第一章 カサブランカと無名の画家_3

 芸術棟に戻ったジルは、ライナスがいるであろう工房に向かった。

 大階段を上り、廊下を歩く。と、アトリエのドアが開け放たれており、そこにライナスの姿があった。

 無数のカンバスやイーゼルが、広い室内の壁に立てかけられてある。画材が散らばっている大きなテーブルの奥で、ライナスはこちらに背中を向け、筆を走らせていた。

 描いているのは、壁をおおいつくすほどの大きな絵画――光り輝く、幻想的な森だ。

 澄みきった風、淡い光に包まれた新緑。いつ見ても、心が穏やかに凪いでいく。魔術のようなその絵画に、ライナスはさらに手を加えていた。

 ドア口に立ったジルは、ふと奇妙に思う。

(私がここへ来た初日から、あの絵はずっとあるわ。いったい、なんのための絵なのかしら)

 それに、いつ完成するのだろう。首を傾げそうになった矢先、ライナスが振り返った。ジルは落ち着き払って告げる

「ただいま戻りました。メイデル伯爵様は、とても喜んでおりました」

 テーブルに筆を置いたライナスは、布で手を拭きながらにっこりした。

「それはよかった。それで?」

「え?」

「なにか僕に、言いたいことがありそうな顔つきだよ」

 ジルはドキリとした。他人に興味がなく、マイペースなはずの彼なのに、どうしてわかったのだろう。いや、たぶん。もしかすると。

(……いつの間にか私、感情が表情に出るようになっているんだわ)

 田舎町でのジルは、いつも冷静で本ばかり読んでいる〝壁の花〟と噂されていた。

 感情を表に出さず冷静に生きることは、諦めることの多い暮らしのなかで、ジルが身につけてしまった切ない処世術だ。

 けれど、美術教師になるという夢を抱き、縁があってここで働くようになってから、自分を変えたいと思いはじめていた。

 たくさん笑い、泣き、怒り、喜ぶ――そういった感情を押し込めず、素直に感じたまま生きてみようと決めてずいぶん経つ。それがいつからか意識することがなくても、感情が顔に出るようになっていたらしい。

 喜ばしいことだと思う反面、すぐに気を引き締める。女性であることを知られるわけにはいかないからだ。

 隙を見せてはいけない。とくに、彼には。表情を硬くしたとたん、ライナスはけげんそうに眉をひそめた。

「ヘンだな。たったいま、もとの君に戻ったような気がするよ。〝冷静な賢者〟にね」

 どうしてわかるの? ジルはさらに顔を強張らせる。すると、ライナスは苦笑した。

「本当に君は面白いな。まあ、いいさ。それで?」

「それで……とは?」

「僕に訊ねたいことがあるから、僕を見つめていたんじゃないのかな?」

 カッとジルの頬に、熱が走る。

(慌てちゃダメよ。ライナス様は私をからかっているだけなのだから!)

「見つめていたのはあなたではなく、あなたが描いている絵です」

 必死に平静を装う。フッとライナスは口角を上げた。

「この絵?」

「はい。僕がここへ来たときからそこにあるので、完成はいつなのだろうと思いまして」

 ああ、と絵を見やったライナスは、腕を組んだ。

「この絵は一生完成しない。僕が描き続けるためだけの絵だ」

 ――えっ? ジルは耳を疑った。

「完成しないのですか」

 どうして? そう口にしそうになったジルに、彼はいたずらっ子のような笑みを見せた。

「いいことを思いついたよ。〝冷静な賢者〟に、知識を試す時間をあげよう。おいで」

 くいと顔を傾け、ジルをうながす。彼の隣に立ったジルは、絵画を目前にした。

「この絵を描いている画家は、とある心象風景を込めている。それが解ければ、完成しない理由もわかる。三分あげよう」

「そんな……あの、時間制限ありですか?」

「そうでなくちゃ、面白くない」

 面白さは求めていないのだが。そう告げる代わりに、ジルは必死に絵画を見つめた。

 誰も存在しない、新緑の森。光は淡く、はかなげだ。ロマンチックな気配もあるが、よくよく見れば行き先はわからず、出口もあるように思えない。迷い込んだ、異界の森のようにも思える。

 それまでは、丁寧に重ねられた色の美しさや優しさに、心がなぐさめられる絵だと思っていた。けれど、別の角度からはじめて見たジルは、なぜかふいに冷たいものを、胸の奥に感じた。同時にそんな自分に、驚きを隠せなくなる。

