第五章 星が導く美しき未来_6【最終回】

 闇夜に浮かぶ夏の星々が、社交シーズンの幕引きをたたえるかのように瞬いている。

 音楽が漏れ聞こえる庭園で馬車を降り、ジルはスカートの裾を持ち上げて芸術棟へ向かった。

 コーラル・レッドのカツラの髪が、夜風になびく。マダム・ヴェラが選んでくれたのは、ライラック色の透かし織りが涼やかで美しい、絹モスリンのドレスだ。

 礼装のドレスを身にまとったのは、王女殿下の婚約式以来だ。はやる思いで芸術棟へ行くと、主たちはすでに舞踏場へ向かったのか気配がない。だが、パートナーであるライナスはいるはずだ。

 大階段を上がったジルは、二階を見わたした。と、ライナスのアトリエのドアが開け放たれており、灯りがもれている。

 室内をのぞいたものの、彼の姿はなかった。ライナスはどこだろうと思った瞬間、視界に入った森の絵画に驚き、立ちすくんだ。

この絵は一生完成しない、彼が描き続けるためだけの絵だと教えられた。それなのに。

(え? どういうこと……?)

 誰も存在しない、新緑の森だったはず。けれど、いま、ジルはその森の奥に、うっすらとした出口を思わせる光を見た。さらにその光の手前には、幹に背中を預けて薄く唇を開き、眠りにまどろむ少女が描かれていたのだ。

 まるでこの森が、少女の見ている夢のように思えてくる。

 少女が目覚めたら、この森も消えてしまうかのような――。

「気に入ったかな」

 その声にはっとして、ジルはうしろを振り返った。礼装姿のライナスが立っており、ジルに近づくとリストブーケを差し出す。

「君は僕のパートナーだからね」

 レースのリボンにいろどられた今夜の花は、マリーゴールドとカスミソウだ。

「あ、ありがとうございます……」

 たんなる仕事であるはずなのに、きちんと用意してくれていたことに、ジルの胸は嬉しさでいっぱいになる。けれど、目の端に入る絵画の少女が、その感激を打ち消してしまう。ジルは思わず、少女に視線を移した。

(どうして……?)

 少女の髪の色は、コーラル・レッドだ。赤毛の少女を描いただけだと思っても、どことなく自分に似ている気もする。まさか、絵のなかに突如あらわれた少女は、自分なのだろうか。

(そんなわけないわ。だって……)

 もしもそうだとしたら、彼はジルを男性としてではなく、少女と認識して描いたことになってしまう。

「ライナス様、あの……この、少女は……?」

「〝鳩が豆鉄砲を食った〟ような表情を、はじめて見たな」

 隣に立った彼は、ジルを横目にして笑った。

「こ、ここにいるこの方は、あの……僭越せんえつながら、ぼ、僕ではありませんよね?」

(お願いだから、そうだと言って!)

 祈る思いで訊ねると、ライナスは意地悪そうに微笑んだ。

「さあ、どうかな」

「えっ!?」

 ジルの胸が激しく脈打つ。そんなジルに、彼はふと真顔を向けた。

「前に君は、この絵は僕の〝人生そのもの〟だと言ったね。僕は半分正解だと答えた。以前は君の言うように、自分の人生そのものだと思っていた。でも、描き続けているうちに、〝きっとなにかが絵にあらわれる〟と、それを待つようになったんだ」

 そう言うと、絵のなかの少女を見つめる。

「その〝あらわれたなにか〟が、この絵の迷宮から僕を解放してくれる。それに期待をかけながら描いていたとき、ふいに彼女があらわれた」

 少女を指して、彼は続ける。

「これは、僕の〝人生そのもの〟ではなく、〝人生への希望〟を込めたものだよ」

 それが、解答だった。

 ジルは戸惑いを隠せない。それではまるで絵にあらわれた少女が、彼の人生を変えようとしているかのように聞こえる。

 だとしたら、この少女は誰なのだろう。どう見ても、自分のように思えてしまう。

 自意識過剰だと心のなかで諭しても、彼に寝顔を見られていた事実が頭をもたげてきた。

(まさか。やっぱりこれは……?)

