第二章 主たちが守護するもの_4
その夜、久しぶりに主たちの全員が、芸術棟の食堂に揃った。
夕食をテーブルに並べていると、カーティスとライナスに続いて、アンドリューも姿を見せた。だが、レイモンドだけは書斎だ。
いつものように彼の分だけトレイで運ぼうとした矢先、なんとその本人が、疲れきった顔つきでドア口に立った。
ジルは自分の目を疑ってしまう。レイモンドが食堂へ来たのは、これがはじめてだったからだ。
「レ……イモンド様?」
「呼ばれなくても、私はレイモンドです。墓場から生き返った、死霊のように見えるでしょうが」
暗い声音で吐き捨てた。しかも片腕には、にこやかな顔つきのテディ・ベアを抱えている。二十六体もコレクションしているなかで、彼の一番のお気に入りのボビーだ。
「アンドリュー、ずいぶん早く戻ったのですね。王太子殿下もご一緒ですか」
ボビーの頭を
細心の注意を払って音をたてないように、トレイの食事をレイモンドの前に並べる。
「ライナスに用があってな」
アンドリューが答えた。カーティスが水の入ったグラスを掲げる。
「ジル、お前も一緒に食べようじゃないか。珍しく全員が揃った夜だ。乾杯といこう」
「水で?」とライナス。
「酒は広間に移ってからにしよう」
ライナスは苦笑しながら、ジルを指した。
「君は、アルコール禁止だよ」
ジルは舞踏会でワインを飲み、酔って女性らしい話し方になってしまったことがある。そのうえ、主たちに対して常々思っていたことまで、嬉々としてしゃべってしまったのだ。
お酒のせいだとライナスが言ってくれたおかげで、ことなきを得たものの、あんな失態は二度とごめんだ。
「もちろんです。飲みません」
平静を装ってうなずき、席に着く。アンドリューの戻りを祝うべく、グラスを掲げて乾杯した。
会話の中心は、アンドリューだった。王女殿下の結婚式のこと、イルタニアの様子を聞きながら、
それぞれが勝手で、ふぞろいな主たちだ。だが、今夜は全員が広間にいる。
(こんな光景を目にすることがあるなんて、想像したこともなかったわ)
嬉しさを感じながら、ジルはレイモンドに紅茶を出した。ほかの主は、カーティスがふるまったブランデーのグラスを手にしている。
長椅子にアンドリューとカーティスが並んで座り、一人掛けの椅子にライナスとレイモンドが腰を下ろした。ジルは彼らから少し離れて、テーブルのそばに腰掛けた。
「ずいぶん疲れてるな、レイモンド。朗読会の準備は終わったんじゃないのか?」
アンドリューが言った。レイモンドはげんなりとした様子で、ため息をつく。
「……ええ、それは終えました。私のこの
予定を把握していたジルは、鬱々としたレイモンドの様子に首を傾げた。
バクスター伯爵家の親族のパーティともなれば、著名人や文化人も多く参加する。貴族だけの集まりよりも、賑やかで派手なものになるのは必至だ。けれど、いままでだってそういったパーティに、レイモンドは参加している。今日に限って、いったいどうしたというのだろう。
そんなジルの疑問を引き取るように、ライナスが訊ねた。
「楽しめなかった?」
「……新人女優が、私の苦手な喜劇役者を連れて来たんですよ。彼はとにかく、ひっきりなしにジョークを発する。それに笑う親族のけたたましい声に、私は生きる気力のすべてを吸い取られました。能天気な人間が
はあ、と深く息を吐き出し、眼鏡を指で押し上げる。
「食事の間、静かだったからな。やっと話せる元気を取り戻したか」
カーティスにちゃかされ、レイモンドは口角を下げた。
「……まあ、そうです。私のことよりも、ライナスへの用事とはなんだったのですか、アンドリュー」
「殿下がイルタニアで、手に入れた絵があってな。それが本物かどうかライナスに訊くため、俺だけ早く戻った」
「絵、だと?」
カーティスがけげんな顔をする。ライナスはアンドリューと視線を交わしてから、嘘をつくことはないと考えたらしく、正直に答えた。
「エドガー・ザッコフの贋作だ。それが一枚、向こうに出回っていたらしい」
「なに!? 元宮廷画家を
せっかちなカーティスが、興奮気味に立ち上がる。レイモンドははっとしたように、眼鏡の奥の瞳を大きくさせた。
「エドガーの絵……?」
そうつぶやいた彼の表情は、どんどん険しくなっていく。
「レイモンド様。どうなさったのですか?」
記憶をたぐり寄せるかのように、レイモンドは視線を落とした。
「……新人女優が、取り巻きにおかしなことを話していたのを、ふと思い出したので」
