第27話
ノヴァ・アルカディア軍事総督にして陸軍大将シャルロ・デ・ノアは植民地の治安回復のためにピエーテルバルクを始めとする都市や村、居住区を軍政下に治めることを宣言した。憲法は停止し、裁判は全て法務士官による軍法会議により行われる。全ての共和主義政府支持者は国家反逆罪として逮捕されることを布告し、その罪状の如何によっては極刑もありうると脅した。さしたる政治思想を持たない、大人しい暮らしをしていたいだけの市民たちはこの軍政に震え上がり、何も出来ずにただ従った。ガフガリオン派市民は勝利宣言をし、まるで自分たちが街の支配者のごとく銃を担って通りを闊歩した。デ・ノア将軍はこのちゅうぶらりんの兵隊たちを自分の麾下に組み込むことにし、民兵隊のなかでも最も高名な人物として『パトリア』紙の社主であるパトリク・フレイカ氏を志願民兵隊の司令官として大佐に任じた。
処刑は毎日、閲兵広場で行われた。処刑が手軽なお芝居として民衆に人気があるのはサン・ディエゴ以来変わりなしだが、処刑する人種には変化が起こっていた。これまでフランソアとデ・レオン大尉が処刑してきたのはインディオか密猟をたくらんだ山師くらいのものだった。しかし、クーデター成功後、彼らが処刑することになった人物たちは共和政主義者の弁護士や技師、学者といった高名な人々に変わった。フランソアとデ・レオン大尉は命令どおり喉を掻き切って、頭を滅多打ちにした。その結果分かったのは、インディオだろうが白人の弁護士だろうが殺したときの手ごたえに何の変化もないということだった。
苛烈な軍政は多くの金を要求していた。兵士たちへ支払う給料を賄うために大農園主や工場所有者に対して軍税を賦課し、必要な物資を徴発したが、それでも足りず、デ・ノア大佐は主計士官たちと相談した結果、軍票を刷ることにした。刷れば刷るほど、軍は富む、ということになるだったのだが、あれだけの大勝利をおさめたにもかかわらず、市民や商人たちは軍票の価値に危なっかしいものを感じ取り、貨幣による取引に固執した。あろうことか軍にくっついていい思いをしていたはずの酒保の女商人までも軍票による支払いを拒んでいた。デ・ノア大佐の措置は非常に簡単なもので軍票の受け取りを拒んだ人間のうち、肉屋、魚屋、路上の床屋、荷担ぎ人夫、代書人、弁護士、馭者、富くじ売り、甘草水売りの老婆、そして酒保の女商人ら軍票の受け取りを拒んだものたちのなかから無作為に選んだ十人に対して、背中を十発ずつ力いっぱい棒で打つという罰が加えられた。普段殴られることに慣れていない市民たちは三発目の殴打でへなへなと膝の力が抜けるのだが、処罰役の兵士はそんなことはおかまいなしにきっちり十発ぶち込んだ。
これで軍票が金として通用するようになり、とりあえず目の前の問題は片づいた。牢獄には共和政支持者がぎゅうぎゅう詰めにされていたので、もう使われていない砲兵隊の要塞にまで共和政支持者を詰め込んだ。家族たちは地獄旅団の士官たちの袖にすがりつき、熱心なガフガリオン主義者に転向させてみせるから、夫を、恋人を、子どもを牢獄から出してくださいと涙を流して願うのだが、大抵の士官は行縢を穿いた足で女たちをじゃまっけに振り払い、ラム酒で心ゆくまで酔っ払いにいくのだった。
地獄旅団の兵隊たちはあちこちで乱暴狼藉を働いた。それが一週間も続くと軍紀の弛緩を感じたデ・ノア将軍は地獄旅団の精鋭による演習を閲兵広場で行いラッパと小太鼓の音に合わせて一糸乱れぬ素早い動きで横隊、縦隊、対騎兵用の円陣、散兵線と集中をやってみせた。ピエーテルバルクには地獄旅団への志願兵が引っ切り無しに現われたので、軍服が足りなかった。その結果、軍需係士官は要塞の地下に眠っていた黒のシャコー帽を使わなければいけなかった。この丈の高い首の疲れる帽子は生地が黒く、金色の王家の紋様を刺繍してあった。その刺繍をひっぺがし、チョークでドクロの紋章を描けばこれで立派な地獄旅団の一員となれるのだ。
ずっと前から地獄旅団のメシを食ってきた精鋭から「シャコー野郎ども」と蔑まれる新兵たちは黒のドクロシャコーとドクロを描いた黒の腕章を私服につけて町を練り歩いて、気まぐれに家宅捜索をしては女の独立を謳った婦人運動家のパンフレットや寝台の下に隠されていた共和国旗を見つけては反逆者を送り込んだ。
このころになると、処刑もフル回転で行われた。フランソアは全身が血まみれになり、乾いてガリガリと体じゅうにこびりついた血と脳漿の乾いたものが崩れる音を聞くことを覚悟して処刑に望み、一方、あくまでも返り血を浴びたくないデ・レオン大尉は例の黒の反物を体じゅうに巻きつけて、そのきゅっと細くなったシルエットで優雅に舞いながら首を切り裂いていった。このころになると、フランソアの手の皮は何度も剥がれては復活したために厚くなり、一日百人くらいの処刑ではびくともしなくなっていた。
翌日、処刑すべき人間は要塞に詰められているが、こう処刑士官を酷使しては身が持たぬであろうということでフランソアとデ・レオン大尉は休暇を二日ほどもらった。そのあいだ、処刑は銃殺と絞首刑、気が向いたらサーベルで首を飛ばしてみる予定だと言っていた。
