フェアリー・テイル

実茂 譲

プロローグ

 その水にはかつて夢が湛えられていました。

 その地にはかつて黄金と銀が満ち溢れていました。

 そして、その海には多くの血が流れ込んでいきました。

 カリブ海や南アメリカには大航海時代に隆盛を極めた国々の残渣が残っていました。蘭領スリナムではどうあがいても本国に戻ることのできない小役人や商会の下級雇員たちの郷里を懐かしむ叫びがオランダ風の破風のある家並みに強く色濃く残っていましたし、また黒人奴隷の反乱で最も金になる植民地サン=ドマングを失って、ルイジアナを売却した後はカイエンヌ・ペッパーと悪魔島の悪名だけが残った仏領西インドもまた自分たちがカリブを舞台にした植民地競争から脱落したことを思い知らされていました。

 ヌエバ・グラナダ、ヌエバ・エスパーニャ、ラプラタ、ペルーの各副王領を失い、反乱気質の強い農民が念入りに砥いだ鉈で官吏や兵士の首を刎ねようと狙っているアンティル諸島のみを拠りどころとするスペインも同様でした。

 ポルトガルはブラジルの独立をもってして、南アメリカの情勢から脱落しました。

 こうした列強各国が植民地の縮小を余儀なくされていくなかで、メイベルラント共和国はメイベルラント領ノヴァ・アルカディアを王政メイベルラントから継承して細々と経営しておりました。メイベルラント人が南米に植民地をもてたのははるか中世のころ、アントワープに匹敵する商港フィリベルンを持ち、ポルトガルやオランダと競い合うだけの造船技術を持ち、メイベルラント西インド会社を設立し、蘭葡メイベルラントの三国条約をもってして、現在のノヴァ・アルカディアを領有するに至ったからでした。

 そして、現在のメイベルラントは小国ながらもヨーロッパ金融市場における影響力はベルギーと同等で、経済力を見るならば決して無視はできないし、工業化もイギリスやフランスには遅れを取るもののロシアやイタリア、ドイツ諸邦よりははるかに産業の工業化が進んでいました。

 そのおかげでメイベルラント領ノヴァ・アルカディアは存続することができたのでした。ノヴァ・アルカディア総督府の年次歳出入はいつだって赤字でした。本国の支援なくしてノヴァ・アルカディアは成り立ちませんでした。王政時代から植民も進めていて、政府は本土の小作農や土地を継げない百姓の次男三男坊に対して、ノヴァ・アルカディアに移住すれば自分の土地が持てるとやっきになって宣伝しました。人間、人狼、蛙人、蜥蜴人、狐人、猫人、その他もろもろの混血たち、ありとあらゆる人種に対してノヴァ・アルカディアは豊穣の未来を約束したのです。政府はパンフレットを刷りました――ハンモックにゆられながら手を伸ばせばそこに落ちてくる熟れたバナナ、あざやかな色彩で目を楽しませる孔雀や極楽鳥、毛皮いらずの温暖な気候ななかで少女たちは輪を作って踊っています。こうした視覚と植民地協会に雇われた弁士が盛んに宣伝をして百姓を呼び集めたのですが、当の百姓たちは植民地につき自分たちに与えられた土地を見て愕然としました。

 アルカディアという言葉を辞書で引けば、〈理想郷〉と書いてあります。あるいは〈田園的理想郷〉とも書いてあります。

 ノヴァ・アルカディアに渡航し政府から与えられた土地を見た百姓たちはみな帽子を地面に叩きつけ、木靴を鳴らして、だまされた、まんまとのせられたと叫びました。なぜならそこにあるのは田園ではなく密林の壁で、そして理想郷とは人のためではなく、毒蛇や羽虫、人喰いナマズにとっての理想郷だったからです。

 平らな沃野などはすでにみな大地主のものであり、移住者たちに与えられた国有地は港町ピエーテルバルクから二日ほど川を遡ったところにありました。

 それは一日の半分を潮に浸かるマングローブだったり、丸太ぐらいの太さのある毒蛇の棲み処だったり、刺さるとたちまち白い泡を吹いて倒れてしまう吹き矢を使うインディオたちが住んでいたりと様々な障害が襲いかかってくる土地でした。しかし、もはや全財産を渡航費用に使い果たしたかつての小作農たちにはここ、この土地を開拓するしかないのでした。まず彼らは銃を手に入れました。毒蛇だろうがインディオだろうが、これでズドンだ、百姓たちはそう言いました。

 蛙人たちは蛇に対する生理的恐怖から逃れるためにラム酒をあおり、怖いもの知らずになったところで二十人単位で討伐隊を結成して森に入りました。やがて、ある蛙人が山羊数頭を買ってきて足の骨を折り、その山羊に飲むと体が焼ける猛毒の入った小瓶を結びつけて、大蛇のいる場所にほっぽり出してまわりました。次の日には悶え苦しんだ末に絶命した大蛇が三匹見つかりました。その皮を剥いで副収入としつつ、新たに山羊と毒が買い集められて、足を折って密林に捨ててまわりました。これを一ヶ月以上続けた末に蛙人たちは大蛇の駆逐をほぼ終わらせ、開拓事業に移ったのでした。

 人間や人狼、蜥蜴人たちも猟銃と鍬を代わる代わる持ちかえながら、インディオの襲来にそなえました。ところが、こちらは蛇よりもずっと難しかったのです。インディオたちはどんなに草が茂った叢林でも音一つ立てずに動くことができました。それでも開拓地の面積は年々増加しているし、百年以上前からメイベルラント政府に帰順しているインディオたちが密林を流れる川辺の村を押さえていたので、開拓地とピエーテルバルクとの連絡が途絶えることはありませんでした。

 他の人種が開拓に汗を流しているころ、猫人たちは算盤をはじき、ユダヤ人商人と組んで、本土と植民地を結ぶ商業のつながりを作り上げました。まだ青いバナナやマンゴーなどの南国の果実、洋藍、珊瑚、蛇や鰐の革、それに最近、奥地のインディオが持ち込んでくるようになった天然ゴムなどを梱包し、本国に送るという商業行為が成り立ち始めたのです。それまで両替商しかいなかったノヴァ・アルカディアで最初に交易決済のための銀行をつくったのはこの猫人たちであり、それは港町ピエーテルバルクで創られ、ノヴァ・アルカディア商業銀行と名づけられました。看板には猫の姿を円のなかにうまく埋め込んだ鋳鉄製の切り抜き絵が飾られ、猫人たちはとても幸せそうでした。彼らは文明と銀行は不可分のものだと信じていたからです。

 狐人もどちらかといえば農業よりは商業に生きました。彼らはいろんな村をよく行商に訪れ、新しい村ができると必ず狐人が小さな雑貨屋を開き、セント・アリシアには狐人によるやや時代遅れなふうもある同業組合を作って結束を固めたりもしました。

 しかし、どれだけ頑張ったところで所詮は小さな植民地です。アメリカ合衆国やメキシコ、ブラジルには規模で敵わないし、仏領西インドやスリナムにだって敵いませんでした。

 結局、メイベルラント領ノヴァ・アルカディアもまた大航海時代の夢の跡に過ぎませんでした――それも最も虚しい夢の跡だったのです……

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