epilogue

 田所の住んでいるマンションから駅方面へ向かう途中には川があり、楢崎ならさきはその橋の上をゆっくりと空を仰ぐ様にして歩いた。

 轟轟と唸る耳孔を劈く様な風の音と、薄氷を張った様な空の色。

 煌びやかに跳ねる水面の水色の光が異様に眩しくて、伏せた瞼の眦から色のない感情が零れる。


 ひびき――――。


 いつから呼ばれてないだろうか。

 あの落ち着いた声で、そう呼ばれるだけで、嬉しかった。

 

 楢崎は田所が退職を撤回したら、折りを見て本当に退職するつもりでいる。

 あんな子供騙しの理由で退職なんて馬鹿らしいけど、こんな風に傷つけて残って貰った挙句、嫌われたまま仕事を続ける勇気はなかった。

 だから辞表を出すと言うのが、嘘臭くならずに済んだ。

 どの道、自分はもうあの人の声で名前なんて呼んで貰える事はないのだろう。


「響っ! 待って、響っ!」


 空耳かと思ったその声の方へと振り返る。

 楢崎の視線の先には、部屋着にロングカーディガンを羽織った田所が息を切らしてこちらへと向かって来ているのが見えた。


「……何すか?」


 まさか、追い掛けて来るとは想定外だった楢崎は、素でそう返していた。


「あの、えと……」

「辞めずに残ってくれるんすか?」

「いや違うけど……」

「じゃ、話す事ないっす」

「ま、待って!」


 掴まれた二の腕が痛い。

 胃の辺りを鷲掴みにされた様な気分になる。

 楢崎は好きな人を追い立てる振りにもう限界に来ていた。

 本当ならいつもの調子のいい会話で、甘いものでも一緒に食べて、この人の悦ぶ顔が見たいくらいなのに。


「じゃあ何すか? 説得しに来たんすか? 別に俺が会社辞めても田所さんには関係ない事でしょ。社長じゃあるまいし、社長だって俺一人いなくなった所で他を探せば良い事です。俺の代わりなんていくらでもいますって」

「そ、そんな事……」

「俺、あんたの事好きだって言ったよね? なのに、あんたは自分のしたいようにして、俺にはあんたの言い成りになれって言うの? 好きなら言う事聞けって事?」

「ち、違っ……」


 こんな事が自分の口から出るとは、自分でも驚きだった。

 溜め込んで来た五年間が、溢れている様な気がする。これは、これ以上は、自分の手に負えなくなるのではないだろうかと言う焦りが、余計に口調を早く捲し立てる。


「何でもかんでも自分主体に考えるから嫌われんじゃね? あ、それが狙いだから、それで良いのか」


 流石に、言い過ぎた。そう思ってももうその言葉は取り消せない。

 別に怒っていた訳ではないのに、自分の中のドス黒い感情の中にあった疎外感が、仕返しとばかりに辛辣な言葉を紡ぐ。

 帰って来ても一言も相談して貰えず、弱音さえ吐いて貰えず、全てを一人で勝手に決めて置いて行こうとする田所に、昔イタリアへ行くと言い出した生歩を重ねてしまったのかも知れない。


「あ……あんたにだけは……嫌われ、たく……ないぃ……」


 楢崎が着ているダウンコートを掴んだ田所の手に、ぎゅっと力が籠る。


「ひびき……うっ……おねがぃ……きらいに、なら、ないで……うぅ……」

「……じゃあ、辞めないで下さいよ」


 田所はそれに返事が出来ない様だった。

 泣き止む事が出来ないのかダウンの袖を握り締めたまま俯いて嗚咽を上げる田所に、また胸が痛んだ。

 人通りが少ないとは言え、ここは外で一見男同士、一人はべそかいている。人に見せるものではないと、楢崎は田所の肩を抱いて自宅マンションまでもう一度戻った。

 

「ほら、座って」


 付き添う様にして部屋の中へと入った楢崎は、田所の体をソファへと沈めて自分はいつものように向かい合って床にしゃがみ込んだ。

 田所は逃がさないとばかりに、またダウンの袖口を掴んで来る。

 その仕草が余りにも可愛くて、その手を取って楢崎は自分の手の中に収めた。


「何で一人で決めちゃったんすか? 俺はそんなに頼りなかった?」

「ちがっ……違う……」

「じゃあ、何で?」

「だって……ひ、びきにごねられたら……絶対、決心が鈍ると思って……」


 田所いわく、こうするしかないと思った時点で楢崎に色々と追及されれば、自分が揺れてしまう事を恐れていたらしい。


「じゃあ、そんくらいは俺の事好きですか?」

「……ん……すき」


 子供の様にたどたどしいその「すき」はこの数日の胃の痛みを払拭するだけの威力を持っている。

 

「昨日浅田さんが来て、お義父さんの事は浅田さんが説得すると言っていました。テンさんがテンさんとして生きて行ける様に、もう一回最善の方法を考えましょうよ」

「……そしたら、いる? 響は……いてくれる……?」


 長い睫毛が涙を弾く様に瞬く。

 怖い夢でも見た子供の様に懇願する眸でこちらを見ている田所は、いつの間にかいつもの「私」になっていて、楢崎は甘く潤んだその眸が自分を見ている事に男の本能が昂ぶるのを感じて息を飲む。


「当たり前じゃないですか。さっきも言ったでしょ、俺の世界はテンさんを中心に回ってるって。だから、もう一人でどっかに行こうとしないで」

「ん……」


 ごめんなさい、と赤くなった瞼を擦る片手を払って楢崎は額に額を摺り寄せた。

 遠かった熱がまた戻って来て、この不器用なまでにか弱く繊細な人が愛おしくて堪らない。強くないのに強く在ろうとして、それに振り回されてしまうけれど、この人がいなければ自分の幸せを証明する事は出来ない。


「もっかい、言って……好きって」

「……やぁだ」

「けちですか」

「ふ……ふふ……」


 耳朶に当てられた唇が象る。

 

「――――すき」


 呼吸の震えも、熱っぽい吐息の湿りも、楢崎の腹の底を震わせる。

 今この世界には自分とこの人しかいないのではないかと錯覚するほどの喜悦に満ちて、幸せと言う言葉の本当の意味を生まれて初めて知った気がする。

 力一杯抱き締めて、息子でも、兄でも無い、自分だけのこの人をずっとこうして閉じ込めておけたら良いのに。


 楢崎は短くなった田所の髪を掻き上げ、許可を強請る様に眸の奥を見遣る。

 恥ずかしげに瞼を伏した田所が、その視線の意味を理解してもう一度視線を合せた。 


 初めてのキスを思い出す様なたどたどしいキスをして、震えている掌を見せたら「思春期か」と笑われた。

 クスクスと揺れるその肩に額を付けて、思う。


 

 あぁ――――好き過ぎて死にそう。

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貂の祈りは氷空に響く。 篁 あれん @Allen-Takamura

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