「おかしなこと?」
ライナスが問う。ええ、とレイモンドは、眼鏡を押し上げた。
「彼女には、貴族の友人が多いのです。そのなかの一人の屋敷へ行ったとき、ちょうど画商がいて、絵を見せていたと。その絵を見た画商は、エドガーの絵だと喜んでかなりの高値を付けた……と」
ライナスがとっさに訊ねる。
「その貴族の名は?」
「わかりません。エドガーと聞こえたのも、私の
顔をしかめたレイモンドは、深く嘆息した。
「画商の言葉には、イルタニアの
はっとしたように、ほかの主たちが息をのんだ。
「たしかではありません。疲れていたうえ、評論家に声をかけられたので無視してしまった。しかし、イルタニアにエドガーの贋作があったと知らされては、肝が冷える思いです。きちんと聞いておくべきでした」
自分を責めるかのように、レイモンドは舌打ちをした。
それが本当だとすれば、イルタニアの画商はなぜ、この国の貴族から絵を買っていたのだろう。ジルが不穏な気配を感じたときだ。
「その絵は、本当にエドガーの絵なのか」
カーティスが訊く。レイモンドは眉をひそめた。
「聞いただけですから、私には判断できかねます。ですが、イルタニアに贋作があったのなら、同じく本物ではない確率は高いでしょう」
「……マズいな」
ライナスのつぶやきに、全員が同意をしめした。わからないのは、ジルだけだ。
「あの、口を挟んですみません。どういうことか、僕に教えていただけませんか」
「この国の画商に売れば、その絵は自然に国内に出回り、陛下や僕の耳にも入る。でもイルタニアの画商なら、その絵はかの国のものになるし、贋作だとしてもよほどのことがないかぎり、バレることはない」
ライナスに続いて、カーティスが付け加えた。
「出所にいわくのある絵を、金銭に換える最適な手段なのだ。ようするに、
(――え!?)
「でも……どうしてそんなことを?」
思わず声にしたジルに、レイモンドが答えた。
「芸術院大臣の職が、来年空席となります。我こそが候補者であると信じる者は、人気取りに奔走するのです。その一つが、賄賂です。しかし、金銭の授受は法で裁かれる。ですから、芸術品を使うのです。芸術品を贈ることは罪に問われません。それを受け取った者が金銭に換えたとしても、個人の裁量とされますから」
大臣の席を狙う者たちは、自らの評判を陛下の耳に入れるべく、人気を我がものにしようとするのだ。
――芸術品を、賄賂にして。
ジルは言葉を失った。アンドリューが続ける。
「贋作ではないまっとうな芸術品は、出所がはっきりしていて賄賂には使いづらい。そのうえ、かなり高く付く。安く手に入れてばらまくのなら、無名の画家に贋作を描かせるのが一番だ」
主たちが押し黙る。ややあって、ライナスが言った。
「元宮廷画家の〝本物の絵〟を手に入れたのなら、まずは陛下に
しかも、この国の貴族はそうと知りつつ、隣国の画商に売って金銭に換えているのだ。
(……なんてことなの!)
うつむいたライナスは、眼差しをきつくした。
「アンドリューの言ったとおり、おそらく大臣職を狙う誰かが、無名の画家に贋作を描かせているんだ。それを贈られた貴族が、イルタニアの画商に売りさばく。デイランドの元宮廷画家による絵画だと言われたら、隣国の画商は喜んで高値を出すからね」
腕を組んだカーティスは、残念そうにもらす。
「デイランドの芸術品は、イルタニアに高く売れるからな。本物か贋作か、隣国の者たちはあまりこだわらない。〝デイランドの芸術家によるもの〟であることが、もっとも重要なのだと聞いたことがある」
(それって……芸術に対する認識が、まだこの国よりも甘いということだわ)
だからこそ、贋作であろうと出回ってしまうのだ。
「アンドリュー様が見せてくださった絵画と、レイモンド様が耳にしたものは、同じ画家が描いたものなのでしょうか」
ジルは全員に訊ねた。実際に目にしていないからわからないが、その可能性はあるかもしれないとライナスは話す。
「なんにせよ、見過ごせない事態だ。このままではエドガーの名に、傷が付く」
そう言ったライナスの視線に、鋭さが増していく。レイモンドはボビーの頭を撫でながら、眼鏡の奥の眼光を強めた。
「……大々的なお仕置きが、必要かもしれません。芸術を守護する我々の——
ジルははっとした。芸術を生み出すこと以外にも、彼らには大切な仕事があるのだ。
芸術を守護するという――仕事が。
しんと広間が、静まった。その静けさを破ったのは、ライナスだ。
