第三章 朗読会と波乱の幕開け_4
ライナスが追ったイルタニアの画商は、水彩の風景画を専門に買い付けている男だった。
だが――。
「〝元宮廷画家の絵を、デイランドの貴族たちが売りたがっている〟と、隣国の画商の間で密かに噂になっているそうだ。その貴族らの名は知らないし、画商も多くて特定できないと言っていた。油絵は彼の専門ではないし、誠実そうな人だったから、よく思っていないのはあきらかだったよ」
晩餐前の夕方。広間の椅子に座ったライナスは、嘆息して続ける。
「エドガーを
「いや、お前のおかげで裏付けができた。証拠は多いほうがいいだろう」
長椅子に座ったアンドリューは足を組み、背もたれに腕をのせて笑む。ああ、と小さくうなずいたライナスは、ため息を落とした。
「とはいえ……レイモンドには悪いことをしたな」
「気にするような奴じゃない。それに、あいつの朗読が聞きたければ、いつでも頼めるぞ」
アンドリューの言葉に、ライナスは「たしかに」と控えめに笑った。けれど、すぐに笑みを消す。
二人に紅茶を出したジルは、彼らの会話を聞きながら広間の隅に立ち、静かに見守った。
朗読会の様子と、メイデル伯爵の登場を話したアンドリューは、声を低めてライナスに伝えた。
「様子がおかしい貴族が、何人かいた。俺たちを屋敷に招いたことのない奴らだ」
ライナスの眼差しが、鋭く光る。
「……すでに徒党を組みはじめているね」
「
アンドリューが言った直後、カーティスが戻った。〝証拠はなにもなかった〟としめすように、カーティスは肩をすくめて嘆息した。そうしてライナスをねぎらい、アンドリューの隣に腰を下ろす。
広間を出たジルは、紅茶を彼にも淹れて出した。カップを受け取ったカーティスは、ライナスが得た情報を聞きながら、やれやれと天井を仰いだ。
「裏付けがあるのに、証拠を見つけられないとはな」
「きなくさいと思われる貴族の屋敷を、片っ端から探るしかない。とはいえ……」
アンドリューは、ふとジルに顔を向けた。
「おい、ジル。お前なら、どうする?」
ライナスがはっとしたように、ジルを振り返る。口を挟まないようにしていたジルは、突然の名指しにびっくりして戸惑った。
「えっ? 僕……ですか?」
「俺のタペストリーをステンドグラスにしてはどうかと、突拍子もないことを思いついた奴だ。なにか突破口が欲しい。お前ならどうするか、言ってみろ」
邪魔をするなと言わんばかりに、ライナスの視線はやけに険しい。
(口を出すのは避けたいけれど、黙っているのもおかしいわ。どうしよう……)
「どうした。言ってみろ」
アンドリューに急かされたジルは、ライナスの顔色をうかがいながら考えた。自分なら、どうするだろう。いや、朗読会でカーティスが挙げた議員の派閥のうちの一つ、そのトップにいるバーリー卿のような、狡猾な人物が黒幕だったとしたら、きっと。
「どの派閥にも属されていない社交界の方に、注目するかもしれません。たとえば……」
弱みを握ってつけこむだろう。ジルにそうしたように。
「……派閥に属さず、金策に難儀している方がいるはずです。そうとは見せずに派手に振舞い、レイモンド様のご親族のパーティに来ていた女優の方などとも、交流のあるような方です」
息をつき、ジルは続ける。
「そういった方の意見は、顔の広さからさまざまな方の耳に入りますし、国王陛下のお耳にも入ると思います。人気や人望のお噂を広めるのに最適ですから、そのような方のお名前を挙げ、横のつながりも考慮したリストをもとに、探ってみるのはいかがでしょうか」
「派閥のさらに横つながり、というわけだな」
そうささやき、アンドリューはニヤリとした。
「思い当たる顔が、次々に浮かんだぞ」
カーティスがつぶやく。すると、アンドリューが立ち上がった。
「よし、お前にもリスト作りを手伝ってもらおう。来い、ジル――」
「ダメだ」
ライナスの声が、広間に響いた。眉根を寄せたアンドリューは、ライナスを見すえた。
「……なに?」
「ジルはダメだ。この件は彼に手伝わせたくない」
ライナスも椅子から立つ。アンドリューは苦笑した。
