第四章 仮面の夜会と新たな一歩_2
「君の謝罪と言い訳を聞く前に、まずは僕がここにいるいきさつを伝えるよ」
馬車に乗り込んですぐ、ライナスは有無を言わせない声音を発した。
数日前に社交倶楽部で知り合った画家から、手紙が届いたのだと話す。
「彼の友人が、カフェで会う左利きの画家を知っていたんだ。スターリングという名の老人で、エドガーの作風を真似るのがうまくて、あるとき自分のパトロンに話したらしい」
そのパトロンが、親交のある貴族に話す。その貴族が老人のパトロンとなり、おそらく絵を注文するようになったのだ。
――元宮廷画家、エドガー・ザッコフの作風で、と。
「老人のパトロンが誰なのかは、わからない。でも、何人か思い当たったうちに、あの別邸の持ち主がいたんでね」
若い貴族が親の目を盗んで楽しむ集まりだ。招待状はあってないようなもので、仮面を付けて適当な貴族の名を告げれば、誰であろうと出入りができる。
「仮面があれば僕だとバレない。君がいなくても、女性が突進してくることもない。別邸なら、スターリングの本来の作風の絵を飾っている可能性もあると踏んで、
そうしていたとき、見知った背格好の青年があらわれ、目を疑ったと語気を強めた。
「さあ、君の番だ。どうして僕の命令に
にこりともしない彼の横顔を目にしたジルは、とんでもないことをしでかしたのだと、後悔に
「申し訳ございませんでした。でも……」
仮面を取り、両手で握り締める。
「……賄賂の件とは関係がないと、思っていたので」
「関係がない?」
「そうです。僕はそれを探るために、あそこへ行ったわけではありません」
メイデル伯爵との約束を破っていいものか、悩んだジルは口をつぐむ。
「ジル。なんのためにあそこへ行ったのか、僕に言うんだ」
拳をきつくしたジルは、心のなかで伯爵に謝りながら、口を開いた。
「トーマスさんがどうしてあんなことをしたのか、知りたかったからです」
「トーマス?」
ライナスが驚きの声を上げる。はい、とジルはうなずいた。直後、馬車が停まった。ライナスに続いて降りたジルは、そこが銀王宮ではなく彼の屋敷だと知って、戸惑う。
「あの……どうしてここに」
「いいから、続けてくれ」
芝生が広がる庭の向こうに、中世の物語から抜け出したかのような
意を決したジルは、メイデル伯爵が抱いていた懸念について話し、続けた。
「朗読会で、レイモンド様の従妹君、シンシア様にお会いしました。それで、グレンダ様とトーマスさんの間柄がどうしても気になり、彼女の招待を受けようと――」
「――どうして黙っていたんだ!」
ライナスが声を荒らげた。驚いて身を引くジルの腕を、彼はとっさに掴む。顔を近づけると、ジルの目をまっすぐ睨みすえた。
「君は僕を信用していないのか? どうして言わなかった!」
「違います! メイデル伯爵様と、そう約束をしたからです!」
ただの助手であるジルに気を許した伯爵が、話してくれただけのことだ。些末な懸念だから、恥ずかしいひとりごとだから、誰にも言わないで欲しいと付け加えて。
「その約束を守りたかったんです。だから――!」
「驚いたな。君は伯爵との約束は守るのに、僕との約束は破るのか」
違う、そうじゃない。もどかしくてたまらなくて、ジルの目に涙が浮かんだ。
「まさか、そんな……! 僕はライナス様の……皆様の力になりたかっただけです。もしもトーマスさんが誰かに騙されてやったことなら、その誰かがまた、皆様を
とうとうジルの頬に、涙が流れる。目を見張ったライナスは、手の力を緩めた。
(私は、取り返しのつかないことをしてしまったんだわ)
助手として、もう絶対に信頼されないだろう。でも……。
「……ごめんなさい、すみません……皆様を、守りたかったんです。僕は皆様の助手だから。だから、自分だけなにもせずにいるなんて、どうしてもできなかったんです。それに、いつもライナス様に助けてもらってばかりいて、情けなくて、こんなことじゃダメだって……」
