春うららかに・3
「もう! あなたって、本当に手の掛かる坊やみたいなんだから」
「あったりまえだ、おまえよりも年下なんだからな。おまえが惚れたはれたしていた頃には、まだかあちゃんのおっぱい吸っていたもんな」
そういって、カシュはリリィの胸元に口を近づけ、ちゅうちゅうとふざけた声をあげた。
起こしてあげようと、腕をカシュの頭に回していたリリィは、怒って手をはなした。
「いってぇ! 育児放棄だ、育児放棄!」
「こんな大きな赤ちゃんがどこにいるの? 本当に!」
そう言いながら、リリィは笑ってカシュの額に口づけした。
そんな状況の時に、エリザは部屋に入ってきた。
日が差し込む明るい午前中。前日とは違って、和やかな雰囲気が部屋中に漂っていた。
エリザに気がついて、リリィは顔を上げた。
その表情には、やはり暗い影はなく、むしろ幸せで楽しそうな色さえあった。
無理しているのでは? 本当は辛いのでは? などと考えたエリザには、なんとも拍子抜けするほどである。
エリザは、かえって戸惑った。
「エリザ様、この人、ちょっと元気すぎるみたい。少し、おとなしくさせて欲しいわ」
そう笑って、リリィは部屋を出て行った。
「うるっせーぞ! 大事な亭主に向かって、そりゃないぜ!」
カシュの怒鳴り声が、リリィの背中に向けられた。
エリザは思わずあきれてしまった。
が……。
バタンと扉が閉まったとたん。
がはは……と笑ったカシュの顔が曇った。
「どこか痛みますか?」
エリザの言葉に、カシュは苦笑した。
「痛まないところを聞いたほうが早ええ」
「じゃあ、痛くないところは?」
「どこもねえ」
エリザは戸惑った。
さっきの明るく楽しそうなカシュは、どこにもいなかった。
カシュの体は確かにひどかった。
内臓は、若い頃に浴びるように飲んだ酒のせいで、働かなくなっている。体は、あちらこちら古傷だらけで、そこも痛むようだ。折れた骨がきれいにつかなかったので、体のバランスが悪く、早くに歩けなくなった。
癒す……と言っても、痛みを和らげることぐらいしか、できることはなさそうだ。
「へ、体だけが取り柄だと思っていたが、その分、無理しちまった」
カシュは自嘲的に言った。
エリザは、ぞっとした。死が、とても身近に感じられたのだ。
カシュの体は、どう見てもあと数年と持たないだろう。気力で持っているようなものだった。
「で、俺はいつくたばりそうだ?」
まるで、エリザの予見を察したように、カシュが聞いて来た。
「やめて!」
エリザは思わず耳を塞ぎ、叫んでいた。
「なぜ、死ぬとわかって無理をするんです? どうしてそんな生き方をしてきたの? 悲しむ人のことを考えなかったの!」
癒すべき立場のエリザだったが、不安がごちゃ混ぜになり、取り乱していた。
カシュのベッドに倒れ込み、わあわあ泣き出していた。
「嫌! 絶対に嫌! 死なないで! お願い!」
最近、エリザを襲っては消えて行く不安。それが、カシュとの会話で増強してしまった。
今のエリザは、癒しの巫女ではなく、普段のエリザでもなかった。
「エリザさん……」
泣き続けるエリザの髪を、皺だらけの手が触れた。
カシュの、大きな手だった。
「わりぃなあ、こんなへんな話、しちまって」
エリザは、ふと顔を上げた。
大きな手は重たく、動きがぎこちなかったが、優しく温かだった。カシュは、天井を向いたまま、どこか遠くを見つめたままだった。
「あんたとサリサが、蜜の村で暮らす話を聞いた。そんなめでたい時に、俺は死にかけている。申し訳ねえが、仕方がねえ。死にかけがお祝い言うのは、縁起が悪そうだがな、ホント、よかったな」
エリザはカシュの手を握りしめて、ぽろぽろと涙を落とした。
よかったことなのかどうか、エリザにはわからない。
夢のように幸せな半面、闇に包まれたような不安があり、先が読めないのだ。
「誰でもいつかは死ぬ」
カシュは呟いた。
「だが、俺はそのことに気がつかなかった」
――俺はリリィさんのお願いを聞いてくたばるような、軟な男じゃないんだ。殺されても死なねぇ。
「体が動かなくなった時、実にバカなことを言っちまったと後悔した。俺は、間違いなくリリィよりも先に死ぬ運命だったのによ」
リューマ族は短命種。ムテ人は長命種。それを充分に知っての結婚だった。だが、いざその現実に近づくと、ことの重大さが思った以上だったのだ。
「リリィは、過去に亭主に先立たれて死にそうになった女だ。だから、同じ苦しみを絶対に味あわせたくねぇ、そう思って必死になってきたのに、それがまた、無理していたんだな。結婚したこと事態、間違っていたと思って悩んだこともあった」
それだけではない。カシュとリリィの結婚は、常におかしな目で人に見られてきた。
カシュは、結婚後、ますます仕事に励んだ。リューマ族・ムテ人を問わず、困った人々の力になってきた。
リリィは、ムテの間では「リューマ族に身を売った女」として、白い目で見られていたが、それを気に止めず、カシュに連れ添った。精神的に弱いムテ人でありながら……である。
そして、マリという美しいムテの女と、カイトというたくましいリューマの男を育て上げたことは、逆境と戦い続けた二人の勝利とも言えるだろう。
だが、どうしても乗り越えられない苦難が、最後に二人を襲うことになる。
どんなにがんばっても、その果てにあるものは、死のみ。そして、永久の別れなのだ。
「でもよ、今は結婚を悔やんでいないぜ。それぐらい幸せだったしよ、カイトのヤツを見ただろ? あれは、俺の若い頃そっくりだ。あれが、俺のかわりにリリィを守ってくれるしよ、マリは色気づいているしよ、もういつ迎えがきてもいいくらいだ」
リューマ族は、短命ではあるが子孫をたくさん残す。そうして、長い時を種として生き残るのだ。
だが……。
「それでも俺は死にたくねぇ……。リリィを残して逝きたくねぇ……」
目をつぶり、ブツブツと呟く。
カシュの、情けないまでの本音だった。
――寿命を延ばす方法なんて、あるのかしら?
