名札はキチンと付けましょう ~名札交換シリーズ~

嵐山之鬼子(KCA)

第1話『名札はキチンと付けましょう』前編

 入学式も無事に終わり、桜の花びらも散り始めた、そんな季節。

 「ほら、みちる! 急がないと遅刻するぞ!」

 「あ、待ってよぉ、ミッく~ん!」

 朝の通学路を小学校高学年くらいの少年少女が連れ立って走っている。

 青いスニーカーと黒革のストラップシューズをキュッキュと鳴らしながら、懸命に駆ける様は、傍目にはなかなかに微笑ましい光景なのだが……。


 「ひぅんッ!」

 ──ベシャッ!


 女の子の方が豪快に素っ転んでしまってはそうも言ってられない。

 「ふぇえ~、痛いよぉ……」

 セミロングヘアの前髪を水色のカチューシャでまとめた女の子は、涙目になっている。

 「あぁ、もぅ、みちるはいつまで経ってもドジだよなぁ」

 男の子の方は慣れたもので、女の子の手をとって助け起こすと、パンパンと服についた汚れを払ってやる。ピンクのトレーナーに膝丈のデニムのスカートという比較的カジュアルな服装だったのは幸いと言うべきか。白いハイソックスもほとんど汚れてはいない。


 「グスッ……ミッくん、ありがと」

 「ったく。転ぶのは仕方ないけど、俺らももう五年生になったんだから、コケたくらいで泣いたりすんなよな」

 さすがに、この歳になってもこうだと、少年としても苦言を呈したくなる。

 「だってぇ、痛かったんだもん。女の子は、でりけーとなんだよ」

 「なんだ、そりゃ。だいたい、同じ女だってウチの郁美とかは、傷だらけになっても平気でサッカーしてるぜ」

 少年──充(みつる)のひとつ年下の妹は、まだ4年生になったばかりだが、早くも地元の少年サッカーチームでの活躍を期待されている逸材なのだ。ちなみに充自身も同じチームのスイーパーを務めている。

 「……泣きたくなくても、勝手に涙が出ちゃうんだもん」

 女の子──みちるの方も自分が泣き虫だという自覚はあるのか、反論の言葉は弱々しい。

 「ふーん、そんなもんかねぇ」

 幼い頃からやんちゃで、すでに2回も骨折し、捻挫や擦り傷・切り傷は数え切れないほど経験してきた充は、この歳にしては痛みや苦痛に滅法強い。

 また、肉体的耐性ばかりでなく精神的にも、お転婆な妹やドジな幼馴染の面倒を長年みてきたせいか、小五の少年とは思えぬ我慢強さと義侠心を持ち合わせており、クラスでも男女問わず一目置かれているのだ。


 「はぁ~、わたしも、ミッくんみたく強くなりたいなぁ」

 幼馴染の彼と比べて、自分が心も体もあまりに弱いと痛感しているみちるは、ガックリとうなだれる。

 「わたしも、ミッくんやイクちゃんみたく本田さん家の子供に生まれたかったよぉ」

 充たちの家──本田家は、父が大学時代はラグビー部のレギュラー、母が体操の選手だったというアスリートの家系だ。気性もカラッと陽気で明るい、絵に描いたような仲良し家族といった雰囲気だ。


 対して、みちるの育った木田家は、この地方の旧家の流れを汲み、それなりに裕福ではあるものの、どこか窮屈な印象があった。

 実際しつけなどはそれなりに厳しいし、父も母も物静かであまり感情を表に出さないせいか、子供としてはどうしても情が薄いように感じられる。

 なまじ、子供の頃から出入りして、本田家のにぎやかさを知っているだけに、羨望の念を抱いてしまうのだ。


 「うーん、そんなコト言われてもなぁ……」

 歳よりはいくぶん大人びているとは言え、そこはやはり小学生。落ち込んでいる女の子を励ます巧い言葉は出て来ないらしい。

 「あ、そうだ!」

 少年は青いビニルケースに入った名札を己れの胸から外し、少女にも同じことをするよう促す。

 「これ、今日一日、貸してやるよ! これを付けてる限り、今日はオマエが”本田充”ってわけさ!」

 無論、いくら小学生とは言え、本気でそんな理屈が通ると思っていたワケではない。妹分的なポンコツ系幼馴染みを元気づけるための、ちょっとした「ごっこ遊び」。少年としては、その程度のつもりだった。


