第5話『あなたにそこにいてほしい』前編

 数日前から9月になって、学生にとっての楽園パラダイスとも言える夏休みが終わり、ついに二学期が始まってしまった。

 「ふぅ……まだまだ残暑が厳しいね」

 制服の半袖ブラウスと下に着たキャミソールが汗でベタつくのを感じながら、桜木理央(さくらぎ・りお)は溜息をついた。

 「だよねー、あ、でもウチは私学だから、まだマシな方なんだって。公立の中学だと、教室にクーラーないとこも多いらしーよ」

 「え~、マジぃ!? そんなの耐えられないよ~」

 もっとも、友達とおしゃべりしながらの下校なら、この蒸し暑さも、それほど苦にはならない。

 今日は部活がない日だったため、クラスメイトで特に仲の良いふたりの子たちと一緒に帰ることができたのは幸いだった。

 「ね、ね、こないだ駅前に出来たドスバーガーに行ってみよっか?」

 友人のひとりのリン──涼宮凛(すずみや・りん)の提案に、一瞬財布の中身を頭の中で確認する理央。

 「えっと……うん、わたしは大丈夫、かな。ミュウは?」

 理央の問いに、ミュウ──長谷部美羽(はせべ・みう)も「あたしもオッケーだよ~」とニッコリ微笑んだので、3人で揃って駅前のファーストフードショップ“ドスバーガー”へと足を運ぶことになった。

 「あたしはね~、ティーゼリーココナツシェイク~」

 「あー、ちょっとお腹が空いてるからティラミスパフェとアイスティーのセットにしょっかな。リオは何にする?」

 「えーっと、夏限定のマンゴーフラッペでいいや」

 ほどなく、注文の品がひとつのトレイにまとめて載せて渡されたので、代表して理央が持ち、2階席へと上がる。

 4人掛けのテーブル席のひとつを占拠して、学校のことやテレビドラマのこと、あるいはネットで見た噂話や今欲しいアクセのことなどなど、他愛もない話を延々としゃべり続ける。

 それは、どこにでもいる女子校生たちの、どこででも見られる光景。

 そんなありふれた日常がこれからも続くことを“彼女”は疑ってもみなかったのだが……。


 「あれ? もしかして、キミは……」

 けれど、その平穏は、友達と別れてのファーストフードからの帰り際に、ひとりの少年──高校生くらいに見える“彼”に声をかけられたことで終わりを告げる。

 「あっ!」

 最後に見た時とは、別人のように外見や雰囲気は変わっていた(たぶん、それは自分も同じだろう)が、それでも理央にはひと目で分かった──目の前で、興味深げな視線を自分に投げかけつつ、返事を持つ“彼”が誰なのかが。

 「お久しぶり、ってのも変かな? ねぇ、サクラギ リオさん」

 それも当然だろう。“彼”は自分の罪の象徴、いや被害者なのだから。

 「あの、その、えっと……」

 「ああ、それともこう呼ぶべきかい。サクラ キリオくん」

 そう、“少年”にしか見えないこの相手は、本当は“少女”で、ほかならぬ自分が──故意にではないとは言え──その立場を奪ってしまった相手だった。


 * * *


 それは、少年と少女が“再会”する、ちょうど一年近く前の話。


 都内の公立高校に通う16歳の高校生・佐倉霧緒は、とあるチケットを手に入れるべく、木曜日の午後、池袋駅前の広場で人と待ち合わせしていた。

 チケット、と言ってもアイドルやミュージシャンのコンサートチケットではなく、某有名古典劇の舞台公演だ。出演者も、テレビドラマなどに出る人もいるがどちらかというと舞台中心に活躍している俳優が多い。

 高校1年生にしては渋い趣味に見えるが、霧緒は中学の頃から演劇部に所属しており、その勉強も兼ねて、といったところ。

 幸いにして、web上のチャットルームで知り合った(と言っても直接顔を合わせたことはないが)人が、偶然手に入れたチケットを格安で譲ってくれることになった。

 ただ、先方からの条件で、公演直前の時間に直接会っての手渡しということになったため、霧緒は6時間目を仮病で早退し、私服に着替えてから駅前に駆けつけたのだ。

 わざわざ着替えたのは、初対面でもわかるように目印となる服装を決めたからだ。

 ちなみに、「グレーのフード付きパーカーをフードをかぶって着て、週刊テレビジオを丸めて手に持つ」というのが約束の服装で、9月半ばのこの時期だとまだちょっと暑いが、我慢できない程ではない。

