春うららかに・12
辺境行きの乗り合い馬車を、湯たんぽを抱えた青年が止めた。
「馬車を貸し切りたいのです。栃の村境まで」
リューマ族の御者は、顔をしかめた。
青年の言い分も嫌だったら、持っている湯たんぽから漏れる薬湯のひどい臭いも勘弁だった。迷惑このうえない。
「あんちゃん! 俺ら、そっちから来たばかりだ。しかも、ほれ。このお客数だ。あんちゃんのわがままは、いくら積まれても聞くわけにはいかねえ」
御者は、そのまま馬車を出そうとした。だが、湯たんぽを馬の鼻に押しつけるようにして、青年は御者をじっと見つめた。
そのやり取りを、横でハラハラして見ているのが、エオルだった。
ムテの前最高神官の願いだ……とでも言えば、無理も通じるかも知れない。
だが、今のサリサには、過去の地位を証明するものは何もない。あえて言うなら、ムテでも際立った美貌がそれを証明するかも知れないが、抱いている湯たんぽの臭いで相殺されている。
それに、この場所と時間にしては、確かにお客が多い。
いくらなんでも、願いを押し通すのは難しい……と、エオルは思った。
だが。
「人助けが掛かっているのですよ。無理は承知でお願いします」
「うーん……あなたがそういうならば……」
いきなりの態度軟化である。
しかも、驚いたことに、乗っているお客も、ぞろぞろと馬車を降り出した。誰一人、反対する者はいない。
サリサは馬車に乗りながら、お客たちに言った。
「申し訳ありませんが、半日ほどで戻ります。そこで待っていてくださいね」
「はい、わかりました」
皆、一斉の返事だ。
エオルは気持ち悪くなった。
急いでいる者もいるだろうに、半日もここで待つのに不満のひとつもないとは。
だが、もうサリサが馬車に乗り込んでいる。そして、エオルに合図している。
「早くしないと、ランを見失ってしまいます!」
その言葉に、エオルはあわてて馬車に乗った。
馬車はものすごい速さで、栃の村方面に走っていた。
馬もまるで能力以上の力を出しているかのようだ。御者の鞭がほとんど飛ばない。
時々舌を噛みそうになりながらも、エオルは先ほどの人たちの奇妙さを聞かずにいられなかった。
「暗示ですよ。あなたたちも、ほら、聞き分けのない子供に使ったりするでしょう?」
「でも……これは、そんな力じゃ……」
「原理は同じです。送り手の力と受取手の力に差があれば、意外と簡単です」
エオルはぞっとした。
それならば、最高神官ほどの力あるムテ人ならば、人を操るのは自由だろう。何でも想い通りにできるに違いない。
「そうでもないんです。暗示は単なる思い込みですから、人の気持ちを操ることはできません。それができたら、こんなに苦労しない」
サリサは小さくため息をついた。
「今頃、エリザ、カンカンだろうなぁ……」
「え? 何をしたんです?」
「暗示で押さえ込んで出て来たんです。気がつきませんでしたか?」
「全然」
「我ながらたいしたものですね」
サリサは苦笑した。
「またどうして? エリザに何か?」
暗示を掛けて縛らなければならないほど、何かがあるとは思えない。
だが、明らかにサリサは寂しそうな顔をした。
「最高神官を降りて以来、エリザは僕を全く信用してくれない」
傍目には、とても仲良く見える二人。だが、二人の間には大きな溝があるらしい。
「まさか? エリザが……心変わりしたとは思えないのですが?」
エオルは、さらに話を聞こうとした。だが、サリサは急に立ち上がった。
「あそこです! 馬車を止めてください!」
「はい」
すっかり言いなりの御者が、素直に馬車を止めた。
ランは、体当たりで遊んでくれるカイトに、すっかり夢中だった。
その朝も、遊んでもらおうと思い、カイトの側にすり寄っていった。
「お嬢ちゃん。ご免よ。俺、今日帰るんだわ」
カイトが頭を撫でても、ランはその意味を理解していなかった。
親は、ダメなときはダメ! と、はっきり心に働きかけてくる。カイトの『ダメ』は、ランの心に響かなかったのだ。
大人同士が別れの挨拶に夢中になっている間に、ランは馬車の荷台に潜り込んだ。そして、そのまま眠ってしまった。
ランが目覚めると、馬車は止まっていた。
カイトは、お昼を食べるために馬車を離れていた。
きょろきょろあたりを見回すと、きれいな羽根の蝶が飛んで来た。ランは喜んで馬車から飛び降り、蝶を追いかけて走り出した。
そして、やっと捕まえた時。馬車はもう動き出していた。
せっかく捕まえた蝶は、ランの手から逃げていった。ランは、慌てて馬車を追いかけたが、もう既に川向こうに渡っていた。
川辺にそって、ランは走り出した。
そして、躓いて転んで泣き出した。
そこまでが、サリサが見た様子である。
だが、事態はさらに悪くなっていた。どうしてなのかわからないが、ランは川に落ちていたのだ。
どうにか運良く中州に流れ着いたのだが、こちらに渡ることができず、泣いている。
「ラン!」
エオルの声に、ランは泣き止み、こちらに向かって川に入ろうとした。
「ダメだ! 動くな!」
エオルはあわてて叫んだ。
怒鳴られたと思って、再びランは泣き出した。
最近、雨が降っていない。だが、春先の川は流れが速い。ガラルの雪解け水が、川の水量を増やしているのだ。
大人でも流される危険性があった。だが、そうは言ってられない。
エオルは、川を渡ろうとした。が、三歩も歩けない。
「エオル、僕が行く」
その様子を見て、サリサが言い出した。
「でも、この流れじゃ無理だ。何か別の方法を……」
そう言っているうちに、サリサは川の中に入って行った。
いや……。
エオルは、目を丸くした。
信じられないが、サリサは川の中に入らなかった。川の上を歩いていた。
水の上に見えない橋でも架けたように、かすかな道筋が見ていた。その部分だけは、まるで水すらもサリサの言う事を聞いたかのように、かすかにだが穏やかになった。
そこを、まるで何事もないかのように進む姿は、やはり神のごとく……である。
そういえば、以前、エリザの手紙に「最高神官の結界があれば、雪の上に足跡も残さない」と書いてあった。
だが、ここは霊山ではない。しかも、雪ではなく、雪解け水の濁流だ。
サリサが最高神官であったとしても、見えるほどに簡単ではないはずだ。何か無理をしているはずだ。
唖然としているエオルの前に、ランを抱いたサリサが戻っていた。
帰り道、馬車の中でエオルは眠っているランを抱いていた。
その横で、サリサは既に冷めてしまった湯たんぽを抱いていた。
「僕は眠りますけれど……その後のことは、エリザに任せてください」
そう言い残すと、サリサはあっという間に死んだように眠ってしまった。
サリサが寝てしまって、暗示はどうなるのだろう? エオルは心配になったが、御者は正気に戻ることなく、まっすぐに蜜の村に戻ってくれた。
そして、お客たちも、実にお行儀よく、馬車の帰りを待っていた。半日は大げさだったが、それに近い時間が流れたというのに。
まるで夢を見ていたようだ。
――ただ。
サリサはそのまま眠り続けて、三日が過ぎてしまった。
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