第一章 カサブランカと無名の画家_2
カーティスに紅茶を出してから、ジルはライナスのアトリエに向かった。
ライナスがジルに手渡したのは、白い布に包まれたものだった。その形状から絵だとわかる。小脇に抱えられる大きさからして、サイズは四号だろう。
「絵ですか?」
「そう。これを、メイデル伯爵に届けてもらいたいんだ」
「メイデル伯爵に?」
メイデル伯爵は、この国で一、二を争う芸術品の収集家だ。
芸術を心から愛しており、穏やかな人柄で人望も厚く、社交界の人気者だった。しかし、末息子であるトーマスが罪を犯したため、社交界への出入りを自粛しており、陰で中傷されていた。
トーマスは、
保身に走る貴族であれば、そんな息子とは縁を切る。しかしメイデル伯爵は、息子の罪を一緒に背負う道を選んでいた。
家族思いで立派な方だと、ジルは思う。勇気のいることだからだ。
そう考えていたのは、ジルだけではなかったらしい。
「もしかしてこれは、ライナス様がお描きになったものですか?」
「小さいものだけれど、彼を励ませたらと思ってね」
トーマスを捕らえたのは、ライナスとジルだ。必要なことだったとはいえ、そのせいで中傷の
(ずっとアトリエにこもっていたのは、この絵を描いていたからだったんだわ。全然知らなかった)
ジルの胸に、じんわりとした温かいものが込み上がった。
「見てもいいですか」
「どうぞ」
テーブルにのせた包みを、ライナスが解いていく。あらわれたのは、純白の花びらを広げたカサブランカの絵だった。
控えめに光り輝く緑の葉先が、画面全体を包む。純白と思われた花びらには、いくつもの色が隠れるように重ねられており、この世のものとは思えない彩りだ。まるで、物語の世界で花弁を揺らしているかのように、優しく気高く、絵のなかに閉じ込められている。ジルは目を輝かせた。
(ああ、本当に素敵。彼の絵は、
「花言葉は、〝高貴と純潔〟ですね」
「よく知っているね。そのとおりだ」
「素敵な絵です。メイデル伯爵様はきっと喜びます」
そう言って顔を上げると、すぐそばにライナスの瞳があった。灰青色の眼差しが近すぎて、ジルの鼓動はいっきに跳ね上がる。
とっさに視線をそらそうとしたとき、ふわりと前髪に彼の指が触れた。
(わっ……な、なに?)
「ここへ来たときよりも、前髪が伸びたね」
前髪をさらりと指先で
「これでいい。君の顔がよく見えるよ」
ライナスが微笑む。心臓の鼓動が彼にも聞こえそうで、慌てたジルはとっさに絵を布で包んだ。
「……さ、さっそく、お届けに上がります」
(また顔が赤くなってしまうわ。早くここを出なくては!)
「頼むよ。気をつけて」
はい、と返事をして、ジルは芸術棟を出た。
*
石造りの優美な建物が連なる通りに、午後の日射しが降りそそいでいる。
日傘をさした女性たちが歩き、通りに面したカフェで紳士たちが談笑している。文化と芸術の国として知られるデイランド王国の、華やかな王都の光景に目を細めながら、ジルは馬車に揺られた。
やがて、メイデル伯爵の屋敷に着く。執事によって応接間に通され、伯爵を待つ間室内を眺めた。
銅や銀の額縁で
(本当に芸術を愛している方なんだわ)
収集している芸術品には、伯爵の趣味がきちんと反映されていた。有名無名を問わず、素直に素晴らしいと感じたものを、空間の調和を乱さない適切な場所に飾っている。
とくに
(……素敵な絵)
それは、
右下に、ごくささやかにまるでサインのように、五角形の小さな星が
柔らかな日射しに包まれて、ヒマワリを刺繍する女性の手を描いた絵画に、ジルはなぜか泣きそうになった。遠く離れて暮らす母親を、思い出したからだ。
「その絵が気に入りましたかな」
背後から発せられた声に、ジルは振り返った。
白髪の混じった栗色の髪。つぶらな瞳も同色だ。落ち着いた風貌には威厳があるが、けっして威圧感を与えない温和な気配をまとっている。
「はい。とても気に入りました」
ジルは深くお辞儀をした。
「突然の訪問をお許しください、メイデル伯爵様。
彼には一度だけ、ここで開かれた夜会で会っている。だがそのときは、ライナスの恋人としてお供をするため、化粧とカツラ、ドレスで着飾っていた。