 青ざめるジルに、彼が言った。

「はじめのころ、君に教師になるのを諦めさせるつもりでいたんだ。僕らとうまくやれそうな助手は、君がはじめてだったからね」

 息をのんだジルは、ドキドキしながら彼の言葉を聞いた。

「でもそのうちに、教壇に立った君を見るのも、悪くない気がしてきた」

「……えっ?」

 ライナスの瞳が、どこか楽しげに輝く。

「いつか君に会いに行くよ。君が教師になったときにね」

 それは嬉しいが、大変だ。そんなことをされては、女性だったと確実にバレてしまう!

「あ、ありがとうございます。し、しかし……ぼ、僕はあの、おそらくどこか遠い田舎町の、名もなき小さな学舎で働くことになるかと思いますので、そこまでのご足労をおかけするのははばかられると申しますか……!」

 必死に訴えるジルを見つめた彼は、とたんに声を上げて笑った。もしかして、また?

「か、からかったんですか!」

「さあ、どうかな」

「ええ……っ?」

「からかいついでに教えてあげよう。この少女のモデルは君だよ」

 ジルの心臓はひやりと冷え、顔面は蒼白になった。まただ。また、バレているのではないかという疑念に苛まれてしまう。

「ぼ、僕は――」

「――男だけれど、寝顔は少女のように可憐だったんでね。助手の君が、僕を迷宮から解放してくれるかもしれない。その願いを込めてみただけだ」

「や、やっぱりスケッチしていたのですか?」

 ライナスはニヤッとした。そのようだ。呆然とするジルの手を、ライナスがそっと握った。と、ぐいとジルを引き寄せるやいなや、端正な顔を近づけた。

「やっぱり君はきれいだ。男性だということを忘れて、キスしたくなってきたな」

「――えっ!」

 目を丸くしてのけぞるジルを、ライナスはにこりともせずに見つめてくる。

(いいえ、これもからかっているだけよ。まったく……もう騙されないわ!)

「いい加減、慣れました。また僕をからかっているんですね!」

 切なげに瞳を細めた彼は、小さく笑む。

「さあ、どうかな」

「……えっ」

 ジルがぎょっとしたとたん、彼は声を上げて笑った。

「もう絶対に、あなたにからかわれないようにします!」

「まあ、そう怒らずに」

 クスクスと笑いながら、彼はジルの手を引いてアトリエを出た。

「いまは、君がここを去るときが楽しみだ。それまではなにがあっても、僕は君の味方だよ。いいね」

「え? 楽しみ……?」

「君に渡したいものがあってね。それを渡せるのは、君がここを去るときなんだ」

「僕に……ですか? それは、なんですか?」

「それは、そのときまでのお楽しみだ。さあ、行こう」

 ライナスに手を引かれながら、ジルは芸術棟を出た。

(もしかして、それもただからかっているだけかしら)

 そうかもしれないし、違うかもしれない。回廊から見える庭園に、満天の星がきらめく。

 ライナスの大きな手に引かれながら、ジルはそっと微笑んだ。

(ううん、もう、どちらでもかまわないわ)

 夢のような世界にいて、はじめての恋を経験している。どんなふうに終わるのかはわからないけれど、その日々はまだ続くのだ。

 一日一日を、大切に過ごそう。この一瞬を記憶に刻みながら、懸命に学び、彼らのために働こう。そう誓いながら、ライナスの手をそっと握り返した。

 彼がジルを見る。瞬間、ジルの手を強く包み込んだ。なぜかそのとき、ジルは自分の未来が明るいものである予感がした。

 きっと寂しい終わりじゃない。なにもかも――うまくいく。

 そんな予感を抱きながら、軽やかな音楽が奏でられる舞踏場に、足を踏み入れたのだった。


 *


 芸術院大臣の席を巡る賄賂事件は終息し、バーリー家は失脚した。

 賄賂を受け取った貴族のうち、スターリングの手によるそれを手元に残していた数名は、四大守護者マスターズ・オブ・アーツに贋作を預けるに至った。

 彼らは五枚のそれらを、〝ジョージ・スターリングによるエドガー・ザッコフのオマージュ〟とはっきり明記し、キルハ王立美術館に寄贈した。また、バーリー家の別邸にあったスターリングの絵画も、飾られることとなった。