二人の着ている黒い士官用の上衣が人々を脅えさせ、商店の主たちは価値の定まっていない紙切れと引き換えに品物をむしりとられるのかと警戒していた。河口のピエーテルバルクの最北端には大海原が広がっていた。浜辺に寄せる波の光が徐々に水平線へと集約されていく様子などはとても感動的で椰子の葉のざわめきを聞きながら、ずっとここでこうしていたいものだと思っていた。もう何人処刑したか覚えていないが、二百人は必ず処刑しているはずだった。デ・ノア大佐あらため総督は処刑は人々の畏怖を勝ち取る最大の道具と主張している。確かに処刑の恐ろしさに大半の人は口をつぐむ。黙って従う。寄こせと言われれば一人娘の処女までも与えかねない。だが、フランソアとデ・レオン大尉の見立てではそうした脅えた人々の他に怒りに燃えた人々も少なからずいるという意見の一致があった。彼らが密林に潜み、地獄旅団の駐屯地へしつこく攻撃を仕掛け、自分たちは死んでもいないし、お前たち侵略者におれたちの世界を破壊することなど出来はしないのだ、と激しく咆哮するたびにデ・ノア大佐あらため総督は怒り狂って、近くの村の無関係の村人を連帯責任の名の下に処刑させ、新たな畏怖と同時に不屈の反抗心を植えつけているのだった。
高い椰子の並木がある海沿いの道を歩いていると郵便船が停泊しているのが見えた。昔の自分ならすぐにすっ飛んでいって自分をヨーロッパに戻してくれる素敵な報せがないものかと探してまわったものだが、ここにきて二百人以上の老若男女の頭を叩き割ってから考えると、どうでもよくなってきてしまった。残るなら残る。旅立つなら旅立つ。好きにすればいい。
「あっ」フランソアは気がついた。「なんてこった」
「どうかしました?」デ・レオン大尉がたずねた。
「この心境だ。連中はこの心境で死んでいったんだ」
連中とは? この心境とは? それをデ・レオン大尉がたずねようとした瞬間、新聞の束を抱えた男が銃を持ったシャコー野郎に追いかけられていた。新聞男は新聞をばら撒きながら、こう叫んだ。
「本国のクーデターは失敗! ガフガリオンはベルギーに亡命したぞ!」
人々は集まって、その新聞を読んだ。それによると、ガフガリオン将軍は統一地方選挙で票数を伸ばしたため、その国民的支持と軍の支持を背景に独裁を成立させようとしたが、士官の半分が共和派にまわり、下士官たちはガフガリオン派につくも兵士は五分五分、致命的なことにガフガリオン将軍が頼みとしていた将官たちが土壇場でひるみ、共和国支持にまわったらしい。共和国派の連隊がガフガリオン派の民衆に向かって行軍すると一発の銃が撃たれることもなく、民衆の行進は海に落とした角砂糖のように溶けてなくなった。逃げている民衆の先頭には馬に乗ったガフガリオン将軍がいて、彼はこういうときのために確保していた宝石とイギリス政府発行の年金つき国債をトランクに詰め込むと、そそくさとベルギーに亡命した。ガフガリオン派の領袖は次々と逮捕された。北アフリカでも同様でテルム将軍は身柄を拘束されて、共和国派が北アフリカを握った。結局、蜂起が成功したのはノヴァ・アルカディア植民地のみだったのだ。
銃声が鳴って、新聞男は道に倒れた。新聞を拾い読みした人々は下手な危険を背負うことはないと思って新聞を捨てると、とっとと家のなかに逃げ込んだ。
この新聞はデ・ノア総督のもとにも届いた。彼は書記官を呼び、以下の命令を口述した。
ノヴァ・アルカディア軍事総督布告第二三号
根拠のない流言を敷衍することにより治安を紊乱せんとするものは
これを例外なく極刑とする。
陸軍大将シャルロ・デ・ノア
「情報がもっと欲しい」デ・ノア総督は総督邸の中庭で黒人の召使いに団扇で風を送らせながら、揚げリンゴに噛みついていた。「やつらがどれだけ用意してくるのか? それが分からんとどうにもならない」
その日から外国の新聞を下ろすことの出来る桟橋や港の全てに地獄旅団の兵士たちが派遣され、新しい新聞が荷物に混じっていないかどうか、詳しく調べた。そして、新聞を見つけると、それがデ・ノア提督の前に届けられた。これに逮捕を免れ潜伏中の本国のガフガリオン派からの情報を合わせた結果、歩兵四個師団を中心とした討伐遠征軍一万六千が編成され、アドルフ・シャンガレオン陸軍中将が軍司令官に着任した。
終りは間近に迫っていた。
どれだけ緘口令を布こうが、人の口には戸を立てられず、本国の正規軍が一万六千もやってくる。こっちは地獄旅団の二千二百と兵隊気取りの新米が八百、それに志願民兵隊と名を変えた有象無象の愚連隊どもがたくさん。
すると、街に変化が現われた。今まで傲岸な様子で軍票を切って欲しいものを手に入れてきた地獄旅団の士官たちがきちんと銀貨で支払うようになったり、急に物分りがよくなり、実は自分が地獄旅団に身を置くことになったのは数奇な理由があって、など士官や熟練の兵卒たちが臆病風に吹かれだした。上がそのざまなのだから、「シャコー野郎」は自分たちはまだ何もしていないから、たとえ共和国側が勝ったとしても罪にはならないはずだと言い合って、やや性急な選択をしてしまった自分たちを勇気づけようとしていた。志願民兵隊は私服に黒のシャコー帽と腕章しか身につけていない。もし、味方が負けそうになったら、腕章を外して、武器を捨て、シャコー帽を捨てて、ポケットに入れておいた鳥撃ち帽をかぶって民間人のふりをすればいい。そう考えて、どちらが勝ってもいいように自分の立場を置こうと必死になった。
