第二章 主たちが守護するもの_3
自分が調べるから大事にしないようにと、ライナスは念を押した。
ジルとアンドリューは同意したが、なにかあれば手伝うと協力を申し出て、その場は解散となった。
日が暮れて夜になり、レイモンドが戻る。彼に頼まれて、書物を書庫に返し終えたジルは、歴代の王族の肖像画がかけられた廊下で立ち止まり、絵画を見上げた。
(贋作なら、いったい誰が描いたのかしら……)
年代順に続く廊下の突きあたりに、英雄マキャベルの肖像画はある。
等間隔に配された燭台のろうそくが、廊下を淡く照らす。そのなかに立つジルを、マキャベルはまっすぐに見下ろしていた。
ライナスの言葉を脳裏で
(あっ……本当だわ。筆さばきが左下から右上に向かっているのがわかる)
発見できた嬉しさに、ジルは頬をほころばせた。それとともに、あらためてライナスを尊敬した。
(ライナス様に言われなければ、見つけられなかったことよ)
感嘆し、息をついたときだ。
「これはこれは。久しぶりですな」
廊下の先から声がし、驚いたジルは顔を向けた。細身の壮年の男が、ゆっくりと近づいて来る。
うしろに撫で付けたブロンドは白髪に染まっており、遠目からは銀に見える。眉も同じ色合いのため、ブラウンの瞳がやけに目立つ。こちらを見下すかのように唇の口角は下がり、ろうそくの灯りのせいで、ほお骨の陰影がいやおうなしに目に入る。
ジルはすぐにお辞儀した。
「お久しぶりです。バーリー卿」
彼とはここへ来た初日、出くわしたきりだった。自慢の種にしたいがために、ライナスの絵を欲している芸術院議員であり、あまり関わらないようにと、レイモンドに注告されていた相手でもある。
社交シーズンを目前にし、王宮内のいたるところで、サロンという名の会合が開かれている。彼もおそらく、そのどれかに出席していたのだろう。
(この方は苦手だわ。静かに立ち去ろう)
ジルは頭を下げたまま、彼の顔を見ることなく通り過ぎようとした。だが、目の前にバーリー卿が立ち、行く手を
立ち止まったジルは、はっとして顔を上げる。バーリー卿はジルを見下ろし、ふてぶてしく目を眇めた。
「
うっすらと唇を弓なりにさせるが、下がった口角のせいで笑顔に見えない。ジルは冷静に返答した。
「お褒めに預かり、光栄です。ですが、僕はただ、自分の仕事をまっとうしているだけです。それでは、失礼いたします」
一礼し、彼の横を過ぎようとするも、またもや目の前に立たれる。
(いったい、なんなの?)
気味の悪さを感じたが、ジルはなんとか
「あの……。僕に、なにか?」
「単刀直入に訊ねるとしましょう。ロンウィザー侯爵が、メイデル伯爵に絵を贈ったと耳にしたのですが、それは真実ですかな?」
バーリー卿の眼差しに、鋭さが増す。瞠目したジルは、直感した。彼はメイデル伯爵に、嫉妬しているのだ。
(私の返答次第で、ライナス様とメイデル伯爵様は、彼に恨まれてしまうかもしれない。でも、嘘をつくわけにもいかないわ。どうしよう……)
ジルは落ち着くため、小さく嘆息する。そうしてふたたび、笑みを見せた。
「伯爵様のご子息は、
バーリー卿の視線から、ほんの少しきつさが取れた。
「四号?……それはまた小さいものですな。とはいえ、ロンウィザー侯爵が貴族に絵を贈るようになったと知ることができて、安堵しました。そうであれば、そろそろ私の願いも叶えていただきたいですな」
「願い……でございますか?」
「私の愛娘をぜひ、ロンウィザー侯爵に描いていただきたい。以前は芸術棟に訪問して願っていたものだが、彼が忙しいのは私も知っているのでね。邪魔をしないよう、長いこと機会をうかがっていたのですよ。だが、そろそろそのときがきたと思われる。どうですかな」
バーリー卿は、ジルをきつく見すえた。
