、はたとある“事実”を思い出す。
「! いっけない、忘れてました。今日は日直だから、普段より15~20分くらい早めに登校する必要があるんでした」
朝倉花梨であれば知っていて当然の(しかし六原豪なら知るはずもない)そんなクラス当番の事を“思い出し”、カリンは焦る。
電車の接続の関係で、今からだと時間ギリギリになるかもしれない。
「──花梨、クルマで送ってやろう。玄関に回しておくから、すぐに用意して来なさい」
しかし、思いがけず、父・宗治郎が助け舟を出してくれた。
この男、強面に見えてその実、娘にはかなーり甘いのだ。
「す、すみません、お父様。お言葉に甘えます」
まずは洗面所に駆け込んで歯磨きを済ませ、髪と服装の乱れをチェックする。
髪も制服も問題ないので、そのまま2階の自室にとって返し、制カバンとサブバッグを手にすると、華蓮に「はしたない!」と叱られないギリギリ限界のスピードで玄関に急ぐ。
制靴である黒い革のストラップローファーを履く時、ほんの少しだけキツめに感じたが、トントンとつま先を
「では、お母様、行ってまいります」
見送りに来た母にペコリと軽く会釈をしてから、カリンはドアを開けて、近くに待機していたクルマ──銀色のカムリに乗り込む。
「──ちゃんとドアは閉めたな? では行くぞ」
ハンドルを握っているのは、なんと宗治郎本人だ。
「すみません、お父様。今日はお休みなのにわざわざ……」
某会社の取締役社長である宗治郎は決して暇ではなく、今日も先週の休日が出張でつぶれた代休として休みをとっていたはずだ。
「構わん。いつも会社への送迎は疾風にばかり運転を任せているから、たまに自分でも乗らないと運転勘が鈍るからな」
ちなみに「疾風」とは朝倉家に常駐する使用人の男性・上田疾風のことで、その主な役目は朝倉家自家用車の運転手だ。宗治郎の会社への送迎のほか、求められれば華蓮や花梨のためにクルマを出すこともする。それ以外は広い朝倉邸の庭師も兼ねていた。
彼がいるのにわざわざ宗治郎がハンドルを握ったのは、娘のために手ずから何かしてやりたい(そして途中、娘と雑談でもできれば)という親心なのだろう。
「──そう言えば、今週で1学期は終わるのだったな」
「はい、今日は通常授業で、明日が終業式になります」
父と“娘”の会話にしては随分と堅いように感じるかもしれないが、実はこれでも「本物の花梨」と比べれば随分とマシなのだ。
花梨であれば、おそらく父に送ってもらうことは選ばなかっただろうし、やむなくそうした場合でも、さっさとヘッドホンを付けて音楽でも聴いて父と会話することをさりげなく拒絶しただろう。
花梨がことさらに父を嫌っているというわけではなく、ただ武骨な父に話を合わせる(ついでに猫を被る)のが億劫というだけで、この年頃の少女であれば大半が似たような感情を抱くのかもしれない。
それに比べれば、ポツポツとでも会話が続いている分、このふたりはまだしも良好な関係を構築している方と言えた。
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