 しかし……。

 「ホント!? わーーい♪」

 先程まで凹んでいた少女は、少年の心遣いに予想以上に喜んだ。

 「じゃあ、ミッくんは、コッチの名札付けて、今日は”みちる”になってね」

 キラキラした目で、赤いビニルケースに入った自分の名札を差し出す。

 「お、おう……わかった」

 この年頃の男の子としては、女の子の持ち物を身につけるということに抵抗がなかったワケではないが、歳のわりによくできた(あるいは苦労性の)少年は、断れば少女が落胆する──下手するとまた泣くだろうことを悟っていた。

 内心の躊躇いをふりきって、少女の名前が書かれた赤い名札をつける。

 それを満足そうに見た少女も、少年の青い名札を胸に留める。

 「あ~、ゴホン! これで、今日は僕が本田充だよ。さぁ、行こう、ミッちゃん!」

 ノリノリで「充」になりきった(とは言え、本来の充とは少々口調が異なるが)少女が、少年の手を引いて走り出す。

 「あ、うん、わかった…わ、みつるくん」

 いきなりの少女の変貌に苦笑しつつ、調子を合わせてそう答える少年。

 (あーあー、張り切っちゃって。そんなに急ぐと息切れしてまたコケるぞー)

 そんなことを考えていたのだが、唐突に引っ張られたせいか、逆に自分の方が転びかけて慌てるハメになる。


 だが、少年は気付いていなかった。

 何気なく提案した他愛ない「ごっこ遊び」。それが、どのような影響を自分達にもたらすのかを……。


 * * * 


 「はぁ、はぁ、はぁ……」

 予想に反し、「本田充」になりきった少女は一度も転ぶことはなく、それどころか少年が全速力でついていくのがやっとという程の速さで学校まで走りきった。

 おかげで、小学校の下駄箱まで来た時には、少年の方が肩で息をしている始末だ。


 (ふぅ、ふぅ……そう言えば、昨日のテレビの番組で「驚異の催眠術の世界」とかやってたけど)

 催眠術とか暗示がかかった人間は、とんでもない馬鹿力を出したり、割り箸を肌に当てられただけで火箸と思ってヤケドしたりするらしい。「思い込みの力ってスゲェー」と他人事のように思っていたのだが……。

 (もしかして、今のみちるも似たような状況なのかな?)

 息が整うまでそんな事を考えていたせいか、気付けば少女の姿は消えている。しかも、下駄箱を見ると「本田」の名札の所に上履きはなく、みちるの「青いスニーカー」が入っていた。

 「まぁ、そんなことだろうと思ったよ」

 小さく溜息をつきながら、「木田」の名札の下駄箱から赤いラインの入った女子用の上履き(もちろん、みちるのものだ)を取り出す少年。靴のサイズは少年と同じ23なので、とくに問題なく履くことができそうだ。


 とは言え、それでも他人、それも女の子の靴を履くのは多少なりともためらわれたが、幼い頃からよく知るみちるのものなので、抵抗感自体はまだ少ない方だろう。

 意を決して、「白いハイソックス」に包まれた足先を突っ込む時、少年の背筋をゾクゾクッと不思議な感覚が走った。

 (あ、なんだろ……単に女子の上履きはいただけなのに、なんかヘンな感じ)

 彼があと2、3歳年長なら、それを「快感」だと認識しただろうが、幸か不幸か、少年はそのテのことにあまりに奥手で無知だった。

 目を閉じて、その「感覚」が鎮まるのを待つ。幸いにして、10数えるかどうかという短時間で、少年を襲った「違和感」は収まった。


 少年は目を開き、女子用の上履きを履いた自分の足先をしばらく眺めたのち、爪先を交互にトントンと軽く床に打ちつける。すでに諸々の違和感は消えて、上履きは少年自身の持ち物のように足に馴染んでいた。

