第20話

 五十匹以上の妖精が発見された!

 報せは世界じゅうに喧伝され、多くの山師がグラン河の奥地へと旅立った。

 すると、こうなることはすでに知っていたかのように一人のまるまるとした猫人がインディオたちの漕ぐ丸木舟に乗って、サン・ディエゴにやってきた。チョッキから銀の鎖を垂らし、山高帽をかぶったこの猫人は椰子の丸太で作られたイエズス会館に行くと、まずトマス神父と抱き合って、そのまま二人で仲良く肩を並べてデ・ノア大佐のテントに向かった。

「閣下」トマス神父は蜜菓子のような甘ったるい笑みで言った。「お忙しいなか、お時間をとっていただきありがとうございます。こちら、わたくしの従兄のロンバルト・アンソンシアと申します。きっと皆様のお役に立てると思い、本日紹介する次第であります」

「ロンバルト・アンソンシアです。以後、お見知りおきを」

 柔らかい毛に包まれた手を差し出してきたので、デ・ノア大佐も握り返した。

「それで」大佐がたずねた。「本日はどんな御用で?」

「単刀直入に申します。いま、こちらには妖精がございますね」

「ああ。五十匹くらいかな」

「正確には五十三匹」ロンバルトが言った。

 大佐はトマス神父をちらと見た。神父は甘ったるい笑みを崩さなかった。

「失礼ですが」大佐がたずねた。「ご職業は?」

「妖精の仲買を致しております」ロンバルトが答えた。

「ふむ」

「妖精の売買というのは非常にややこしいものでして。例えば、妖精というのはそこにいるだけで庭の水や緑の――なんと申しましょうか――生命力を増幅させます。広大な庭園をお持ちになる貴顕紳士の方々はぜひとも妖精を自分の庭に住まわせたいと願うのですが、妖精はすでに狩られ尽くして、ヨーロッパにはもはや存在しません。シュツットガルドにはいるかもしれませんが、見つかった場合はバイエルン王国の国有財産となるため、入手はできません。となると、妖精はどこから手に入れるべきか。そう、南米です。南米にはまだまだ未開の地があり、未開の地には森の力を強める妖精たちが住んでいる可能性があるわけです。そして、旅団長閣下の素晴らしき遠征がそれを見事に照明してみせたのでありました。ヴィクスマン探検隊の成果をはるかに上回る成果を上げられたのです。いまやヨーロッパにおいて閣下の名前を知らないものはおりません。多くのやんごとなき方々が閣下の妖精に興味を持っておられるわけです」

「ふむ」デ・ノア大佐は葉巻の端を切った。「どうぞ。続けてください」

「ところが、妖精があって、買い手がいて、それで売ることができれば、簡単なのですが、妖精売買には宝石業界と同様に専門的な知識や商慣習への慣れが必要なのです。まず、妖精が人間を恐れなくなり、庭に放しても逃げないよう調教するのですが、この調教師を選ぶのが難しい。妖精ごとに相性がありますから、五十三匹を全部一人の調教師に預けるなんてわけにはいきません。それこそヨーロッパじゅうにいる妖精調教師の元を訪れて、バルセロナに三匹、パリに二匹、バーミンガムに七匹、フィレンツェに五匹、プラハに二匹、コンスタンティノープルに三匹といった具合です。こうして調教されて始めて妖精は市場に出せるのです。ダイヤモンドが原石のまま店に並べないのと同じ理由です」

「あなたはそうした慣習に詳しいと?」

「はい。左様でございます、閣下。皆様方は戦地を離れることができません。そこでわたくしが愛国の士たる皆様方が正当な報酬を受け取れるようお手伝いしたいということです、旅団長閣下」

「つまり、わしらからピンハネしたいというわけか?」

「とんでもございません。こちらはかかった必要経費以上のものは請求するつもりはありません。全ては愛国心の発露から来るものです」

「最近は愛国心も安売りされるようになりましたからなあ。その愛国心も手数料のなかにちゃっかり入っているわけでしょう?」大佐はマッチをすって葉巻を焙った。「まあ、よろしい。妖精の売買に関してはあなたに一貫してお任せしましょう。額は最低でも一尾につき、五千金ポンド。もちろん、一度に放出したら市場価格が暴落するだろうから、期限を設けて急がせたりはしませんよ。ただ、相場が一万ポンドまで上がるのであれば、こちらの取り分は一尾につき七千ポンドとさせていただく。この取り決めが飲めないのでしたら、ヨーロッパへお帰りください」