後戻りはできないし、するつもりもないデ・ノア総督は揚げリンゴを食べながら、砲弾の少ないことと正規の地獄旅団が二千二百で、残りは烏合の衆、正規軍とぶつかれば簡単に潰れるだろうことを考えていた。
海岸で迎え撃つのはやめよう。相手はどうせ海軍の援護射撃付きだ。こうなったらバリケードをつくって市街戦に持ち込んで、相手に出血を強いらせるしかない。ノヴァ・アルカディア軍事総督の戦い方というものがどういうものであるか、はっきり教えてやる。だが、その前にやることがある。
その大量処刑にはフランソアもデ・レオン大尉も加わらなかった。三百人以上の共和政支持者たちは監獄から出されて一隻の商船に乗せられた。ひどく古い船であり、もう何ヶ月も前から船主が買い手を探していたのだが、誰も買わずにただ時間だけが無駄に流れ、停泊費用もまた無駄に流れていった。デ・ノア総督はそれを軍票で買い取り、要塞牢獄のわずかな食事と届かぬ日光、度重なる拷問で弱りきった共和政支持者たちを詰め込めるだけ詰め込んで船倉にがっちり鍵をかけた。そして、船の底に穴を開けた。船は二十分とかからず、海に消えた。
ガフガリオン派以外の市民の銃火器の所有を禁ずる布令も出すことにした。これで反ガフガリオン派を骨抜きにするうつもりだったのだが、市民たちは武器を手放したくないという理由でガフガリオン派志願民兵隊に入隊した。そして、彼らは志願民兵隊に怠惰と無関心を持ち込み、まことしやかにこうささやいた。「本国から一万五千。それに対して、おれたちはせいぜい多く見積もっても三千いくかいかないかだ。しかも、それにはおれたちみたいな烏合の衆まで含まれている。戦争になれば、皆殺しは間違いない。助かりたかったらおれたちの言った通りにするんだ」
こうして志願民兵隊は内側からゆっくり崩れていった。
ついにとうとう志願民兵隊司令官であるフレイカ大佐が本業の新聞発行が忙しくなったので、司令官大佐の任を辞したいと言ってきた。
「大佐。この部屋から出る方法は三つある」デ・ノア総督は諭した。「一つは志願民兵隊の司令官として男らしく扉から出て行く。二つ目は本土が共和国派に落ちたなどどいうデマを信じて脅えて神聖な義務を蜂起した腰抜けとして叩き出される。そして、最後の一つはそこの窓から貴様を投げ捨ててやる。さあ、選びたまえ、大佐」
デ・ノア総督は特に信用できる兵卒を各隊から引っぱってきて、〈総督親衛隊〉なるものを発明した。これの意味するところはデ・ノア総督はもはや部下すらも信じてはいなかったということになる。事実、夜中に襲いかかられるのを防ぐために、デ・ノア総督は毎夜寝る場所を変えた。自室や客間はもちろん、ダイニング・ルームのソファで寝たこともあったし、台所に軍用の折りたたみ式寝台を持ち込んで寝たり、誰にも告げずに納屋の二階で手の届く位置にリヴォルヴァーを置いて眠ったこともあった。
このあいだ、処刑士官であるフランソアとデ・レオン大尉は完全に忘れ去られた。即決裁判と即時処刑が当たり前となり、町のあちこちで銃声がなり、銃剣が肋骨を削るぞりぞりという音が聞こえてきた。瞬きするあいだに町のどこかで人が殺されていた。というのも、ノヴァ・アルカディア軍事総督布告第二十四号が正当な許可なくピエーテルバルクを離れようとするものは例外なく極刑に処す、と名言していたからだ。人々は確実に戦火に巻き込まれるであろうピエーテルバルクから離れたくても離れられなかったし、店屋や家を持つものも自分の財産を守るためにはやはり町を離れるわけにはいかないのだと半ばあきらめる調子で悟っていた。
扉のない門のような造りをした通りへの入口に蜥蜴の男が吊るされていた。黒板にチョークで書かれた説明によれば、この男は市外へ逃れるための許可証を偽造して何人かの富豪に売り渡していたらしい。
住民のうち半分は固く戸を閉ざして、暴虐の全てが終わるのを震えながら待ち望み、もう半分はこの殺戮と略奪に加わって、十分儲けさせてもらったら頃合を見て敵に寝返ろうと考えていた。
十一月三日午前十時、もうじき雨季が始まろうというとき、ついに討伐軍が現われた。甲鉄艦を含む戦艦五隻、砲艦十五隻に守られながら、兵員輸送船がまるで高級棺おけのような厳粛さを帯びてピエーテルバルクへと進んできた。
