第三章 朗読会と波乱の幕開け_3

 芸術院大臣を屋敷の晩餐会に招待したレイモンドは、戻りが遅くなることをジルに伝えて、王立図書館を出た。

 アンドリューは王太子とともに、自分の屋敷に立ち寄ると言って去る。その一方で、さっそく貴族に声をかけたカーティスは、ひきつった表情の貴族を強引に連れて、馬車に乗った。

 そんな三人を見送ってから、ジルも馬車に乗り込む。王宮の門をくぐり、芸術棟に戻った。

 静まり返ったロビーに入り、両開き扉を閉める。まずは、賄賂の件で動いている主たちの予定を整理するべく、広間のテーブルに暦と予定表を広げた。

(……レイモンド様は、少し余裕が出てきたわ。でも、歌劇の作曲の締め切りは、少し伸ばしていただきましょう)

 アンドリューに仕事の予定はないが、王妃様が寝室のカーテンを換えたがっていると、侍女伝いに耳にした。だがこれも、すぐにというわけではない。社交シーズンを終えてからでもいいだろう。

 カーティスの仕事も、余裕はある。ライナスも、着々と制作を終えている。

 ジルはペンを走らせながら、なんとかなりそうだと息をつく。広間の時計は、午後四時をしめしていた。もうすぐ、ライナスが戻る。

 会いたいような、会いたくないような。複雑な思いが込み上がった。

 好きだからこそ、早く認められたい。どうしてもそんな気持ちに、追い立てられてしまう。

 ため息をついたジルは、暦と予定表を丸めた。その直後、ロビーの床を踏みしめる靴音がこだました。予定よりも少し早いが、ライナスが戻ったらしい。

 ドキリと心臓が跳ね上がり、ジルは深呼吸をした。

(私の気持ちは、仕事に関係のないことよ。きちんと笑顔で迎えなくては)

 広間の扉に手をかけて、笑顔を作る。そうして、勢いをつけて扉を開け放ち――。

「お帰りなさいませ、ライナス様」

 声にした直後、ジルは固まった。

「悪いが俺だ」

 ロビーにいたのは、荷包みを小脇に抱えたアンドリューだった。ほっとした反面、間違えた恥ずかしさでジルは顔を赤くした。

「も、申し訳ありません。てっきりライナス様かと……」

 アンドリューはジルを見て、からかうように鼻で笑った。

「俺で悪かったな。顔が赤いぞ」

 顔の赤さを隠すべく、ジルは深く頭を下げた。

「ほ、本当に申し訳ございません!」

 コツコツと靴音を鳴らしながら、アンドリューが近づいて来る。なにを言われるのだろうと、ジルが身を硬くした直後。

「お前のお仕着せの仮縫いが、屋敷に届いていた。来い」

 そう言って、広間に入る。えっ、とジルは振り返った。

 アンドリューはテーブルに包みを置き、解きながらジルを横目にした。

「なにをしている。早く来い」

 上着を手にしたアンドリューが、ジルに向けて掲げて見せた。

 生地は、上品に輝くパールホワイトのシルクシャンタンだ。小さめの襟と、折り返された袖口は淡いグレーで統一され、若芽を連想させる紋様が銀糸で刺繍されてある。

(なんて素敵なの……!)

 ジルは瞬きも忘れて、アンドリューに近づいた。

「ありがとうございます、アンドリュー様。あまりの感激で、なんとお礼を申し上げたらいいのか……!」

「おおげさだな。ただの暇つぶしだ」

 アンドリューの眼差しから、険しさが消えていく。荷包みのなかにはズボンとベスト、シャツやアスコットタイ、チーフまで揃っている。

 ズボンは襟と同色のグレーで、ベストは深みのあるラベンダーグレー。さらにチーフとアスコットタイは、ジルの髪色を思わせるコーラル・レッドだ。

 淡いグレーを基調にしているため、全体的に落ち着きがある。けれど、小物の差し色によって、控えめで上品な華やかさを演出していた。

 なによりも、その色合いや素材、刺繍の紋様で、ジルのためだけにデザインされたのがわかる。

 これはジルだけが似合う、世界で一着しかないお仕着せなのだ。

「……こんなこと、信じられません。僕はいままで、誰かのお下がりしか着たことがなかったのです。いま着ているのも既製品ですし、こんなふうに自分に似合うものを仕立てていただくのは、人生ではじめてのことです。本当にありがとうございます!」

 感激を言葉にしたとたん、アンドリューが言った。

「着てみろ」

 ――え。

「仮縫いの調節をする。着てみろ」

 ジルは青ざめた。ズボンも、シャツもだろうか。

「す……すべて、ですか」

「当たり前だ。そうでなくては調節できない。早く着替えろ」

 ここで、着替える? ジルは震える思いで、シャツに手を伸ばした。その様子を、アンドリューがじっと見ているのがわかる。と、呆れたように息をついた。

「……ああ、そうだったな。コンプレックスがどうとか、ごちゃごちゃ言っていたのを思い出したぞ。べつにここで着替えろとは言ってない。どこでもいいから、早く着替えて来い。ついでに、俺のアトリエから道具も持って来てくれ」

