第30話
罪には問われずとも、植民地勤務は出来まいという陸軍省の意向が働いて、フランソアとデ・レオン大尉は本土勤務になった。フランソアは戦史編纂係でデ・レオン大尉は王女近衛連隊の連隊付き士官になった。王女とは一八四八年の革命でベルギーに逃げた、気に入らないことがあるとすぐにヒステリーを起こす女のことでデ・レオン大尉は居もしない王女を守るために軍で働くのだった。
一八五八年二月十日夜、ドーヴァー海峡を越えてメイベルラントの港フィリベルンを目指すフランス客船セバストポール号の甲板で二人の士官は冬用の軍服を着込み、寒空に冴えた星々と南の地平に見える街の灯を見比べて、白いため息をついた。
「あの灯のなかに――」デ・レオン大尉は言った。「掻き切るに値する喉があるのでしょうか?」
「それを言うなら翡翠で打ち据える脳みそだってありゃしないさ」
二人は客船のレストランに入った。白いアラバスターの傘がついた銅のランプが照らす黄色い光の丸みが船の揺れで微妙に形を変えるのがわかる。二人は給仕に炭酸水を頼んで、席についた。
「ヨーロッパに帰ることができるのを喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか、どうもわたしには自信がないのです」デ・レオン大尉が続きを始めた。「今になってわたしはわたしの犯した悪行の数々に責め苛まれるようになりました。ノヴァ・アルカディアにいたころには少しの痛痒もなかったことが、今になってわたしに襲いかかるのです。やはり、わたしはあの裁判のときに死んでおくべきでした。銃殺になるべきでした。わたしは人を殺しすぎました。人を殺したことを罪悪であると思い返しつつも、わたしはまた喉を切り裂く機会があったらぜひ切り裂きたいと思っているのです。ひどい矛盾に陥ってしまいました。デ・ボア大尉、あなたは確か、あなたを狂わせたのは美しい妖精たちだといいましたね? だと、するとわたしはあの文明化された都市によって狂わされそうです」
「ヨーロッパの土を踏めば、また見方が変わるかもしれないよ」
「そうでしょうか?」
炭酸水が届いた。乾杯、といってグラスをカチンと合わせて、喉を刺激する水を飲んだ。
「しばらく保養地に行って見るのもいいかもしれない。バーデン・バーデンやエクス・ラ・シャペルみたいな場所でゆっくり自分の矛盾と人生の帳尻を合わせるんだよ」
「そうですね」デ・レオン大尉も同意した。「それがいいのでしょう。わたしは自分の部屋に戻ります。デ・ボア大尉、あなたは?」
「もう少しここで飲むことにするよ」
「そうですか。では、また」
「ええ。また」
デ・レオン大尉はそのまま店を出ようとしたが、何かを思いついたらしくカウンターで紙とペンをもらうと何かを書きつけ、それを折ってバーテンダーに渡した。
デ・レオン大尉は店を出た。
デ・レオン大尉があんなに悩んでいることに自分が少しも同感していないことに多少驚きを禁じえなかった。デ・レオン大尉は処刑には趣向を凝らしていたから、あんなふうな善悪の矛盾にとらわれるとは思ってもみなかった。密林に呪術があるのなら文明化された都市にも呪術はあるのだろうか?
フランソアはホットワインを頼んだ。レモンの薄切りが浮かび、やや熱めのワインにシナモン・スティックが差してあった。しばらくシナモンでワインをかき混ぜて湯気のなかの芳香を愉しむと少し口にして胃を温めてやることにした。ワインが半分ほどに減ったくらいのころだろうか。給仕がやってきて、フランソアに手紙を渡してきた。
「自分が店を出てから十分後にお渡しになるよう言われました」
フランソアは二つ折りにされた紙を開いた――部屋に来てください。矛盾を解決します――そう書いてあった。
「ワインはそのままにしてくれ」フランソアは給仕に言った。「すぐに帰ってくるから」
店を出ると、すぐにデ・レオン大尉の客室に向かった。就寝中の札がドアにかかっていたが、構わずドアノブをまわした。
デ・レオン大尉はベッドの上で仰向けになっていた。喉は深々と切られていて、天井まで血が飛び散っていたし、シーツにも信じられないほどの大きさで血が広がっていた。靴を履いたまま、フロックコートは脱ぎ捨てられカラーとネクタイも床に捨てられていた。両手には黒く薄い手袋をはめ、ベッドの外に垂れた右手には例のナイフ付き手袋をはめていた。ナイフは切っ先から柄まで血に塗れていた。死に顔はきれいなものでもがき苦しんだ跡は一切なかった。自分の喉を切るとき、彼は最高の技をやってみせたのだ。フランソアはデ・レオン大尉の両手を胸の上に置いてやり、薄く開いた目を閉じてやった。こうして見ると、これが自殺の現場だとは信じられなかった。まるで何かの間違いで美しい天使が封じ込められ、復活の日を待つかのような荘厳ささえ感じられた。
部屋からレストランへ戻ると、残りのホットワインを飲んだ。どうやら店側はグラスごと軽く湯煎してワインの温度を少し上げてくれたらしい。フランソアは残りのワインを飲み、胃をぽかぽかと暖かくしてから、嬉しい気遣いに対して多めのチップを置いて店を出た。そして、自分の部屋に戻ると旅行カバンの底にしまっておいた翡翠の鎚を手にした。元々黒っぽかった木は血を吸い込んでますます黒さに磨きがかかり、翡翠も同様で人の血や脳漿にまみれるほどその美しさを増していった。翡翠に移る自分の顔はひどく疲れたものに見えた。
翡翠の鎚を手にしたまま、何の考えもなく船をうろついた。この鎚で自分は何をするのだろうか? 自分の頭を叩き割るか? 誰かの頭を叩き割るか? それとも海に捨てるか?