 何となく首を傾げつつ、少年は通学用に履いていた「黒い合皮のストラップシューズ」を、みちるの下駄箱に入れるのだった。


 * * * 


 5-Aの教室に入ると、案の定と言うべきか少女は本来の少年──「本田充」の席に座っていた。いつものおとなしい姿とは裏腹に大きな声でしゃべり、周囲に明るく笑いかけている。

 ただ、予想外だったのは、周囲にいる人間──充の友人達も、何らいぶかしむことなく「充」になりきっている少女と楽しげに会話していたことだ。

 この桜庭小学校では、クラス替えは4年生になった時に一度あるだけで、1~3年生と4~6年生の各3年ずつ同じ顔ぶれで過ごす。少年と少女が所属している5-Aは、4-A時代からクラスの結束が固く、この歳にしては男女の壁も比較的低いほうだった。

 そう考えると、気のいい少年の友人達が、「充」のフリをした少女に話を合わせてやっているのかもしれない。

 となると、ここでいきなり割って入ると言うのも「ヤボ」というものだろう。この歳にして空気を読む能力がなかなか高い少年は、やむなく本来の少女──「みちる」の席に座ることにした。


 「おろ、今朝はめずらしく、ふたりいっしょではなかったのでありますか?」

 隣席に座っている女子が、興味深げに話しかけてくる。

 「あ、いや、玄関まではいっしょに走って来たんだけど……」

 苦笑しつつそう答えると、その女の子──門倉紗弥は目を丸くした。

 「え!? 木田さんが、途中で転ばずに学校まで走って来られたのですか?」

 ある意味失敬な言葉だが、みちるは一日2、3回は転ぶことを日課にしてるようなものなので、あながち否定できない。

 「うん。それどころか、すごいスピードだったよ」

 「ほぇぇー」

 紗弥がポカンと口を開けて感心しているのも無理はない。体育の時間のみちるの実技の成績は惨憺たるものだったからだ。


 「まぁ、それはさておき……今日は珍しく積極的に会話してくださるのですね」

 言われてみれば、確かにこれまで紗弥と親しく話したことはないかもしれない。

 いかに男女の仲が比較的良いクラスだとは言え、まったく垣根がないわけではない。

 趣味が近いスポーツ少女とかならともかく、紗弥は小柄な体つきで軽くウェーブのかかった髪を腰まで伸ばし、いつもフリルやリボンの多い服(ゴスロリと言うらしい)を着た、いかにもなインドア派の美少女だ。少年とは、これまでほとんど接点はなかった。

 「おや、わたし、これでもバレー部に所属しているのですよ?」

 「! ちょっと意外かも。バレエ部じゃなくて?」

 「ふふふ、如何にこの学校がリベラルでも、バレエ部までは存在しないのですよ~」

 「もっとも、小学校低学年の頃までは、わたしも一応たしなみ程度には習っておりましたが」と付け加える紗弥。それが本当なら、基礎体力や柔軟性があることは確かなのだろう。


 本人にも意外だったのだが、打てば響くような紗弥との会話は、妹や妹分(みちるのことだ)との気のおけないおしゃべりとは違った方向で、予想外に楽しいものだった。

 会話の中で、彼女が「水戸川少年探偵シリーズ」が好きだと知ってから、さらに話が弾んだ。

 マンガはともかく本などあまり読まない少年も、10歳の誕生日に伯父から貰ったその子供向け文庫のシリーズだけは愛読していたからだ。

 「やっぱり、『魔人コング』で花澤マミに変装した大林少年が誘拐されるシーンはドキドキするよね?」

 「そうですね~。しかも、その直後にあのピンチですからね~」

 と、話がさらに盛り上がりかけたところで……。


 ──キーンコーン、カーンコーン!