早速沿岸砲を発射したが、これにデ・ノア総督は期待していなかった。旧式でこけおどしにしかならない。事実、これまでは午砲の合図に使われていたのだ。政府軍の軍艦は河口を通り過ぎて、砲艦二隻がセント・アリシアへつながる街道を射程におさめて敵の退路を断ち、海軍の軍艦たちはピエーテルバルクに横っ腹を見せて、一斉に射撃した。火の雨がふって、瓦礫の間欠泉が沸き立つと、民兵だけでなく、筋金入りの旅団兵まで度肝を抜かれた。インディオたちはこんな大口径の砲で撃ってくることなどなかったからだ。五度の一斉射撃で河岸の敵を駆逐したと見なした政府軍は輸送船から兵士をカッターに移して、陸地へと運ばせた。崩れた白い街並みからくすぶって出た黒い煙が青い空のなかへしぶしぶと未練がましく溶けていった。桟橋や河岸は次々に制圧された。奥まった市街の建物やバリケードに潜む旅団兵たちは焦る心を必死に抑えて、兵士たちが上陸するのを見守った。どんどん数が増えていく。最初は三百かそこらだったのが、今では二千を超えている。しかも、それは目の前にある浜辺の話で北の浜辺にも同規模の敵が上陸しているはずだった。
そのとき新聞社のある区域から志願民兵隊の一団がぞろぞろ出てきた。司令官のフレイカ大佐を始めとする彼ら五十名は銃を捨て、黒いドクロのシャコー帽と腕章を捨てると、降伏を申し出でに言った。
これを間近で見ていた北アフリカ以来の筋金入り、猟兵大隊の指揮官であるディアト少佐は愛用のホイットワース銃でフレイカ大佐の頭を狙って引き金を引いた。怒りで手が震えていたせいもあってか、弾は逸れて、フレイカの隣の少年兵の肩から脇腹を貫通した。民兵たちはパニックになり我先にと敵陣に雪崩れ込んだ。政府軍も反撃したため民兵隊は哀れ、両者の撃ち合いに挟まれて次々と撃ち倒された。武器を保有するためだけにガフガリオン派民兵になった反ガフガリオン派はドクロの帽子と腕章を捨てるとあらかじめ用意しておいた共和国軍のケピ帽と三色旗の腕章をつけて、目に入った旅団兵やガフガリオン派民兵目がけて手当たり次第に銃弾を浴びせた。この民兵に潜めた反ガフガリオン派民兵のことはすでに地獄旅団の内部にいた密通者により知らされていたため、政府軍はピエーテルバルク北部の建物やバーケードに籠る反乱兵(政府軍は旅団兵をそう呼んだ)を味方の民兵と挟み撃ちにすべく打って出た。背後から弾が飛んでくるや旅団兵たちはバリケードを捨てて左右の住宅に入りそこから狙撃した。民兵と正規軍も建物に続いて入り、長椅子を弾除けにしようとしていたり、弾を込めなおしている旅団兵に銃弾を浴びせ、二階、三階と追いつめられ、撃たれた旅団兵がカーテンを引きちぎりながら屋根つきのバルコニーから落下したり、屋根から飛び降りて首の骨を折るなどしていた。
北の旅団兵一一〇〇が瓦解寸前に陥るなか、東へ配置した一三〇〇は善戦を続けていた。政府軍の突撃を二度跳ね返した。遺棄死体は約三十ほどで、特に猟兵大隊の活躍が目覚しかった。彼らはあらかじめ一区画の民家の壁をぶちぬいて、民家から民家へ外に姿を晒すことなく移動できたのだ。敵は三度目の攻勢を仕掛けたが、これも猟兵大隊の正確な射撃に迎えられ、遺棄死体を十五ほど増やして逃げ帰って行った。この強力な猟兵大隊の活躍ぶりに日和見のシャコー野郎や民兵たちも多少は勢いづいた。
「この戦いが終わったらディアトを少将に昇任させなければならんな」デ・ノア総督は司令部のある総督邸の屋根の上から双眼鏡で戦場を見ていた。「見ろ。あれこそ本物の戦士だ。それに比べて北部は何てざまだ」
デ・ノア総督は知らなかったが、政府軍が猟兵大隊の潜む区域に何度も無謀な突撃をしたわけはずばり猟兵大隊の壊滅のためであった。猟兵大隊の反撃で彼らがどの位置にいるのか地図で正確につかめていた。砲兵隊の大佐が三門の臼砲を発射し、猟兵大隊の籠る区域の建物を次々と潰していった。臼砲が全部で十五発撃ち込まれたところで再度突撃させた瓦礫の山と半壊した建物、それに黒い猟兵たちの死体が散らばる区画にきらびやかな特注品の軍服を着た中尉が先頭に立ち兵を入れ、瓦礫のてっぺんに高い旗竿を立てさせ、共和国旗を掲げさせた。その瞬間、銃弾が着飾った中尉の心臓を撃ち抜いた。中尉が倒れると、兵士たちは伏せ射ちの姿勢で銃を撃った男――ディアト少佐を銃剣で滅多刺しにした。だが、その必要はなかった。両足がちぎれ、左腕がもげ、右手も薬指がへしゃげていた少佐は最初の銃剣が背骨に当たるその直前に絶命していたからだ。
北部では旅団兵が政府軍と民兵を相手に絶望的な戦いを続けていた。砲と兵の数で負け、民兵たちは浮き足だち、反ガフガリオン派の民兵たちは銃をとって立ち向かってくる。そのなかには『リベラル』紙の社長とデ・メス記者もいた。二人は総菜屋の未亡人にかくまってもらって、何とか命をつないだのだ。二人は政府軍の反攻が始まるや否や外に飛び出し銃を探した。幸い旅団のズアーヴ兵が倒れていたので、デ・メスはそれを失敬した。社長は総菜屋の死んだ旦那が使っていたという猟銃と角の火薬入れを手にしていた。二人は背の低い椰子畑を囲む腰丈の板壁に隠れながら、黒い服を着た悪魔たちに鉛弾を撃ち込んだ。
人狼のレーゼンデルガー中尉はドイツ語混じりに毒つきながら、自分の小隊をまとめようして吼え叫び、反撃の咆哮を上げた。デ・メスの銃弾がその喉を引きちぎってもっていってしまうと、レーゼンデルガー中尉は仰向けに倒れて、喘鳴していたが、まわりの兵士は中尉を助けたり、どこから撃たれたのか探ろうともせず、とっとと逃げて行った。馬に乗ったヴィンセン・エラン大尉が怒鳴りながら隊列を維持しろと馬でぐるぐる広場をまわっていた。彼は臆病風に吹かれた軍曹の頭をサーベルで割り、兵卒の首を皮一枚残して斬った。
