第四章 仮面の夜会と新たな一歩_1
王都キルハに、本格的な社交シーズンが訪れた。
貴族たちの屋敷では、毎夜のように晩餐会や夜会、舞踏会が開かれ、銀王宮にもたくさんの人々が訪れる。華やかな日々を謳歌する彼らの影で、
昼は創作、夜は賄賂の証拠探しと、多忙を極める彼らの予定を、ジルはくまなく整理し、臨機応変に調節した。
だが、画商や芸術家を主とした、紳士だけの集まりである社交倶楽部出入りし、聞き込みをしているライナスだけは、数日前に自身の屋敷に戻ったきり姿を見せていない。
彼とはずっと、挨拶程度の会話しかしていない。このまま距離ができてしまうのかと思うと、ジルの胸は無性にざわめいた。
(……ううん、きっとこの騒ぎが終息するまでのことよ。それに、助手としてきちんと認められたら、またもとのように話してくれるようになるわ)
そんな期待をかけるジルのもとに、グレンダから招待状が届いたのは、五日前のことだ。
そして、今夜。バーリー家の所有する別邸で、グレンダは仮面の夜会を
本来ならば主たちの許可を得るべきことだが、もしもこの件を伝えたら、なぜバーリー家の令嬢が招待状を送って来たのかと、問われることになってしまう。
グレンダの件は、ジルが怪しんでいるだけだ。ただでさえ忙しい彼らに、余計な情報を与えるわけにはいかない。内緒で出掛けるのは心苦しいが、そうするのが最適だと判断し、ジルは彼らに黙っていた。
ライナス以外の主たちは、今日も夕方から出払う予定になっており、戻りはおそらく朝になる。
(その間に私も出かけて、彼らよりも早く戻りましょう、そうすれば、誰にも迷惑をかけずに済むわ)
今夜の目的は、グレンダとトーマスの関係、そして、トーマスがなぜあんなことをしでかしたのか、情報を集めることだ。その探りを入れているのが
せっかくの機会を逃さないために、目立たない男性用の夜会服と仮面、赤毛を隠すカツラの用意を
日が暮れはじめると、アンドリューに続いてレイモンドも芸術棟を出た。彼らを見送ったあとで、カーティスが大階段を下りて来る。
「屋敷に寄って着替えてから、夜会に出る」
そう言って近づくと、ジルの肩を軽く叩いた。
「今夜こそ見つけてやるぞ」
ニッと笑った彼に、ジルも笑顔で応えた。
「はい。お気をつけて、行ってらっしゃいませ」
一礼して見送ったジルは、芸術棟の扉を閉めた。
「……さあ、私も出掛ける時間よ」
グレンダの夜会に、向かわなくては。
*
箱馬車に乗ったジルは、銀王宮の門をくぐった。
マダム・ヴェラが用意してくれていたのは、濃紺の夜会服と仮面、ブルネットのカツラだ。それらに着替えて準備を整えたジルは、すぐにバーリー家の別邸へ向かった。
豪奢な白亜の邸内には、すでに大勢の若い貴族が集まっていた。
騒がしいピアノの音色が鳴り響くなか、顔の半分を色とりどりに装飾された仮面で隠した男女が、グラスを片手に談笑している。ロビーや廊下、階段といったあらゆる場所に人がいて、ジルは圧倒された。
(……グレンダ様はどこかしら。仮面で顔が隠れているから、わからないわ)
背格好や声を頼りにして、探すしかない。
人混みをかきわけながら、ジルは広間に足を踏み入れた。大人たちの集まりと違い、親の目を盗んではめをはずす男女の群れに、どうにも眉をひそめてしまう。
シンシアが嫌がるのもうなずける。騒々しくて、品がないことこのうえない。
「ねえ、聞いてちょうだい!」
蝶を
「お父様には内緒にって言われたけれど、ロンウィザー侯爵様がわたくしの肖像画を描いてくれることになったの!」
おお! と歓声が上がる。探す手間がはぶけたと、ジルは密かに苦笑をもらした。彼女に近づこうとした矢先、誰かに見られている気がして視線を移す。
黒い仮面を付けた背の高い青年が、ステッキを片手にして窓のそばに立っている。一瞬だけ目が合った気がしたが、気のせいだろう。そう思い直し、グレンダに近づいていく。そのときだ。
「グレンダ嬢、やるじゃないか。さすがはバーリー家のご令嬢だ」
「ああ。バーリー卿はロンウィザー侯爵の肖像画を所持する、唯一の貴族になる。メイデル伯爵に贈られた絵なんて目じゃないぞ。評判になるな」
談笑する三人の背後を過ぎようとしたとき、一人が声をひそめた。
「メイデル伯爵といえば、トーマスはバカなことしたよな。……監獄だぜ?」
グラスを口に運ぶ青年の言葉に、驚いたジルは立ち止まり、耳を澄ます。
「まさか、グレンダ嬢の冗談を真に受けるなんてな。まったく、信じられないよ」
(――なに?)