「なにを言ってる? こいつは俺たちが命じたことを、なんだってするべき立場だぞ」
表情を険しくさせたライナスは、アンドリューの目前に立った。
「わかってるよ。でも、この件には、野心に駆られた貴族が関わってる」
ライナスの言動をいぶかしむように、アンドリューは片眉をつり上げた。
「だからどうした。まさか、お前はジルを……心配しているのか?」
「……いや、そうじゃない」
言葉を濁す。苛立ったアンドリューは、ライナスに迫った。
「なら、なんだ」
顔をつき合わせた二人が、睨み合う。彼らの間に、緊迫した空気が張りつめていく。ただ見ていることに耐えきれなくなったジルは、意を決して彼らに近づいた。
「あの、アンドリュー様。ライナス様は、僕を心配しているわけではございません。この件に関して、田舎貴族であり社交界にうとい僕が動いては、皆さんの足手まといになると考えて、ご心配なさっているのです」
ライナスは驚いたように瞠目し、息をのむ。対するアンドリューは、さらに眉間を狭めた。そんな二人にかまわず、ジルは説得を試みた。
「アンドリュー様。リストの作成だけ、お手伝いいたします。けれど、それ以上はご遠慮させていただきます。ライナス様。それなら僕にもできますし、皆さんの邪魔をしたことにはならないと思います。いかがでしょうか」
しんと静まった広間に、カーティスの拍手がこだました。
「お見事。丸くおさめたな」
半笑いのカーティスの声音で、三人の緊張は解かれた。嘆息したアンドリューは、呆れたように鼻で笑った。
「まあ、いいだろう。それでかまわない」
うつむいたライナスは、落ち着こうとするかのように息をつき、髪をかき上げる。
「……わかった」
そう言った彼の肩を、アンドリューは拳で軽く突いた。
「お前、どうしたんだ? ここのところずっとおかしいぞ。ジルのこととなると、急に血相が変わる。ジルはお前の飼ってる小犬かなにかか?」
冗談めかした言葉に、
「……まさか」
少しも笑わずに否定したライナスは、ジルを視界に入れた。
「ジル、僕に約束してくれ。それ以上はなにもしないね?」
灰青色の瞳を細め、念を押してくる。
(私、本当に彼に信頼されていないんだわ……)
哀しく、寂しい。落胆の気持ちを拳に込めて握り、ジルはうなずいた。
「もちろんです、ライナス様。この件ではこれ以上、いっさい邪魔はいたしません」
ほっとしたように息をついたライナスは、少し仮眠をすると告げて広間を去った。
ジルも空になったカップをトレイにのせ、広間を出る。直後、アンドリューの声が耳に届く。
「……あいつ、どうかしてるぞ。そう思わないか、カーティス」
ジルはそっと、広間の扉を閉めた。それでも会話は聞こえてくる。
「ジルが心配なのだろう。悪いことじゃない」
「それにしても、度が過ぎてる」
「他人に興味のなかった彼が、誰かを心配するなどはじめてだ。いい変化だし、そうさせているのはジルだ。きっと弟のように思っているのだろう。彼には兄弟がいないからな」
カーティスの声音から遠ざかるように、ジルは食堂へ向かった。
たとえそうだとしても、ライナスが自分を頼りなく思っていることに、違いはない。
(あっ……だからよ)
やっと気づいた。女性だと知っているからではなく、ジルが助手として頼りないから。
だから彼は常に、ジルを助けてくれるのだ。
主を助けるべき立場の自分が、思い返せば助けられてばかりいる。そのことが情けなくて、深く落ち込んだジルは、何度もため息をついた。
*
晩餐の時間になっても、ライナスは食堂に来なかった。工房に食事を運ぶと、彼は長椅子に横たわって目を閉じていた。
食堂にあらわれたアンドリューとカーティスは、心当たりのある貴族の名を、次々に挙げはじめた。ジルはそれを、手早くメモする。
線で囲み、横のつながりを図にしていく。落書きのようになってしまったが、清書して渡すことを約束し、晩餐を終えた。
食堂を片付けてから、自室に入ったジルはさっそく清書をはじめた。こんなにも金銭に苦慮している貴族がいるのかと思うと、同情とともにため息がもれる。しかもだ。