鎚を船べりの欄干に置いて手を重ねた状態で物思いにふけった。この鎚を使って殺した人々の顔を思い出そうとした。あの不敵な顔をしたタバークル准尉を殺したインディオ、陣地を探りに来たフォイ族の娘、ジョン・オレイブリー大尉……そこから先はもう思い出せないくらい殺していた。そのあたりから公開処刑がショーの形を取り始め、サン・ディエゴの広場で屋台に囲まれ、人々は自身に対して行使されない暴力にはとても寛容で――
「あの、ムッシュー」
後ろから声をかけられ、振り向いた。小柄な、だが、上品な身なりの男が立っていた。「フランス語は話せますか?」
「ええ」
「それはよかった。あの、こんなことをお尋ねするのは妙な話なのですが、あなたはメイベルラント人ではないですか?」
「ええ。いかにもメイベルラント人です」
「そうですか、そうですか。それで、また妙なことをお聞きしますが、あなたは南米のメイベルラント植民地からヨーロッパに帰られる途中ではないでしょうか?」
「ええ」
「やはり、そうですか。あの、こんなことをいうと妙な男だと思われるかもしれませんが、その、あなたの持っている翡翠の棍棒をわたしに譲ってはいただけませんか?」
「これが欲しいんですか?」
「はい。わたくし、考古学に凝っておりまして。特に南米の奥地の物となると、また手に入りにくいのです。わたしの見立てが間違っていなければ、それはフォイ族の戦士が使う武器のはずです。どうですか?」
「ええ。そのとおりです。ただ、見つかったのは別の部族の村ですが」
「ですが、その翡翠のはめ方は間違いなくフォイ族のものです。お召しになっているものから士官をされていると愚察いたしますが、きっと苦労してそれを手に入れたのですね」
「まあ、そういうことになるんでしょうか」
「品がないと思われるかもしれませんが、どうしても欲しいので単刀直入にいいます。五千フランで売っていだだけませんか?」
相手は小切手帳を出していた。五千フランと聞いて、古い記憶が甦った。
デ・ノア大佐が買ったスペイン製の死刑椅子。あれも確か五千フランだった。死刑用の道具にはどうも五千フランの価値がつけられる運命にあるらしい。
そのことで笑みが浮かんだのを、相手が誤解して、
「小切手帳では確かに不渡りを出されるかもと思われますね。当然です。では、フィリベルンの銀行で金貨で五千フランお支払いいたします」
「いえ」フランソアは首をふった。「差し上げますよ」
相手の顔は実に面白い顔をしていた。寒い冬の夜、納屋の湿った藁山のなかで眠った男が朝起きて、全てがシルクでできた宮殿のような寝室で目を覚ませば、きっとこんな顔をするに違いない。
「もう、ぼくには必要はないものです」フランソアは言った。「欲しがる人が持つべきです」
フランス人は何度も礼をいい、その無欲さと金銭に対する淡白さを褒め上げた。特にフランスではナポレオン三世が即位して以来、何でも金、金、金でどけて、片づけ、飾り立てる悪趣味な生き方をしている人間が多い中であなたは本当に素晴らしいお人だと褒めちぎった。あんまり誉められすぎたのでくすぐったくなり、危うくその翡翠の鎚で何が行われたのかを話すところだった。
「わたしはシャルル・モンニョンと申します」フランス人の紳士が言った。「もしパリに来ることがあったら、モンテーニュ通りの三十八番地にあるホテルをぜひお訪ねください。パリの右岸のホテルでラ・レジデンス・ド・プランスという名前です。受付にわたしの名前を言って、翡翠の鎚のことを伝えてください。それでわかるよう従業員に知らせておきますので」
「ええ。機会があったら是非とも寄らせていただきます」
「もし、よろしければ、お名前を教えていただけますか?」
「フランソア・デ・ボアといいます。階級は大尉です」
「これは面白い偶然だ。わたしの従弟にフランソワ・デュ・ボワという木材の卸売りをしている男がいます。フランソア・デ・ボア大尉。確かにお名前は覚えました。パリに着たら必ず寄ってください。モンテーニュ通りの三十八番地です。お約束しましたからね」
フランス人の紳士が行くと、フランソアの体は翡翠の鎚の分だけ軽くなった。なんだか、そのままふわふわ浮かんで寒空に冴えた光を投げかける星たちの仲間になれそうな気がした。自分はまだデ・レオン大尉を苦しめた矛盾を感じていない。
カンカンカンと音がした。金属を金属で叩く音だ。それは甲板の端に開いた網付きの小さな穴から聞こえてきた。通りすがりの航海士にこれは何の音かとたずねた。
「機関室の乗組員が金属のパイプを叩いて異常がないか確認しているところです」
航海士が行ってしまうと、フランソアはそのまま船の欄干に寄りかかってヨーロッパの地平に引かれた灯の線を見た。機関士たちがパイプのおかしなところがないか金槌で叩いて確かめる音を聞きながら、フランソアは水平線上に光の線となって現われたヨーロッパに翡翠で叩き潰す価値のある頭はあるのだろうかと一人思い、目を閉じた。
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