涙が流れるたびに、感情が溢れてどうしようもなくなる。こんなことは、はじめてだ。はじめてだから、どうしたらいいのかわからなくて、その困惑がまた涙になる。
「……本当にごめんなさい。ただ……皆様の助けに、なりたかっただけなんです。だから……」
……嫌わないで。その言葉だけは、必死に押し込めた。
ライナスが手を離す。うつむいたジルは、両手で顔を覆った。その肩に、ライナスの手がそっと置かれる。はっとしたジルは、思わず一歩後退り、顔を上げた。
ライナスは、切なげな眼差しでジルを見つめている。彼こそまるで、叱られた子どものような顔をしていた。
彼はジルの肩に置いた手を、ゆっくり戻すとうつむいた。
「……僕は、見た目ほど大人じゃない。そうあろうと努めていても、相手のことを考えずに、子どもっぽい感情に振り回されることがある。いまがそうだ」
はあ、と息をつくと、彼は視線を落とした。
「大声を出して、悪かった。でも、君が心配でどうしようもなかったんだ」
「……僕が頼りないからですよね。わかっています」
そして結局、彼の足を引っ張った。拳銃さえ向けられる危険に、
深く落ち込んだジルが、重ねて「すみません」と声にしようとしたときだ。
「違うよ。君のことは頼りにしてる。危険に
「……え?」
「君を甘く見ていたらしい。その予想は、見事に外れたよ」
ライナスが気弱に笑む。それを合図にしたかのように、屋敷から誰かがやって来るのが見えた。壮年の執事、スティーブンだ。
すらりとした立ち姿で、ライナスとジルを見たスティーブンは、静かに微笑んだ。
「お屋敷に入られてはいかがですか。旦那様」
*
「メイドにお着替えを用意させ、二階のゲストルームと浴室にご案内いたしました」
書斎に入ったライナスに、執事が言う。長椅子に深く身体を預けたライナスは、アスコットタイを緩めると襟元のボタンを外し、深く嘆息した。
「ありがとう」
「紅茶をお持ちいたしましょうか」
「いや……コーヒーを頼むよ」
「かしこまりました」
そう言って一礼するも、まだいる。片膝に肘をのせ、頬杖をついたライナスは、前屈み気味になりながら執事をうかがった。どうにも口角が上がっている。
「……嬉しそうだね、スティーブン」
「旦那様が幼少のころより、仕えている身でございます。あのように激しくお声を荒らげる旦那様を目にしたのは、愛犬のジャックが領地のお屋敷からいなくなったとき以来。おそらく十数年ぶりですので」
「見ていたのか」
「外から声がして、なにごとかと窓から少々」
ライナスは苦笑する。
「ジャックか……懐かしいな。あのときは必死に探したよ」
「湖畔でのんびりと眠っているジャックを見つけたときは、わたくしも使用人一同も、大変安堵いたしました」
ライナスは小さく声を上げて笑った。
「そうだったな。記憶力がいいね」
「お褒めに預かり、光栄です。それはさておき、つい一時間ほど前に、イーゴウ地方から従者が戻りました。旦那様の懸念どおり、バーリー男爵様の雇った探偵くずれが、シルベスター家について探るべく、ハフナーに入る手前の宿に滞在しようとしたところを、お引き止めしたと」
ハフナーは、ジルの家族が暮らす領地の田舎町だ。
「それで?」
「金銭を渡し、無事に帰らせたとのことです。バーリー男爵様のお耳には、〝シルベスター男爵家姉妹〟ではなく、〝シルベスター男爵家兄妹〟の情報が入るかと」
ライナスはふたたび、息をつく。
「ありがとう。彼に手当を渡してくれ」
「承知いたしました」
一礼し、執事は微笑む。
「旦那様が旦那様らしさを取り戻されたことを、嬉しく思っております。このお屋敷も、日々明るさを取り戻していくように感じられます」