今度は椰子に隠れていた社長が撃った。振り回していたサーベルは空高く、握っていた腕とともにくるくるとまわりながら飛び上がって地面に落ちた。肘から先は折れた木の枝のように割れた骨とちぎれて垂れた青い血管があるのみで、枢機卿の帽子よりも鮮やかな赤の血が放物線を描くように飛んでいった。エラン大尉は呆然として馬に乗ったまま、後方へ走って行った。
その後も社長とデ・メスは武器や腕章を捨てながら通りがかるガフガリオン派民兵に裁きの銃弾を浴びせた。政府軍の先遣隊が死体だらけの十字路を見て、警戒したところに社長とデ・メスは「共和国万歳!」と叫んで、自分たちは『リベラル』紙の社主と記者であり、反ガフガリオン派の民兵であることを知らせた。
「これまでさぞ辛かったでしょう」先遣隊の大尉が言った。「後は我々が引き受けます」
その後、社長とデ・メスは陸続とやってくる正規軍兵士に――赤いケピ帽に青い外套、筋入り赤のズボンに白いゲートルをつけた若者たち――「共和国万歳!」と叫んだ。
総督邸で北の旅団兵が崩れたのを見た第一副官のテーケ大佐は自分が現場に行って、敗走寸前の部下たちを叱咤激励してきます、というなり身を翻して、総督邸の厩舎に飛び込み、火花も散るほどの激しさで石畳の道を駆けて、総督邸の敷地の外へ出ると、北部の戦場へかけていった。そして、総督邸から見えない位置まで来ると歩調を緩め、馬から下りて、敵を探した。敵はいた。十四歳の少年を含むガフガリオン派の民兵を壁に並べて銃殺にしていた。テーケ大佐は白いハンカチを振りながら、銃殺隊に近づいた。
軍曹の徽章をつけた狐人が言った。「お前も銃殺されたいのか、デブ猫のおっさん」
テーケ大佐はゆっくりと懐に手を入れて、書状を出すと言った。「これはシャンガレオン将軍直筆の文書だ。わたし、テーケ大佐を見つけたものは彼を速やかに司令部へ連れて行くように書いてある。わたしがこれまで地獄旅団の内容を密かに報せてきたことを評価していることも書いてあるはずだ。民兵隊に反ガフガリオン派民兵が紛れ込んだことを内通したのもこのわたしなのだ」
「字ぐらい読める」軍曹は書状を突っ返した。「まあ、いいさ。銃殺には飽きたところだったしな」
そういって笑う銃殺隊について行きながら、テーケ大佐は左の壁を見た。少なくとも数十名の旅団兵、シャコー野郎、民兵が銃殺されていた。
テーケ大佐が一向に帰ってこないことにいらつきながら、戦線が徐々に狭まって、総督邸へにじり寄っていることにもどかしさを感じ、今までのように最前線に立って、「兵士たちよ、わしに続け!」と一発喝を入れてやりたかった。だが、彼はもはや一介の大佐ではなく、陸軍大将でありノヴァ・アルカディア軍事総督なのだ。匹夫の勇への誘惑を断ち切らなければいけない。
頭に血の滲んだ包帯を巻いた先任士官コラーデン大佐が泥だらけになって報告に訪れた。「北部、東部、ともに瓦解は時間の問題です。残りの兵員を全て投入してセント・アリシアへ繋がる道に突破口を開きましょう。一度、退却してセント・アリシアでもう一度再起を図るのです」
「ここで負ければ、セント・アリシアでも負けることは変わらん。それにわしはノヴァ・アルカディア軍事総督である。総督府にいることは神聖な義務だ」
「閣下!」コラーデン大佐は叫んだ。「神聖な義務よりも現実の銃弾に目を向けてください。このままでは手遅れになります」
デ・ノア総督は鈍い目をコラーデン大佐に寄せた。それはデ・ノアが誰かを処刑してやろうと考えているときに見せる目だった。だが、処刑士官は二人ともそばにいなかった。だから、コラーデン大佐は処刑されずに済んだ。
コラーデン大佐は再起を図る可能性が潰えたことを悟ると、騎兵隊指揮官のルイ・マノア少佐とともに最後の突撃を行うことにした。屋上から二階に降りると総督親衛隊の若者たちが全ての銃に弾を込めて、一人五丁のミニエ銃を窓のそばに置いて、敵の襲来に備えていた。一階の歴代総督の絵が並んだ廊下でルイ・マノア少佐を見つけた。
「駄目だったよ、少佐」コラーデン大佐は言った。「そっちはどうだね?」
「厩舎が直撃の一弾を食らいました」マノア少佐は消沈した様子だった。「部下もだいぶやられています。わたしの騎兵隊は馬も部下もろくにいないのです」
「わたしは最後の突撃にかけるつもりだ。我々は残虐非道で略奪と風紀を乱すことにかけては天才的な集団だった。だから、そんな集団にも華々しく死ぬことができる軍人がいることを教えてやりたい」
「ご一緒させていただきます、大佐殿」
二人は三十人の兵を集めると、そのまま東へ進んだ。途中で見かけた兵士が半ば絶望から大佐の突撃に加わった。左手を怪我していて右手で手斧を持つしかない負傷兵や弾を使い果たし銃剣突撃するしかないものも参加した。