 待ち合わせ時間のちょうど1分前になった時、霧緒は背後から声をかけられた。

 「あの、もしかして“キリオ”──佐倉霧緒さん、ですか?」

 振り返ると、そこには学校の制服らしき白ブラウスと臙脂色のスカートを着た15、6歳くらいの少女が立っていた。

 「はい、そうですけど……」

 「よかった。私が“ブロッサム”です。劇団・史記の公演チケットを持ってきました」

 どうやら目の前の少女が待ち合わせ相手だったらしい。

 ブロッサム(花)というHNや会話内容から女性だろうと見当をつけてはいたが、まさか自分と同い年くらいの女の子だとは思わなかった(チャットでの文体もずいぶん落ち着いてこなれていたのだ)ため、霧緒はちょっと驚いた。

 ──もっとも、その後の話の展開で、ちょっとどころではない驚愕を覚えることになるのだが。


 * * *


 チャットの文から想像していた「落ち着いた大人の女性」という印象と、実際に会った“ブロッサム”は少々、いや、かなりイメージが異なった。

 確かに背は高く、大人びた顔だちやしゃべり方ではあるものの、まさか、自分と同じミドルティーンの学生だったとは……。

 そもそも、彼女が霧緒に格安で売り渡すといったチケットは、個人で購入したものではなく、学校での団体鑑賞券だというのだ。

 聞けば、彼女は今、修学旅行で地元の富山県からこちらに来ており、団体鑑賞で霧緒の目当ての古典演劇を見ることになっているのだという。

 「けど、私は本当は別の目的があってね」

 彼女がファンのアートティストのライブが同じ時間帯に近くであり、せっかく東京に来ているのだから、そちらを観に行きたいらしい。

 「で、その間の替え玉というかアリバイ作りを、キリオさんに頼みたいんだ」

 相手がいつもチャットで会話していたキリオだと確信したからか、“ブロッサム”の言葉遣いが、だいぶ崩れている。


 話の流れはよくわかった。しかし……。

 「い、いくら何でも無茶じゃないですか? 大学の講義の代返じゃないんですから」

 話に聞く大学の講義とかなら、1教室あたりの人が多く、教える側も受講者全員をこと細かに把握しているわけではないらしいので、代返なんて大雑把なズルが通用するのだ。周囲の学生も、その点は同様だろうし。

 しかし、いくら一学年まとめて行動中の修学旅行とはいえ、教師と生徒やクラスメイト間の距離が近い高校で、それが通用するとは思えないのだが。

 「大丈夫。この時間は、演劇とオペラと能とクラシックコンサートからの選択なんだ。監督する教師も4つに分散してて、演劇担当の先生は、ふたりとも私と授業とかで接点がないから」

 だから、集合時間になったら、出欠確認をしている教師のところに行って、“ブロッサム”の本名とクラスを自己申告すればいいのだ、と彼女は力説した。

 「百歩譲って、先生は誤魔化せたとしても、クラスメイトの人とかは……」

 「その点も抜かりはないさ」

 彼女とクラスで比較的親しい人間は、全員、演劇以外を選択したらしい。

 そして、彼女の学校は一学年が6クラスあり、クラスメイト以外の同級生を全員覚えているというのは不可能に近く、見慣れない生徒が混じっていても、学校の制服を着てさえいれば、まず不審に思われることはないのだ、という。

 「はぁ、なるほど」

 「納得してくれたかな?」

 多少の危ない橋を渡ることにはなるが、それなりに成功の見込みがあることは理解した。

 霧緒としても、上演される舞台劇は、ぜひ観たい。観たいのだが……。


 「あのぅ、ボク、男なんですけど」

 「………………へ?」

 宝塚の男役めいた端正な“ブロッサム”の顔がおもしろいくらい間抜けに崩れ、まさに「目が点」といった表情になる。

 ああ、やっぱり、気づいてなかったんだ、と少々落胆する霧緒。

 男子高校生としてはかなり小柄な160センチの背丈に加えて、子供の頃から親戚や近所の人たちが口を揃えて「かわいいね」と称賛する顔だち、さらに声変わりを迎えても半オクターブも下がらなかった声質。

 こういった身体的特徴に加えて、男女どちらにもとれる名前とおとなしくまじめな本人の気質もあって、大概の人間は(学校の制服でも着ていない限り)初対面だと霧緒の性別について判別に迷うのだ。