「彼らに信頼されている助手の貴殿から、そう伝えていただければ、きっと侯爵も了承してくださるでしょう」
語調は穏やかだが、目には有無を言わせない威圧があった。ジルは一歩あとずさった。
ライナスも彼が苦手だ。それは、初日の言動からあきらかだった。彼からの注文を、ライナスは絶対に聞き入れないだろう。
(ライナス様は、ただでさえ忙しいのよ。こんなことで、不快感を与えるわけにはいかないわ)
穏便に断るしかない。それが助手の務めだ。そう決めて、口を開こうとした矢先。
「いかがですかな。ジル・シルベスター」
フルネームで呼び捨てにされ、ジルは言葉をのむ。同時に、冷たいものが背筋に走った。
「シルベスターなる貴族の名は、私の記憶にない。貴殿の故郷は、どちらですかな」
――なに? 戸惑うジルを、バーリー卿は強い眼光で見つめ、笑った。
「……まあいい。貴殿の故郷や家族のことなど、すぐに調べられる。身の上を調べられて、まっさらな人間などそうはいない。誰しも弱みはあるものだ。そうされたくなければ、侯爵に絵を描くよう説得していただきたい。いや――」
顔を近づけたバーリー卿は、静かに耳打ちした。
「――そうしろ」
血の気が引いて、ジルの顔面は
こんな脅しに屈したくはない。だが、もしも彼に出自を調べられたら、女性であることがバレてしまうだろう。
そうなれば、ここにいられなくなるうえ、家族も罰せられることになる!
「いかがなさいましたか、バーリー卿」
聞き覚えのある声が、
涙を
「ほう! 侯爵、お久しぶりですな。いえ、たいしたことではありません。ただ彼の故郷について、お訊ねしていたのですよ。私は牧歌的な田舎が好きですから」
「故郷?」
ライナスは表情を険しくさせて、ジルを見た。
この場を穏便に終わらせなくては。ジルは強張る顔に、笑みを広げた。
「ええ……ライナス様」
「貴殿の助手にお会いする機会を得ましたのでね。ぜひとも貴殿に、我が愛娘の肖像画を描いていただきたい旨を、助手である彼の口から伝えていただこうと、世間話のついでにお願いしていたところです」
あっさりと態度を変えるその様に、悔しさを覚えたジルは拳を握った。
(……なんて恐ろしい方なの)
バーリー卿が、
「どうです? 引き受けていただけますかな?」
ジルのひきつった笑みを不審に思ったのか、ライナスは眉をひそめる。と、ゆっくりと口角を持ち上げ、笑顔を作った。
「……わかりました、いいでしょう。根負けしました。しかし、しばし時間をいただけますか。なにしろいまは、ステンドグラスの制作で忙しいので」
了承した!? ジルは驚き、ライナスを見つめる。彼の目は、あきらかに笑っていなかった。
この場をやり過ごすための嘘か、それとも本気か、ジルには判断がつかない。だが、歓喜したバーリー卿は、ライナスの返答を素直に受け取ったらしい。
「おお! やっと了承していただけましたか!」
「いますぐというわけではありません。僕から連絡させていただきますので、それまではどなたにも、ご家族にも内密にしてください。僕が肖像画を描くと約束した貴族は、あなただけですから」
バーリー卿は、含みのある笑みを浮かべた。
「内密……ええ、たしかに。しかし、これで私はやっと、貴殿の肖像画を飾る唯一の貴族になれるのです! では、私はこれで。約束ですよ、ロンウィザー侯爵」
バーリー卿がお辞儀をする。ライナスも軽い
「ええ」
満足そうに微笑んだバーリー卿は、ジルを
「君の戻りがいやに遅い気がしてね。きっとここにいるだろうと思ったら、案の定だ。それにしても、彼に出くわすとは災難だったな。なにか問い詰められていたようだったけど?」
「……あなたがメイデル伯爵様に絵を贈ったのは本当かと、訊ねられました。それが真実なら、自分にも絵を描いていただきたいと……」
