第2話

 三日後、麾下四十三名の部隊の査閲を行い、フランソアは出発の準備ができたことをセバスシアン大佐に告げた。この三日間でジェスタス少尉はまずケピ帽に日除け布をつけることを覚えた。ケピ帽だけは外したくないというのが少尉の主張だった。フロックコートのボタンは全部開いた。そのかわりチョッキのボタンは一番上以外はきちんとしめたし、一番上を外したのは蝶結びのネクタイを形を崩さずに結ぶためだった。四隻の小さな帆掛け舟に分乗し、守備隊はセント・アリシアを去った。河は蛇行していたから、艫から眺めていたセント・アリシアの街は倉庫街、湖岸通り、岸辺、桟橋の突端の順に見えなくなり、セント・アリシアを偲ばせるものは個々人の頭脳にのみ存在する記憶のみとなった。

 途中、名前も付けられていないインディオの漁村のそばを通り過ぎ、〈胸甲騎兵〉と名づけられた大岩のそばを通り過ぎた。暗い森のなかで赤い花が動いていると思ったが、それは赤い水瓶を頭に乗せた黒人女の姿だった。次の河の曲がり角で小さな小屋によりかかられた水車小屋が見つかった。フランソアのいた甲板からは見えなかったが、どうも水車小屋のそばにはサトウキビを潰すくらいならやってのけるくらいの力を持つ水の流れがあるらしく、事実、河面に目をやると黒い水が岸辺から泥の河へと合流していた。

時おり、もつれた麦藁帽子に貧乏ななりをした白人が猟銃と虫取り網を背負い込んで河岸を歩いているのを見つけると、フランソアはジェスタス少尉に説明した。

「あれは妖精狩りの連中だよ」

「妖精狩り?」

「そう。どうもこの奥地には妖精が住んでいるらしい。それを見たっていうやつがいる。ヨーロッパじゃもう妖精は捕られ尽くしたから、もし本当に妖精を生け捕りにしたら一匹最低でも五〇〇〇金ポンドはするだろうな。五〇〇〇ポンドといえば、イギリスで近衛連隊付きの少佐の位を買うのと同じ値段だ」

「愛好家も多いのでしょうね」

「多いなんてもんじゃないだろうなあ」フランソアは言った。「ぼくも一度だけ妖精を見る機会に恵まれたことがある。うっすら青みがかっている白いメスの妖精でそれはそれは美しかった。おまけに妖精は寿命が非常に長い。人間より長生きする。だから不動産投機のつもりで妖精を市場で売買できる。もし、このグラン河に妖精の一大集落があるとすれば、これはとんでもないことになる。世界中から妖精狩りがやってくるだろうね」

「タバチェンゴでも妖精は見られますかね?」

「いや、無理だろう。妖精はもっと奥にいる。たぶん不帰順インディオたちの棲み処の向こうだろう。どうも、インディオたちは妖精を神の一種と捕らえているらしくてね。金目的で妖精を捕まえにきたなんて、相手にばれたら、頭といわず全身の皮をひっぺがされるよ」

 四隻の舟はときにまっすぐ、ときにジグザクに河を遡った。三隻目に乗ったタバークル准尉は料理屋からもらったくず肉を河に撒いた。その途端、水が沸き立つように表情を変えて、人喰い魚のほっそりとした銀色の体が陽光にきらめいた。タバークル准尉はもう十七年、ここの人喰い魚を餌づけしているので、川辺のマングローブに隠れている魚たちもタバークル准尉の乗っている舟がやってくるとどうやってだか知らないがとにかく准尉の到来に気づき、自然と寄ってくるようになった。准尉がくず肉を撒くたびに乱れる水の波紋はちょうど貴賓を向かい入れるたびに港湾都市が撃つ二十一の礼砲に似ていた。

 いくつも分かれる支流を間違わないように遡り、タバークル准尉がくず肉を撒き尽くし、太陽が真上でぎらつく正午になって、やっとタバチェンゴに到着した。

 守備隊の兵舎や大砲は河から離れた高台にあった。雨季に河が増水した際の用心であり、その麓にはサンパン舟や小さな帆掛け舟が干上がった川床の上に横たわっていた。青銅製の十二ポンド砲は一門が上流へ、もう一門が下流へ砲口を向けていて、それぞれの大砲のそばには黒々とした榴弾がピラミッド状に積まれていた。