(なぜかしら。見てはいけないものを、見ているような気がするわ。なんというか……)

 出口のない、深淵。それらをなんとか、やり過ごそうとしているかのような苦悩。

「あと十秒」

 置き時計の針を見て、ライナスが言う。そんな声も、ジルの耳にはどこか遠く聞こえてしまう。

(これはきっと。ライナス様の――)

「あと三秒だ」

 ライナスの声に、ジルの声が重なった。

「――人生そのもの」

 ライナスが息をのんだのが伝わった。ジルは思わず、自分の口を手でふさいだ。

「あっ……と、出過ぎたことを」

 申し訳ありませんと答えようとした矢先、ライナスはジルを横目にした。

「謝らなくていい。惜しいな。半分正解だ」

「半分?」

「そう。でも、いい線いってるよ。君はいい目をもってる」

 そう言うとなぜか切なげに微笑み、ふたたび筆を手にした。そんな彼の背中を見つめながら、一礼したジルはアトリエを出た。


 *


 来年、王都キルハにできる植物園の設計で、カーティスはてんてこまいだ。

 ライナスとレイモンドもこなす仕事が山ほどあり、彼らは仮眠だけの状態で過ごしていた。

 スケジュールを整理すること以上に、ジルは彼らの健康管理にも気を配るようにしている。倒れさせるわけにはいかないからだ。

(レイモンド様は三日続けて起きているし、カーティス様もライナス様もここのところ眠っていないわ)

 忙しいのは知っているが、そろそろベッドで眠っていただかなくては。

 レイモンドが晩餐会から戻った夜。ジルは食堂の小さな厨房でミルクを温め、三個のカップに注いでトレイにのせ、大階段を上がった。そうしながらも考えてしまうのは、ライナスの森の絵についてだ。

(……半分正解って、どういう意味かしら)

 けれど、正解ではなくてほっとしていた。出口のない森が、彼の人生だけを象徴しているわけではなさそうだからだ。

 ライナスには、クレアという他界した婚約者がいた。彼の屋敷に立ち寄ったとき、ジルは彼女の肖像画を偶然目にしたことがある。

 ミモザの花冠かかんをつけた、妖精のように儚く美しい女性。ライナスの丁寧な筆致から、彼女への深い愛情が伝わってくる肖像画を、ジルは思い出す。

 大切な人を失ったライナスの哀しみを想像すると、胸の奥がきりりと痛んだ。

(もしかするとあの絵は、自分を慰めるために描いているんじゃないかしら)

 半分正解のうち、残りの半分は希望に満ちたものでありますようにと、ジルは願う。

 ただ彼を想っているだけで、どうにかなるつもりはないし、なるとも考えていない。

 生涯で一度きりの、初恋の相手。ジルにとっては、奇跡のような出来事だ。それ以上、なにも望んではいない。身の丈に合うことではないと、痛いほどわかっているからだ。

 あと数ヶ月後、自分がここを去ることになったとしても、ライナスには幸せになってほしいと願わずにはいられない。それに、ほかの主たちにも。だからこそ――。

(――倒れさせるわけには、いかないわ!)

 意を決してカーティスのアトリエを訪れると、彼は一心不乱に模型を作っていた。大きなテーブルの上にあるのは、植物園のミニチュアだ。

 手練てだれの近衛師団団長といった容姿であるのに、カーティスの手先は小さな妖精を愛でるかのように、器用に動く。そのギャップに笑みがこぼれてしまうが、のん気に見つめている場合ではない。

「カーティス様。本日は寝室できちんと、お休みください」

 カーティスは顔を上げることもなく、手を動かし続けている。

「……ジルか。いや、まだダメだ。この塔のバランスが、どうにもうまくいかなくてな……ああ、クソッ! 気ばかり焦ってくる」

 せっかく設置した模型の塔を、カーティスはぐしゃりと握りつぶしてしまった。頭をかきながらデスクに向かい、設計図をバサリと開くと、定規とペンで描き込む。

「カーティス様、そう焦らなくても時間はございます。僕がご予定を調整しておきますから、本日はどうかお休みください」

 ジルの声が聞こえていないのか、彼はうんともすんとも言わない。

(ここは心を鬼にして、助手としての務めをまっとうしなくては!)

