帰ってきた、男装令嬢とふぞろいの主たち/羽倉せい

角川ビーンズ文庫

第一章 カサブランカと無名の画家_1

 何冊もの書物を両手に抱えた小柄な少年が、大階段を駆け下りてきた。

 凛とした緑色の瞳をきらめかせて、赤毛を揺らしながらロビーに降り立ち、扉に向かって行く。と、その背中に、階上から声がかかる。

「ジル、ちょっと待て。頼みたい資料がある」

 そう呼び止めたのは、精悍せいかんな顔立ちのカーティスだ。

 先祖代々建築家であるラングレー伯爵家に生まれ、彼自身もさまざまな設計をはじめ、聖堂や教会の修復を手がけている。

 石造りの建築物を優美に彩る彼の設計は、複雑かつ実現するのが難解とされており、ついた異名が〝異端の守護者マスター〟だった。そんな彼の人柄は、気さくで明朗快活。助手であるジルが、もっとも緊張せずに対応できるあるじだった。

 足を止めたジルは、カーティスを見上げた。

「はい。どのような資料でしょうか、カーティス様」

 あごに指を添えたカーティスは、珍しく悩んでいる様子で大階段を下りてくる。

「錯視効果の壁画がある建築の資料を、探しているんだが……」

 ジルに近づくと、ため息を落とした。

「……どうにも思い当たらなくてな」 

 ちらりと一瞥いちべつをくれる。ジルは驚き、目を丸くした。建築に関してカーティスが思い当たらないことなど、あるわけがないのに? もしや、激務によるど忘れか。

 カーティスの体調を心配しつつ、ジルはおずおずと口を開いた。

「〝目の錯覚〟を利用した壁画のある、建築物でございますか?」

「そうだ。しかしまいったな……」

 ガシガシと頭をかき、ふたたびジルを見流す。まるでジルに、答えをうながそうとしているかのようだ。

「でしたら……そうですね。たとえばですが、ボワーズ地方にある自然史博物館はいかがでしょうか。大自然を一面に描いた壁画がございます」

 不満だとでも言いたげに、カーティスは眉を寄せた。

「あそこの風景画はたしかに壮大だが、錯視効果はないぞ、ジル。錯視効果とは、見た者を驚かせ、ときに迷わせなくては意味がない。扉や窓かと思われて近づけば、ただの壁だったという具合にな」

 たしかにそうだ。ジルは独学で得た知識をたどって、返答した。

「……では、あの、過去に聖職者による写本を所蔵していた、イルタニア国のケルム蔵書館はいかがでしょうか。現在は観光名所となっておりますが、写本が盗まれないよう、窓や扉などの立体的な壁画が、いたるところに描かれておりますから」

 カーティスは感心したように片眉を上げ、ニヤリとした。

「いいだろう。それを持って来てくれ」

 当たったようだ。ジルは笑顔でうなずいた。

「はい!」

 ロビーを出ようとしたとき、カーティスが言った。

「覚えたことは、使わなくては意味がないからな」

 えっ? とジルは振り返る。彼は小さくんだだけで、立ち去った。

 もしかするとカーティスは、わざと忘れたふりをしたのではないか。そうしてジルに、解答させたのかもしれない。

 日々独学で勉強しているジルにとって、いまのやりとりは復習になった。考えすぎかもしれないが、もしも事実だとしたら、こんなに嬉しいことはない。

 少なくとも主の一人は、応援してくれていることになるからだ。

 顔をほころばせたジルは、軽やかな足取りで書庫へ向かった。 

 王都から遠いイーゴウ地方の、ごく一部を領地とする男爵家に生まれたジルは、実は少年ではない。

 貧しい家族を支えるために、貴族の令嬢に許された唯一の職業である教師を目指し、その資格を得るために髪を切り、性別をいつわって、彼らの助手になったのだ。

 ジルが女性であることは、誰にも知られてはいない。ここでの生活に慣れてはきたが、常にバレないよう気を引き締めている。いや、そうしなくてはいけないのだ。

(——これは、墓場まで持っていく秘密だもの!)

