第二章 主たちが守護するもの_2
ジルは紅茶と一緒に、サイズを
彼のアトリエの
アンドリューは王女への想いを秘めたまま、ただ一心に彼女の幸せを願い、結婚式を見届けたのだ。まっすぐここへ戻らなかったのは、一人になって気持ちを整理したかったからだろう。
王女のいない寂しさを、アンドリューが口にすることはない。だが、心にぽっかりと穴が開いたように感じているはずだ。それでも前に進もうとしている彼の思いを尊重し、ジルはなにも言わずにアトリエを出た。
訪問客があらわれない時間帯になったとき、王宮の使用人が荷物を届けに来た。礼を伝えて受け取ったジルは、それがなんなのかすぐに察した。
頑丈な麻袋に包まれた荷物は、大きくて平べったい。おそらく絵画だ。しかも、差出人はアンドリュー本人になっている。
(荷物になるから、送ることにしたのかしら。でも、いったい誰の絵なんだろう)
ジルはさっそく、アンドリューのアトリエに向かった。
「お荷物です」
「届いたか。じゃあ、ライナスを呼んで来てくれ。これを見せたい」
「はい」
ジルが返事をしたとき、開け放ったドアの前を、ちょうどライナスが通りかかった。
「おい、ライナス。これを見てくれ」
ライナスが室内に足を踏み入れる。アンドリューは荷物を解きはじめた。
「これが本物か、作風を真似た
薄板に挟まれたそれを取り出し、長椅子の背もたれに立てかけた。ジルはその絵を目にした瞬間、動きを忘れて立ちすくんだ。
銅製の額縁におさまっていたのは、油絵の裸婦だった。
描かれているのは、肉感的な女性だ。背景は粗末な部屋の一室。目の
黄金色の光に照らされた横顔。だが、影になる側は、これ以上ないほどの闇に覆われていた。
明と暗。光と影の陰影に、唯一の赤が光り輝き、
「……素晴らしいな」
大きく目を見開いたライナスは、あ然としたようにぽつりともらした。
平筆を大胆に活かしたタッチ。けっして繊細ではないのに、剛胆な輪郭がむしろ、描かれている女性の寂しさや孤独、そういった内面すらも浮き彫りにしている。
ジルも目を見張った。この明と暗。そして豪快なタッチを、どこかで見た覚えがあったからだ。
(……あっ、そうだわ――)
「――『英雄マキャベルの肖像』」
思わず声が出た。アンドリューとライナスがジルを見る。はっとしたジルは、出過ぎたことを言ってしまったと思い、とっさに口を手で押さえた。
「申し訳ありません。お邪魔いたしました」
一礼して廊下へ出ようとした寸前、ライナスが制した。
「謝らなくてもいいよ、ジル。こんな機会はあまりない。君にとっていい勉強だ」
おずおずと近づくと、アンドリューが言った。
「お前の言ったとおり、これは百二十年前の宮廷画家、『英雄マキャベルの肖像』を描いたエドガー・ザッコフの手によるものだ。いや、そういうことになっている。なにしろサインがないから、タッチで判断するしかない」
「どちらで手に入れたのですか?」
「イルタニアだ。向こうに滞在していたとき、王太子殿下と訪れた貴族の館にあった。エドガーの絵だと画商に紹介されて、半年ほど前に買ったそうだ。殿下も俺もかなり驚かされた」
息をついてから、アンドリューは続けた。
「気に入ったと殿下が話したら、めでたく譲ってくれることになってな。隣国の画商は本物だと胸を張っていたようだが、エドガーが描いたという確証はないらしい。贋作めいた怪しい絵画を、殿下の屋敷に飾らせるわけにはいかないんでね」
念には念を入れるため、いったん自分が預かったのだとアンドリューは付け足した。
「隣国の画商は、どこでこれを手に入れたんだ?」
「この国につてがあると、話していたらしい」
デイランドの元宮廷画家であるエドガーの絵を、イルタニアの画商が〝なぜか〟手に入れ、自国の貴族に売ったらしい。奇妙ないきさつに、ジルは小首を傾げた。
エドガーが活躍していた時代は、戦乱の世だ。
豪商の末息子として生まれたエドガーは、一介の騎士だった。だが、将軍マキャベルに絵の腕前をみとめられ、それを耳にした当時の国王が、正式な宮廷画家として引き立てたのだ。
しかし、戦いが激しくなり、絵を描くどころではなくなっていく。エドガーは騎士だった自分の本分を果たすべく戦場に向かい、そこで命を落とした。
そう、思われていたのだが。
「……この国のどこかで、生きていたということでしょうか」
ジルの問いを、ライナスが引き取る。
「この絵が本物だとしたら、そういうことになるね。でも生きていたのだとしたら、どうして王宮に戻らなかったんだろう」
「戦場が恐ろしくなり、逃亡したのかもしれない。そうであれば、戻りたくても戻れない。隠れるようにして、ひっそりと生きるしかない。絵だけを心の支えにしてな」
宮廷画家ではなく、逃亡の果ての名もなき画家として身を潜め、細々と孤独に生きる。そうして他界したのち、
その疑問をジルが伝えると、ライナスは考え込んだ。
「ありえなくはないが、そうだとしたら、残っている絵はこれ一枚だけではないはずだ。もっとあるはずだし、おそらくすでに出回ってる。でも、そういう噂を耳にしたことはないな」
考え込むライナスを、アンドリューは急かした。
「とにかく、だ。これが本物か贋作か、お前の意見を聞かせてくれ」
ライナスはあごに指をはわせて、絵画に顔を近づけた。じっくりと鑑賞したあとで、眼差しがきらりと瞬く。と、ふいに口角を上げ、ジルを振り返った。
「……これはいい問題かもしれない。ジル、もっとこっちへ」
