麦畑の風・5
翌朝、私は旅立つことにした。
急に立つことに、エリザはひどく動揺した。どうして? どうして? の連発だった。
「どうしてなの? せっかく戻ってきたあなたを行かせるなんて、私にはできない。何か悪いことをした? ご両親のこと? 私、何でもするから、行かないで!」
「本当にエリザったら、子供の頃から何も変わらないんだから」
私は、思わず笑ってしまった。
ああ、でも、この記憶こそ違うのだ。なのに、なんて見事な記憶。
「ひどいわ! 笑い事じゃないんだから!」
エリザは泣き出した。
エリザの親友のテルは、こんなエリザをいつも慰める役だった。だから、私も慰めることにする。
「ごめんね、確かに笑い事じゃない。ただね、私は私の物語を探しにいかなければならないの」
「テルの……物語?」
「そう、私のね。ここでは、私は何一つ私の物語を見つけることができなかった。だから、今度こそ、語るべき物語を見つけなくちゃいけないの」
エリザは、ぐすぐすと鼻をすすった。
「……じゃあ、ここで見つければいいのに」
「あなたの素敵な物語なら見つけた」
私は、エリザの大きな瞳を見つめた。
なんて不安げに私を見つめるのだろう? 引き込まれそうだ。いや、おそらくこの瞳に引き込まれたのだろう。
「大丈夫、あなたは、これからも子供の命を救い続けるわ。あの日、私に誓ってくれたとおりに」
エリザの戸惑う顔が少しかすんだ。
軽くなってしまった腕で、私はエリザを抱きしめた。ふっくらした感触。消えそうになっている私が、柔らかく温かな彼女の体を感じ取ったのは、ちょっとした驚きだった。
それも、彼女が宿した新しい命のためなのだろう。
――大丈夫。
「だから、自信を持って。何の不安もないから。そして……いい子を産んでね」
私はエリザの耳元でささやいた。
意味が分からないという顔をしていたけれど、サリサがなんとかするだろう。
私は、青い空を見上げた。あっという間に、私の体……いや、気は風に舞い上がり、記憶とともに空の青にとけていった。
私は風。
世界を渡り歩く風。
けして留まることはなく、淀むこともない。常に新しい風なのだ。
地上を見下ろすと、芝生の上にへたり込み、空を見上げているエリザが見えた。やはり、真珠のような人。
――それが、この世界における記憶の最後の余韻だった。
私は、この世界のテルではない。
この世界の記憶はない。それが、真実だ。
物語を探しているうちに、この世界の気の毒な少女の記憶に捕まった。
そして、すっかりエリザの都合に利用されてしまったのだ。
まぁ、たまにはこのような寄り道もいいだろう。悪くはない。
昔、この世界にテルという少女がいた。
彼女は幼くして病に倒れた。彼女の物語は、そこでおしまい。でも、きっとエリザの中では、ずっと生き続けている。
――完結しない。それでいい。
=麦畑の風/終わり=
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