 書物を戻し、資料をたずさえて回廊を歩く。銀王宮ぎんおうきゅうの庭園の花々は、夏の訪れを歓迎するかのように輝いていた。

 デイランド王国、王都キルハ。国王であるアンドレアス二世に引き立てられた四人の芸術家たち——銀王宮の四大守護者マスターズ・オブ・アーツのアトリエ、芸術棟は西翼の奥にある。

 ロビーの床は漆黒の大理石で、吹き抜けの高い天井は、シャンデリアと天使のフレスコ画が美しい。ルビー色の壁には大小さまざまの絵画が飾られ、真正面には華やかな紋様の絨毯が敷かれた大階段がある。

 二階へ上がり吹き抜けの広間を見下ろすと、午後の日射しが柔らかく射し込んでいた。

 ジルはその光景を眺めながら、主たちのアトリエと書斎のドアが並ぶ、四方をぐるりと囲んだ廊下を歩く。カーティスに資料を届け終えたとき、書斎のドアが開いた。

 姿を見せたのは、〝知の守護者マスター〟との異名を持つ、レイモンドだ。

 名だたる著名人が出入りするバクスター伯爵家の長子で、子爵の称号をもつ。作家であり音楽家だ。

 眼鏡の奥は、涼しげなヘーゼルの瞳。髪の色は深みのあるブロンドで、知的さを漂わせた端正な容姿だが、性格はカーティスとは真逆。うしろ向きなうえに気難しく、皮肉屋だった。

 そんなレイモンドはいつにも増して、激務に追われていた。

 社交シーズンの開幕となる三週間後、彼を主役とした朗読会が、キルハ王立図書館で開かれるためだ。

 企画をしたのは、芸術院大臣である。長らく大臣の職にいていたが、老齢ということもあり、国王自らが今年いっぱいの任期と決めた。その最後の年となる社交シーズンを、華々しく飾るもよおしものの一つとして、レイモンドに白羽の矢が立ったのだ。

「先日渡した招待客のリストですが、招待状はいつごろ発送できそうですか?」

 眼鏡を指で押し上げたレイモンドは、げっそりとした顔つきでジルに訊ねた。

 多数の著作から朗読会にふさわしい場面を抜粋し、構成を考え、あらたに詩を付け加えるといった作業に加えて、雑誌の執筆と歌劇の作曲もこなしているのだ。疲労しないわけがない。

「今朝、すべての発送を終えました」

 そう返答したジルもまた、二日ほどまともに眠っていない。

 招待客は、三百名にも及んでいた。ジルはそれらのすべてを整理し、一人ひとりに違う言葉を添えて、招待状を発送したのだ。ペンを握り続けた右手が、いまもじんじんとしびれている。

 レイモンドは心底驚いたように、目を丸くした。

「まさか、もう発送したのですか?」

「はい。社交シーズン目前ですから、ご招待する皆様は予定を組みはじめている時期です。そのご予定に変更があるといけませんので、急ぎました」

 レイモンドはかすかに口の端を持ち上げた。今度はジルがびっくりする。はじめて目にした表情だったからだ。

「いいでしょう。では、私はこれから出版社へ行きます。夜は芸術院大臣家での晩餐ばんさん会に出ますので、食事は不要です」

「承知いたしました。いってらっしゃいませ」

 お辞儀をしてレイモンドを見送りつつ、ジルは心のなかでガッツポーズをした。

(レイモンド様のあんな表情、はじめて見たわ。少しずつだけれど、信頼されてきている証拠よね!)

 さらなるやる気に姿勢を正して、ジルは西側の奥にある工房のドアを視界に入れた。

 ステンドグラスと絵画の第一人者、〝幻想の守護者マスター〟との異名を持つライナスは、このところ工房にこもりきりだ。

 王女殿下の婚約式で披露されたステンドグラスの評判を聞きつけ、高名な聖職者たちからの注文が殺到していた。その予定は、すでに半年先まで埋まっている。それとともに深夜には、アトリエで絵を描いている。