「その条件でお引き受けします」ロンバルトは即決した。要するに相場を九九九九ポンドで抑えればいいのだ。まあ、ときどきは一〇〇二〇くらいにしてこの強欲な大佐に二千ポンド余計に投げてやればいい。あくまで自分を誠実な仲買人に見せることだ。

「それと一つ」大佐が付け加えた。「わしをコケにするような真似はせんでください。下らんペテンを仕掛けたら、なぜ、わしの旅団が地獄の名を冠しているか、その体に刻み込むことになりますからな。たとえヨーロッパにいてもわかるものはわかるのです」

「はい、旅団長閣下。もちろんでございます」

 ロンバルトは手持ちのカバンからコニャックの瓶を出し、次に円錐形のグラスを二つ出して、それぞれにコニャックを注いだ。

「では、新しい取引に。愛するメイベルラントに乾杯」

「乾杯」大佐はコツンとぶつけて、コニャックを喉に流し込んだ。

 ロンバルトは決してデ・ノア大佐をコケにすることはなく、まず大佐の妖精を優先して売り、その売り上げである三匹の代金一万八千ポンドを渡してきた。その恩恵はもちろん士官や兵士たちにも降ってきて、兵士たちは一人二千ポンドから六千ポンドといった使い切れない金を手にしていた。

 こうして妖精がヨーロッパで再度売られるようになると、フェアリー・ラッシュとでもいうべき現象が起こった。

 フェアリー・ラッシュはまずピエーテルバルクに金を落とし、セント・アリシアに金を落とし、そして、サン・ディエゴの淀みに金を落とした。陣地から要塞へと拡大され、空き地に所狭しと仮小屋やキャンバス地の大きな酒場のテントが張られ、デ・ノア大佐の目論見どおり、サン・ディエゴは町になった。一番最初に町に移住していたナポリ人の移民団を筆頭に、カリフォルニアのゴールド・ラッシュに乗り遅れたテネシー生まれのアメリカ人や革命資金のために妖精捕獲を企むイタリア人やロシア人の無政府主義者、金の匂いのする場所に必ず現われるフランス狐の娼婦たち、捲土重来を夢見て亡命してきた独立派キューバ人の一団(ガローテの一件があったので大佐はあまりいい顔をしなかった)、南と聞くとそれだけで楽園を思い描くスカンジナヴィア半島の素朴な人々(彼らがルター派の牧師を連れてきて、トマス神父の椰子丸太の教会よりもずっと立派な木製の教会を作ったことをトマス神父はうらめしげに眺めていた)。それにシナ人たち。

 デ・ノア大佐が呼んだのは人間を生きたままバラバラにできる老人だけのはずだったが、実際には二百人の中国人が現われ、アヘン窟やファンタン賭博を町に持ち込んだ。肝心の老人はすでにアヘンに蝕まれていて、サン・ディエゴ到着後の二日後に死んだ。デ・ノア大佐は貴重な技術が失われたことを嘆いた。

 地獄旅団も現在では八個歩兵大隊に騎兵中隊が二個増え、山砲の数が六門に増え、野砲が三門与えられた。需品係士官のスタッフも馬糧係や弾薬係、輜重係と充実して、地獄師団と呼べるほどに拡大した。サン・ディエゴで初となる石造建築が作られて旅団司令部となり、士官たちの住む丁寧な普請の木造家屋も作られ始めた。

 サン・ディエゴの淀みは書面の上では地獄旅団の駐屯地に過ぎなかったが、実際には人口七千人を超える町に成長していた。行政府が置かれる代わりに地獄旅団の軍政下に置かれ、旅団は独自に税金を取り立てて軍資金に組み込んだ。

