エピローグ

 一八六八年四月の朝、シャルル・モンニョンはパリ郊外にある屋敷から自家用の箱馬車に乗って、モンテーニュ通り三十八番地、ラ・レジデンス・ド・プランスに向かった。郊外からパリへ向かうのは彼一人ではない。間接税納付受付の官吏だの法律事務所の下級雇員だの万年三流弁護士だのがごまんといる。それに野菜や果物を持ち込む百姓たちの群れまた群れで荷馬車にはキャベツだのアーティチョークだのが崩れて人を押し潰しかねないほど高く積まれていた。パリも少し外れれば徒刑囚の一団が路にはめ込むための石を切っているところだった。オスマン知事はとにかく石を欲しがった。彼がパリに押し広げた広大なブールバールは歩くものの靴に優しく、馬車に乗るものの尻に優しい、角のない石を大量に欲しがっていた。オスマンはクリミア戦争が始まる前からパリの貧民街を潰しては見るものを圧倒する広いブールバールに作り変えるという一大事業に着手していた。悪趣味なナポレオン三世にしては気の利いた計画であり、パリの上下水道も整備され、夏場の道端に捨てられた馬や牛、豚、そして人間の排泄物が出すひどい臭いも解決された。パリは徐々に住みよい街へと変貌していった。

 オスマン知事のパリ改造計画は一八六一年、彼のホテルをかすって、フランソワ一世通りという大通りを作った。彼のホテルは十字路の一角を占めることになり、その価値はぐんと上がった。この大通りの予定地に住んでいた有象無象の連中がどうなったのかは神のみぞ知るところだ。

 彼のホテルの改革として料理長の入れ換えをやってみた。妙な経歴の持ち主で妖精景気に湧いた南米の奥地で本格的なフランス料理の店を開き、そこで繁盛していたのだが、そこの駐留部隊が壊滅し、インディオたちの襲撃を受けるようになりやむなく店を捨てて逃げざるを得なくなったという話だった。そして、あちこちのレストランを渡り歩いて、ラ・レジデンス・ド・プランスへと辿り着いた。彼を雇ったのは正解だった。彼ほどうまく鶏のコンソメを作ることのできる料理人はいなかったし、また植民地で覚えたという新種のステーキも大当たりだった。それはニンニクと豚のあばら肉とラードとカイエンヌ・ペッパーを何度も包丁で叩き続けて、パテのようにしてから焼くというもので、これ舌触りはとてもまろやかなのにカイエンヌ・ペッパーが利いていて味にメリハリをつけているとして、評判となって、パリの美食家たちを大いにうならせた。このステーキの名前はかつて料理人が住んでいた南米奥地の名を取って『サン・ディエゴ』と名づけられた。

 シャルル・モンニョンは社長室でいくつかの書類の決裁を行った。仕事の大半は昨日片づいていて、また今日は誰かが訪問する予定もなかった。久しぶりに家で昼食をとってみるのもいいかもしれないと思ったそのとき秘書がお客さまがおいでです、と言ってやってきた。「お名前はフランソア・デ・ボアという軍人の方で翡翠の鎚と伝えれば分かると言っているのですが――」

「翡翠の鎚?」モンニョン氏は少し考え、すぐに思い出した。「すぐ、その方をお通ししてくれ」

 やってきたのは間違いなくあのときの大尉だった。だが、ひどく痩せていて鬚は白くなり頬骨が出っ張って、息をするのも辛そうな様子だった。インヴァネス・コートも脱がずにそのまま椅子に座って、ぜえぜえと喘いでいた。現在は中佐に昇進したとのことでそのことを祝うとデ・ボア中佐は小刻みにうなずいただけだった。中佐はケピ帽を膝の上に乗せた。まだ四十代の始めだろうに髪は六十歳になったばかりのモンニョン氏よりも白いものが混じり、青白い頭皮が細く頼りない髪の毛越しにかいま見えた。