 タバチェンゴ村も同様に高台に家を建てていた。畑も同様で家のある場所よりもさらに高い位置にあった。住民にとって家は流されても、二日あれば椰子の葉葺きの仮小屋をつくることができる。だが、肥えた土をさらわれたら、もう暮らしていけなくなる。住民にとって家よりも大事なものは土だった。黒く湿っぽくて嗅いでみると、仄かな甘みさえ香る土こそが彼らをこの小村で生かしてくれる唯一の術だった。

 フランソアがまず最初に降りて、岸辺で待っている前任者の狐人ヴィンセン・エラン中尉から仕事を引き継ぐ。その後、麾下の兵士たちが河岸まで寄せられた舟から生活物資を全部背負った状態で次々と降りてきて、守備隊陣地に通じる階段を上っていった。

「兵舎は五十人用の兵舎が一つあるきりだから、歩兵も砲兵も工兵も全員同じ兵舎で寝ることになる。下士官についても同様で歩兵、砲兵、工兵が共同で寝泊りする。炊事は歩兵隊に二名炊事兵がいるので、そいつらが食事の面倒を見る。ぼくからの説明はざっとこんなものだ。何か質問は?」

ジェスタス少尉が挙手した。

「なんだい、少尉?」

「工兵隊は何をすればいいのでしょうか?」

「何もすることはない。哨兵スケジュールに加わる以外に何も仕事がない。歩兵も砲兵も同じだ。そもそもぼくらに敵意を持つ不帰順インディオはここから数百マイル先の密林の奥地のなかの奥地にいるんだ。そして、ナポリ人と混血からなる四十人ほどの入植団がそこで農業と林業をやっているが、彼らは一度も不帰順インディオを見たこともなければ、襲われたこともないといっている」

「河に盗賊がいると伺ったことがありますが、これは?」

「盗賊ねえ。まあ、いることは間違いない。グラン河は複雑に入り組んだ河だから、どこかの島に盗賊の本拠地があるとしても、ぼくは驚かないね。ただ、盗賊が狙うのは決まって、商船や小さな客船と決まっている。きみが仮に盗賊だとして、このタバチェンゴを襲いたいと思うかな?」

「思わないと思います」

「そういうことだから、少尉、まあ、慣れることだ。それにここの勤務に危険がないわけがない。一度など鰐がぼくの寝床へ――」

「鰐ですって!」

「そうだ。鰐だよ。そいつが開けっ放しになっていたドアからのそのそぼくの寝室までやってきたんだよ。ほら、そこに銃弾がめり込んだ跡があるだろう? 驚いたぼくが盲めっぽうにリヴォルヴァーを発射してできた穴だ。鰐は銃声に驚いて、あの体からは想像できないほどの速さでがさがさ動いて元来た道を戻り、そのまま河に消えた。他にも毒蛇はいるし、ピラニアもいる。間違っても河で泳いだりしてはいけない。どんな病気があるか分からないからね」

 とんでもないところに来たな、といった顔をしながら、ジェスタス少尉はこげ茶の毛に覆われた頬を軽くかき、手櫛で整えた。

 フランソアは従卒に士官用兵舎の自室へ荷物を運ばせると、村に行って、村長を呼んでくるよう命じた。だが、すぐに気が変わり、こちらから出向くことにした。村長は齢七十を超える老人だったから、こっちから言ったほうが用事が速く済む。

 フランソアはジェスタス少尉の部屋のドアをノックした。

「なんですか、中尉殿」

「村長に挨拶に行く。きみも来てくれ」

 守備隊陣地の中央を横切っていると、兵舎とつながって作られた下士官用宿舎からタバークル准尉が姿を見せると、特に急ぐ様子もなく、のしのし歩いていた。そして、フランソアとジェスタス少尉が守備隊からタバチェンゴに通じる谷の道へ足を踏み出そうとするころには二人に追いついていた。守備隊陣地とタバチェンゴ村のあいだに走る谷を水が流れ、それを小さな橋でまたぐのだが、雨季になればここは沈み、かわりに船橋で村と陣地が結ばれることになる。

「もしかしたら――」橋を渡り、村へと通じる坂を上りながらフランソアが言った。「船橋建設の際に工兵隊が使われるかもしれない。きみたちは作れるんだろう? その、船橋を?」