 この議会や陸軍省の会計簿に記載されない金が特殊な動きを見せ始めた。

 一八五六年の終り、ガフガリオン派の領袖で知られる二人の将軍がノヴァ・アルカディア植民地における守備隊の視察目的で大西洋を渡ってきたのだが、彼らは油で固めた口髭の先を引っぱりながらピエーテルバルクの総督邸前で行われた閲兵式を査閲した後、そそくさと私服に着替えて小さな目立たない蒸気船を雇い、サン・ディエゴへと秘密裏に渡った。二人は空っぽのカバンを二つ持ってサン・ディエゴへ降りて、シャルロ・デ・ノア旅団長大佐のいる司令部の建物を訪れ、一時間後に二人はポンドとフランの兌換紙幣がぎっしりつまったカバンを二つ持って、去っていった。こうしてサン・ディエゴの金が本国のガフガリオン派の秘密資金として機能し始めると、本国の情勢が動き始めた。これまでの倍以上の民衆を動員したガフガリオン派の行進、その行進参加者たちに無料でふるまわれる焼き肉やリンゴ酒の代金は誰が支払っているのか? 日和見主義の代議士たちが突然ガフガリオン派に転向し国粋主義的な演説を下院でぶち始めたのはどうしたことか? フィリベルンの主要な劇場がガフガリオン将軍と愛国心を讃えた陳腐な三流劇を演じ始めたのはなぜか? ガフガリオン将軍が主催者になっている狩猟愛好会の参加者三百名が最新式のミニエ銃を相場の半値以下の値段で手に入れられたのは誰の金のおかげか?

 全てはシャルロ・デ・ノア旅団長大佐の金だった。それはサン・ディエゴの売春宿の上がり、アヘン窟とファンタン賭博から上がるみかじめ料、顔に傷のあるナポリ人のごろつきを使って個別の商店から取り立てられた税金、捕らえた妖精に対する関税、捕らえた不帰順部族のインディオを密かにブラジルの奴隷市場に売り払って得た金、そして妖精の売却金だった。

 もちろんタダで協力しているわけではなく、ガフガリオン派はクーデター成功の暁にはデ・ノア大佐を陸軍大将とし、ノヴァ・アルカディア軍事総督として植民地の全権を握らせると約束した。同時にガフガリオン大元帥を代表とする執政機関、メイベルラント最高軍事評議会の一員にも任命されることになっていた。

 この約束はデ・ノア大佐を大変愉快にさせ、喜ばせた。というのも、同じく北アフリカ植民地軍事総督としてアルトール・テルム将軍もこの任を受けることになっていたからだ。テルム将軍はデ・ノア大佐の北アフリカ時代の上官であり、デ・ノア大佐の過剰な暴力嗜好について本国の陸軍省に報告するというなめたおせっかいを焼いてくれたこともあった。そのテルム将軍が、ガフガリオン将軍が政権を握るや、かつての部下と全く対等の立場で席に並ぶのだ。しかも、同じ植民地軍事総督でも待遇はデ・ノア大佐のほうがよい。当然だ。ガフガリオン派の活動資金の六割がどこから出ているのか考えれば、貢献はデ・ノア大佐のほうがずっと上なのだ。

 一八五七年一月。時勢が変わりつつあった。これまで赤字続きで本国の大蔵省からお情けで放られた犬の骨のような助成金を頼りに生きてきたノヴァ・アルカディア植民地がその腐敗した腹の最奥にある焼けた心臓から酸のような血液をメイベルラント共和国へと逆流させ始めていた。

 地獄旅団も活動していた。あの後、二度の遠征が行われ、地獄旅団側は七人が戦死、十一人が戦傷死、十七人が負傷した。それに対するフォイ族の被害は甚大なものであり、もはや民族として成り立たなくなる水準まで人口が減少していった。

 不帰順インディオの処刑はサン・ディエゴのちょっとした楽しみとなり、マンゴー・ジュースやキャッサバ粉のクレープを売る屋台が四方を囲む中で行われた。鮮やかに喉を掻き切るデ・レオン大尉の妖艶な魅力にフランス女たちが夢中になり、デ・レオン大尉に自分の喉を切られながら快感が最高潮に達するという歪んだ性的倒錯を抱いた少女たちがバターナイフを手に危険な何かを夢想するようになり、一方でフランソアの処刑は地獄旅団の恐ろしさを全住民に刻みつけて、誰がこの町の支配者であるのかを再三に亘って思い知らせるのだった。

 雨季の雨に負けずテントを次々と小屋に作りかえるころになると、タバチェンゴ時代からの知り合いであるヴィンセン・エラン大尉とギリアム・レーゼンデルガー中尉がそれぞれ中隊と小隊を率いて、地獄旅団に加わってきた。勤務が明けたフランソアは夜二人が逗留している旅籠で会い、チッチョ・エスポジートというナポリ人犯罪結社の元締めが営業している酒場で飲むことにした。エスポジートの店は二階建てになる予定で現在建築中であり、まだ一階しか出来上がっていなかったが、構わず営業していた。チッチョ・エスポジートは剃った頭と口髭、鼻の骨を横切るように付けられたナイフの傷痕が目立つ男でどんよりと暗い目で自分の店内を見てまわっていた。その眼が生き生きと輝くのは店で騒動を起こすゴロツキの心臓に短剣を突き刺すときだった。チッチョはかなりのみかじめ料をデ・ノア大佐に納めていたから、ナポリ人街はチッチョ・エスポジートの治外法権下にあった。地獄旅団の隊員でない限りは住民を好きにしてよかったのだ。