ふとベッドの中で、目が開いた。どうしても寝付けないのだ。
そういえば、かなり昔に同じことを考えたことがある。自分よりも先に寿命を向かえるだろう子供のことを思って。
その時は、確か――。
横で寝息……と思っていたサリサが、ふとエリザの首に腕を回していた。
「呪詛の石のことを、考えていましたね」
エリザは、ドキッとした。
ムテの霊山の奥にある透き通った水晶の台。
「わ、私……。そこまでは……」
考えてはいなかったが、おそらく次に頭に浮かんだだろう。
「エリザ。死なないことが大事なんじゃない。どうやって生きたのかが大事。それを忘れると、つい、運命を受け入れられず、禁忌を犯すことになる」
大真面目にサリサが言う。
心の中をすべて読まれてしまいそうで、エリザは慌てた。
「わ、私……。カシュさんを助けたくて」
「カシュを? 本当にカシュのことを考えていた?」
念を押すようなサリサの声。
――ええ。そうよ。
エリザは、心の中で肯定した。なぜか、ドキドキする。
心の中の不安を見透かされたら、きっと……。
だが、サリサの尋問のような心話は、それまでだった。彼は、くすり……と笑ったかと思うと、エリザを引き寄せて口づけした。
「違うね。あなたの心の中は、僕のことでいっぱい。まったく嘘つきなんだから」
「え? ええ?」
エリザは真っ赤になった。
そんなことは考えていなかったはず。だが、もう既にサリサの指先は、エリザの首筋をなぞって胸にたどり着くところだった。
「……あ」
この春から、月病の年を迎えていた。
今や形骸化した巫女制度の名残で、もしもサリサが最高神官を勇退しなければ、エリザは、今頃、巫女姫として霊山に上がっていた。
確かに男性を受け入れる準備はできているはず。そして、巫女姫であったなら、もう一度か二度、夜を迎えていたはずだった。
でも、引っ越しや今後のことや、そして、カシュのことが、エリザの頭を占領していて、体を重ねることなど忘れていた。
なのに、自分でも驚くほど、体が反応してしまった。つい、声が出てしまい、サリサを悪乗りさせた。
ほらね……と言わんばかりに、口づけと愛撫が繰り返され、頭が真っ白になってゆく。
不安だったから、より、結びつきたいと願ったのかも知れない。今までにない早さで、エリザはサリサを受け入れていた。
「明日、ここを発ちましょう」
ふと耳元に声がした。
本当に声だったのか、サリサの心の声が響いたのか、エリザには判断がつかなかった。ただ一瞬、心がふっと離れて自分一人のものになった。
「え? でも……」
カシュのためにしばらく滞在することを、サリサも諸手を上げて賛同していたはず。それが、急になぜ?
「蜜の村での生活が、待ち遠しいから」
「……う……ん」
返事ではなく、口づけで返事にならなかった声。
その後は、身も心も一緒になってぐちゃぐちゃになってゆく感覚。
――ああ、でも……。このままじゃ死んでしまう。
エリザは身をよじりながら、うなされるように呟いた。
ぽろぽろと涙がこぼれた。
だが、頬を伝わる前に、優しい指先や唇が、すべて拭ってくれる。
――大丈夫ですから。
体の内側から返ってくるような返事。
カシュが死ぬことは、誰もがわかることなのに。
それでも、エリザはなぜか安心した。
――大丈夫ですから、幸せになることだけ、考えて……。
……それは、暗示だったのかもしれない。
エリザは、その夜、死を忘れた。
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