「彼女の気を
神妙な面持ちになった三人は、口をつぐんでグラスをあおる。そんな彼らに、ジルはそっと近づいた。
(もっと知りたいわ。さりげなく話を合わせて、聞き出さなくは)
「……片思いだとしても、僕にはできないことだ。彼はグレンダ嬢の冗談を真に受けてしまうほど、彼女に想いを寄せていたのかな」
青年らしい声音を装う。酔っている彼らはジルを不審にも思わず、「ああ」とうなずいた。
「とはいえ、やっていいことじゃなかった。恋は麻薬みたいなものさ。冷静さを奪ってしまうからな」
「風刺画も、ベイフォード公爵のタペストリーの件も……グレンダ嬢の冗談だったということかな」
ジルが
「〝仕返ししたければ、そうするのがいい。無鉄砲な殿方は素敵だ〟と言われて、本気にしてしまったのさ」
(なんですって?……いいえ、決めつけるのは早いわ。ただの噂かもしれないもの)
愕然としたジルは、拳をきつくしながら、なんとか笑顔を作った。
「……それは、噂では?」
顔を見合わせた彼らは、沈痛な眼差しでうつむき、嘆息した。
「今日みたいな夜会のことだ。俺たちもその場にいたんだ。噂じゃなくて真実さ」
血の気が引く思いで、ジルはゆっくりと彼らから離れた。
――トーマスをそそのかしたのは、グレンダだ。でも、どうして?
(お父様のバーリー卿は、メイデル伯爵様に敵対する派閥のトップよ。まさか……それが関係している?)
バーリー卿は娘を利用し、トーマスに罠を仕掛けたのだろうか。それとも、グレンダ自身が無邪気な冗談のつもりで、トーマスを
(どちらにしても、バーリー家が関わっていたことは、間違いないわ)
聴取を受けたトーマスが、グレンダの名すら出さなかったのは、羞恥心からだとジルは察した。自尊心の高い彼にとって、女性の気を惹くために罪を犯したと告げることは、なににも勝る屈辱になるからだ。
(そんな彼の人柄もわかっていて、利用したのかしら……?)
グレンダは周囲に集まった男女を相手に、耳障りな笑い声を上げている。なぜトーマスに心ない提案をしたのか知りたかったが、問い詰めたら目立ってしまう。
どうするべきかと思案しはじめた矢先、またもや視線を感じて広間を見回す。黒い仮面の青年はまだ窓のそばにいて、ジルを見ていた。
(……誰なの?)