大聖堂前の大きな広場に着いたころには決死隊は一二〇名に増えていた。彼らの目線の先にある大聖堂には共和国旗が高々と掲げられていた。広場に人気はなく、いくつかの死体が倒れて血溜まりをゆっくり石畳に染み込ませている。大聖堂前には富くじ売りの車輪付き屋台が放置されていた。風が吹くと未来の百万長者を生み出すかもしれない紙がバタバタと音を鳴らしていた。
広場へ通じる通りは三つでそのうち一つは西の総督邸方面から続いていてコラーデン大佐が占拠している。残り二本の通りは政府軍に占領されていた。大聖堂は政府軍の軽歩兵の手に落ちていて、試験的に装備した後装式ライフルで敵の襲来を待ち構えていた。
「あの大聖堂に――」コラーデン大佐が説明した。「我が旅団旗をかかげる。旗手が倒れたら別のものが旗を持て。旗を奪われても、地面に倒してもいけない。この旅団旗が我々の生きていた印だ」
そう言うと旗の標語〈服従か、死か!〉を指差し、「これだ。これこそが我々の生きた証だ。我々がやつらに服従することなどありえないことを見せてやろう! 全軍突撃!」
サーベルとリヴォルヴァーを手にしたコラーデン大佐を先頭に一二〇人の旅団兵が広場へ走り出た。広場に注ぎ込む通りのうちの二つ、政府軍が押さえている通りと大聖堂に籠る軽歩兵の窓から銃撃を受けた。味方が倒れていく。旗手が倒れると、そばの兵士がライフルを捨てて旗を拾った。大聖堂のステンドガラスに白い煙がパッと上がるたびにコラーデン大佐はリヴォルヴァーで撃ち返した。新型のライフルで武装している軽歩兵からは半ば信じ難い速度で銃弾が降ってきた。見上げた大聖堂は美しい青空を背景にして死を降らしてくる。弾を後ろから込めるだけでこうも違うものなのかと関心すらした。
ハッとしたコラーデン大佐は真っ白な石を敷きつめた広場を逃げ切って部下たちが叩き壊した扉を通りぬけて青いケピに赤のバンドをしている軽歩兵たちと対峙した。軽歩兵たちは二階の回廊や柱に螺旋状につけられた説教台から狙い撃ちしてきた。銃撃を避けようとして両側面の柱廊に逃げ込み、柱に隠れて撃ち合った。両手にリヴォルヴァーを持っていたルイ・マノア騎兵少佐が大聖堂に飛び込んでくると、早速説教台にいた軽歩兵の胸を撃ち抜いた。
階段を上げると、マノア少佐が先頭を切った。回廊に飛び出すと銃を握った腕を左右に伸ばして軽歩兵二人を同時に撃ち倒した。マノア少佐はそのままスリップしたように倒れると後ろで彼の頭を狙っていた軽歩兵が誤って引き金を引き、マノア少佐の向こうにいる軽歩兵を撃ってしまった。誤射した兵士の混乱は長く続かなかった。ごろりと転がって体勢をうつ伏せにした少佐に頭を撃ち抜かれたからだ。
このころになると軽歩兵の数の少なさが徐々に明らかになってきた。相手は五十しかいなかった。
「こっちは九十ってとこか」マノア少佐が広場の遺棄死体を見ながら言った。大佐は屋根に出た。蛙の軽歩兵が一人銃を捨てて両手を上げたが、黒人のズアーヴ兵はおかまいなしに撃ち殺した。二十メートル離れた屋根の縁には軽歩兵部隊の指揮官がいた。死に場所を見つけたコラーデン大佐は吼えながら走った。驚いた指揮官やまわりの軽歩兵が撃った何発かは筋を切り、骨を断ち、肉をそぎ落としていたはずなのに痛みは感じず、体の動きが疎外されることはなかった。軽歩兵指揮官はサーベルの切っ先が自分の胸にささると信じられないといった様子でコラーデン大佐の顔を見た。そのサーベルがどんどん差し込まれ、ついに柄が腹にぶつかるまで刺されて切っ先が背中から飛び出たとき、軽歩兵指揮官は心に決めた。こいつを巻き添えに逝こう。指揮官はコラーデン大佐の袖をがっしりつかんで後ろに倒れようとした。その瞬間、コラーデン大佐が笑った。始めからそのつもりだったんだ! 軽歩兵指揮官がそう悟ったときにはすでに二人とも宙にいて、道に放置された富くじ売りの屋台に落ちていくところだった。
鐘楼に昇った軽歩兵たちも殺されて、軽歩兵たちが一掃されると、共和国旗が引きずりおろされ、ドクロに交差した骨に〈服従か、死か!〉の標語が音を立ててなびいていた。
本番はこれからだった。
ルイ・マノア騎兵少佐と残った七〇の兵士たちは広場を埋め尽くして、大聖堂奪還を目指す五〇〇の政府軍を何の援護もないまま、迎え撃った。軽歩兵たちと同じやり方で二階の回廊から一階の兵士たちを撃ち下ろした。政府軍が階段を昇ると銃撃戦と白兵戦が起こり、旅団兵がみるみるうちに減っていった。
二箇所を銃剣で刺され、胴に三発、左手に一発銃弾を撃ち込まれたルイ・マノア騎兵少佐は朦朧としたまま、死に場所を求めて流血の巷を歩き回った。いつのまにか屋根に出ていた。屋根はすでに四人の政府軍兵士に占領されていた。四人は血まみれの旅団士官の出現にぽかんとしたが、すぐに状況を把握して担っていた銃を構えようとしていた。四人が銃を構えるよりもはやくマノア少佐の撃った四発が四人の心臓に食い込んでいた。
後ろでカチリと撃鉄が上がる音がした。銃声は聞こえなかったが、自分のハラワタの半分が外に吹っ飛んでいったのが見えた。後ろを向くとまだ少年のような政府軍兵士が泣きそうな顔で銃弾を込めようとしていたが、あせって槊杖を取り損ねて落としてしまった。マノア少佐は少年兵の頭に銃を突きつけた。「助けてください! 助けてください!」と哀願してきた。引き金を引いた。少年の頭の後ろ半分が吹き飛び脳みそが飛んでいった。