「は、はい」

 助かった! 荷包みを抱えたジルは一礼し、広間を出ると三階まで駆け上がり、自室に向かった。

 きっちりとドアを閉め、急いで着替える。鏡に映った自分を目にした瞬間、ジルはその場で飛び跳ねてしまった。

「わっ、本当に素敵! 嬉しい……!」

 妹や家族に手紙を書かなくては。そう思いながら廊下に出て、落ち着くために深呼吸をする。

(はしゃいでもいられないわ。仮縫いの調節をするということは、裾や袖口なんかを触られることになるのよ)

 女性だとバレないようにしなくては。気を引き締めて二階に下り、アンドリューのアトリエで道具箱を持ち、広間に戻った。

 ライナスはまだ帰っておらず、アンドリューしかいない。こんなふうに彼と二人きりになるのは、はじめてだ。かなり緊張しながら、ジルは道具箱をテーブルに置き、アンドリューの前に立った。

 まち針を手にした公爵を見るのは、妙な気分だ。アンドリューの指が、袖口に触れる。ビクリとしたジルを上目遣いにし、彼は苦笑した。

「緊張してるのか」

「こ、このようなことをされるのは、はじめてですので」

「ふうん……。お前、せたな」

「えっ?」

 ジルが着ている上着の脇を、アンドリューは両手で握った。ジルはごくりとつばを飲む。

「これだけ余ってるぞ。マダム・ヴェラのサイズは、いつ測ったものだ?」

 ジルを見下ろしたアンドリューは、顔を寄せながら片眉を上げた。落ち着かなくてはと思うのに、ジルの心臓はバクバクと脈打ちはじめる。

 アンドリューの顔が近いからではない。バレるかもしれないという、恐怖のためだ。

(大丈夫、平気よ。こんな会話で知られることはないわ)

「す……数週間ほど前のものです」

 視線を落としたアンドリューは、上着から手を離した。

「では、それから痩せたということだ。お前のサイズを見たときから、うすうす感じてはいたが、痩せたことでさらに女性のサイズに近づいているぞ。いや、まさにそのものだ」

「ま……まさか! こ、故郷には僕のようなサイズの男性も、た、たくさんいらっしゃいます」

 気弱な嘘に罪悪感を感じて、ジルは目をそらした。そんなジルにかまわず、アンドリューはまち針を留めていく。

「まあ、そうかもな。だが、こうなるとどうにも、くだらん疑惑が俺の頭に浮かぶ」

「く……くだらない疑惑、でございますか……?」

 ズボンや袖の幅が、体型にぴったりと合っていく。と、上着に手をかけたアンドリューは、ふたたびジルに顔を近づけると、からかうように笑んだ。

「お前はもしや――女かも、とな」

(――うそ! いいえ、バレたわけじゃないわ。からかわれているだけよ)

 そうわかっているのに、頭のなかは真っ白になり、言い訳が思いつかない。アンドリューを視界に入れたまま、息をのんだジルは身動きを忘れてしまった。

 早く否定しなくては。そう思えば思うほど焦り、脈打つ鼓動は激しさを増していく。

 そんなジルを見つめた彼は、様子のおかしさに気づいたのか、とっさに笑みを消す。けげんそうに目をすがめるやいなや、ジルの襟を両手で握り、引き寄せながら、ぐっと顔を近づけた。

 彼の瞳に、強い光が走った。

「おい、まさか――」

「――顔が近すぎだ。男同士で、キスでもするのか」

 聞き覚えのある声が、広間にこだました。はっとしたジルの視界に、扉口に立つ人物が飛び込む。

 ライナスが、戻ったのだ。安堵感が込み上げてきて、ジルは思わず目を潤ませた。

 お帰りなさいと告げるつもりで、口を開く。けれど、ライナスの射るような眼差しに気圧されて、なにも言えなくなった。

(……どうしてあんな目で、アンドリュー様をにらむの)

 ライナスに顔を向けたまま、アンドリューはジルから離れた。

「戻ったのか。で? どうだったんだ」

「……あとで教える。それよりも、なにをしているんだ」

 ライナスは、まだアンドリューを睨んでいた。

「なんだ、その目は。どうしたんだ、ライナス? 俺はこいつのお仕着せの仮縫いを、調節していただけだ」

 苦笑交じりにアンドリューが言うと、ライナスははっとしてうつむき、冷静になろうとするかのように髪をかき上げた。

「あ……ああ、そうか。でも、男同士でなにごとかと思ってね」

 アンドリューはジルを射るように見下ろし、腕を組んだ。

「違うかもしれないぞ、ライナス。こいつは女かもしれない」

(――えっ! なに……!?)

