第二章 主たちが守護するもの_1



「メイデル伯爵に、絵を贈ったと耳にしたが、本当か?」

 銀王宮の執務室で、夏の日射しに輝く庭園を眺めながら、宰相のオドネル卿は紅茶のカップを口に運んだ。

 四十に届く年齢で、鋭い瞳はたかを連想させる。深みのある栗色の髪はきっちりと横分けにされており、デイランド王国の宰相にふさわしい、風格のあるたたずまいだ。

「本当です」

 長椅子に座るライナスが答えると、窓際に立ったオドネル卿は振り返り、笑んだ。

「貴君が絵を贈るとは、いったいどうしたことだ?」

 ライナスはカップを手にして、紅茶を飲んだ。

 オドネル卿は近侍きんじを使い、ときどきライナスを執務室に招く。チェスを楽しむこともあれば、昼食をともにすることもあるが、本日はティータイムを一緒に過ごしたいとのことだった。だが、それらの主な目的は、芸術にまつわる情報交換だ。

「たいしたことではありません」

「たいしたことだろう。貴君の絵を欲している貴族は、山ほどいるのだ」

「ただの励ましです。そうしたいと思ったから、贈りました。それだけです」

 オドネル卿は椅子に近づくと、ローテーブルを挟んでライナスの向かいに座り、カップを置く。

 薄い唇の口角が上がると、こちらの内面を見透かすような人柄が浮き彫りになる。だが、ライナスは彼が嫌いではない。むしろ、信頼している。

「すでに知っているだろうが、芸術院大臣の席が来年空く」

 芸術院は、この国の文化や芸術に関した教育を推し進める機関だ。そのトップである大臣は、キルハ王立芸術学院の理事を兼任するとともに、廷臣のなかでもっとも国王に近く、ほまれある地位とされている。 

 大臣候補は議員から選ばれるのが慣わしだが、芸術院大臣だけは、それ以外からも選出される。過去の功績や芸術への造詣ぞうけいの深さ、人柄や人望の厚さも考慮され、国王自らが内密に定めるのだ。そうしてしぼられた候補者は、最終的に院内の投票で決定する。

「メイデル伯爵は、次期芸術院大臣候補の一人と目されていた。しかし息子のトーマスの件で、候補からは除かれるだろうと誰もが考えている。そこへきて、貴君が絵を贈ったのだ。これには、励まし以上の重い意味がある。ロンウィザー侯、なにを企んでいる?」

 ライナスはゆったりと笑み、オドネル卿を見つめた。

「なにも企んではおりませんよ」

 その返答に、オドネル卿は苦笑をもらした。

「メイデル伯爵は、芸術への造詣が誰よりも深いうえ、もともと人望のある方だ。息子のせいで多くの信頼を失ったとはいえ、その息子とも縁を切らずにいたのだ。中傷されているようだが、密かな信奉者はまだ多い。貴君の絵のおかげで伯爵は人気を取り戻し、隠れていた信奉者も表に出てくるだろう。だが……」

 言葉をきったオドネル卿は、思慮深い面持ちで視線を落とした。

「……同時に、伯爵をねたむ敵も、姿を見せるぞ」

 ライナスは微笑んだ。

「ええ。そうでしょうね」

 なるほどと言いたげに、オドネル卿は口の端を上げる。

「すべて貴君の、想定内か」

 ライナスは微笑んだまま、口を閉ざす。オドネル卿は、ゲームを楽しんでいるかのように笑った。

「ここだけの話だが、陛下は現在、候補者を三名にしぼっていらっしゃる。もちろん、候補者はまだ陛下の胸の内だけにあり、私も知らない。社交シーズンを間近に控えて、社交界は騒がしくなるだろう。陛下はその行く末を、しばし見守るとおっしゃっていた」

「その行方によっては、メイデル伯爵が候補者になることもあると?」

 オドネル卿はうなずいた。ライナスが続ける。

「僕は彼に肩入れするつもりで、絵を贈ったわけではありません。ただ、もしも大臣候補と目されていた伯爵が、卑怯ひきょうなやり方でおとしめられたのだとしたら、この国の騎士を先祖にもつ一人として、許せないと考えているだけです」

 目を見張ったオドネル卿は、ライナスを見つめた。

「……まさか貴君は、誰かがトーマスを罠にはめ、メイデル家を謹慎へ追い込んだのではないかと考えているのか」

「いえ、まだそこまでは」

 ライナスは言葉を濁す。断定はできないが、その可能性はある。伯爵を励ましたいという純粋な思いの一方で、それを知る手がかりになればと期待をかけているだけだ。

「トーマスは取り調べで、だました使用人以外、仲間はいないと供述していたようだが?」

「騙されたことに気づいていないか、もしくはかばっているのかもしれない。僕の懸念にすぎませんが、いずれわかるでしょう。おそらくね」

 息をついてから、ライナスは静かにたたみかけた。

「芸術院大臣には、本当にふさわしい方になっていただきたい。それがこの国のためであり、芸術のためでもあります。僕たちには政治に介入する権限はありませんが、守護者の名のもとに動く権利は保証されている。芸術を生み出す以外にも、芸術を守護するために、この王宮にアトリエをかまえているのですから」