コーヒーをお持ちしますと告げて、執事は去った。一人になったライナスは、苦笑いを浮かべる。そうして椅子から立ち、デスクの引き出しを開けた。
五年前、コーラル・レッドの髪色をした少女にもらったハンカチがある。それをくれた少女はいま、この屋敷のゲストルームにいる。しかし彼女は、それを知らない。
種明かしは、彼女が夢を叶えてからだ。
そのためには、彼女を陰ながら守り続けるしかない。
(……まるで、王女を守る護衛の騎士だな)
ふたたび笑むも、椅子に座ったライナスは、真顔になって思案する。
贋作をばらまいているのが誰か、もともと当たりはつけていた。だが、その確信を得る多くの証拠を必要としたため、あえて伏せた。予想に
(狡猾だけれど、わかりやすい。僕たちの敵としては、力不足かもね)
そっとほくそ笑む。
ライナスに愛娘の肖像画を了承させたものの、念には念を入れるために裏でジルの弱みを握り、懐柔させるつもりでいたことも想定内だ。先回りをして食い止めてよかったと、胸を撫で下ろしたライナスは、椅子に深く身体を預けてまぶたを閉じた。
バーリー家の別邸に、スターリングのものらしき絵画はあった。右下の星の印がサインの代わりだとすれば、階段下の風景画がそうだろう。
素晴らしい筆致と構図の油絵だったが、老人の絵をほかに知らないライナスには、贋作を手がけた者と同一なのか、判断がつかない。決定的な証拠にするためには、裸婦の贋作との共通点を、探らなくてはいけないだろう。
とはいえ、焦点は絞れた。だが、バーリー卿だけを断罪したとしても、別の誰かが賄賂の悪習を続けるかもしれない。
それではダメだ。解決したことにはならない。
芸術を軽んずる者たちの――記憶に残る鉄槌を下さなくては。
「……どうするかな」
思いがけずジルが動いてくれたことで、別邸にいた青年らの会話も聞くことができた。
トーマスはやはり、そそのかされて悪事に手を染めたらしい。しかもその相手は、バーリー家の令嬢だったのだ。
派閥争いとは関係がないにせよ、バーリー卿にとっては嬉しい誤算だったはずだ。
(……すっかりジルに、僕の役目を奪われてしまったな)
あんなふうに彼らに近づくとは、想像もしなかった。ライナスは息をつく。
ジルのことを思うと、胸が痛んだ。あんなに怒る必要はなかったはずだ。頭ではそうわかっていても、感情が止まらなくて激昂してしまい、泣かせてしまった。
助手として、主たちを守りたかったのだと言った。不安げな眼差しで必死にそう訴えながら、小さな女の子のように泣く彼女を、抱きしめたくてたまらなくなった。
(怒ったあげくに抱きしめる? やってることが支離滅裂だ)
「どうしたんだ、僕は。これじゃ、意地悪な十歳の男の子だ」
自分に愛想が尽きる。顔をしかめたライナスは、深く嘆息しながら両手で髪をかき上げた。
ジルは冷静に見えて、心の奥底には熱情を秘めている。だからこそ、無鉄砲な行動に出たのだろう。
主たちを守りたいという、その一心で。
(……自分が女の子だということを、わかっているのか?)
貴族の令嬢であることを、忘れたわけではないだろう。ただ助手としての仕事に、忠実なだけだ。そのことに胸を打たれるのと同時に、危うさも感じる。
だから心配で、賄賂の件に関わることがないよう、突き放したのだ。
女性であることを知っていると、ジルに悟られないように。過保護になりすぎないよう、距離をとった。だが、アンドリューと二人きりの場面に出くわし、我を忘れてしまいそうになった。
そうして、悟ってしまった。なんらかの感情を抱いていることに。
まだ、気づきたくない気もする。いや、もう無駄だ。
とっくに――わかっているのだから。
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