「熱病を患いました」中佐は言った。「でも、伝染性はないので、ご心配なく」

 そう言うと、咳き込みながら、懐からきれいな石を連ねた首飾りを取り出し、モンニョン氏の机に置いた。

「もらってやってください」フランソアは頼んだ。「そのかわり、ぼくの話を聞いてほしいのです。この三ヶ月にあった出来事を」

 フランソアは戦史編纂係としてその後、十年勤め上げていた。植民地勤務が八年あったので同僚よりもはるかに出世は早く三十代の後半で中佐になっていた。戦史編纂係という閑職では佐官のなど夢のまた夢で、ましてや中佐となると、これ以上はない栄光だった。

 フランソアはあの忌まわしい事件から十年経った今、戦史編纂の一環として、そして自分の過去の帳尻合わせとするためにまたノヴァ・アルカディア植民地へと戻っていった。ピエーテルバルクはあの壮絶な市街戦からもう十年も経つのにまだ立ち直れないでいるようだった。街のあちこちの壁には銃弾の跡が残っていたし、街を見捨てて本国へ帰った空き家が多く目立った。この様子ではセント・アリシアはもっとひどいことになっているだろう。そう思いながら、インディオの丸木船を一艘雇い入れて、河を遡ろうとしたそのときフランソアはあの従卒ジョアンと再会したのだ。ジョアンはもう従卒のジョアンではなく、実業家のジョアンだった。正確に言えば船乗りジョアンだった。ジョアンはフランソアからもらった金で蒸気ボートを買い、人を上流に送り迎えする商売を始めた。その後、商売は順調に続き、二隻の蒸気ボートを買って、雇い入れたシナ人二人にボートを運転させていた。

「セント・アリシアに行きたいんだ」

「それならおれの船に乗ってくだせえ」

 相変わらず緑に挟まれた狭い川面を通りぬけながら、ジョアンはセント・アリシアの近況を話した――地獄旅団がピエーテルバルクで負けて大佐たちが銃殺された後、サン・ディエゴの守備隊が、ほら、〈貴婦人〉とか〈薬屋〉とかふざけた名前をつけていたあの要塞が次々と落とされて兵士も士官も皆殺しにされちまいました。サン・ディエゴを守るものがもはや何もないと分かるやみなパニックを起こして、セント・アリシアまで逃げやした。住人はインディオ連中が河を下って復讐に来るかもしれないと戦々恐々としていました。でも、結局、シャンガレオン将軍の正規軍二千が先に到着して、インディオたちの北進は止まりました。でも、もうサン・ディエゴは人の住めない町になっちまいました。でも、旦那がサン・ディエゴを見たいというなら、このジョアン、地の果てもまで着いていきますぜ。

 フランソアはゆっくり話し出した。「途中、セント・アリシアを見ました。山師や密猟者相手のいかがわしい店は軒並み消えてなくなり、農園主風の牧歌的な雰囲気を取り戻していましたよ。娯楽らしい娯楽と言えば、町外れのマダムの売春宿だった。最後に見たときは周辺にもポツポツ家が建っていた家々はきれいさっぱりなくなっていました。ぼくはセント・アリシアに上陸して、その売春宿に行きました。ぼくはこんな想像をしていました。そこにいる知り合いの女が娼婦をやめたことを教わり、その家にいく。そして、彼女と彼女の子どもに、お父さんがどんなに立派な男であったかを教える。これも帳尻合わせの一つでした。ああ、でも、人生はそううまくいきません。ぼくはその娼婦アデリーナ・キュスティーヌが出産の際の肥立ちが悪くて、三日後に死んでしまったこと、子どもはイエズス会に預けられ、誰かに引き取られて町を出たことを知らされました。ぼくはセント・アリシアの要塞を見に行きました。そこにはボロボロの、そう、あのときの反乱のままの姿の角面堡が残っていました。かつてデ・ノア大佐の暴虐の嵐がこの町に襲いかかったとき、あくまで抵抗した名誉ある三十人の軍人を記念して、そのときの姿のまま、残していたのです。かわいそうなジェスタス中尉。せめて、天国でアデリーナと再会し、二人の子どもを見守っていればいいのですが、ぼく自身はもうそうしたおとぎ話を信じられなくなりました。十年前、いろいろなことが起こりすぎたのです。