 「おぅ、みんなおはよう」

 この桜庭小学校で採用されているややレトロなチャイムの音ともに、担任の上智先生が教室に入って来た。


 「あ……」

 慌てて少年は本来の席に戻ろうとするが、少女の方は「本田充」の席に座ったまま、キョトンとした顔で彼の顔を見上げるばかりだ。

 「おーい、早く席に着けー」

 先生が促したため、仕方なく少年は「木田みちる」の席に座る。

 「よーし、みんないるな。欠席者はナシっと。それじゃあ、一時間目は国語からだ」

 (うわ、テキトーだなぁ)

 そういうおおらかな先生だからこそ、生徒ふたりが勝手に席を交換していると言うのに、特に咎めることもなく授業を開始するのだろう。

 (ひょっとして、本気で気づいてないとか……)

 ──近眼かつウッカリ者なこの先生なら、ないとは言い切れないのが恐い。


 そんなコトを考えつつも、目は黒板に向かい、手はキチンとノートをとっている少年。

 普段なら、1、2時間目の授業、とくに国語なんて眠くて仕方ないはずなのに、今朝はなぜか頭が冴えて、授業に集中できている。

 (もしかして、アレって陽の当たるいつもの席が悪いのかな?)

 ポカポカと心地良い暖かさを提供してくれる窓際の「充」の席は、ある意味絶好の居眠りスペースではある。

 そんなコトを考えつつ、チラとその席に目を走らせると、少年の代わりに今そこに座っている少女も確かに生アクビを繰り返しているようだ。机に肘をつき、退屈そうに黒板を眺めている。

 (それにしても珍しいなぁ。みちるがノート取るのサボるなんて)

 そのコトに微妙な違和感を感じつつも、少年は再び授業に意識を向けるのだった。


 * * * 


 そして迎えた3時間目。

 「木田みちる」の席に座っていた少年は、なぜか周囲の女の子達に連れられて、とある部屋の前まで来ていた。

 「ちょ、ちょっと待ってよ。どうしてこんなトコロに……」

 「? 次の時間は体育なのですよ?」

 紗弥に逆に不思議そうに聞き返されて言葉に詰まる少年。5年生になって最初の体育の授業だが、その事はもちろんわかってる。

 「あ、もしかして忘れてるのかな。ここはね……」

 紗弥とは逆の側の隣席に座っている女子──花取玲が、カチャリと部屋のドアを開ける。

 「女子更衣室だよ♪」


 桜庭小の慣習では、体育などでは5年生以降男女別に着替える慣習になっており、実はこのクラスの女子たちも初めてこの更衣室を利用するのだ。

 そのため、これまでより少し大人になったような気分で周囲の女子達は、どことなくはしゃいでいるが、少年はそれどころではない。

 女子が共謀しての悪気のないイタズラなのかもしれないが、純情な少年としては、こんなトコロに連れて来られてはたまったものではなかった。

 とは言え、すでに更衣室のかなり奥の方に押し込まれてしまったので、目立たないように抜け出すことは無理そうだ。


 あきらめて渋々そのまま体操服に着替え……ようとして、持って来た体操バッグが見慣れない橙色であることに気付く。

 (あれ、いつも使ってる体操バッグ、緑じゃなかったっけ?)


 これ幸いと、バッグが自分のものではないことを周囲に訴えて、更衣室から抜け出そうとした少年の目論見は、しかしアッサリ失敗する。

 「だって、これ、あなたのカバンでしょ」

 「中に入ってる体操着にだって、ほら、ちゃんと「木田みちる」って胸のゼッケンに書いてあるのですよ?」

 女の子たちは口々にそんなコトを言ってとりあってくれない。

 その名前──"木田みちる"は自分の本当の名ではない……と反論したかった少年だが、なぜか委縮したように抗議の声が出なかった。


 そうこうしている間も次の授業時間が迫っているので、仕方なく黙々と体操着に着替えることに専念する。

 体操服の上着の形自体は男女とも差はなく、白を主体にした半袖のポロシャツなのだが、襟の色は男子が紺、女子が臙脂色になっている。もちろん、今少年が着ている体操着の襟も赤かった。

 そしてボトムはブルマーでこそないものの、黒いナイロン製の五分丈スパッツだ。肌の露出自体は男子のショートパンツと大差ないのだが、身体にピッタリと貼り付くような感触は、まったく異なる。