 チッチョ・エスポジートとデ・ノア大佐には共通点があった。暴力と気前のよさである。どちらも暴力で厳しく統制し刃向かうものを残虐なやり方でひねり潰す一方で自分に従うもの、敬意を払うものにはきちんと見返りを渡してやった。

 例えば、一番近くの帰順インディオの村はハチドリの巣に隊を誘い込んだ男こそ見つけられなかったが、そのかわり進んで周囲の警邏を行い、フォイ族やナク族、レダンゴ族の偵察を捕らえて地獄旅団に引き渡した。デ・ノア大佐はこのインディオの村が十分敬意について理解したものと見なし、彼らが特権を享受する立場に昇ることを許した。捕まえた偵察を奴隷として使うことを許し、旧式のマスケット銃だが、火器も無償でくれてやった。また、サン・ディエゴへ果物を売りに来ることも許した。大佐はインディオたちをサン・ディエゴの経済に完璧に結びつけるためにラム酒を樽ごと無償で帰順インディオたちへ贈った。ラム酒の味を覚えたインディオたちは酔いしれることの楽しさを知り、ラム酒を手に入れるためなら何でもするようになった。こうしてラム酒によって周囲のインディオたちはもはや村単位でサン・ディエゴの経済の枠組みのなかに組み込まれていった。デ・ノア大佐はさらにその奥に中隊規模の兵を籠らせることのできる砦を築き、自身の勢力範囲をじりじりと広げていった。砦や村落同士は騎馬砲兵が楽に通れるほどに整備し、不帰順部族のインディオたちが襲いかかればたちまち周囲の砦から援軍が送られ、返り討ちにすることができた。

「おれたちは奥地勤務になるんだ」エラン大尉が言った。「正直戦闘が待ち遠しい。自分で鍛えた兵士たちが実際使い物になるかどうかがこれで分かるんだからな」

「不帰順インディオたちはまだ同盟を組んでいるんですか?」レーゼンデルガー中尉がたずねた。

「フォイ族が離れかけている」フランソアは答えた。「多くの戦士を失って、もう戦闘の継続は困難なんだよ。降伏する可能性があるから、大佐は焦っている」

「どうして? 降伏するならさせればいいじゃないか」

「大佐は激闘の末、皆殺しにしたいんだ。降伏じゃなくて」

 店の隅にある聖母マリアのお守り札と蝋燭が飾られた棚の下にチッチョが座っていた。レーゼンデルガー中尉がたずねた。

「あれがナポリのごろつきの親分ですか?」

「ああ。いかにも悪党面だろ? エスポジートって名前なんだけど、エスポジートってのはナポリじゃ捨て子を意味する言葉らしい。チッチョも教会に捨てられたエスポジートの一人ってわけだ。やつの手下の半分が血のつながりがないのにエスポジートを名乗っている。笑える話さ。捨て子を預かった教会の神父は子どもたちの名前を決めるための想像力さえ出し惜しみしたんだからね。でも、あいつらはおっかないから、絶対にちょっかいをかけちゃいけない。ぼくはあいつらが一人のちんぴらを処刑するのを見たことがある。複数で囲んで全身をナイフでメッタ刺しだよ。ナポリのごろつきたちのあいだではナイフ使いは尊敬される。その点、チッチョは最大級の尊敬を集めているわけだ。どことなくうちの大佐と似ているな。デ・ノア大佐はときどき自分で処刑をやる。頭を撃つか、サーベルで叩き斬るかのどちらかだけどね。ところで、ジェスタスは元気かい? 今は中尉になったと聞いたが」

「元気ですよ」レーゼンデルガー中尉がにやりとして言った。「昼も夜も」

「どういうことだ?」

「ジェスタスはマダムのところの娼婦の一人に惚れてるんだ」エラン大尉が説明を引き取った。「名前はアデリータ。ジェスタスはいつか彼女と所帯を持ちたいと思っているらしい」