 ジルは気力を振り絞り、声を荒らげた。

「ちっ……違います!」

「だったら、さっきはなぜ、図星のような顔をした?」

「あ、あれは、あまりに突拍子もないことをおっしゃられて、思わず……」

 口ごもるジルに、アンドリューは冷たく言い放った。

「焦るところがますます怪しいな。男だと言うのなら、ここで裸になってみろ」

 呆然としたジルが、立ちすくんだときだ。ライナスはくだらないと言いたげに、頭を左右に振って見せた。

「やめてくれ、くだらない。アンドリュー、彼は男だよ。彼の裸なら、僕は偶然見たことがある。なにしろ部屋がつながっているからね」

 ジルは驚き、目を丸くした。アンドリューは探るような視線を、ジルに向けた。

「本当か?」

 アンドリューのうしろに立ったライナスは、じっとジルを見つめている。どうしてそんな嘘をつくのかわからず、戸惑ったジルは彼を見返すことしかできない。

「おい、返事をしろ」

「ほ……本当です」

 そう言うしかなかった。ジルがうつむくと、ライナスは続けた。

「彼は男だよ、アンドリュー。ただ、サイズを知られたり、触られたりすることが苦手なだけだ。そのくらいおおめに見てあげてもいいだろ。こんなに長く続いた助手は、彼以外にいないんだ。君に女性疑惑を抱かれて、ことあるごとに意地悪をされたら、彼だって辞めるかもしれない。そうなれば、僕は困る。君は違うかもしれないけれどね」

 アンドリューは腕を組んだまま、考え込むように視線を落とした。

「……いや、俺も困る。だが、男だとわかってほっとした。もしも女なら、俺たちをあざむいていることになるからな」

 ひやりと背筋が凍った。そのとおりだ。

 痛いほどわかっている。そのつもりだったのに、ここでの生活に慣れてきて、気をゆるめてしまうことがある。気をつけなくてはと、ジルは強く肝に命じた。

「まったく……ただの冗談のつもりが、とんだ騒ぎだ。仮縫いの調節は終わった。脱いで来い」

 アンドリューにそう言われ、一礼したジルは広間を出た。いまも心臓が脈打っている。

 危なかった。ライナスが来なければ、どうなっていたか知れない。想像するだけで、ゾッとした。だけど、どうして?

(……ライナス様は、なぜあんな嘘をついたのかしら)

 刹那、恐ろしい仮説が頭をよぎった。

 ――ジルの正体を、知っているからだとしら?

 愕然がくぜんとして、血の気が引く。自室のドアを前にして立ちすくんでいると、廊下を歩いて来るライナスの気配がした。顔を向けると、目が合う。だが、彼はどことなく疲れた様子で、ジルを見てもなにも言わずに、隣室のドアノブに手をかけた。

「あ、あの! ライナス様、どうして……?」

 とっさに声にすると、動きを止めた彼が振り向く。

「誰かに裸を強要するなんて、僕の趣味じゃない。絵のモデルは別だけれどね」

 それだけのことで、嘘をついたのだろうか。不安に襲われたジルは、はっきりと念を押した。

「僕は、男です」

 ライナスは呆れたように笑み、

「言われなくても、もちろんわかってるさ。だから嘘をついた。それだけだよ」

 本当にそうなのか。怖くてどうしようもなくて、彼を見つめる。すると、

「いいお仕着せだ。似合うよ。さすがアンドリューだ」

 そう言ってすぐ、素っ気なくドアを閉めてしまった。ドアの向こうから、彼の深いため息が聞こえた気がした。きっと遠出をして、疲れているのだろう。

 もやもやとした疑念を抱きながら、ジルも自室に入る。部屋に入ってドアを閉め、急いで着替えながら、ふとライナスの部屋に通じるドアを見やった。

 そういえば、彼が突然入って来ることはなくなった。いつからだろう。

(……王女殿下の婚約式を、終えたころからだわ)

 あんなにからかってきていたのに、賄賂の件が出て以降、距離を感じる。自分がそうしているせいもあるのだろうが、ライナスも声をかけてこなくなった気がする。

(……ダメよ。こんなことばかり考えていたら、仕事をおろそかにしてしまうわ)

 ジルは頭を左右に振った。ライナスへの疑念は、ジルが勝手に思い込んでいることだ。彼はジルをクビにしてはいないし、アンドリューのように詰め寄るようなことも、いままで一度だってなかったのだから。

(彼を疑うのは失礼だわ。もうやめにして、助手の仕事に集中しなくては)

 なんにせよ、主たちを欺いていることに変わりはない。その罪悪感は、仕事をまっとうすることでむくいていくしかない。

 着替えたジルは、廊下に出た。気を引き締めて姿勢を正し、階段を下りた。

 隣室のベッドに腰掛けたライナスが、何度もため息をつき、ジルの部屋につながるドアを見つめていたことなど、夢にも思わずに。

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