 ──下半身をキュッと締めつけるようなその独特の感覚に少年が背筋を震わせ、ちょっと気に入ってしまったのは、ここだけの内緒だ。


 ともあれ、体操服への着替えなぞ男女問わずたいして時間がかかるものでもない。

 程なく着替え終わった少年は、紗弥たちと女子と一緒に体育館へと移動した。

 教室で着替えた男子は、先に体育館に来ており、めいめい今日の授業の課題であろうボールで遊んでいる。その中には、男子の紺襟の体操服とショートパンツを着た少女も混じっていた。

 普段なら運動が苦手な少女は、目立たぬように隅っこで大人しくしているはずなのだが、今の彼女は軽快な動きで「充」の友人たちとボールのやり取りをしている。


 そして、先生が来て、体育の授業開始となった。今日はバスケットボール(正確にはミニバス)だ。

 「本田充」になりきっている少女は、素早いドリブルで立ちふさがる男子を抜き去り、そのままゴールリングにジャンプシュートを何本もキメている。

 反対に少年の方は、慣れないスパッツが気になるせいか、どうも動きに精彩がなかった。女子チームに混じって試合に出ているのに、シュートはおろかパスカットやリバウンドでも、ちょっと背が高い女子に競り負ける始末だ。

 ちなみに、少年、少女ともに身長は150センチちょっと。同世代の中で、少年としてはやや低く、少女にしては幾分高めといったところか。


 それでも何回かいい位置にいる味方にパスを通すことはできたため、結果的には少年の属するチームが勝利し、彼も「ナイスパス!」とチームメイトの女の子達に称賛された。

 本来スポーツ万能で、サッカーのみならず球技や体操・徒競走などなんでも来いのはずの少年にとっては、その程度のことで評価されるのはある意味屈辱のはずだが、不思議とそれが気にならない。

 むしろ、「体育の時間に初めて褒められた」かのような嬉しさがこみ上げてきて、自然と笑顔になったくらいだ。


 そんな浮き浮き気分のまま体育の授業が終わり、更衣室で着替えることになる少年(と女生徒たち)。授業前に一度着替えたことで開き直ったのか、今度は少年もためらうことなく更衣室に足を踏み入れ、着替えを置いたロッカーを開ける。

 体操服の上を脱ぎ、「キャミソール」の上から「白いブラウス」を羽織り、ボタンをとめ……ようとして、微妙にとめづらいことから、ふと我に返る。

 (! この服……)

 あまりに自然に着替えようとしていたが、これは紛れもなく女物──それも「みちる」が朝着ていたものではないだろうか? その証拠に、ブラウスの下に置かれたピンクのトレーナーとデニムのスカートには、間違いなく見覚えがあった。


 (ま、まさか……こっそり忍び込んで入れ換えたの!?)

 仮にそうだとしても、いったい誰が、なんのために?

 持ち主の少女ということはありえない。少女の方は、自分たちが体育館を出た時もまだ友人とボール遊びしていたのだから、先回りなんてできっこない。

 それに──いくら彼女がはしっこくても、「知らない間に自分の下着まで女児用のものに変える」なんて手品みたいなコトが出来るとは到底思えない。

 やむなくスカートをはいてからスパッツを脱ぎ、その時ついでに確かめてみたのだが、やはり普段の白いブリーフではなく、前開きのない女の子用のパンツ(ショーツ、と言うらしい)を、いつの間にか履いていたのだから。


 一体どうしてこんなことになっているのだろう。

 疑問に思う一方で、なぜか「恐い」とか「腹立たしい」といったネガティブな感情は湧いて来ない。むしろ「次は、いったい何が起こるのか」と、遊園地のビックリハウスに入ったかのようにワクワク感を覚えている少年は、何気に大物なのかもしれない。

 ブラウスの上からトレーナーをかぶり、慣れぬ手つきでスカートの裾を整えたのち、カバンの上に置かれていた「水色のカチューシャ」を手に取ると、少年は一瞬のためらいの後、頭にはめるのだった。