「こっちは内臓で、そっちは脳みそ。これで五分五分だ」
たちまち屋根に三十人近い政府軍兵士が現われた。
「子どもを殺しやがった!」
「いかれたクソ野郎め!」
マノア少佐はにやりと笑った。人の内臓吹っ飛ばしておいてお咎めなしなんてありえない。戦争ゲームに参加するなら、女だろうが子どもだろうがペナルティはしっかり受けてもらわなくては。
「撃て!」誰かが命じた。
三十発の弾丸がルイ・マノア騎兵少佐から肉や内臓をこそぎ落とした。骨とわずかな肉がくっついただけのマノア少佐はその場に崩れ落ちた。
大聖堂の旅団旗が降ろされ、再度共和国旗が掲揚されたのを見ると、士官の何人かはコラーデン大佐たちの敢闘ぶりに涙した。もはや戦闘に民兵が関わることはなかった。ガフガリオン派は溶けてなくなったし、反ガフガリオン派民兵には後方支援にまわらせたからだ。各大隊はあちこちで破れ、大隊旗を奪われた隊もあった。デ・ノア総督は大隊旗を奪われたまま退却してきた肥満体の蜥蜴の大隊長をその場で銃殺刑に処した。
その処刑の有り様をフランソアは総督邸の窓際に立って見ていた。彼には陰謀にまつわる事前の相談はなかったし、他の士官のように動かせる部下もいなかった。フランソアとデ・レオン大尉は本物の戦争がやっているなかでチェスをしていた。だが、それも銃弾が一発、窓ガラスを突き破って、ルークを弾き飛ばし、壁に刺さるまでの話だった。
「このままだと陽が暮れる前にここは落ちますね」デ・レオン大尉は言った。「逃げないんですか?」
「どうしたものかな」フランソアは気乗りしない様子でたずねた。「そっちは?」
「どうも逃げようという気力が湧いてこないんですよ」
「どうせぼくらは処刑だからね。問題は誰がぼくらの処刑をやるかだ?」
「こんなのはどうでしょう」デ・レオン大尉は言った。「あなたがわたしの頭を割るのと同時にわたしがあなたの喉を切り裂く」
「そんなにうまくいくかな?」
「できますよ」
「どうせ銃殺か絞首刑だ」
「わたしたちの技術が継承されないなんて」デ・レオン大尉は、はあ、とため息をついた。「一番の落胆はそれです」
「ぼくの処刑に技はなかった。とにかく手の皮がむけるまで殴る。それで慣れるしかない」
総督邸の大きな前庭には植民地をつくった冒険家ジャン・デ・エレフトの銅像で道が交差していて曲がり角には街灯がついていた。庭の植物は背の高い椰子と芳香性のある白い花をつける潅木が主になっていた総督親衛隊は鉄柵から敵が街路に姿を見せるのを待っていた。鉄柵についていた親衛隊員の一人が発砲した。ついに総督邸を巻き込んだ戦いが始まった。
東側から政府軍が一斉に湧き出して銃撃を開始した。たちまち親衛隊員二人が倒れたが、精鋭を選んだだけあって誰一人ひるむことなく弾込めと発砲を冷静に繰り返している。だが、政府軍も精鋭の擲弾兵連隊を二個投入していた。総督邸に残っている親衛隊員の数は六十を切っていたので、総督邸が落ちるのは時間の問題だった。デ・ノア総督は屋根から総督の執務室に移動した。そして、顔を真っ青にして自分たちの運命について悲観しているなか、総督は炊事兵を呼び出すと「揚げリンゴを作れ」と命じ、目を閉じた。
まるで総督邸の戦いを他人事のように見ていたのはデ・ノア総督だけでなく、二人の処刑士官も同じだった。処刑に携わった時点でいずれは報いを受ける。フランソアに不思議なのは自分のなかに特別な凶暴性もないのに、どうしてあんな残虐な処刑をやってのける胆力のようなものが存在していたのか、これは最後まで謎のままだった。しかし、死ぬ前にどうしても解き明かしたいほどの謎でもないので放っておくことにした。
デ・レオン大尉は少し前からテーブルに頬杖をしたまま、静かに寝息を立てていた。これだけの容姿と声があれば、役者か聖歌隊の一員になれたはずなのだが、植民地の不思議な呪術によって、この天使は殺戮を司った。
政府軍の大砲が何度も火を吹いた。庭の椰子が吹き飛び、中庭を囲う回廊が吹き飛んで回廊に瓦礫が流れ込み、そして総督邸の鉄の門が吹き飛ばした。開けた突破口へ政府軍の兵士たちが突撃した。総督邸の窓から狙い撃ちにされ一人二人と倒れたが、倒れた人数の数十倍の人間が雪崩れ込んでいるのだ。鉄柵についていた親衛隊は皆殺しにされ、総督邸の窓や扉、台所の裏口から政府軍の兵士が雪崩れ込んだ。デ・ノア総督と側近の士官たち、それにミニエ銃を持った親衛隊員たちは政府軍の来るのを息を飲んで待っていた。
「反逆者の首魁シャルロ・デ・ノアはいるか!」
デ・ノア総督はそれに返答した。「そんなものはおらん。ここにいるのはノヴァ・アルカディア軍事総督にして陸軍大将のシャルロ・デ・ノアだ」
扉の影から政府軍の少佐が一人姿を見せた。きちんと整えられた口髭に痩せ型の少佐が現われ、踵を鳴らした。
「第十二フュージリア連隊第一大隊長アンソン・メゼ少佐であります。閣下を国家反逆罪により逮捕します。ご同行願います」
「断ると言ったら?」