 顔を合わせるのは食事を運ぶときだけだが、創作に集中している彼の邪魔をしないよう、ジルは声をかけることなく、すぐに彼のそばを離れるようにしていた。

 恋心を自覚して以来、まともな会話をしていなかったが、それでいいのだと思うようにしている。彼に近づけばもっと好きになってしまうだろうし、そのことで自分の正体まで、知られてしまうかもしれないからだ。

(ティータイムの時間になったら、紅茶を持って行ってあげよう)

 そう決めたジルは、静まり返った芸術棟を見渡した。

 レイモンドは出掛け、カーティスもライナスも仕事をしている。そして、彼らのほかにもう一人。

 〝女神の守護者マスター〟とうたわれる、服飾や装飾品のデザイナーであるアンドリューは、いまここにはいない。

 王女殿下の結婚式に参加するため、王族とともに隣国のイルタニアへ旅立ったアンドリューは、それからまっすぐ領地に帰ってしまったのだ。

 彼と王女殿下は、お互いを想っていた。けれど、添い遂げることの叶わない二人は、隣国の王太子妃とこの国の公爵として、永遠の友情を誓い合うに留まったいきさつがある。

 そんな彼がここへ戻るのは、三週間後。幼なじみの王太子、オルグレン公エリオット殿下とともに、レイモンドの朗読会に合わせて帰る予定だ。

 やがてティータイムになり、ジルはカーティスとライナスに紅茶を淹れた。

 仕事に没頭する彼らとは、言葉を交わすことなく広間に戻る。ジルにとっては休憩の時間だが、少しも無駄にはできないと、テーブルに芸術書を開き学びはじめた。

 しばらくそうしていると、寝不足がたたったせいか睡魔が襲ってくる。

「えいっ。起きて」

 ペチンと両の頬を叩くも、まぶたはどんどん重くなっていく。主たちが働いているのに、自分だけ眠るわけにはいかない。そう叱咤しったするも、意識はゆらゆらと遠ざかる。

 とうとう眠気にあらがえなくなり、頬杖をついたジルはまぶたを閉じた。やがて、手の力が抜けていき、テーブルに頬を落として眠ってしまった。


 *


 サッ、サッ、と紙をこするような音がする。

 うっすらとまぶたを開けたジルの視界に、椅子に座っているライナスの姿が飛び込んだ。

(……えっ?)

 黒に近いアッシュグレーの髪が、西日に照らされて輝いている。組んだ足の上にスケッチブックをのせ、神秘的な灰青色の瞳を落として、なにやら描いている様子だ。

 幻想的な美青年が、木炭を無心で走らせている光景は、それ自体が一枚の絵画のようで、ジルは見とれてしまう。これはきっと夢だ……。

(……って、これは夢じゃなくて現実よ!)

 ぱっちりと目を開き、跳ね起きた。

「ラ、ライナス様! いつの間にっ!?」

「一息つこうと思って工房を出たら、君が眠っているのが見えたんでね」

「ほ、本当にすみません!」

 ジルはとっさに立ち上がり、深く頭を下げた。

「皆さんがお仕事をなさっているのに、眠ってしまったことをお詫びいたします!」

「君が忙しいのは知っている。かまわないよ。おかげでいいものが描けているからね」

「え?……な、なにを、描いているのですか」

(まさか、私じゃないわよね?)

