第五章 星が導く美しき未来_1

 翌朝目覚めたジルは、ベッドから起き上がるとカーテンを引き、窓を開けた。

 白みはじめた空には、雲一つない。大きく息を吸い込んで深呼吸をすると、頭のなかがすっきりとした。

 昨夜のことを冷静に思い返すと、ライナスの怒った顔が脳裏に蘇る。

 ジルを心配していなければ、あんなにも叱らなかったはずだ。家族以外でそんな人は、いままでずっといなかった。

 だから、惹かれる。嘘をついていることが、どうしようもなく苦しくなってくる。

(いつかライナス様に、すべてを話せるときが来るのかしら)

 彼がクレアとのことを教えてくれたように、ジルにもそうできる日が来るのだろうか。

(……いいえ。これは墓場まで持っていくと決めたのだもの。そんな日は来ないわ。でも、もうこれ以上、秘密は持ちたくない)

 女性であることを秘している以外、二度と嘘をついたり隠しごとはしないと自分に誓った。それはお互いの信頼を築くうえで、なによりも大切なことだからだ。

(やっぱり、もう一度きちんとライナス様に謝罪しましょう)

 今後は見聞きしたことがなんであれ、彼らを信じてすべてを伝えよう。

 眼差しを強くしたジルは、そう決意して窓を閉め、手早く着替えた。

 夜会服はマダム・ヴェラに返さなくてはいけないが、いまはこのまま芸術棟に戻るしかない。シャツとベストの装いで寝室を整え、華やかすぎる上着は羽織らずに腕にかけて廊下に出た。

 階段を下りると、執事のスティーブンに出くわす。挨拶を交わすと食堂に案内された。礼を伝えて食堂に入ると、すでにライナスがいて新聞を読んでいた。

「おはようございます」

 緊張しながら、ジルは席に着いた。

「おはよう。よく眠れたかい?」

「はい。とてもよく眠れました」

「それはよかった」

 新聞をたたんだライナスは、こちらを見て微笑む。執事が紅茶と食事をテーブルに並べていく。

 湯気の立つ紅茶の香りが、食堂を包んだ。ふっくらと焼かれたオムレツに数種類のパン、スープにサラダ、デザートのプディング、チーズとバターがテーブルに置かれた。

(食べる前に、伝えなくては)

「ライナス様。昨夜のことをもう一度謝罪させていただきます。本当に申し訳ございませんでした。今後はもう二度と、あなたや主の皆様に隠しごとはしないとお約束いたします」

 椅子に座ったまま、ライナスに向かって頭を下げる。すると、彼が言った。

「僕も君にきちんと謝るよ。昨日は大きな声を出して悪かった。それから、君を突き放すような態度も反省してる。僕らしくなかった」

 思いがけない彼の言葉に、ジルはびっくりして顔を上げる。ライナスはパンを手に取り、バターを塗った。

「冷めてしまうから食べよう」

「はい」

 彼の屋敷の食堂で、こんなふうに一緒にいると、まるで家族にでもなったような気分になる。

(……なにを考えているの。私ったら、バカね)

ジルはオムレツにナイフを入れる。ふんわりとした食感で、ほのかな甘さが口のなかでとろけていき、銀王宮の味に匹敵した。おいしいと頬をゆるめたとき、ライナスの視線を感じて盗み見る。やはり、見られていた。

「……な、なんでしょうか」

「おいしいそうに食べるなと思って」

「本当においしいからです」

「マーシャに伝えておくよ。我が家の料理長だ」

「はい。よろしくお伝えください」

 クスッとライナスは笑む。嬉しそうだ。

「これから忙しくなるから、たくさん食べて体力をつけてくれ」

(え? これからって、賄賂の件かしら。でも……?)

「……僕が関わっても、いいのですか」

 ライナスはジルを責めるように、わざとらしく片目をすがめて見せた。

「もう関わってしまっただろ」

 たしかにそうだ。すみませんと謝ると、彼はどこか面白がっている様子で、口の端を持ち上げた。

昨夜は感情が高ぶって話し合えなかったが、いまこそジルが得た情報を伝えるときだ。

「あの、ライナス様。スターリングの絵画でしたら、メイデル伯爵様もお持ちです」

 彼は息をのみ、ジルを見た。

「……なんだって?」

 メイデル家を訪れたとき、応接間にあった絵についてジルは話した。

「とても優しく、美しい絵でした。バーリー家の別邸の階段下にあった絵もそうです。ライナス様もご覧になられたのですよね」

「ああ。星の印がサインの絵だね?」

「はい。そうです」

 ため息をついた彼は、どこか自嘲じちょう気味に笑む。

「……君には負けたよ。まさか君も、スターリングについて知っていたとはね」

「いえ、偶然です。でも……とても残念です」

 うつむいて落胆の息をつくと、ライナスは戸惑ったような声を上げる。

「残念?」

「……はい。スターリングは、すでに亡くなっている画家です。メイデル伯爵様は、生前のうちに出会い、ぜひパトロンになりたかったと悔やんでおりました。それなのに彼のパトロンになったのは、エドガーの贋作を注文するような人だったのです」