 ぼくはサン・ディエゴの淀みへ行くことにしました。かつて地獄の名を冠した悪魔の軍隊が本拠地と定めた場所です。蒸気ボートで一昼夜、河を遡り、ついにサン・ディエゴの淀みを見つけました。人によって捨てられた町は密林によって侵略され、全ての建物は分厚い緑の下で死の喘鳴をあげていました。サン・ディエゴの淀みは周囲の密林と大した変化はないのですが、たまたまナポリ人街にあったチッチョの店の崩れた構えが緑のなかにちらりと見えたので、ここがかつてのサン・ディエゴ、大勢の男たちが妖精を求めて、旅立った十九世紀のエルドラドがあったことがわかったのです。ぼくは船を下りると二日後に迎えにきてくれとジョアンにいいました。ジョアンはぼくが一人で残ることの危険を説きました。しかし、聞いた話ではこの土地はもはやインディオにすら見捨てられていたそうなのです。十年前、大勢のインディオが殺されたことでこの土地は彼らの神の加護が効かない土地なのだと恐れられ、主だった部族はみなさらに南下していきました。そうなっても不思議ではありません。フェアリー・ラッシュのとき、地獄旅団は次々とインディオの住処を襲いました。そのなかでも白い髭の暴君、首を切り裂く黒い風、翡翠の悪魔の名は今もインディオたちの伝説のなかでその名を聞くものを震え上がらせたといわれています。河口のピエーテルバルクに住む〈文明化〉されたインディオたちでさえ幼い子どもが親のゆうことをきかないと『白鬚がやってきて、お前をさらってしまうよ』とか、『黒い風がお前をちょん切ってしまうよ』とか『翡翠の悪魔がお前を打つよ』というそうです。ええ、そうです。あの翡翠の鎚です。翡翠の悪魔とはぼくのことです。ムッシュー・モンニョン。あの翡翠の鎚はただの骨董品ではありません。フォイ族やナク族のあいだで畏怖された実在の伝説なのです」

 フランソアは咳き込んだ。モンニョン氏はといえば、自分が考古学的価値のある武器ではなく、インディオたちを恐れさせた伝説そのものを所有しているということを知らされて、まるで夢を見るような心地を味わった。考古学趣味を持つものなら誰だって一度は夢に見るものを彼はすでに手に入れていたのだ。もし、あの翡翠の鎚がこの伝説とともにパリの骨董品市場に出れば、三十万フランはしただろう。