「そう悪い話じゃないじゃないか」

「まあ、そうだけど、植民地で娼婦と結婚なんて本国の陸軍省がいい顔しないぜ。きっとジェスタスは死ぬまでセント・アリシアに住まわされる。ここに比べると、セント・アリシアは退屈さ」

「商人、農園主、ふやけた要塞守備隊」レーゼンデルガー中尉はため息をついた。「それに比べると、地獄旅団はまさしく軍としての規律がある」

「二人とも未経験だから言っておくけど」フランソアは言った。「妖精確保のための遠征を行うと必ず不帰順部族の集落を通ることになる。これが何を意味しているか、わかってるんだよな?」

「知ってるさ。やつらを剣で刺す」エラン大尉が言った。

「赤ん坊も刺すんですよね?」レーゼンデルガー中尉が付け加えた。

 フランソアはぞっとして二人を見た。フランソアの知っている二人は多少ガフガリオン派らしい国粋主義に染まっていても、赤ん坊を突き殺すなんてことは言わなかった。

「一体、どうしたんだ、二人とも」フランソアがたずねた。「まるで人が変わったようじゃないか」

「やだなあ。一番変わっているのは大尉殿じゃありませんか」レーゼンデルガー中尉が言った。「翡翠の鎚の話は河口のピエーテルバルクまで届いていますよ。それを聞いたとき、ぼくらは耳を疑いましたよ。あのデ・ボア中尉がそんなことを?って。でも、こうしてここに来て、今日の処刑を見る限り、噂は本当だったようですね。大尉殿は百八十度変わられましたよ」

 それから話題は艶っぽい話に変わり、サン・ディエゴの売春宿にまつわる逸話で三人して笑った。だが、フランソアは顔で笑いながらも体のなかではレーゼンデルガー中尉の言葉が打ち身のように効いてきた。ぼくは変わったのか? 鎚で人間を殺すという行動でこれまでの全てが否定されて、全く別の人間として認識されるのか?

 エラン大尉とレーゼンデルガー中尉はやっと前線勤務につけることがよほど嬉しかったのだろう。景気よく赤ワインの栓を開けていき、すっかり泥酔して正体をなくし、バケツに飲んだワインと川魚のムニエルを吐き出した。

 従卒に引きずられるようにして士官用宿舎へ去っていく二人を見送ると、チッチョの店に残っているのはチッチョ・エスポジートとフランソアの二人だけになった。カウンターにいた料理人や給仕娘は調理場で何か仕事ができたらしく、そこにかかりきりになっていた。

 フランソアは店の奥のテーブル席でトランプの一人遊びをしているチッチョに近づいていった。ワイン瓶の上に立てた蝋燭がテーブルに闇と光の境目がはっきりしない灯を落とし、その境目にチッチョが愛用しているナイフがあった。アメリカ人たちがボウイ・ナイフと呼んでいるナイフで、ナイフというよりはずんぐりむっくりなサーベルのようだった。右にナイフ、前にワイン瓶の灯台、左にグラスに入れた香料入りの赤ワイン。

 フランソアは何も言わず、チッチョの真正面の椅子を引き、そこに座って、チッチョのトランプ遊びを眺めていた。ルールのさっぱり分からないゲームだった。山札があり、手札が十枚ほどあり、山札から一枚引いては何かのルールに基づいて、カードが場に出されるのだが、その何かが分からなかった。数字の大小なのか? シークエンスなのか? かと思えば、ときおりカードが真横に置かれて、その上にまた縦のカードが置かれることがあった。縦、横、縦、横、と交互に変わる場合もあった。山札がなくなり、手札もなくなった。だが、フランソアにはチッチョがこのゲームに勝ったのか負けたのかすらも分からなかった。

「人殺しもおんなじでさ」チッチョが突然話し出した。「ルールの分からねえなかで殺し続けていきゃあ、最終的に自分が勝っているのか負けているのか分からなくなるんでさ」

 ちょうど悩んでいたことをほとんど言い当てられたことに不吉な予感を覚えたフランソアはこのまま立ち去ろうと思った。翡翠の鎚と同じだ。タバークル准尉を殺した二人のインディオを処刑した後、陣地へ戻る途中に鎚を捨てるチャンスはいくらでもあったはずだった。それが捨てられずに処刑士官として生きている。だが、翡翠の鎚を持っているかどうかで人間は変わるのか? チッチョにたずねたかったのはそのことだった。結局、翡翠の鎚を捨てられなかったときと同様に目に見えない呪術の腕に絡め取られるようにして、フランソアはそこに座り続けて、チッチョに処刑士官としての不条理を話した。