 「さすがに、男のボクが“ブロッサム”さんの代理を務めるのは……」

 「──い、いや、大丈夫、イケる!」

 やんわり断ろうとしている気配を感じたのか、霧緒のセリフを食い気味に彼女が言葉を紡ぐ。

 「キリオさんがまさか男だと思わなかったから意表をつかれたけど、逆に言うと、実際対面して話しても男だと気づかなかったわけだから大丈夫だよ」

 「ぐっ」

 正論だが、思春期の少年にとっては認めがたい“事実”だった。


 * * *


 「でも、着替えとかは……」

 「それはコッチ」

 まだ渋る霧緒の手をつかむと、“ブロッサム”はグイグイと引っ張って近くにある公衆トイレの障害者向け男女共用個室に引っ張り込む。

 「じゃ、時間もないから手早く着替えよう」

 OKした記憶はないのに、すでに“ブロッサム”の中では「替え玉代返作戦」は実施確定らしい。

 溜息をつく霧緒だったが、“ブロッサム”が制服の青いリボンタイを解いているのを見て流石に慌てる。

 「ちょ、何してるんですか!?」

 「何って……脱がないと着替えられないだろう?」

 どうやら、自分が現在進行形で着ている制服を脱いで、霧緒に着せるつもりらしい。慌てて後ろを向く霧緒。

 「キリオさんも脱いでね、服交換するんだから」

 しかも、あろうことか代わりに霧緒の服に着替える着満々だ。

 霧緒は何とか説得しようとしたのだが、元々内気でのんびり屋の彼に、口達者で論理的思考力の速い“ブロッサム”を論破できるはずもなく……。

 「──えっと、はい、これ」

 結局渋々ながら服を脱ぐハメになるのだった。


 さらに……。

 「え!? 下着まで?」

 「だって、スカートをはくんだから、万が一突風とかでまくれ上がった時、男物のパンツだったら変だろう?」

 一理はあるが……ということは、もしかして、霧緒が渡したパーカーを羽織って、彼にライトグリーンの下着を差し出す“ブロッサム”は、今その下は全裸ということなのだろうか。

 刺激的な想像に、慌てて彼女から視線を逸らしつつ、霧緒は自分も下着を脱いで、それを彼女に手渡した。

 「へぇ、男物の下着を着るのは初めてだけど、案外違和感ないね」

 受け取った霧緒のブリーフとタンクトップを、背中合わせの“ブロッサム”はなんの躊躇いもなく着用しているようだ。

 「公演まであんまり時間がないから、急いで!」

 急かす“ブロッサム”の言葉に、霧緒も覚悟を決め、渡された衣類一式を身に着け始める。

 まずはパンツ。いや、女物の場合はショーツと言うんだったか。形状自体は霧緒が普段履いているブリーフと大差ないが、大きさと布の柔らかさが段違いだ。

 (こんな小さいの、履けるのかなぁ)

 不安に思いつつ足を通して腰まで引き上げると、意外にも薄緑色の布は霧緒のヒップをぴったりと優しく包み込んでくれた。

 (ふーん、女の子のショーツって、こんな感触なんだ……)

 窮屈だったり履き心地が悪かったりするのではという予想を裏切られた霧緒は、少しだけ不安が解消され、代わりに僅かながら心の中で好奇心が頭をもたげてくる。

 次に、ハーフトップの内側に胸当てがついたような形状の下着──いわゆるスポーツブラを頭からかぶって着る。ワイヤーやホックのついたものと異なり、こちらも着るのは比較的簡単だった。

 その上に白い半袖のブラウスを羽織る。基本的な形状は男子学生服のカッターと大差ないのに、ボタンのつき方が男物と逆になっているだけで、自分が女子の制服を着ているんだと改めて思い知らされ、ドキドキした。

 「あ、スカートより先にソックス履いた方がいいかも」

 先に着替え終えた“ブロッサム”のアドバイスに従い、膝の上までくる薄手の白いニーソックスに足を通す。何でも、学校指定の夏用スクールソックスで、冬場は代わりにより厚手のタイツを履くのだとか。

 「真夏とか暑いから、あんまりソレ履いてる子はいないし、ある程度黙認もされてるけど、さすがに修学旅行中だとそのあたりの規則がウルサくてね」

 ボヤく“ブロッサム”の言葉に、女の子も大変なんだなぁと思いつつ、臙脂色のスカートを手にとる。

 「これって、どこが前なんですか?」

 「左横にホックとジッパーが来るように履くといいよ。ウェストの位置は男物のボトムより少し高めになるから気をつけて」

 持ち主の豆知識トリビアに「へぇ」と感心しつつ、霧緒は生まれて初めてスカートなるものを履いてみた。

 「──なんか、足元がスースーして変な感じかも」

 「そう? でも、旅館の浴衣とかバスローブとかは男だって着るし、まるっきり初めての体験ってわけじゃないんじゃないかな」

 なるほど、言われてみれば確かに理屈はその通りだ。

 もっとも、思春期の少年が生まれて初めて女装して、それで割り切れるかどうかは別問題だが。

 「髪型は……うん、それくらいの長さのショートバングなら女の子でもいるから、平気へーき。あとは──靴かな」

 閉じた便座の蓋に腰かけた“ブロッサム”が脱いだ黒革のローファーを、霧緒が片足ずつ履いて、代わりにスニーカーを渡す。幸か不幸か、ふたりの足サイズは25センチでぴったり同じだった。