知りたいことは山ほどある。だが、彼の視線がどうしても気になった。
(なんだか私を、不審がっているみたい。すぐに帰ったほうがいいかもしれないわ)
嫌な予感を覚えたジルは、しかたなく広間を出た。廊下を過ぎて玄関に向かおうとした矢先、階段下に飾られた一枚の油絵が、ジルの視界に飛び込んだ。
ここへ来たときは、人混みで見えなかった。彼らが広間に集まったおかげで、日陰の花のように飾られたその絵画があらわになったのだ。
――サイズは十号の、風景画。
窓から見下ろした、夕暮れの王都の景色。籠を手にして花束を売る少女が、石畳の通りの真ん中にぽつんと立っている。少女のほかには誰もおらず、その孤独感がジルに迫ってくる。
丁寧で、写実的な筆致。誰もない通りで花束を差し出す少女は、黄金色の日射しに包まれているが、窓枠のこちら側は深い闇だ。
描いている人間もまた、孤独を抱えているのだ。痛いほどそれがわかるのと同時に、鑑賞者に共感を呼び起こし、感情を揺さぶってくる。
素晴らしい絵だ。こんな絵を、どこかで見たことがある――と、ジルは隅々にまで視線を這わせ、はっとした。
深い闇に覆われた窓枠に、絵の具の〝溜まり〟が残っている。じっくりと目を凝らすと、筆さばきが右下から左上に向かっていた。もしかしてこれを描いたのは、エドガーを騙る左利きの画家か。
(いいえ、まだわからないわ。贋作の特徴と一致しているけれど、ほかの画家にあてはまらないわけではないもの。影を描いた筆の向きだけで、断定はできない……)
そう思っても、鼓動は早まる。と、ふと右下に視線を移した瞬間、ジルは瞠目した。
闇に隠れるように藍色の小さな星が、ささやかに印されていたのだ。
メイデル伯爵が飾っていた絵と同じ。これを描いたのは、無名の老人――。
(――スターリングだわ!)
「その絵がなにか?」
声をかけられて、とっさに振り返る。蝶を象った仮面の奥で、グレンダの狡猾そうな瞳がきらめいた。
「……素晴らしい絵だと、思いまして。この絵はどちらで、手に入れたのですか?」
取り乱してはいけないと思えば思うほど、ジルの声は震えた。
「さあ、わたくしは存じ上げませんわ。お父様が所持しているものですから」
そう言って、グレンダは唇を弓なりにさせた。
「聞き覚えのあるお声ですこと。お近づきになれて光栄ですわ。カツラで髪色を隠さずとも、よろしかったのに」
ジルはとっさに周囲を見回す。誰もこちらに注意を払っていない。立ち去るつもりだったが、絶好の機会だ。トーマスとのことを彼女に訊ねるなら、いましかない。覚悟を決めたジルは、グレンダを見つめた。
「メイデル伯爵様のご子息が罪を犯したのは、あなたの冗談を真に受けたからだというお噂を耳にしたのですが、本当でしょうか」
一瞬息をのんだグレンダは、思い直すように笑んだ。
「……突然、なんですの? おかしな方ね。そんなこと、記憶にございませんわ」
「でしたら、思い出してはいただけませんか。なぜそのような冗談を彼に告げたのか、教えていただけるとありがたいのですが」
グレンダは笑みを消した。
「覚えておりませんわ。万が一そうだったとしても、他愛のない冗談に過ぎないことよ」
そう答えるや、すっとジルのうなじに手をかけて、ブルネットのカツラを取った。ジルが動揺すると、グレンダは満足そうに笑った。
「まあ、きれいな赤毛ですこと」
「返してください」
「ダメよ。これはわたくしが預かっておきますわ」
意地悪そうに口角を上げながら、背中にまわして隠してしまう。なにごとかと周囲に人が集まりはじめた。グレンダは探るような眼差しを、ジルに向けてきた。
「あなたのことを、よく知りたいわ。そのためにご招待したのですもの。地方からいらしているというお噂は耳にしておりますけれど、失礼ながらシルベスター家は存じ上げませんの。ご出身はどちらかしら?」
出身地を告げたら、根掘り葉掘り訊かれるだろう。返事を濁して、いとまを告げたほうがいい。
「あなたにお伝えするのもはばかれる、ささやかな土地の出身です。楽しい会でしたが、やはり華やかな場所は僕にそぐわないようです。どうぞご容赦を」
カツラは諦めるしかなさそうだ。マダム・ヴェラに謝るしかない。一礼して背中を向けようとした寸前、グレンダが耳打ちしてきた。
「いいえ、帰しませんわよ。あなたと仲良しになるために、ご招待したのだもの」
目を見開いたジルは、グレンダを凝視した。彼女の瞳が射るように光る。
「……仲良し?」
「有能と噂される助手の方と、お近づきになれる機会はそうないわ。以前の助手の方はすぐに辞めてしまったあげく、わたくしにつきまとって困っておりましたの。遠ざけるのに苦労いたしましたわ」
――あっ! そうだったのかと、ジルは彼女を凝視した。
トーマスに対するグレンダの言動は、貴族の派閥争いとは無関係だ。結果的にそうなってしまっただけで、利用価値のなくなった彼を、自分から遠ざけるためだったのだ。
(だからって、なんて酷いことを……!)
