春うららかに
春うららかに・1
霊山から吹き下ろした冷たい風が、エリザのスカートの裾をまくりあげた。慌てて裾を押えようとして、持っていた籠を落としてしまった。それを拾い上げようとしたら、今度は目に砂が入った。
一の村に吹く春一番は、常に意地悪で凶暴だ。
家のほうから声がする。
「エリザ、大丈夫?」
「ええ……サ……」
サリサ――と名を呼ぼうとして、エリザは目を白黒させた。
家から荷物を運んでいたサリサだったが、それを一度下ろすと、走りよってきた。そして、エリザが持っていた籠を持つ。
「ああ、いいの。私がこれは……」
と、言ったとたん、手が重なった。
思わずぽっと頬が熱くなった。サリサのほうは、その様子を見て、不思議そうな顔をしている。
「どうしたの?」
「いえ、何でも……」
エリザは慌てて籠を取り上げて、広場に止まっている馬車にせっせと運んだ。
じっと背中に感じる視線。おそらくぎこちない歩き方をしているだろう。
――私ったら。今更……何?
お互いの気持ちを確かめあって、もうかなりの月日が流れている。
辛いこともあったし、耐え難きことを耐える日々もあった。ここ数年は、離れて暮らした。だが、それまでのすれ違いの日々を考えたら、ずっとましだった。
二人で心を合わせて乗り越えてきたのだから……。
でも、これから新しい生活が始まるのだと思うと、何かがおかしい。
うれしい半面、不安や心配がいっぱいで、精神的に不安定になってしまう。むしろ、旅立ちが近くなるにつれ、エリザは不安が強くなった。
この状況。サリサは笑っていたが、多少引っかかるものが、エリザにはあった。
気に留めないようにしていたが、いざ、物事が計画から現実に移ってくると、もわん……と心に影ができる。
ちらりと家のほうを振り返ると、サリサは先ほどの荷物を持ち直そうとしていたところだった。掃除を手伝いに来てくれているマリと、楽しく談笑しながらである。
引っ越し準備の邪魔にならぬよう、以前より少し短い髪をさらにウーレン族のように編み込んでいて、エリザの知っているサリサとはまるで別人のよう。長衣を脱いだ身軽な姿だ。
かつてサリサを包み込んでいた銀の結界は、以前より柔らかく、弱々しいものとなった。髪を切ったせいなのか、聖職を離れたせいなのか、それとも別の理由があるのか、エリザにはわからない。
今までの最高神官の神々しさを思い出して、エリザはぼうっとサリサを見つめていた。
――本当に……よかったのかしら?
今回の話は、サリサがエリザに相談もなく決めたことだった。
最高神官を勇退し、蜜の村に引っ越して、ひっそりと余生を過ごす。
どうして相談してくれなかったのだろう? と、今でも少しだけ恨みに思う。
「これからは二人で、うんとわがままに、幸せに暮らせますよ。だから、笑顔でうなずいてくれないと」
にこにこ笑いながら、サリサはエリザに自分の計画を話したのだ。
「今まで犠牲にしてきた日々を、一気に取り返して毎日笑って過ごしたいのです」
涙が止まらないエリザに、サリサは何度も懇願した。
「泣かないで。お願いですから」
多少困った顔はしていたが、サリサの決意は固いらしく、穏やかで幸せそうな笑みが口元から漏れていた。
だから、気が動転しながらも、エリザは提案を受け入れた。微笑みを浮かべて、何度もうなずいたのだった。
そして……不安はすべて忘れ、これからは幸せだけを考えようと思った。
……思ったはずだったのだが。
急に手が軽くなった。
馬車の上から太い腕が伸びて来て、エリザの荷物を荷台に運び上げたからだった。
「エリザさん、のんびりしてしたら、一の村を出る前に夜になっちまうぜ!」
赤毛でそばかすのたくましい若者が、荷台の上からガハハと笑った。リューマ族の馬丁だ。
本当にそうである。
カシュのところから、人付きで馬車を借り切ったのも、急いでいるからなのに。
日が長くなってはきたが、椎の村まで半日の行程。できるだけ早く旅立ちたいところだ。
エリザの弟子たちも手伝ってくれている。
既に故郷の蜜の村よりも長い間、一の村に住んだ。第二の故郷と言えるだろう。
初めてこの村にきたときは、仲良くしてくれる人は少なかった。だが、この村を離れることになって、多くの人がエリザに力を貸してくれていた。
感慨深いことだった。
ムテの村の路地は狭く、大きな馬車は入れない。それに、蜜の村で用意した家も小さなものだった。
エリザは、荷物の大半を一の村の知り合いに譲った。それでも入り切らない物があり、噴水横に並べて、売り払うことになった。
噂を聞きつけて、人々がどれどれ……と集まって来た。売ると言っても、儲かった分は、馬車代につけるつもりだ。
それをうっかりマリに言ってしまった。張り切ったマリは、商才を発揮していた。
それとは逆に、金の価値に無頓着なサリサは、タダ同然で商売をして、マリに怒られている始末。ポカポカ叩かれて、笑っていた。
サリサがあまりにも別人なので、誰もかしこまることはない。彼の正体を知っている人も、わざわざ特別扱いしたり、吹聴したりはせず、そっとしてくれた。ありがたいことだった。
ただ、メイメ亭のおかみさんだけが、エリザにこっそりと耳打ちした。
「いいのかねぇ? 仮にも長年にわたってムテをお守りしてきた方に、あんな態度で」
サリサのことを知っている人は、おそらく誰もがそう思っているだろう。エリザは、くすっと笑った。
「いいんです。本人もそれを望んでいますし……」
でも、おかみさんは、少し霊山を仰ぎ見て、再びサリサのほうを見た。
「うーん。本当にいいのかねぇ? 先日の華々しい最高神官の就任を祝う儀式に比べて……去るほうは寂し過ぎないかい? まるで、こっそりだよ」
「いいんです。それに……」
エリザは思ったことを口にしようとして、口ごもった。急に、恐ろしいほどの不安に襲われたのだ。
気を落ち着けるために、エリザは深呼吸して、ゆっくりと言った。
「サリサ様は、もう聖職を離れたのです。あとは、ムテ人らしく過ごすことを望んでいますの」
言葉にすると、気持ちが軽くなった。
不安が遠のき、また、微笑むことができた。
「私たちは、これから一般のムテ人として、静かに幸せに暮らすつもりなんです。ひっそりと去ることこそ、サリサ様の希望なのよ」
そう。
これからは、楽しい幸せな日々が待っている。
ずっとずっと夢に見た日々が。
望んでいて、手に入らなかった日々が。
ドキドキするのは、不安なんかじゃない。期待だわ。
その日々を、精一杯、楽しく過ごすだけ……。
エリザは、そう心の中で唱えると、サリサに手を引かれて馬車に乗った。
こんもり小山のような荷物を乗せて、馬車は陶製の壁の間を抜けて行く。橋を渡ると、一の村が白くキラキラと光って見えた。その向こうに、雪をいただいた霊山がやはり輝いている。
エリザとサリサは、揺れる馬車の中から、その景色を見つめていた。どちらからともなく、手を取り合って。
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