(これらの屋敷を探るだなんて、大変なことよ)
だからといって、放ってはおけない。このリストが助けになればと思いながら、ジルは主たちに渡す分の紙に書き写していく。終えたのは、深夜だった。
奥のドアを目にするも、ライナスの寝室からは物音一つ聞こえない。まだ工房にいるのだろう。
(そうだわ。彼の分の食器を下げなくては)
そう思うのに、やはり
いつまでもぐずぐずしている自分に嫌気がさし、とにかく部屋を出た。ランプを手にして階段を下り、二階の廊下から広間を見下ろすと、窓から月明かりが射し込んでいた。
(工房へ行く前に、少し気持ちを整えることにしましょう)
大階段を下りたジルは、広間の扉を開け放ったまま、ランプを消して長椅子に腰を下ろした。
ほの青い月明かりが、広間を包む。その光景を眺めながら、息をついてまぶたを閉じた。そのとき――。
「――なにをしているのですか」
レイモンドの声に、目を開けたジルは飛び上がった。
「わ……っと、レイモンド様! お帰りだったのですね」
扉口に立ったレイモンドは、暗がりのジルを見るなり不審そうに眉をひそめた。
「たったいま戻ったばかりです。それにしても、どうしたのですか。幽霊かと思いました」
「も、申し訳ありません。少し休憩を……」
驚いたせいで、心臓が激しく脈打つ。鼓動をおさえるため、ジルは胸に手をあてた。
「お帰りなさいませ。本日は、とても素晴らしい朗読でした」
「当然です」
きっぱりと告げて広間に入った彼は、ジルから離れたところで足を止めた。なにか言いたいことがあるのか、口を開いては閉じを繰り返し、戸惑ったように顔をしかめる。
「あの……レイモンド様。どうなさったのですか」
そっぽを向いたレイモンドは、眼鏡を押し上げながら言った。
「シンシアに会ったそうですね」
「え?……はい。お会いしました」
「特別親しいわけではありませんが、彼女のことはバクスター家の血を継ぐ令嬢として、私は認めています。ですから、彼女の言葉は素直に受け取るようにしています」
なにが言いたいのだろう。戸惑うジルに、彼は続ける。
「私は人間の
「いえ、そんな……」
ジルを横目にしたレイモンドは、お世辞はやめてくれと言いたげに、うっすらとした苦笑をもらす。
「あなたがなにを思って、この暗がりで休憩をしていたのか、私にはわかりませんし興味もありません。しかし、もしも
(――え、えっ? なに……?)
びっくりしたジルは、目を丸くした。そんなジルを尻目に、レイモンドは淡々と告げる。
「私の作品『
そう言い放つやいなや、
戦場で戦う兵士たちをテーマにしたもので、ちょうど読みはじめた作品だ。
呆気にとられたものの、とにかく言われたページの文言を目にしなくてはと、ジルは急いで部屋に戻る。
ページをめくり、行を指で数える。三百五十八ページ、七行目――中将のセリフだ。
――お前は彼の尊厳を守護した。それは皆が認めることである。だから顔を上げ、前を見よ。
目を見開いたジルは、すぐに察した。
レイモンドはシンシアから、心ない青年たちと
――思いもよらない、こんな形で。
ぽとりとページに、涙が落ちた。驚いたジルは、頬に流れる涙をとっさに指で拭う。
嬉しいと感じて、泣いたのは久しぶりだ。いや、人生ではじめてかもしれない。
ここで経験するのは、はじめてのことばかりだ。
(……嬉しいわ。そう感じられる自分が、嬉しい)
ジルは我慢せず、ひとしきり喜びの涙を流した。そうして深呼吸し、姿勢を正す。
(落ち込むことなんて、なにもないわ。私は彼らの助手として、私にできることをする。ただ、それだけよ)
顔を上げ、前を見る。
(そうよ。私にも……ううん。私にしかできないことはあるもの)
今度は自分が、ライナスを――彼らを助ける番だ。
性別を隠していることの、
――グレンダの招待を、受けること。
部屋を出たジルは、堂々とした足取りで、ライナスの工房へ向かった。
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