拳を握ったジルは、必死に怒りを押し殺した。そんなジルにかまわず、グレンダは
「さあ、広間に戻りましょう。お酒を飲みながら、夜通しおしゃべりをするの!」
陽気なその声に、腸が煮えくり返った。一刻も早くここを出なくては、彼女の頬を平手打ちしてしまいそうだ。歩きはじめた彼女の腕を、ジルは毅然とした態度で振り払った。
「あなたにお話しすることなど、僕にはなにもございません」
「まっ……なんですって!?」
「ご無礼をお許しください。これで失礼いたします」
一礼した瞬間、恥をかかされたと感じたらしいグレンダは、酒を運んでいる使用人を呼びつけた。
「なにをおっしゃるの。あなたを足止めさせるためなら、わたくし、なんだってするつもりよ」
トレイのグラスを掴むと、仮面からのぞく瞳をぎらりとさせた。
「お着替えを用意させますわ。愉快な余興は、これからよ!」
グラスの酒をジルに浴びせようとした――矢先。
人だかりから手が伸び、ぐいと腕を引っ張られる。はっとして振り返る間もなく、黒い仮面の青年がジルをかばうようにして立った。直後、彼はグレンダが放った酒に、肩を濡らした。
「なっ――!」
彼女が驚いた隙を逃さず、青年は無言でジルの手首を掴んだ。人混みをかき分けて廊下を走り、開け放たれた玄関の扉から勢いよく外へ出た。
(――助けてくれた? でも、誰なの!?)
「あ、あのっ! あなたはいったい……!?」
青年は答えず、馬車に乗り込もうとする。だが、グレンダに命じられたらしき三人の使用人が追って来た。
「グレンダ様の邪魔をした男だ! 馬車に乗せるな、追え!」
門を出た青年は、無言でジルの手首を強く握ったまま、ガス灯が照らす通りを駆ける。
「待ってください! 僕をどこへ……っ」
「話はあとだ」
そう言って、立ち止まる。その声には聞き覚えがあり、ジルは耳を疑った。
でも、どうして? どうして彼は社交倶楽部ではなく、あの別邸にいたのだろう!?
「無礼な邪魔者を捕まえろ!」
使用人の一人が飛びかかってきた。ジルを背後にかばった彼は、身を
(――うそ! 拳銃だなんて!!)
身を震わせるジルとは対象的に、彼は落ち着いていた。
「人を撃ったことがないんだろう。手が震えているのがわかるよ」
低い声音を放ちながら、男に向かって歩いて行く。
「う……うるさい! 止まれ、撃つぞ!」
「僕を脅しても無駄だよ。かなり頭にきているから、冷静な判断ができない状態だ」
男が引き金に手をかけようとした寸前、彼は素早い身のこなしでステッキを振り上げ、その横腹を打った。
倒れた男の手から銃が離れ、彼はそれを靴で踏みしめる。最後の一人の拳を避け、腿を打つ。よろめいた男の背中に、激しい一撃を喰らわせた。
「……おかしいな。
つぶやいてから指笛を吹くと、通りの影から箱馬車があらわれる。まだ震えているジルの手首を強引に掴み、
「覚悟はいいかな。楽しいお説教の時間だ」
自分の仮面をはぎ取りながら、目を吊り上げてジルを見る。
それは、ジルがはじめて目にした、ライナスの怒りの形相だった。
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