第四章 仮面の夜会と新たな一歩_3
ランプの灯りが輝く室内は、暖かい雰囲気に包まれていた。
歴史を思わせる木製の椅子と小さなテーブルが配され、天蓋付きのふっくらとしたベッドが置かれている。そして、暖炉の上には一枚だけ、油絵の風景画が飾られていた。
ライナスの描いた湖だ。夢のなかへ誘うような淡い筆致に、ジルはため息を落とした。
浴室で湯を浴びたものの、心は晴れない。用意された室内着のシャツとズボンは、紳士用のために大きくて、裾と袖をまくりながらベッドに腰掛けた。
ライナスはなぜ、この屋敷に自分を連れて来たのだろう。バーリー家の邸宅から、遠くなかったからだろうか。
頼りにしているとライナスは言った。危険に晒したくないから、そういうことにしただけだ、とも。そんな彼の思いを知らず、心のどこかで焦りを感じていた。
――早く認めてもらわなくては、と。
(……私、いったいどうしたのかしら。冷静な私はどこへいってしまったの)
あんなふうに誰かの前で、泣いたことなど一度もない。泣くときはどこかに隠れて、一人になってから涙を流すばかりだった。それなのに、感情が暴れて口から飛び出し、止めることすらできなかった。
恥ずかしさでいたたまれなくなり、沈痛な面持ちで肩を落とす。
気がかりなことはたくさんあるのに、ジルの頭にはいまこの瞬間、ライナスの屋敷にいるという事実ばかりが浮かんでしまう。
ここにいるのは苦手だ。芸術棟にいるときは、一日のすべてが仕事だと気を引き締めていられるから、男性として振る舞える。でも、こんなふうに安らぐ雰囲気の部屋にいると、素顔の自分に戻ってしまいそうで怖くなる。
(……とにかく、眠りましょう)
眠って、起きて、ライナスにきちんと謝罪しよう。そう決めて灯りを消そうとしたとき、ドアが静かにノックされた。メイドかと思い返事をすると、ドアが開く。
ライナスだった。驚いたジルの心臓が、ドクンと跳ねる。とにかく謝らなくてはと、口を開いたジルを制するように、彼はどこか硬い表情で告げた。
「君に紹介したい人がいるんだ」
こんな夜に、誰が来たのだろう。画商だろうか。
ライナスに訊ねたかったが、会えばわかるだろうと考えて廊下に出た。
「……ライナス様。本当に申し訳ありませんでした」
ライナスはなにも言わない。嫌われた気がして、怖くなる。それでも。
「上着を汚させてしまいました。それに、拳銃まで向けられることになって、ライナス様を危険に晒してしまいました。謝っても許されることではありませんが、それでも謝ることしかできません」
ジルは
一階に降りたライナスは、無言で応接間のドアを開けた。灯りはあるが、誰もいない。奇妙に感じてジルが立ち止まると、室内に入った彼が振り返った。
「……アンドリューが見たら、間違いなく顔をしかめるね」
「……え?」
「君の服、ぶかぶかだ」
そう言うと、顔をくしゃりとさせて笑った。その瞬間に許された気がして、張りつめていた緊張の糸が切れ、ふたたび涙が込み上げてきそうになる。だから、ぐっと唇を引き結んだ。
仔犬を愛でるかのような眼差しで、ライナスが見つめてくる。その視線に耐えきれなくて、ジルはうつむいた。
「あ、あの……お客様は? それに、どうしてこのお屋敷に、僕を招いてくださったのですか」
「君は四六時中、芸術棟にいる。たまには息抜きも必要だと思ってね。とくに、今夜のようなことがあったときには」
はっとして、ジルは顔を上げた。バーリー家の邸宅から近いからではなく、ジルを
「お客様ではないけれど、紹介したい人はこっちだ」
暖炉横のドアノブに手をかける。
紹介されるのは、彼の他界した婚約者――クレアだ、と。
ライナスがドアを開け放つ。アイボリー色の壁にかかった大きな肖像画が、ジルの視界に入った。
ゆるやかに波打つブロンドの髪に、ミモザの花冠が輝く。足の上で両手を重ね合わせ、澄んだ青い瞳をこちらに向けて微笑んでいる。妖精のように儚げで美しい女性を、彼は手でしめしながらジルを見た。
「彼女はクレアだ。クレア、彼は僕の助手をしているジルだ」
絵に近づいたジルは、そうするのが正しいことのように思えて、深くお辞儀をした。
「はじめまして、クレア様。ジル・シルベスターと申します」
そうして姿勢を正すと、ライナスが優しく笑んだ。
「こんなふうに、彼女を誰かに紹介するのははじめてだ」
実は前に見て、知っている。これ以上隠しごとはしたくなくて、正直に告げた。それを聞いた彼は、わかっていると言うようにうなずいた。
「スティーブンから聞いて知ってるよ。いつかきちんと、君に話すつもりでいたんだ」
「え?……僕に、ですか」
どうしてだろう。戸惑うジルに、彼は続ける。
「僕の助手には、知っていて欲しいと思ってね」
そう言うと腕を組み、クレアに視線を移す。
「僕と彼女は幼なじみで、いつも一緒だった。家族ぐるみで付き合いのある令嬢だったから、生まれたときから結婚が約束されていたんだ。でも、彼女は身体が弱くて病気がちで、ほとんど外で遊べなかった」
ごくたまに調子のいいときだけ、近所の聖堂に一緒に出掛けた。そのときに見たステンドグラスに喜び、はしゃいで言ったことを覚えていると話す。
——ライナス、見て! 魔術師が生み出したものよ!