「確かに人を一人バラせば、肝が座ります。でも、それだけでさあ」チッチョはグラスを手に取ると、舌を湿らせる程度の赤ワインを口にした。「他のことは変わりようがありませんや。ケツを掘ることしか脳みそにねえオカマ野郎が人をバラしても、そいつはちったあ肝が座ったケツを掘ることしか頭にねえオカマ野郎になるだけで、オカマ野郎なのは変わりがないんでさ。ただ、大尉殿は結構な数をバラしましたしねえ。こういっちゃなんですが、大尉殿、それだけバラしたらそれなりの変化はあるはずでさ。ひよっこみたいなガキが七人の男をバラして立派な男になったのを見たことがあります。一人、二人じゃ変わりはないけれど、数をこなせば、そいつは変わるようになるんです。変わらないほうがおかしいんでさ。それで大尉殿、あっしの見立てだと大尉殿は昔と変わってはいませんや。セント・アリシアにいたとき、何度かお見かけしましたが、ごく普通の士官という印象しか受けないんで。でも、今目の前にいる大尉殿もやっぱりあの日見た大尉殿と変化はないんですな。こいつはおかしい。あれだけの人間を殴り殺して、全く変化のない人間のほうがあっしに言わせれば、おっかないもんでさ」

「じゃあ、デ・レオン大尉はどうなんだ? 彼だって変わっていない」

「あの大尉さんはすでにアフリカでアラビア人を殺しまくっているんでしょう? 変化はすでに訪れたんだと思いますぜ。事実、今だって変化し続けているじゃありませんか。あの大尉殿は殺せば殺すほど、見栄がどんどんよくなっていきますよ。はっきりとした金色の髪がプラチナみたいな白さに近づいていって、顔色はどんどん白くなって、目の碧さが冴えてきて、どんどん美しくなっていく。まるで妖精みたいな顔をしていますよ。あっしに言わせれば、それが普通です。大勢バラせば見た目まで変わるもんです。変わらなきゃおかしいんですよ」

 チッチョはそれで話を締め、赤ワインの残りを飲み干した。

 フランソアは店の外に出た。そこには従卒のジョアンが直立不動の姿勢で待っていた。フランソアはこの従卒から固い忠誠心を得ていた。フライパンで焼かれた三つの牛肉のかたまりのうち二つをくれてやったそれだけでジョアンはフランソアのことを唯一無比の主と認めたようだった。

 この用心深い蜥蜴黒人はフランソアが三つの肉のうち二つを彼に与えたのは彼には思いつかない罠があって、自分をはめようとしているのではないかと思った。しかし、そうではないようだと悟ると、これまでの主人からは騙されるか、どやされるか、ぶん殴られるか、搾り取られるかといったろくでもない目に合わされ続けてきたジョアンは感極まって、デ・ボア大尉のためなら誰が相手でも大尉殿のために戦うと心に決めた。それを兵士同士の話のなかで実際に口にした。すると調子のいい狐人の伍長が、その相手がデ・ノア大佐でも戦うのか?とからかい半分にたずね、ジョアンは一瞬も躊躇せずにそうだと答えた。思わぬ答えにその場が、しん、となった。

 その夜、調子のいい狐人の伍長は点数稼ぎのつもりでそのことをデ・ノア大佐に密告した。

 大佐は密告した狐人の伍長を鞭で百叩きにし旅団から追放した。

「従卒の忠誠を利用した悪辣な質問と密告で点数稼ぎをしようとし、軍という一つの家族ともいえる集団の結束を揺らがそうとするものはみな同じ目に合う」

 デ・ノア大佐はそう宣言し、ジョアンは今もこうして生きているのだった。

 ジョアンの照らすランタンの道を歩きながら、チッチョやレーゼンデルガー中尉の言葉を頭のなかでぐるぐる掻きまわしていた。その結果、わかったのはもし明日、大佐が誰かの頭を叩き割れと命じたら、そのとおりに叩き割るであろう自分がいるということだ。殺人を拒む理由も好む理由も見つけられないフランソアという抜け殻はただ何事もなすことなくデ・ノア大佐の注ぎ込む血のように真っ赤な赤ワインを湛えるしかないのだ。

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