ライナスにうながされて、ジルは彼の隣に立った。
「君はこれを、どう思う? エドガーの絵か、それとも贋作か」
そう問われたジルは、びっくりして瞠目する。
ライナスは、すでに答えを出している様子だ。背もたれの奥に立ったアンドリューは、ジルを見下ろして苦笑した。
「そいつにわかるわけがないだろう。俺だって怪しんでいるだけで、判断がつかないんだ」
「まあ、そう言わずに」
肩をすくめたライナスは、ジルの邪魔はしないとばかりに、絵画から退いた。
(これが本物か、贋作か……? でも、たしかにこんな機会はそうないわ。ライナス様の言うとおり、私にとっていい勉強になる)
間違ったとしても、それも学びになるだろう。ジルは真剣に、絵画に見入った。
エドガーは、宮廷人以外にもキルハの人々を描いている。それらは騎士時代のもので、王立図書館が改築されたのち、誰もが彼の絵を無償で楽しめるようにと、現国王によって十枚の絵画が寄贈され、飾られていた。ジルも何度か、足を運んだことがある。
そしてこの銀王宮には、四枚の肖像画が残っていた。
当時の国王と王妃、子ども時代の王太子を描いたもののほかに、もっとも有名なのは将軍だったマキャベルの肖像画だ。
荒野を背景にして、騎士たちを
どの作品も、光と影の境界がはっきりとしており、描かれている者の存在感を際立たせていた。
なによりも、筆さばきを残したようなタッチが印象的だ。いま目にしているこの裸婦にも、その特徴はある。
あるがままに美化しない、顔つきと肉体。だが、モデルとなる相手の内面にまで、深く食い込んでいく筆致。これは、きっと。いや、間違いなく――。
「――本物です」
ジルは言った。顔を上げると、アンドリューは納得したようにライナスを見る。その視線を追って、ジルもうしろにいるライナスを振り返った。
腕を組んでいたライナスは、口の端をゆっくりと持ち上げた。
「……残念。不正解だ」
アンドリューが息をのむ。ジルも、呆気にとられた。
「まさか。これは……贋作なのですか?」
「本当か、ライナス?」
ライナスはうなずく。
「よくできてる。素晴らしい絵だ。これを描いた画家の腕に、
ふたたび絵画に近づきながら、ライナスは指でしめした。
「エドガーの特徴は、平筆の筆致だ。下から上へ向かうように、油絵の具をのせていく。でも、このあたりを見てくれ」
ライナスの指は、女性の足元の影、そこから広がる床のあたりをしめした。黒と濃紺を混ぜた絵の具が、日射しを受けててらてらと光っている。
「筆を置いたときの、かすかな〝溜まり〟がいくつも残ってる。そのおかげで、右下から左上に向かって、絵の具が塗られているのがわかるだろう」
ジルはうなずいた。
「ええ」
「これを描いたのは、おそらく左利きの画家だ。エドガーは右利きだよ」
ジルははっとした。右利きであれば、筆の方向は反対にならざるをえない。
「本当か?」
アンドリューは目を見張り、声を上げる。ライナスは小さくうなずいた。
「ああ。彼が描いた肖像画を、じっくり鑑賞すればわかる。もちろん、どちらの利き腕でも筆の方向を変えることはある。でも、エドガーは影に特徴があって、必ず同じ向きに筆致が流れているんだ。でも、これはあきらかにその逆」
エドガーの大胆な影を真似るため、筆を動かす向きの癖が無意識に出たのだろうと、ライナスは予想して告げた。
「贋作だよ」
ジルは心の底から、感嘆した。
(……なんて凄いの。ライナス様には、学ぶことばかりだわ)
アンドリューも感心したように嘆息する。
「やはり、お前を頼って正解だった。殿下は本物だと信じて疑っていなかったからな」
ライナスは小さく笑んだ。
「しかたがないさ。この画家は、エドガーを
「左利きの無名の画家、というわけか」
「エドガーの絵は、王立図書館へ行けば何時間でも無償で鑑賞できる。彼を騙れば売れると踏んで、模倣したんだろう。素晴らしい腕を持っているのに、運に見放された無名の画家だとしたら、残念だ。なんにせよ、そのことがわかっているのなら、飾っても悪いものじゃない」
「贋作なのに、ですか?」
驚くジルに、ライナスはうなずいた。
「エドガーが描いたと胸を張って飾るのは、恥ずかしいことだ。でも、彼の作風を真似たものだとわかっていてなお飾ることは、この絵に対する正統な評価になる」
〝本物〟であると嘘をつかなければ、贋作も芸術の一つだと、ライナスは認めているのだ。
「とはいえ、誰が描いたのか気になるな。エドガーを騙って画商に売っていたとすれば、立派な詐欺行為だ」
ライナスが絵を睨みすえた。アンドリューは絵画を持ち上げながら、息をつく。
「しかし、まいったな。贋作だと殿下に伝えたら、なぜ出回っているのかと疑問に思うだろう」
ジルは思わず、声にした。
「それに……国を渡って
「お前の言うとおりだ。大事になる前に、なんとかしなくてはいけないかもな。この国の威信に関わる」
アンドリューが言った。ライナスは絵を見つめながら、前髪をかき上げた。
「隣国につてがありそうな知人の画商に、それとなく訊いてみよう。まだここだけの話にして、殿下には〝本物か調べている〟とだけ、伝えてもらえるかな。出回っている理由を突き止めなくては、この絵を殿下に渡すことはできない」
アンドリューは苦い顔で、同意した。沈痛な面持ちで、ライナスは声を振り絞った。
「……出回っているのが、これ一枚きりであることを願うよ」
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