 * * * 


 教室に戻ると、少女が「本田充」の服を着て、友人たちとフザケあっていたが、その程度はもはや予想の範囲だったので、少年も動じない。

 4時間目は算数の授業だったが、よく見ると教科書やノート、ランドセルもいつの間にか、みちるの名前が書かれた彼女のものを使っていることに少年は気付いた。


 そして給食の時間。今日のメニューは「充」が大好きなカレーライスなのに、なぜか少年はあまり食が進まなかった。なんだかいつもより辛いし、すぐお腹いっぱいになってしまったのだ

 対して、少女の方は、普段の小食ぶりが嘘のようにモリモリお代わりしていた。


 そして迎えた昼休み。現在進行中の「この異常事態」について話し合いたかった少年は、少女に声をかけようとしたのだが、一歩遅く少女は「充」の友人達と外に飛び出していく。手にボールを持っていたことからして、校庭へドッジボールでもしに行ったのかもしれない。

 外まで追う気にはなれず、なんとなく手持ち無沙汰に立ち尽くす少年だったが、幸いにして紗弥が声をかけて女の子グループの輪に入れてくれた。

 話題は主に最近流行りの女児向けアニメや少女漫画、あるいはアイドルが出演しているテレビドラマなどだったが、ひとつ年下の妹がいて、そういうアニメや漫画についてもいくらか知識があった少年は、何とか話についていくことができた。

 「へぇ……木田さんって、いつもひとりで難しい本とか読んでるイメージがあったけど、意外にこういうコトも話せるんだね」

 この女子グループのとりまとめをしている玲が、ちょっと驚いたように、そんなコトを言う。

 「それは誤解よ。“あたし”だって、女の子らしいことに興味はあるもの」

 今の状態で「自分が木田みちるではない」と主張しても、ヘンに思われるだけだろう。

 10歳とは思えぬエアリード能力の持ち主である少年は、あくまで「木田みちる」としてそう答える。本物のみちるとは、少々言葉使いが違うが、さすがにその程度は勘弁してほしい。

 昼休みが終わる頃には、それまでほとんど交流が(充にせよみちるにせよ)なかったとは思えないほど、玲や紗弥たちの女子グループと打ち解けていたのだった。


 5時間目の理科の時間は特に何事もなく進み、6時間目は家庭科室へ移動しての家庭科の時間だった。

 とは言え、小学校のあいだはさほど難度の高いことをするわけでもない。5年生になって初めての家庭科の授業ということもあって、今日はタオルをいわゆる並縫いで縫って雑巾を作るだけだ。

 いや、それだけなのだが──大半の10歳前後の子供にとっては初めての「お裁縫」であり、また、不器用な人間というのはいるもので、そこここで悲鳴やあきらめの声が上がっている。

 無論、それとは逆にこの手の作業が得意な子も当然いる。「木田みちる」とみなされている少年は、どうやら後者だったようだ。裁縫なんて一度もしたことないはずなのに、手際良く縫い目もキチンと揃えて雑巾を縫い上げていく。

 「あら、木田さんはとてもお裁縫が上手ねぇ、お母さんに習ってたの?」

 「いえ、初めてですけど」

 少年の仕事ぶりは家庭科の先生の目にとまって褒められ、周りの女の子達にも感心される。照れくさい一方で、満更でもない気分になる「みちる」な少年。

 悪戦苦闘する女生徒たちに「コツを教えて」とせがまれ、面倒見の良さを発揮して丁寧にアドバイスすることで、「木田みちる」の「女としての株」がいっそう上がることになったのは、皮肉というか喜劇と言うべきか微妙なところだろう。


 * * * 


 家庭科室から教室へ戻り、ホームルームが終わると、もう放課後だ。

 「おーい、充ぅ、今日はクラブの練習の日だろ? 早く行こうぜ!」

 「うん、わかってるよ!」

 「充」になりきった少女は、「みちる」の立場におかれた少年が口を挟む暇もなく、「いつものメンバー」とサッカークラブの練習に行ってしまった。

 (おいおい、大丈夫なの?)