 * * *


 「じゃあ、最後にカバンを交換すれば、入れ替わり完成だね」

 どことなく嬉しそうな“ブロッサム”に比して、霧緒の表情はどうにも冴えない。

 (そりゃ、“ブロッサム”さんの方はいいよね。僕の私服着てても段違いにカッコいい男の子に見えるし、万一男装だとバレても、別に問題ないし。けど……)

 「その……ほ、本当に、このまま外に出るんですか? ボク、絶対男だって気づかれちゃうんじゃあ」

 この期に及んで何を今更、と呆れた顔で霧緒を眺める“ブロッサム”だったが、一応、自分が無理を言っているという自覚はあるようで、その対策も考えきたようだ。

 「ふぅ……じゃあ、キリオさん。ちょっとした“おまじない”をしてあげよう」

 おまじないと聞いて、霧緒は“ブロッサム”にはその手のオカルト趣味があったことを思い出す。

 「え、いや、その……」

 「ほら、病は気から、イワシの頭も信心からと言うだろう? ま、ある種の自己暗示だと思ってくれてもいいよ」

 “ブロッサム”が学校指定の手提げ鞄から2枚の白いカードを取り出し、そのうちの1枚とボールペンを霧緒に渡す。

 「これに平仮名で自分の名前を書いて」

 言われた通りに「さくら きりお」と書いているうちに、“ブロッサム”の方も同様にカードに文字を書いているようだ。

 「書けたかな? うん、よし。そして、これを胸に付けるんだ」

 彼女は、霧緒が書いたカードをプラスチックの名札プレートに入れて自分の胸にピンで留めると、自分が書いた方のカードを入れたプレートを霧緒に差し出した。

 「それでそのぅ、この“おまじない”ってどんな効果があるんですか?」

 「ん? これを実行することで、私がキリオさんに、キリオさんが私になりきれるって、寸法さ。名前というのは古来から神聖なものだからね」

 確かに、昔テレビのバラエティないし雑学番組で、そういう話は聞いたことがある気がするが……。

 「えっ!? それじゃあ、これ、“ブロッサム”さんの本名なんですか?」

 「あれ、言ってなかったっけ? うん、ソレが私の──そして、これからしばらくキミのものになる名前だよ」

 ニヤリと笑う“ブロッサム”。

 差し出されたカードには、「さくらぎ りお」と記されていた。

 「私も驚いたよ。まさか、自分と1文字違いどころか濁点の有無しか違わない名前の人と知り合ってチャッ友になってたなんてね」

 「はぁ、確かにスゴい偶然ですねぇ」

 しげしげと名札を眺めつつ、霧緒はボンヤリとつぶやく。

 「それじゃあ、本当にそろそろ時間がヤバいから、ソレ胸に着けてくれないかな。もし、“おまじない”が信じられないなら、これは演劇の役割になりきるための小道具だと思えばいいさ。キリオさんは、確か演劇部なんでしょ」

 どうやら、チャットの雑談でうっかり漏らした霧緒の部活のことを覚えていたらしい。

 (ま、それならアリか)

 そういう意味なら納得できるし、この「相手の名前を書いた名札を付ける」という行為そのものが、ある種の自己暗示を促す儀式みたいなものだと思えば、まるっきり無意味でもないだろう。

 霧緒は、手の中の名札を借り着のブラウスの左胸のポケットにとめた──その瞬間!

 霧緒の背筋を悪寒のような、あるいは静電気のようなものが駆け抜けた。

 「ふわっ!?」

 ブルッと体を震わせ、自分の体を抱きしめるようにして、よろける霧緒。

 「あれ、どうしたの?」

 心配そうに見つめる“ブロッサム”──いや、“さくらぎりお”に答えようとした時、先ほどの感触が嘘のように楽になっていることに、霧緒は気づいた。

 「あ、いえ、ちょっと背筋がゾクゾクッとしたんですけど……もう大丈夫みたいです」

 「そう? よかった。じゃあ、そろそろ出ようか、“桜木理央”さん」

 「あっ、はい」

 つい先刻まであれほど女子学生姿で人前に出るのをためらっていたとは思えぬほど、霧緒も彼女の言葉に素直に同意し、彼女に渡された学校指定の手提げ鞄を手に、共用トイレの個室のドアを開けるのだった。

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