 腕を組んだオドネル卿は、ライナスを視界に入れたまま、ニヤリと笑んだ。

「……ずいぶん変わったものだな、ロンウィザー侯。他人にも王宮の事柄にも、なに一つ興味を示さなかった貴君が、どういう心境の変化だ」

 ライナスは微笑み、ゆったりと紅茶を飲んでから、カップを置いた。

「僕はもともとこういう人間ですよ。少しの間、忘れていただけです」


 *


 週に二日、銀王宮の芸術棟は解放されて、訪問者を招き入れる。

 本日はその日にあたり、ロビーの隅の小さなテーブルに着いたジルは、午後になっても対応に追われた。

 以前はライナス目当ての女性が訪れることも多かったが、最近社交の場で彼がともなっている〝謎の美女〟のおかげか、近頃はぱたりと来なくなった。その美女に扮装ふんそうしていたのは、誰あろうここにいるジルだ。

 そんな役目も最近はすっかりなくなり、寂しく思う反面ほっとしている。ドレスを着るとどうしても心が浮かれて、女性らしく振る舞ってしまいそうになるからだ。

(墓場まで持っていく秘密だもの。少しも気をゆるませてはいけないわ)

 決意をあらたにしたところで、訪問者が途絶えはじめる。

 親族のパーティに参加するレイモンドを見送ってからも、ジルは席を立たないようにし、主たちの予定を整理した。

 朗読会まで、あと二週間だ。発送した招待状も、すでに届いているころだろう。もちろん、メイデル伯爵にも届いているはずだ。けれど。

(……メイデル伯爵様は、来てくれるかしら)

 ふとそう思ってうつむき、嘆息したときだった。扉口に人の気配を感じて、とっさに顔を上げる。そのとたん、ジルは驚いて目を丸くした。

「ア、アンドリュー様!?」

 戻りはまだ先のはず。あ然とするジルを、アンドリューはにこりともせずに、青い瞳で鋭く見すえた。

 プラチナブロンドの長い髪は、ゆるやかに波打っており、前髪ごと片側の耳にかけている。アイボリーの上着を腕にかけた洒落者しゃれものの公爵は、ライトグレーのベストに白いズボンという夏の装いで、今日も隙がなく決めていた。

「お、おかえりなさいませ……」

 なんとか答えたジルに、アンドリューは「久しぶり」だとも「元気そうだな」とも告げず、こう言った。

「六十八点」

 ジルの身なりに対する点数だ。それがなんだか懐かしく、ジルは静かに笑みを浮かべた。アンドリューは靴音を響かせながら、そんなジルに近づいて来た。

「夏とはいえ、シャツもベストもズボンも白とは工夫がなさすぎだ。お前は花婿はなむこかなにかか? アスコットタイとチーフの水色はいい。だが、エナメル靴の黒はいただけない……が」

 ジルの靴を見下ろし、アンドリューはニヤッとした。

「スナップ式のスクエアトゥは、流行の先端で悪くない。流行はやらせたのは誰だ?」

「あなたです」

 即答したジルに、アンドリューは満足そうに口角を上げた。威圧的な態度は変わらないが、瞳の鋭さは前よりもやわらいだように思える。

「王太子殿下と戻られるとのことでしたので、驚きました」

「わけあって、俺だけ早く戻った。あとで俺に荷物が届くから、アトリエに持って来てくれ」

 きびすを返したアンドリューが、大階段を上りはじめる。ジルは彼を見上げて、うなずいた。

「わかりました」 

「そのとき、お前のサイズも測ってやる。お前にお仕着せを作る約束だったからな」

 ジルははっとする。王女殿下の婚約式後の舞踏会で約束したことを、アンドリューは忘れずに覚えていたらしい。

 サイズを測るとなれば、上着もベストも脱ぎ、もしかしたらシャツも脱げと言われるかもしれない。

 そんなはめになったら――女性だとバレる!