 青ざめたジルに、貴族らしからぬシャツとエプロン姿のライナスは、手を動かしながらほがらかに笑った。

「もちろん、君を描いている」

 ライナスは尊敬の念を抱くか、興味をかれた相手しか描かない。そのため彼の描いた肖像画は、王族を除けば片手で数えられるほどしかない。

 そんな彼にジルは一度だけ、君の肖像画を描いてみたいと言われたことがあった。ただの冗談だと思っていたのだが、どうやら違ったらしい。

 恥ずかしさと照れくささで、ジルの顔は赤くなった。

「ま、まさか、僕の寝顔じゃないですよね……?」

「そうだけど?」

「えっ! み、見せてください!」

「うーん……どうしようかな」

 ライナスはジルを上目遣いにし、のんびりとした態度で微笑む。マイペースな彼らしい返答だ。

「お、お願いですから、見せてください。自分の寝顔なんて見たことがないので、不安なんです」

 ジルがスケッチブックに手を伸ばすと、彼はクスクスと笑ってそれを閉じ、引いたり掲げたりと、さも楽しそうに意地悪をする。

「ただの素描だから、まだ君には見せられない。僕も恥ずかしいからね」

「ただの素描でも、ライナス様の手によるものなら、立派な作品です。僕が最初の鑑賞者になりますから」

 ライナスが手にしているスケッチブックが、なかなか掴めない。ジルの両手が、まるで彼の周囲を飛ぶ蝶のようにひらひらと舞う。 

「心配性だね。間抜けな顔なんてしていなかったから、安心していい。それに君の寝顔なら、僕は前から知っているよ」

「——え」

 両手を広げたまま、ジルは固まった。ライナスは悪びれるでもなく、にっこりする。

「僕と君の部屋はドアでつながっている。眠ってる君を深夜眺める、悪い吸血鬼の存在がいたら、それは僕だ」

 あんぐりと口を開けたジルは、これ以上ないほど目を見開いた。ライナスはスケッチブックを掲げたまま、不敵に笑む。

 あまりの衝撃に身動きを忘れてしまう。すると、彼は声を上げて笑った。

「もちろん嘘だよ。そんなことはしていない」

 はあ、とジルは、地の底まで響きそうなため息をついた。……でも?

「本当、ですか……?」

 バクバクと心臓が脈打つ。そんなジルを尻目に、ライナスはニヤッとした。

「さあ、どうかな」

「——!?」

 あ然としたジルが息をのんだとき、階上から声がした。

「なにをしている?」

 見上げると、手摺りに手をかけたカーティスが苦笑交じりで、こちらを見下ろしていた。

「我らの助手が徹夜明けで、うっかりうたた寝をしていたんだ。その姿をスケッチしていると嘘を言ったら、彼がひどく慌ててね。それがちょっと面白くなってしまった」

 そう言って笑みを浮かべたライナスは、スケッチブックを開いてジルに見せた。描かれていたのはジルの寝顔ではなく、ステンドグラスのアイデアだ。

 ジルは胸を撫で下ろす。すっかりライナスに、からかわれてしまった。

 カーティスがまた苦笑する。

「お前の師弟愛はひねくれているな。ジル、彼に気をつけろ。お前を気に入った証拠だが、ことあるごとにからかわれるぞ」

 ——〝気に入った〟という言葉が、ジルの脳裏に刻まれる。素直に嬉しくて顔が赤くなっていくものの、からかわれるのは複雑だ。うっ、とジルは息を詰めた。

「はい……」

 紅茶のおかわりが欲しいとカーティスに頼まれて、返事をしたジルは急いでテーブルを片付ける。芸術書を抱え持って扉に向かいながら、ふと思った。

(私が徹夜明けだって、ライナス様はどうして知っていたのかしら)

 そっと振り返ると、ライナスはスケッチを再開していた。と、ジルの視線を感じたのか、さらりと告げる。

「ここにいる全員が忙しいんだ。その助手である君の寝不足なんて、言われなくても一目瞭然だよ。おつかれさま」

 思いもよらないねぎらいの言葉に、ジルは頬を赤くした。

「いえ……あの、僕はたいしたことはしておりません。皆さんのほうが忙しいですし、ライナス様こそ、お身体を壊さないでください」

「大丈夫。僕は君より眠ってるよ」

 手を止めたライナスは、ジルを見て柔らかく微笑んだ。なんて優しく笑うのだろう。ジルの胸は、ときめきで弾けそうになった。

「カーティスに紅茶を届けたら、頼みたいことがある。あとで僕のアトリエに来てくれ」

「はい。わかりました」

 お辞儀をしたジルは、すぐに広間を出た。ライナスの笑顔が頭から離れず、鼓動の高鳴りがおさまらない。ライナスとの会話は楽しいけれど、心臓に悪すぎる。

(いちいち顔が赤くなるのを、なんとかしたいわ。とにかく、落ち着かなくては。私はここでは——男性なのだから!)

 ライナスの言動に振り回されて、冷静さを欠いてはいけない。

 食堂に入ったジルは、自戒しながら大きく深呼吸をし、紅茶を淹れた。

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