 現在、スターリングの絵を所持しているのは、メイデル伯爵だけだ。

 次期芸術院大臣の候補となった伯爵は、恐縮しながらも地位を辞退しなかったという。そのことを、ジルは後日、主たちから教えられた。

 夏の気配に秋風が交じり、銀王宮の庭園も紅葉に染まりはじめた、ある日。

「ジル、モザイクタイルの見本資料を持って来てくれ」

 アンドリューによるお仕着せを身につけたジルを、カーティスが呼び止める。

「はい、かしこまりました」

 大階段を下りようとしたとき、アンドリューがアトリエから姿を見せた。ジルを見るなり、しかめ面になる。

「……八十二点だな。おい、俺のお仕着せを着ているのに、なぜ満点を目指さない?」

「ええっ……? い、いえ、精一杯目指しているのですが……」

 いまだ満点をもらえないのが気にかかる。うまく着こなしているつもりなのだが。

「……なぜでしょうか」

 アンドリューはすまし顔で、ジルの靴を指した。

「今日はそれだ。底が減ってるぞ。修理に出せ」

 びっくりしたジルは、靴底を見た。たしかに、ほんの少しすり減っている。

「磨いていたのに、気づきませんでした……」

「まだまだだな」

 そう吐き捨てるとニヤリとし、王妃陛下と約束していると告げて芸術棟を出て行く。彼を見送った直後、今度はレイモンドが忙しなくロビーを横切った。

「装丁家との打ち合わせに出掛けます。晩餐までには戻りますから、食事の用意を」

「かしこまりました。いってらっしゃいませ」

 頭を下げたジルに向かって、レイモンドは眼鏡を指で押し上げた。

「……忙しかったのはわかります。ですが、私の友人への思いやりが、ここのところ少々足りないのでは」

「え?」

 彼の友人とは、二十六体のテディ・ベアだ。ジルははっとする。

「申し訳ありません。もしかして、チャーリーの袖口のほころびでしょうか……」

 いまさらですかと言わんばかりに、レイモンドはフンッとあごを上向かせた。

「気づいていたのなら、さっそくお願いします」

「は、はいっ」

 慌てて返事をするジルを一瞥し、レイモンドは颯爽と立ち去った。息をつく暇もなく、ライナスが大階段を下りて来る。

「司祭と打ち合わせだ。行って来るよ」

「はい」

 ジルのそばを通ったライナスは、ふと立ち止まって振り返った。

「そうだ。今度一緒に、美術館巡りをしよう」

「……えっ、え!」

「せっかく王都にいるんだ。君の勉強になるし、僕もいい息抜きになる」

 彼と美術館を巡れるだなんて、それこそ夢のようだ。その場で飛び跳ねたい気持ちを堪えながら、ジルは笑顔で返答した。

「嬉しいです。楽しみにしております」

 ライナスは微笑み、外へ出た。

「いってらっしゃいませ」

 庭園を歩く彼の背中を、ジルは見つめた。乗り込んだ箱馬車が門をくぐったのを見計らい、芸術棟の扉を閉める。

 ジルは浮き立つ思いで、カーティスに頼まれた資料を渡すため、書庫に向かった。

 今日も忙しくなりそうだと、姿勢を正して。



【終わり】

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帰ってきた、男装令嬢とふぞろいの主たち/羽倉せい 角川ビーンズ文庫 @beans

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