素顔のジルがその女性だと、伯爵は気づいていない様子だった。
「堅苦しい挨拶は抜きにしてください。訪問者がめっきり減って、寂しく思っていたところの嬉しいお客様です」
メイデル伯爵が、ジルに近づいた。
「あなたのことは、噂で存じておりますよ。
「えっ? いえ……そんな。有能だなんて、光栄ですが褒めすぎです」
噂になっているとは、知らなかった。恐縮するジルに、伯爵は小さく笑む。
「謙虚な助手の方に、お
ジルはふたたび、絵を見つめた。
「……母を。僕は母を思い出しました。深い愛情を感じます。とてもいい絵です」
同意するように、伯爵はうなずく。
「この絵は、とあるカフェに飾られていたものです。たまには外へ出ようと、半月ほど前にふらりと立ち寄ったカフェで一目惚れし、譲ってくれと店主に願い出ました。しかし、コーヒー代として描いてもらったものだし気に入っているからと、店主は渋りましてね。おかげで毎日のように、そのカフェに通ったものです。やがて、店主は私に根負けしました。そうしてここに飾れる栄光を、掴むに至った次第です」
伯爵が笑う。ジルもつられて笑んだ。本当に芸術が好きなのだ。
「では、最近のことなのですね」
「そうです」
「この絵を描かれた方のお名前を、お聞きしてもよろしいでしょうか」
伯爵は、星の印を指でしめした。
「スターリングという名の老人だそうです。だから星の印を、サインの代わりにしているのでしょう。私がこの絵を見つける数日前、他界したのだと店主に教えられました。肺病を
無名のままこの世を去った画家の存在に、ジルは胸を痛めた。
「本当に無名だったのですか? こんなに素敵な絵を描くのに」
「世に出る機会に恵まれない画家は多い。芸術は、ときに運が左右する世界です。価値のわからない画商ばかりを訪ねていたとしたら、彼は間違いなく不幸だったでしょう」
心底残念そうに、伯爵は
「彼が生きていたときに、出会えていたらと
はじめて耳にした事実に、ジルは驚いた。
「そうなのですか」
「ええ。しかし、この国は違う。絵を代金として認め、食事やコーヒーを出す店ばかりです。そうさせたのが誰か、わかりますか?」
「国王陛下だと思います」
伯爵は微笑み、うなずく。
「さらに、過去の偉大なる芸術家たち。そして、あなたの
銀王宮にアトリエをかまえ、芸術を広め、守護する役目を担った
有名であっても、無名であっても――すべての芸術家は尊いのだと。
(そんな彼らの、私は助手なんだわ)
あらためて、彼らへの尊敬の念が込み上がる。
噂ではなく真実として、彼らの助手としてふさわしく、有能でありたい。その思いを強くしたジルは、姿勢を正して伯爵に向き直った。
「本日はライナス様からの贈りものを、お届けに上がりました」
「執事から聞いてはおりますが……さて、なんですかな」
目を丸くして布包みを受け取った伯爵は、それをそっとローテーブルに置き包みを解いた。
「……おお、なんということ……!」
口を手でおおい、まじまじと絵を見下ろす。
「なんと美しいカサブランカ……! まさか……これは、彼が? ロンウィザー侯爵が、
声が震えていた。ライナスの絵を所持する貴族はいない。メイデル伯爵が、唯一になったのだ。
そうですとジルが答えると、伯爵のつぶらな瞳が濡れていく。とっさにハンカチを手にした彼は、目を拭った。
「失礼……。あまりの感激に、言葉になりません……!」
末息子であるトーマスの一件で、よほど苦しい思いをしてきたのだろう。
(訪問者がいないと言っていたんだもの。励ましてくれる人もいなくて、中傷に耐えて、きっと心細かったに違いないわ)
「ライナス様は、あなたを励ましたいとおっしゃっていました。実は僕も、ライナス様があなたに絵を描いていたことを、今日まで知らなかったのです」
ライナスの陰ながらの支えに、伯爵は感激をあらわにし、ふたたびハンカチで涙を拭いた。
「……大の大人が、まるで子どものようだ。恥ずかしい」
強がるように笑う。
「どうか、気になさらないでください。他言はいたしません。お約束いたします」