「わたしの後ろにいる銃をもった部下たちが力ずくで閣下を引きずっていくでしょう。生死にかかわらず。わたしは閣下の尊厳を守るべく遣わされました。ご返答はいかに?」
デ・ノア総督は切った揚げリンゴの一つを口に入れて、その甘ったるい味を十分楽しんだ。そしてフォークを皿に放ると、
「わかった。従おう」
と立ち上がった。
外の前庭では政府軍兵士たちが連れ出されたデ・ノア一行を一目見んとして詰めかけており、また勝利を祝って銃が空に発射されていた。彼らはデ・ノアと側近の士官、親衛隊の生き残り、そして炊事兵までも連れて行った。フランソアは幽霊のように窓辺に立ち、いつ自分たちの部屋へ政府軍がやってくるのかと思って、待っていた。隣の部屋まで調べたのは音で分かった。そして、この部屋が調べられるとき、政府軍の兵士が地下にある総督の酒のコレクションのことを言及した。兵士たちはフランソアの部屋を放って、地下の酒蔵へ向かっていった。
デ・レオン大尉が目を覚ますと、優しげに微笑んで、
「ここはもう地獄ですか?」
と、たずねた。
「いや」フランソアは答えた。「まだ生きている。彼らはぼくらを捕まえにこなかった」
「じゃあ、こちらから出頭しましょうか?」
フランソアはうなずいて、ジョアンから翡翠の鎚を受け取ると、自分の持っている金貨を全部ジョアンの懐に突っ込んで言った。
「お別れだ、ジョアン。きみはこれから本当の意味で自由になる」
「おれぁ旦那のそばを離れたくありません。旦那がいなくちゃ、おれはどうしたらいいかわからねえんです。おれは本当の自由じゃなくて、旦那の下での自由がいいんです」
「ぼくはこれから殺されにいく。それで人生の帳尻を合わせるつもりだ。ジョアン、きみまで関わる必要はない。これが最後の命令だ」
「命令だっていうのなら、ジョアンは引き受けまさあ。でも、忠実なジョアンがいつだって旦那のことを待っていることを覚えておいてくだせえ」
フランソアはデ・レオン大尉とともに部屋を後にした。総督邸の門には見張りが二人ついていたが、酔っ払っていて使い物にならなかった。
仕方なくフランソアとデ・レオン大尉は自分で近場の部隊司令部を目指すことにした。黒い地獄旅団の軍服を着ているのに誰一人彼らを捕まえようとしなかった。不思議に思っていたが、すぐにカラクリがわかった。兵士たちは死んだ地獄旅団の兵士や士官からそのトレードマークである黒い軍服を記念品として剥ぎ取っていた。そして、今もこうしてふざけて羽織っていたのだ。フランソアは哨戒中の兵隊をつかまえた。
「きみ、ちょっとたずねるけど――」
「はっ、なんでありますか?」
「このあたりで一番近い大隊司令部はどこにあるかな?」
「大隊司令部はここからこのままマレンドル通りを南へ歩いた場所にあります。大隊にこだわらず一番近い司令部ですと、すぐそこのフェルドマン・ホテルに第二歩兵師団司令部があります」
「師団司令部か。わかった。ありがとう」
「いえ。このくらいのこと、なんでもないのであります」
フェルドマン・ホテルはピエーテルバルクでも五指に入るなかなか快適なホテルだった。入ってみると黒人の給仕が忙しそうに調理場と食堂を行き来しているのが目に入った。師団の士官たちが分厚いステーキや豚の血入りのソーセージを食べ、ポートワインを景気よく開けていた。士官の何人かは遊び半分に地獄旅団の上衣を身につけていた。
「すいません」フランソアは士官たちの一人に言った。「降伏にやってきました」
それを聞くと士官は大笑いした。「それじゃあ、師団長のオヤジのとこにいけや、そこの仕切り部屋にいるからよ」
二人は言われたとおりにした。
仕切りの窓ガラスをコツコツとノックすると、「誰だ?」とキンキン声で誰何された。
「降伏に来た士官であります」
「入れ」
中にいたのは鼻眼鏡をかけ、酌婦を左右にはべらせたネズミみたいな小男で肩章を見る限りこの陸軍少将が師団長らしかった。他にも二人、参謀士官がいて、ニヤニヤ笑っている。
ネズミのような師団長は口鬚の端に着いたパン粉を落としながらたずねた。「で、お前ら、どこの師団から降伏しに来たんだ?」
「はい、閣下、自分たちは――」
「いや、最後まで言わずともわかる。ボンドゥフ将軍のところからやってきた。そうだろう?」
「いいえ、閣下。自分たちは――」
「弁明する必要はないさ。悪いのはボンドゥフ将軍のほうだ。こんな大きな町にいるのに士官全員にまで町外れでテント暮らしを強要するほうが間違っている。やっこさんは敵がどこからやってくるか分からないというがね、あそこまで蹴散らしてやった敵がどうやってやってくるというのだ!」
「ここにいます、閣下。小官はフランソア・デ・ボア大尉。地獄旅団付き処刑士官であります」
「エルデナン・デ・レオン大尉。同じく地獄旅団付き処刑士官であります」
ネズミ男は手から銀のスプーンを落とした。そして、本土の軍司令部にまで伝説として伝わっていった黒く薄い手袋と翡翠の鎚が目についた途端、師団長は細かく震え始め、鼻眼鏡が彼の小さく尖った鼻からポタージュのなかへ滑り落ちた。
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