ライナスは眼差しを鋭くした。
「……なるほど。それで、君は平気かい?」
「え……っと、ええ、平気です。でも、ライナス様。あの、断れずに申し訳ありませんでした」
「どうして君が謝るんだ」
「忙しいあなたに、不快な思いをさせてしまいました。そのうえ、あの方に絵を描くと了承までさせてしまいました。だからです」
脅されて、ひるんでしまった。そのことが情けなくて、ジルはうつむいた。すると、フッと笑んだライナスの息がもれる。
「描くつもりなど、はじめからないよ。ああでも言わなければ、また彼が君に詰め寄りそうだからね。君から永久に追い払うには、僕が引き受けるのが手っ取り早い」
びっくりしたジルは、息をのんだ。ジルのために、彼は嘘をついたのだ。
「け、けれど……いずれ着手しなくてはいけなくなったのでは、ありませんか」
「永遠に待たせておけばいい」
ライナスが優しく微笑む。けれどその眼差しは、どこか不安げだった。そうしてジルを見つめたまま、沈黙して微動だにしない。
(どうかしたのかしら)
居心地の悪さを覚えたとき、彼の瞳がきらめいた。
「ジル。もしもまた彼に会ったときは、失礼だと思わずに急いでいるふりをして、逃げ出していい」
そう言ってジルの目前に立ち、顔を近づける。
「なにも心配しなくていい。わかったね?」
まるで、すべてを見透かしているようなその言動に、ジルは困惑した。
「心配……は、なにもしておりませんが……」
やっとの思いでそう口にしたものの、忘れかけていた疑念が頭をもたげてきた。
ジルは一度だけ、ライナスに抱き上げられたことがある。そのときから、彼に正体がバレているのではないかと、不安を覚えることがあった。
いまがそうだ。〝なにも心配しなくていい〟とは、どういう意味なのだろう。
彼が肖像画を了承したことで、ジルの身の上は守られた。思い返せば、アンドリューのときもそうだ。偶然かもしれないが、違うのだとしたら? まさか、ライナスは。
(……すでに私の正体を知っていて、助けてくれているの?)
鼓動が激しくなっていく。落ち着かなくてはと言い聞かせながら、ジルは口を開いた。
「あ……なたに嘘までつかせてしまったことを、お詫びいたします。ご心配をおかけして、申し訳ありませんでした」
それを聞いたライナスは、わざと不機嫌そうに目を細めた。
「君は謝ってばかりいるね。でも、残念ながら僕の欲しい言葉じゃない」
「え?」
瞠目したジルの頬に、ライナスは右の
(えっ……?)
頬に触れそうになった寸前、彼は惑ったようにとっさに手を引き、ジルの肩に置いた。
「〝ありがとう〟じゃないかな?」
そう言って軽く叩いてから、手を離して背中を向けた。
「は……はい。ライナス様。ありがとうございます」
ライナスは肩越しに振り返り、笑った。
「それでいい」
それ以上なにも言わず、ジルを問い詰めるでもなく、あっさりと遠ざかって行く。彼の背中を見つめながら、ジルは自分の肩に手を置いた。
肩に触れた彼の手の感触が、まだ残っている。長くきれいな指先を思い出し、ジルはドキドキしながらうつむいた。
(なにかしら。私の頬に触ろうとしたように思えたけれど、気のせい?)
ライナスがなにを考えているのか、わからない。だからこそ気がかりで、励ましてくれた言葉すら、素直に受け取れなくなってしまう。
自分の正体がバレているのか、いないのか、判断がつかないから――。
(いいえ……彼にバレていたら、私はとっくにクビになっているはずよ。だから、違うわ)
そう信じたい。いや、信じるしかない。
気を引き締めたジルは、
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