ありがとう、と伯爵はささやく。そして息をつき、ふたたびライナスの絵を視界に入れた。ゆっくりと鑑賞してから、喜びの吐息を落とす。
「さて……これは困りましたな。彼の絵をいただくほどの価値があることを、きっと私はなに一つ成せないでしょう」
その言葉に、ジルは驚いた。
優しい人だ。それに、謙虚でもある。なによりも彼は、王宮に出入りするほかの貴族のように、ライナスの絵を屋敷や資産と比べたり、金銭にたとえなかった。
夜会のときはわからなかった伯爵の素顔に、ジルは感銘を受けた。
「……ご子息の件は、残念でした。けれど、あなたは縁を切らなかったと聞いています。勇気がなければできないことです。その高潔さを、ライナス様は
伯爵は照れたように笑んだ。
「いまはあなたの言葉に頼って、しっかりと気力を保つとしましょう」
ユーモアもある。ジルは小さく微笑み、トーマスのことを思い出して視線を落とした。
「それで……ご子息は、お元気なのですか」
「陛下の
「後悔だなんて、どうしてですか」
「二人の兄は優秀でした。その兄たちと比べられながら、彼は育ったのです。そんな彼の様子に見かねて、芸術家を
はっとしたジルは、伯爵の覚悟に自分の父親を重ねた。
――なにがあっても家族仲良く支え合って生きていけたら、なんとかなる。
そう告げて微笑む父親が、いてくれるから。
(ライナス様が励ましたいと思うのもわかるわ。私も、なにか力になれたらいいのに)
そっと
「妻はすっかり寝込んでしまった。兄たちも、肩身の狭い思いをしています。しかし、あなたが持って来てくれたロンウィザー侯爵の絵で、救われた思いです。皆、喜びます。本当に、なんと礼をしたらいいのか……」
「どうか、そのままでいてください。ライナス様も、きっとそれを望んでおります。そのカサブランカの花言葉のままに」
伯爵はジルを見返し、優しく笑んだ。だが、うつむきがちに表情を
「……私の息子は、間違ったことをした。その罪を、彼はいま
含みのある語調に、ジルはひっかかりを覚えた。
「あの……僕でよろしければ、なんでもお話しください。けっして他言はいたしませんから」
伯爵は気弱な笑みを見せた。
「……本当に息子が一人で、あのようなことをしたのかと……誰かにそそのかされたのではないかと、どうしても考えてしまうのです。まったく、恥ずかしいことです。親馬鹿にもほどがある。なんの証拠もない、私の
どうかいま話したことは、
「恥ずかしいひとりごとです。忘れてください」
それきり、口をつぐんでしまった。
いとまを告げたジルは、馬車に揺られながら思案した。
(……息子を思っての言葉だろうけれど、なんだか気になるわ)
夜会で会ったトーマスは、精一杯着飾り、
才能ある主たちと自分を比べ、劣等感に
アンドリューに容赦のない言葉を投げられて反発し、一週間で助手を辞めた彼は、周囲の仲間に
もしもその仲間のなかに、トーマスをそそのかした者がいたとしたら?
(でも、なんのために?)
ジルが密かに好んでいる物語『愛と裏切りの湖畔』には、野心にかられて足を引っ張り合う貴族の場面がよく登場した。そんな貴族同士の争いに、トーマスは巻き込まれたのだろうか。
(まさか!……物語のなかのことよ)
だが、実際にあるとしたら?
トーマスのことは許せないし、好きではない。けれど、もしもそうだとしたら同情も覚える。
彼とともに家族までもが、謹慎の
(トーマスさんは誰かにそそのかされて、罪を犯すはめになったのかしら)
そうだとしたら、見過ごせない。風刺画もさることながら、アンドリューが一年もの歳月をかけたタペストリーも、利用されたことになるからだ。
証拠はないし、メイデル伯爵の懸念にすぎないことだ。そうわかっているのに、伯爵の言葉がジルの脳裏から離れない。
(忘れてくださいと言われたけれど、私の胸の内にだけ、こっそりおさめておくことにしましょう)
ジルは約束したとおり、この不穏な予感は誰にも話さずにいようと決めた。
――女性であることを隠していることと、一緒に。
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