 フランソアは続けた。「ぼくは緑に押し潰された町のなかで一夜を過ごしました。ベーコンとリンゴをいくつか、それに桃とリンゴの砂糖漬け、パンが一応三日分ありました。雨季にも関わらず、サン・ディエゴの夜空には雲一つかからず、ぼくは星空を独り占めしながら、ベーコンをフライパンで焼いて食べていました。甘口の赤ワインを少し飲み、果物の砂糖漬けの瓶を開けようとしたとき、ぼくは流れ星を見ました。その流れ星は真っ直ぐ落ちて消えるかわりにゆるい曲線を描いて、ぼくの頭上をくるくるまわりました。それは淡い白に縁取られた薄い水晶のような羽を持っていて、白い服にとても白い肌をした、ぼくの手のひらに乗るほどの小さな女の子でした。そう、妖精です。ブーローニュの森やリュクサンブール公園にいるのと同じ妖精です。というより、そこで採れた妖精が調教されてパリに売られたのです。まあ、それは置いておいて、話を戻しましょう。妖精はわたしのまわりをくるくるまわっていました。ぼくを警戒しているのと同時にぼくが今、瓶を開けた果物の砂糖漬けに興味を持っているらしかったのです。ぼくはコーヒーカップの受け皿に彼女の食べやすい大きさに切った桃を三つ、置いてぼくから十歩離れた場所に置きました。妖精はくるくるまわってから、ついにとうとう砂糖の甘い匂いに負けて、コーヒーカップに着陸すると、桃のかけらを一つ持っていって、かつてレストランがあった叢林から飛び出した枝の一つに座ると、静かに食べ始めました。すると、突然森全体が星空のなかへ昇っていったように光り出しました。妖精たちが現われると、あちらこちらに開いていた樹洞から碧く優しく光る水が湧き出して、その水に幹が浸るや否や樹木たちは白や金に光る花をつけました。樹洞の水が流れ込むとサン・ディエゴの淀みが青く光って、淀みを泳ぐ魚の黒い影が浮かび上がりました。こんな美しい光景はあのとき以来です。そう、妖精狩りが盛んだったあのとき、ぼくの人生を狂わした、あのときです。ぼくが翡翠の鎚で処刑を続けたのは何のせいだったのか、いまだに分かりません。ただ、一度ぼくは妖精たちの美しさに眩んで、人生が狂ってしまったのではないかと思ったことがありました。でも、今のぼくはそのときのぼくを否定します。ええ、断固として否定します。あんなに、優しく、美しいものが翡翠の鎚で人間の頭を打ち殺すこととどうつながりがあるのか? 人は自分の行動が理解できなくなると外に責任を見つけようとしますが、結局、最終的な責任はぼくのなかにあったのです。そして、それがなんであったのかわからないまま熱病に苦しんで死ぬ。それが、もし神が存在するのならば、神が考えたぼくへの帳尻合わせです。ぼくは妖精の楽園を去るとき、ナイフを一本置いて行きました。三匹がかりで持ち上げれば、妖精でもマンゴーの皮を剥くのに使えるだろうと思って。妖精たちはあれだけの暴虐を行った人間をころりと許してくれて、ぼくに首飾りを作ってくれました。あなたに渡したそれがその首飾りです」

 フランソアはさっきよりも苦しげに咳き込んだ。モンニョン氏が水を汲んでフランソアの手に持たせた。フランソアはそれを飲み、一息つくと言った。

「以上がぼくの物語です。ぼくはヨーロッパに帰る直前に熱病にかかり、死にかけました。それでも、何とかヨーロッパに帰るくらいの体力が戻ってきたのですが、それもこれまでのようです。ぼくはぼくが最後に見たことを誰かに話して聞かせたかったのですが、あの事件の当事者たちはみな死んでしまいました。そうなると今現在、あの翡翠の鎚を持っているあなたに話すのがよいのではないだろうかと思い、話すことにしました。お時間を取らせて申し訳ありません。失礼させていただきます」

 フランソアがそう言って立ちあがると、モンニョン氏は、是非とも自分のホテルに泊まってくれといい、最高級の続き部屋を用意すると言ったが、フランソアは断った。

「正直、今のぼくはいつ死ぬか分からないほど弱りきっています。万が一あなたのホテルで死んだら、あなたに迷惑がかかる。ぼくは大勢の人間を手にかけました。それにふさわしい死に場所があるはずです。パリは広いですからね。それを探しに行くつもりです。ここはお互い握手してお別れしましょう。それが一番です。さあ、握手してください。ぼくのために」

 そう言ってフランソアが差し出した手をモンニョン氏は握るしかなかった。弱った男の手にしては分厚く固い皮をした手であった。モンニョン氏はフランソアが辞退したにも関わらず、フランソアをホテルの正面まで見送りに出た。

 インヴァネス・コートのなかで縮んだ体をこわばらせながら、ケピ帽をかぶったフランソアが危なっかしい足取りで二輪馬車やワイン樽を積んだ荷馬車、ブーローニュの森目指して走る二頭引きのランドーを避けながら、モンテーニュ通りを渡り、フランソワ一世通りを北に歩いていくのをモンニョン氏は見守った。青いインヴァネス・コートはゆらゆらと風のない日の国旗のように力なくゆれていた。風が吹いた拍子に一瞬、モンニョン氏は目を閉じた。瞼を上げたとき、もうフランソアの姿はパリの雑踏のなかに呑まれて消えてしまっていた。


                               〈了〉

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フェアリー・テイル 実茂 譲 @013043

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