 体育の時間の活躍ぶりを見る限りでは、あの「充」でも問題はなさそうだが、逆にそれはそれでシャクな気もする。とは言え、今の状態でサッカークラブに顔を出そうと思うほど、少年はKYな性格ではなかった。


 仕方なくひとりさびしく帰ろうとしたところで……。

 「木田さん、よかったらウチに遊びに来ないですか?」

 「えっ、いいの?」

 紗弥に誘われて、急きょ彼女の家に遊びに行くことになる。

 紗弥の家──門倉家は西欧風のちょっとしたお屋敷だった。木田みちるの家も一般家庭としてはなかなか大きいが、こちらはまさに「豪邸」という言葉が似合う大きさだった。

 「ただいまー、です」

 「お、お邪魔します」

 初見の、しかもこんな大きな家にお呼ばれして、最初こそ緊張していたものの、元より紗弥とは波長が合うし、彼女の母も急な客である「みちる」にもとても優しく、美味しいお茶とお手製のお菓子を振る舞ってくれたので、ほどなくリラックスすることができた。


 ダイニングでおやつを食べたあとは、紗弥の部屋に行き、小説やマンガの話で盛り上がる。

 門倉紗弥という少女は、とても頭が良く博識だが、それを鼻にかけることもなく、ユーモアや茶目っ気も十分に持ち合わせた、話していて非常に気持ちのいい子だった。

 本来アウトドア派であまり本など読まない少年も、気が付けば彼女に進められて何冊か小説を貸してもらうことになっていたくらいだ。


 「お夕飯も食べて行かないですか?」という魅力的な紗弥(とその母)からのお誘いを涙を飲んで断わり、夕焼けの中、「自宅」に帰る。

 「自室」に入って「いつもの場所」に「赤いランドセル」を置き、ボフンとベッドの上に、「スカートの裾を撫でつけ」ながら腰かけ……たところで、少年は我に返った。

 「あ、あれ?」

 まったく見覚えがない──と言うわけではないが、あまり見慣れてはいない、女の子らしい内装の八畳程度の広さのこの部屋は、言うまでもなく木田家のみちるの部屋だ。

 「自然にココに帰って来ちゃってたんだ……」

 それはつまり、無意識に近いレベルで少年が自分を「木田みちる」だと認識しているということを意味するのだろう。


 「どうしてこんなコトに……って、原因はひとつだよね」

 無論、元凶として思い当たるのは今朝の「名札交換」しかあり得ない。

 ベッドカバーの上に仰向けに寝転びながら、胸のトレーナーから外したピンク色のケースに入った名札を手に取り眺める。

 たぶんみちるの母親の手だろう達筆な文字で書かれた「木田みちる」と言う名前が、妙に馴染み深いものに感じられる。

 いや、無論、「本田充」と「木田みちる」は幼馴染だから、馴染みがあるのは当然なのだが……。

 (なんでだろう。コレがホントに自分の名前みたいな気がする……)

 今日一日、いや半日ほど(やむを得ないとは言え)「みちる」として、受け答えし、振る舞っていたせいだろうか?

 しかし、そもそも、どうして他の人まで、名札を取り替えただけの自分達をそれぞれ名札の人物として扱ってくるのだろう?


 さらに突っ込んで考えようとしたところで、コンコンとドアがノックされる。

 「あ、はい」

 「みちるさん、晩御飯の用意ができましたよ」

 どうやら木田家の家政婦の桃子さんが呼びに来てくれたようだ。

 「わかりました。すぐに行きます」

 そう返事をしてベッドから起き上がる。

 放課後、門倉家で洋菓子を御馳走になったせいか、あるいはいつもの充のように運動していないせいか、それほどお腹は空いていないが、ここで「食べたくない」などと言えば、パパやママ──みちるの両親に無用の心配をかけることになるだろう。

 鏡を覗き込んで、簡単に髪と衣服の乱れを整えてから食堂へ降りていくその様子は、もはやすっかり「そろそろお年頃の女の子」そのものだった。

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