「賄賂をばらまいている者と、それを受け取った者たちの証拠を集めなくてはいけないね。それがわかれば、描いている画家も判明する」
アンドリューはレイモンドを見すえた。
「レイモンド。例の女優から、絵画を売っていた貴族の名前を聞き出してくれ」
「……
ライナスがアンドリューに顔を向ける。
「イルタニアの貴族から、画商の名前を教えてもらえないか?」
「友人に紹介されただけで、名前は覚えていないと言っていた。おそらくその友人も、誰かの紹介で覚えていないだろう」
嘆息したライナスは、小さくうなずいた。
「わかった。僕は今夜からさっそく、知人の画商を当たってみよう。イルタニアの画商につてのある者を、何人か知っているから」
「画商の線はお前に任せよう。しかしこうなると、出回っている絵がほかにもありそうだな。やっかいだぞ」
カーティスの言葉に、レイモンドが提案する。
「売る機会をうかがって、手元に残している貴族がいるかもしれません。夜会や晩餐会で訪れた屋敷を、くまなく探るのも手でしょう」
「それはいい。で? 宰相閣下にはどうする、ライナス?」
考え込むように押し黙ってから、ライナスは告げた。
「伝えるのは、証拠が集まってからにしよう。まだ疑惑にすぎないからね」
背もたれに腕をのせたアンドリューは、不敵な笑みを浮かべた。
「ちょうど暇をもてあましていたところだ。間抜けな貴族どもを一網打尽にして、地獄の底へ落としてやろう」
「地の果てまでも追いかけて、精神的に追いつめてやりましょう」
「私は一発お見舞いしてやる」
カーティスは両の拳をつき合わせた。
「お前はどうだ、ライナス?」
「贋作をばらまいている人間を裁いたとしても、また誰かがこの悪習をはじめるかもしれない。そうさせないためにも――」
瞳を光らせ、きっぱりと告げた。
「――
その言葉を合図にしたかのように、全員が立ち上がる。それぞれの仕事を果たすべく、一人二人と広間を去って行った。
いつもはバラバラでも、目的を同じくすると一つにまとまる。そんな主たちのなかで、ジルだけが取り残されていた。
(私にも、なにかできることはないのかしら……)
グラスとカップを片付けながら、最後に出て行くライナスを呼び止めた。
「あの、ライナス様。僕にお手伝いできることは、なにかありませんか」
ライナスは立ち止まり、ジルを見た。その眼差しは、かつてないほど
「いや……君はなにもしなくていい」
――え? ジルは
「でも、僕だけがなにもせずにいるだなんて、そんなことはできません」
「その気持ちだけで充分だよ。この賄賂の件で、君にお願いするようなことはなにもない。主の一人からの命令だ」
いつにない強い声音に、ジルはその場に立ちすくんでしまった。
自分は助手だ。そうであれば、彼らの助けになることなら、なんだって行うべき立場のはず。それなのにライナスは、なにもするなと命じたのだ。
――まさか、女性だから? やっぱり彼は、それを知っているのか。顔が青ざめていくジルに、彼はきっぱりと続けた。
「野心に駆られた貴族が関わっていて、危険が及ぶことも予想される。ここで学んでまだ日が浅い君に、頼めることはなにもないよ」
(……あっ)
女性だからではない。そんなこと、彼は思いもしていなかった。
ジルが助手として、まだ頼りないと考えてのことなのだ。
「君に頼みたい仕事は、ほかにもたくさんある。だから、この件に関しては僕たちの邪魔をしないでもらいたい。いいね」
そう言い置いて、ライナスは広間を出て行った。ジルは呆然となりながら、彼を見送った。
(……なんだ。私、彼に認められていたわけじゃ……なかったんだわ)
仲間はずれにされたような寂しさが、ふいに襲ってきた。同時に、自分の正体ばかりを気にしていたことが、どうしようもなく恥ずかしくなる。
(なにを考えているの。私はここで、男性の助手として仕事をしているのよ)
そう思うと、無力な自分に苛立ちを覚えた。けれど一方では、ライナスの言葉もちゃんと理解していた。
(当然のことよ。だって私はまだ、数か月しか学んでいないのだもの。そんな頼りない助手が動き回ったら、きっと彼らの足を引っ張ってしまうわ)
自分には自分の本分があり、仕事がある。それを忘れてはいけないのだ。
姿勢を正したジルは、なんとか自分を納得させて広間を出た。
わだかまりと悔しさを、のみ込みながら。
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