 あんなに素晴らしい絵を描くのに、報われることのないままこの世を去ってしまった無名の老人。そのことがどうしても、ジルには悔しくてたまらない。

「……スターリングのパトロンは、バーリー卿なのでしょうか」

「自慢できる作品にしか興味のない人間が、無名の画家の絵を所持していたんだ。間違いないよ」

「でも、バーリー卿はどうして、スターリング自身の作風の絵を持っていたのでしょうか」

「スターリングにとって、バーリー卿はパロトンだ。自分の絵のよさを知ってもらうために、贈ったんだろう」

 しかし、そのパトロンは安い報酬をぶら下げて、他人の作風を真似させたのだ。

「仕上がった最初の裸婦の絵を、試しに隣国の画商に売りさばいたんだろう。それが首尾よくいって、バーリー卿は手応えを掴んだんだ。そのあとは、お察しのとおりだ」

 スターリングが生きているうちにたくさんの贋作を描かせ、小出しにしているのだろうとライナスは語り、嘆息した。

 目立たない階段下にあった絵画を、ジルは思い出す。あの絵にふさわしい場所ではない。

(メイデル伯爵様なら、きっと窓のそばに飾るわ)

 静謐せいひつな読書室や書斎に飾り、描いた画家の心情と自分を重ね、ときおり静かにおのれかえりみる。そうすることが、あの絵に対する最高の讃辞だからだ。それなのに。

「……バーリー卿はどうしてあの絵を隠さずに、飾っていたのでしょうか」

「無名の画家の絵だと見下して、しかたなく別邸に置くことにしたんだろう。所持している絵画の数には入るからね。彼のような人間にとって大切なのは、自分の好みに添った作品を集めることではなく、あくまでも〝数〟だから」

 そんな者をパトロンにしてまで、スターリングはなぜ贋作を描いたのだろう。拒否することもできたはずだ。

(いいえ……できなかったんだわ)

 日々の暮らしに事欠く有り様だったとしたら、貴族のパトロンはありがたい。たとえささやかな報酬であったとしても、仕事だと割り切って描けば稼ぐことはできる。貧しさを経験したジルには、老人の思いが痛いほどわかった。

「メイデル伯爵に、スターリングの絵を見せてもらわなくてはいけないな」

 まだ早い時間で訪問することはできないが、午後にでも向かうと彼は続ける。

「裸婦の贋作とスターリングの作風との共通点を見つけて、たしかな証拠にしなくてはいけないからね」

「はい。……それと、ライナス様。トーマスさんの件ですが、彼をそそのかしたのはグレンダ様でした。けれど、お父様であるバーリー卿とは無縁のことで、たんに彼を遠ざけるためだったようです」

 ライナスはどこか呆れたように吐息を落とす。

「ああ。君があれこれと話しかけてくれたおかげで、会話を聞くことができたよ」

 昨夜のことを思い出したジルは、苦い気持ちでふたたび頭を下げた。

「すみません」

 ライナスはニヤリと笑んだ。 

「もう謝らなくていい。今後はなにがあっても、君を遠ざけるようなことはしないと決めたんだ。それがたとえ、危険なことだとしてもね」

「え?」

 困惑するジルに、ライナスは爽やかな笑みを向けた。

「僕が君のそばを離れなければ、それで済む話だ」

「……は、い?」

 いよいよ意味がわからない。

「あの……ライナス様。僕から離れない、とは?」

「言葉どおりの意味だよ。君からなるべく離れずにいる。そうすれば、君に危険が及んでも僕が守れる。昨夜のようにね」

 ただでさえ、ライナスはジルに近い存在なのだ。それなのに、さらにそんなことをされては、いよいよ女性だとバレてしまうかもしれない!

「い、いえ……さすがにそうはいかないと思います。ライナス様には創作のお仕事がありますし、僕には僕の仕事がありますし……」

 ジルの焦りを、彼は楽しんでいるらしい。笑みを堪えるようにして、サラダを食べていた。まさか。

「……また、僕をからかっているんですね」

「バレたか」

 ジルは思わず半眼になった。そうだった。彼はこういう人だったのだ。

 ふたたびこんなやりとりができるようになって、嬉しさを感じるものの複雑だ。どこまでが本気でどこからが冗談なのか、ジルには判断がつかないからだ。

(……彼の言動に、いい加減慣れなくては)

 無言で食事を続ける間、ずっとライナスの視線を感じていたが、気のせいだと気づかないふりをした。いちいち気にしていたら、落ち着かなくて仕事にならない。

 やがて、黄金色の光が窓から射し込む。食事を食べ終えたジルが席を立つと、ライナスも早々に腰を上げた。

「よし、戻ろう」

「はい」

 気を引き締めて、ジルは返事をした。そう、戻ろう――自分の職場に。

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