「あの、アンドリュー様!」

 とっさに呼び止めると、アンドリューは足を止めてジルを見下ろした。

「なんだ」

 この国随一のデザイナー、〝女神の守護者マスター〟にお仕着せを作っていただけるのは、身に余る光栄だ。彼がその約束を忘れていたとしても、かまわないとジルは思っていた。けれど、もしも覚えていたときにそなえて、すでに手は打っている。

「僕のサイズでしたら、あなたの手をわずらわせずとも、マダム・ヴェラが測ってくれたメモを持っております」

 用意しておいてよかったと、ジルは心の底から安堵した。

 マダム・ヴェラとは、ジルを美女に変身させてくれる老齢の女性の名で、名家の令嬢を顧客にもつスタイリストだ。前王妃の侍女だった経歴があり、ヘアスタイルや化粧、既製品のドレスを扱い、女性たちそれぞれの魅力を最大限に引き出してくれるのだ。

「……メモ、だと?」

 けげんそうに繰り返したアンドリューは、眉を寄せながら階段を下りてくる。機嫌をそこねたような彼の顔つきに、ジルは思わずあとずさった。

「は……はい。彼女には髪を切っていただいておりますので、そのついでに僕のサイズも、メモしてもらっております。あなたに渡せたら、手間がはぶけるかと」

 ロビーに降り立ったアンドリューは、いかめしい表情でジルに近寄る。

 あっさり終わると決めてかかっていたから、予想外の彼の行動にジルは焦った。

(おかしいわ、どうして怒るのかしら。ううん、怒っているというよりも……私をいぶかしんでる?)

 額に冷や汗が浮く。そんな挙動を見逃すまいとするかのように、アンドリューはきつい視線で、ジルを見下ろした。

「手際がいいな。だが、俺は自分でサイズを測る。他人任せにはできない」

「ぞ、存じております。けれど、僕はあの……」

 ジルが一歩退くと、アンドリューは一歩前に出る。

「なんだ? お前は俺に、サイズを測られたくないのか?」

 アンドリューはジルに詰め寄りながら、片目を眇めた。

「お前はこの俺に、お仕着せをデザインしてもらいたくないのか? あんなに嬉しそうにしていたくせに、あれは嘘か?」

「ちっ、違います! とても嬉しいですし、光栄です! でも、あのっ」

(大変だわ。なんとかうまくごまかさなくては、アンドリュー様に対して失礼よ!)

「ぼ、僕は……体型にコンプレックスがあります。女性のように小柄なことを、恥ずかしく思っています。ですので、サイズを測られるのが苦手なのです。できれば一度で終えたいと思っています。だから、その……!」

 ジルの必死の言い訳に、アンドリューがぐっと眉を寄せた直後。

「アンドリュー?」

 宰相の執務室から戻って来たらしいライナスが、扉口に姿を見せた。と、ライナスはジルとアンドリューを交互に見て、なにごとかと目を見張る。

「戻りが早いね。それで……どうしたんだ?」

「わけあって早く戻った。で、こいつのお仕着せをデザインするため、サイズを測ってやると言ったらなぜか嫌がる」

「い、嫌がってはおりません! ただ、苦手なだけです……!」

(ああ、四大天使様。言い訳の種はもうありません。お願いですから、助けてください!)

 ジルが心底そう願ったときだ。

「わかった、二人とも落ち着いてくれ」

 ゆったりと両手を挙げて、ライナスが歩いて来た。

「俺は落ち着いているぞ」

「苛立っているのが、手に取るように伝わってるよ。でも、君が腹を立てるほどのことじゃない。ジルはただ……サイズを測られるのが苦手なんだ。そうだね?」

 返事をうながすように、ライナスはジルを見た。ジルは大きくうなずいた。

「は、はい。そうです」

「アンドリュー。君にだって、苦手なことはあるはずだ。たとえば、そうだな……前世紀的な黒いローブを着なくてはいけなくなるとか?」

「いったいどういう場面で、俺があんなおぞましいものを着るはめになるんだ」

「わからないけど、たとえばの話だ」

 はあ、とアンドリューは、あきれたように嘆息する。

「まったく……くだらんな。まあいい、わかった。俺のやり方に反するが、サイズがわかれば仕立てられる。ジル、そのメモを俺に渡せ」

「は、はい!」

 ライナスを見やったアンドリューは、舌打ち交じりに言い放つ。

「お前のせいで、おぞましいものを着ている自分を想像させられて、いまにも吐きそうだ。ジル、ついでに紅茶も持って来い」

「しょ、承知いたしました」

 アンドリューは二階に姿を消した。助かった、というか?

(ライナス様が、助けてくれた……?)

 ライナスの横顔は、どことなく険しい。

「あの……ライナス様。加勢してくださって、ありがとうございます」

「加勢?」

 ライナスはとぼけたように繰り返す。

「いや……そんなつもりはないよ。でも、誰にでも苦手なことはあるからね。気にしなくていい」

 そう言うと、前髪をかき上げながら息をつき、なにかつぶやいた。

「え? なんですか」

 聞き返すと、ライナスは「なんでもない」と素っ気なく背中を向け、大階段を上りはじめた。

 そんな彼の背中を、ジルは見上げた。

 ――危なかった。

 そうつぶやいたように聞こえたのは、気のせいだろうと思いながら。

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