彼はジルに、魔術師になりたかったと話したことがあった。そのことを思い出したジルは、胸の奥に痛みを感じて手を添えた。
ライナスは彼女を喜ばせたくて、芸術家を目指したのだ。それなのに、その彼女はもうどこにもいない。
(なんて哀しいことなの。私には、なにも言えないわ……)
彼が五年もの間、ステンドグラスを創れずにいたことを知っている。ただのスランプだと言っていたが、もしかして。
「あの……五年前のこと、でしょうか」
他界した時期を濁して訊ねると、彼は小さくうなずいた。ジルは目を見張った。
(やっぱり、ただのスランプじゃなかったんだわ)
彼女を失った哀しさから、創りたくてもそうできず、もがいていたのだ。
(それなのに私は、彼にステンドグラスの創作を強いたのよ)
王女の婚約式を彩るアンドリューのタペストリーが汚され、その代わりとして彼にステンドグラスの創作を願い出た。どうしても必要なことだったが、事情を知らずにいた後悔に苛まれてくる。
「……ライナス様、申し訳ありませんでした」
「なにが?」
「あなたにステンドグラスを創らせてしまったことです。なにも知らずにいたとはいえ、きっとお辛いことだったのではないかと……」
彼の思いを想像することしかできないのが、もどかしい。拳を握ってうつむいたとき、ライナスがフッと笑った。
「僕はきっかけを待っていたんだ。だから、君が謝ることなんてなにもない」
前に進むこと、哀しみから立ち直るきっかけを待っていた。そう、彼は続ける。
「クレアと僕には、兄弟姉妹がいなくてね。幼いころから一緒にいたから、双子のような親友のような、ちょっと不思議な関係だったと思う。大切な人に代わりはないけど、いつもお互いの幸せを第一に考えていた。だから、大きくなったときに約束したことがある」
好きな人ができたら、隠さないこと。お互いが納得したら、婚約は解消すること。
「結局、お互いにそんな相手もできなくて、結婚しようということになった。すでに家族みたいなものだったし、そうするのが当たり前に思えていたからね。でも……」
亡くなったとは言わずに、口を閉ざす。彼女の不在を心から寂しく思っていることが、手に取るようにわかった。
お互いに信頼し、なんでも話せる相手だったのだ。そんな相手と出会えることなど、奇跡に等しい。
「……ずっと、そのままでいてください」
思わず、声になった。ライナスが顔を向ける。ジルは素直に感じたことを、そのまま伝えた。
「ライナス様にとって、奇跡のような方です。ですから……うまく言えませんが、いま感じているその思いを忘れようとせず、大切になさってください。胸の奥に宝箱を作って、そのなかに入れておくように」
「……宝箱?」
「そうです」
ジルの使い方は、少し違ったけれど。
田舎町で結婚できずにいたこと、男性に見向きもされなかった寂しさ、そういったことのすべてを、ジルは胸の奥におさめてきた。箱のなかに、押し込むように。
(でも、大切な思いを入れておくほうが、ずっと素敵だわ)
「……宝箱か。いいね」
ライナスが表情をほころばせる。
「いまからそうするよ」
そう言うと、クレアを見つめる。
「君を僕の宝箱のなかに入れることにするよ。いいかな」
返事があるはずもない。だが、彼にはわかっているらしい。満面の笑みをジルに向けた。その表情があまりにもまばゆくて、ジルは目を細めた。
彼のことは好きだ。でも、大切な人を忘れて欲しいとは思わない。それを否定することは、彼自身をも否定することになってしまうから。
ジルはふたたび、クレアを見つめた。
(あなたの大切な人が幸せでいられるよう、微力ながらあと数ヶ月、見守らせていただきます)
そう心のなかで伝え、一礼する。顔を上げてふとライナスを見たとき、目が合った。
笑みを消した彼の眼差しに、真剣さが宿る。
「君のことは信頼している。でも、僕には大事な人を失いたくないという恐怖心が、常にある。だから、必要以上に君を心配したり、過保護になってしまうことがあるかもしれない。これは僕の病気みたいなものだから、慣れてくれると助かるよ」
――え? ジルはドキリとした。
「大事な、人?」
考える間もなく、声になった。はっとしたライナスは、どこか気まずげに苦く笑った。
「……君は僕たちにとって、大事な助手だ。そういう意味だよ」
深い意味はないらしい。
「もう遅いね。今夜は眠って、明日にしよう」
彼はジルから目をそむけて、部屋を出た。ジルも続くと、彼はそっとドアを閉めた。
――君のことは信頼している。
そのことをはっきりと知ることができて、少し気持ちが軽くなった。
「部屋はわかるね」
応接間を出て廊下を歩いてから、ライナスは階段の手前で立ち止まった。
「はい。ライナス様、今夜はいろいろとありがとうございました。おやすみなさい」
「おやすみ」
まっすぐに見つめてくる彼の瞳を見返してから、ジルは階段を上がった。ふと視線を感じて踊り場で立ち止まり、階下を見る。彼の姿はなかった。
ふたたび階段を上がり、部屋に入ってドアを閉める。ベッドに入り、目を閉じた。
同じころ、ライナスは階段下の壁にもたれていた。しばらくそうしてから、もう一度応接間に向かう。ドアを開け、自ら描いたクレアの肖像画を長い間眺めた。
やがて、両腕を伸ばすと額縁を掴み、壁からそっと下ろす。
この絵を欲しがっていた彼女の両親に手紙を書くため、ライナスは書斎へ向かった。
*
その夜、ジルは夢を見た。
白いドレスを
――ええ、それでいいのよ。なにもかも。
そう言って笑った彼女の頭には、ミモザの花冠があった。けれど、目覚めたときには夢のすべてを、忘れてしまっていた。
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