「皆さんが倒れないよう、健康の管理をするのも僕の仕事ですから、強い語調はお許しください!」

 ずいっとカップを差し出すと、カーティスはびっくりしたように、ジルを見上げた。

「お願いですから、今夜は寝室でお休みください。いえ、なんとしてでも眠っていただきます。カーティス様の代わりになる方などいないのです。倒れられては、国王陛下がおなげきになります!」

 いつになく強い声音のジルに、カーティスはあ然としながらカップを掴んだ。と、ふいに目を細めると、苦笑をこぼした。

「……まるで母親のようだな」

「そ、そこは父親と言っていただきたいです。僕は男ですので!」

「眠れと叱りつけるのは、母親と相場が決まっている。ただの比喩ひゆだ、なにを焦る?」

 言葉に詰まるジルを尻目に、カーティスはカップを口に運んでから、ほうっと深く嘆息した。

「……そうだな、しかたがない。お前の言うとおりだ。今夜は眠るとするか」

「本当ですか? 約束ですよ?」

「ああ、本当だ。国王陛下が嘆かれると言われたら、ぐうの音も出ない。陛下を哀しませるわけにはいかないからな」

 椅子から立ち上がったカーティスは、設計図を丸めると、腰に手をあててカップを掲げた。

「必ず眠る。お前も眠るのだぞ、ジル」

 よかった。にっこりしたジルは「はい」と返事をして、アトリエを出た。直後、驚いてうしろによろめき、トレイのカップを落としそうになった。

「わっ……と、ライナス様!」

 腕を組んだライナスが、ドアの横に立っていたのだ。

「君の大きな声が聞こえたから、なにごとかと思ってね。もう少しで入って行くところだったよ」

 そう言うと、クスッとした。

「まるで母……いや、学舎の寮長か教師みたいだ。怖かった先生を思い出したよ」

 聞かれていたらしい。恥ずかしさで、またもや顔が赤くなりそうになる。それを堪えて、ジルはライナスにもカップを差し出した。

「皆さん、働きすぎです。お仕事のスケジュールが詰まっているのは知っています。でも、それは僕が調整しておきますから、ライナス様にも今夜はしっかりと休んでいただきます」

 がんとして譲らないジルの態度に負けたのか、ライナスはカップを受け取った。

「ホットミルク?」

「眠気にあらがえなくなる薬です」

 目尻を下げたライナスは、ゆっくりとそれを飲んだ。

「……君は、いい教師になるよ」

(――え?)

 ライナスを見上げたのと同時に、彼が背中を向ける。自分のアトリエに向かいながら、

「君もちゃんと眠るんだ。もしも起きているのがわかったら、罰として君の寝顔を描いてやる」

「えっ!?」

 カップを手にしながら振り返ったライナスは、自分の頭を指差した。

「君の昼寝の顔は、ちゃんと覚えてる。僕に描かれたくなかったら、眠ることだ」

 アトリエに入り、ドアを閉める。廊下に残されたジルは、呆然と立ち尽くした。

(うそ……本当に覚えているの?)

 どこまで本気なのかはわからないが、早く眠ったほうがよさそうだ。

 書斎にいたレイモンドにもホットミルクを渡し、眠るように強く伝えてから、ジルは三階へ上がった。自室に入り、ドアを閉める。

 ライナスの寝室とつながっているドアを見やり、急いで寝間着に着替えてベッドに潜る。目を閉じると、隣室から物音がして身を硬くした。彼も寝室に入ったようだ。

 鍵のないドアのため、いまにも彼が入って来そうで、バクバクと心臓が脈打つ。ぎゅっと目を閉じて息を殺していると、物音が消えてしんとした。

 ライナスも眠ったらしい。安堵の息を吐いたジルは、寝返りを打つ。とたんに、彼の言葉がよみがえってきて、ふと違和感を覚えた。

(いい教師になるだなんて……おかしいわ)

 ジルがここへ来て間もないころ、ライナスはジルにこう言ったのだ。

 ――〝教師になるのはやめてまだここにいたい〟と、君に言わせることにしたよ。

(それなのに、どうしてあんなことを言ったのかしら)

 自分の働きを認めてくれたからだろうか。きっとそうだ。そうでなければ。

 まるで、〝君は男ではないから、教師の資格を得たら去るのがいい〟と、そう言われたように思えてしまう。まさか、ライナスにはバレている?

(ううん、まさか! そんなわけはないわ。誰にも私の正体は、知られていないはずだもの)

 そう、ライナスにも――誰にも。

 かすかな胸騒ぎを感じつつ、ジルは何度も寝返りを打つ。そうしているうちに、やがて深い眠りに落ちていった。

 深夜、室内に通じるドアが静かに開き、隣室の主が眠っている自分を、少しの間見つめていたとも知らずに。

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