麦畑の風・4
私とエリザは、とぼとぼと林の中の小道を引き返した。
エリザの落ち込みは、私以上だったかも知れない。私が消えてからの両親を見てきたので、喜ぶことしか考えていなかったのだろう。私たちは言葉をなくしてた。
母の言葉は、私をとても不安にした。
テルの物語はない。テルの存在を説明できない。テルは、いないに等しいのだ。
私は、これからどうすればいいのだろう?
「ごめんね、テル。まずは、私の家にいてちょうだい。そのうち、ご両親もあなたがテルだって気がついてくれるから」
そうだろうか?
私には、子供の頃の記憶しかない。
あの日以来、麦畑の黄金の海原でずっと眠っていたよう。あの記憶の真珠のような子供は、エリザではなく、私だったのかも知れない。まどろみの貝に包まれて……。
村はずれにエリザの家はあった。
気持ちのいい芝生の庭がある。だが、こじんまりとしていて、とても癒しの巫女の住まいとは思えない。
家の中は、木の香りが漂っている。いかにも手作りらしい家具。いや、この家が手作りらしい。かわいらしいクッションが長椅子の上に並んでいる。机の上にはすり鉢があり、どうやら、簡単な薬草精製もここでしているらしい。
「霊山って、私たちが思っていたよりもずっと質素なところでね、あそこの生活が長いと、質素なほうがほっとするの。兄さんの家は……」
と言いかけて、エリザは思わず口を塞いだ。
「ああ! 私ったら! 姉さんに誘われていたのに!」
先ほどの姉との会話を思い出したらしい。が、今更だった。
ちょうどその時、扉が開いた。エリザの夫が帰ってきたのだ。
「エリザ、エオルのところに寄ったら、ヴィラが約束をすっぽかされたとがっかりしていたよ。お詫びに、試食のお菓子をいただいてきた」
ニコニコしながら、入ってきた人……。
いかにもムテ人らしい切れ長の瞳と薄い唇。
私は、心臓を握りつぶされるほどの衝撃を受けた。
その人は、部屋に入ってくるなり私の顔を穴があくほど見つめたからだ。
思えば、蜜の村に戻ってきて、エリザ以外にまっすぐに私を見つめた人はいない。両親でさえ、子を失った過去の恐怖から、私を見つめようとはしなかった。顔を背ける有様だった。
だが、彼はすべてを見透しそうな銀の目で、私をにらんだ。……少なくても、一瞬にらんだように思えた。
存在を無視されるよりも恐ろしく感じた。
「サリサ。この人は、私の友人でテル。わけあって家にしばらくいてもらうことになったのだけど……」
彼の視線の厳しさに、エリザも気がついたのか、声がだんだん小さくなる。
だが、厳しい表情は一瞬だった。彼は、目を細めて微笑んだ。
「ああ、別にかまわないよ。こんな狭い家だけど、ゆっくりしていってもらいなさい」
そして、私に挨拶した。
「僕は、エリザの夫でサリサ。テル、よろしく。じゃあ、早速お菓子を一緒に食べましょうか?」
ほっとしたのか、エリザに久しぶりに笑顔が出た。
「うふふ、この人、甘党なのよ」
気さくな感じで、甘党で……。
ちょっと見かけに寄らないエリザの夫・サリサ。
だが、私は不思議な恐怖を感じていた。
表情の読めない美しい顔立ち。際立った容姿のせいか? いや、そんな問題ではない。この人には、普通の人と違う何かがある。
私は、緊張したせいか、お菓子に手がのびなかった。サリサが入れたお茶にも手をつけなかった。
エリザが不安そうに私を見たが、サリサは微笑み続けた。
「遠慮することはありませんよ。でも、無理強いもしません。長旅で疲れているのでしょう?」
長旅――そう、私はおそらく長い旅をしてきたに違いない。でも、その旅すら、私の記憶にはなかった。
「私……。記憶がないんです」
私は、震える声で告白した。隠していても、きっとこの人には見透かされると感じたのだ。と、同時に、この人ならば、私の謎を解いてもらえるかも知れないという希望もあって。
「実は、サリサ。今日はね……」
エリザが、私と出会ってからのことを一部始終打ち明けた。サリサは、ただ黙ってその話を聞いていた。
「私ね、テルのご両親にどうやってわかってもらおうかと思って……」
エリザは、顔を伏せた。と思ったとたん、急に手を口に当てた。いきなり席を立つと、奥へと消えた。
「エリザ?」
私は、慌てて彼女の後を追おうとした。が、サリサが私を引き止めた。
「大丈夫です。何でもありませんから」
「何でもないって、でも!」
あれは、急に具合が悪くなったに違いない。吐き気だろう。
「気にしないでください。つわりですから」
「つわり? エリザは妊娠しているの?」
サリサはそれに答えず、ただ微笑んだ。
私は、一度立った椅子にへなへなと座り込んだ。
「……ああ、私ったら。エリザがどうしても大人になったことが信じられなくて。そうですよね、私とエリザが別れてから、かなりの月日が経っているのですものね」
ムテ人には老いがない。
自分自身の年齢はわかっても、相手の寿命をはかるのは難しい。エリザが、たとえ二十年生きていようが、五十年、いや、百年生きていようが、見かけは一緒なのだ。
「その時間、あなたは空白で記憶がない」
「その通りです」
「その逆かも知れませんよ」
「え???」
サリサは、少しだけ小さくため息をついた。
「エリザは、まだ自分の妊娠に気がついていないんです。いや、気がつかないようにしているというか……」
「はぁ?」
急な話の展開。
私の記憶とそれと、どう関係があるのだろう?
「最初の子供を流産しているんです。で、次の子の時も、とても神経質になってね。大変でした」
「今回も……妊娠したと信じたくないくらい、神経質になっているってことですか?」
「その通りです」
サリサは、また、刺すような目で私を見つめた。
「子供を死なせたくない。死なれた過去をすべて消して、やり直したい。その思いが強すぎるんですよ。それに、ここはエリザのふるさとですしね」
血が凍るような気がした。
「それって、どういう意味ですか?」
「あなた自身が、思い出してください」
その夜、せっかく用意してくれたベッドの中で一睡も出来なかった。
サリサの言葉が、頭の中に響いて。
私には、思い出す記憶がない。何も思い出せない。いったい、何を思い出せばいいのだろう?
――その逆かも知れませんよ。
逆でも表でも、私には記憶がないのだ。
ついに私はベッドから飛び出した。苛々する頭を冷やしに、夜風にあたることにした。
夜露にぬれた芝生に転がり、星を見つめた。この星でさえ、不確かに思える。
でも、一番あやふやで不確かなのは、私という存在だ。
風が頬を撫でた時、ふと、ある言葉が自然に唇から漏れた。
「私の名は、テル。私は風。語るべき物語を、探し求めている」
――私は、すべてを思い出した。
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