「はい、材料さえあれば」

 三人は村に入った。辺鄙な村ではあったが、入母屋式に厚く葺いた茅の屋根、漆喰壁、きちんと扉もついていて家々には小さな庭もあり、鶏がミミズをついばんでいた。

 ジェスタス少尉が村の奥にある建物を指差した。小さな土製の小屋で茅葺き屋根までは一緒だったが、建物の端に流木でこしらえた大きな十字架が立っていた。

「あそこは無視していい」フランソアは言った。その言葉にタバークル准尉は苦笑いした。

「あれは教会では?」ジェスタス少尉は再度たずねた。

「違う。あれは酔っ払いの家だ」

 三人は村長の家に入った。村長は色あせたシャツと半分に切ったズボンにぼろぼろの士官用飾帯を締めた小柄な老人で目が細いのでその両目が顔に刻まれた皺の一つに溶けて、どれが目を隠しているのか分からなくなってしまうことが多々あった。耳は大きく、自分の意思で動かすことができた。というのも、だいぶ前、フランソアはこの老人が自分の家の戸口に座って、のんびり日向ぼっこをしていると、子どもに頼まれ、耳をピクピクと動かしているのを見かけたことがあったからだ。

 三人が挨拶すると、村長が呻き、通訳の若者がそれを聞き取った。

「一人増えましたね、と村長はおっしゃっておられます」

 ジェスタスはまるで陸軍省にでもいるように踵を合わせると、「自分はアンドレル・ジェスタス少尉であります」と大きな声を張った。

 村長とフランソアは近況を話し合い、そして、それから壁に貼ってある二枚の絵についてたずねた。

「あれはガフガリオン将軍ですね」フランソアがたずねた。

 村長がぼそぼそつぶやき、通訳の青年がうなずいた。「いかにも左様、と村長はおっしゃっておられます」

「村長はガフガリオン運動を支持されるのですか?」フランソアはまたたずねた。

「村長はガフガリオン運動が何なのかよく分からない、とおっしゃっておられます」

「この絵を持ち込んだ行商人が彼の素晴らしさを延々と説いていたはずなんですが――」

「村長がおっしゃるには、確かに行商人が来た。一人は人間で、次のは狐人だった。二人とも、この男は戦に強い武人であるということを教えてきた。戦に強い男の絵を飾るのはよいことだ。二枚飾るのは一枚飾るよりいいことだ、とのことです」

 そう言われて、フランソアはガフガリオン将軍の絵をじっくり観察した。セント・アリシアや川沿いの村々、あちこちで飾ってあるから、真面目にきちんと見てみようという気がこれまで湧いてこなかった。だが、いま、この文明化されたはずのインディオが共和国に対して謀反を企んでいるやもしれぬ男を軍神か何かと思っていることがフランソアにはひどく面白く感じられてきた。

 礼装したガフガリオン将軍は羽毛がシャンパンの泡のように吹き出ている二角帽をかぶり、勲章だらけの胸を真っ赤な綬が斜めに断ち割っていた。黒白混じる豊かな口髭と顎鬚や通った鼻筋、前方を眺めやる目の鋭さなど生まれながらの指導者然とした感じが伝わってくる。ひとたび彼に政府を任せれば、労働者はたちまち苦役から解放されて、貴族はその地位が安泰となり、ブルジョワジーは革命による株価の乱高下や工場の焼き打ちなどを恐れずに済む、そんな印象をもたせる絵だ。何も知らない奥地のインディオが軍神代わりにあがめるのも無理はない。

 おそらくこの絵を描いた画家はどんな貧相な男でも独裁官にふさわしい英雄的な人間に見せる技量を持っているに違いない。彼の手にかかれば、この村長だって、南北アメリカ大陸の全てのインディオを統べる王のように描くことができるだろう。

 だが、滅多なことは言うまい。半年遅れで新聞が届くこの世界では、もうクーデターによって母国の議会政治が倒れ、ガフガリオン将軍による独裁政府が成り立っているのかもしれないのだ。

 フランソアはたずねた「もし、また行商人がやってきて、この絵を持ってきたら、また飾るのかい?」

 村長は若者から耳打ちされると、ゆっくり大きくうなずいた。

「村長は、二枚飾るよりは三枚飾るほうがいいことだ、とおっしゃっておられます」

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