episodeー4
「ただいまぁ~」
ビクリと肩が跳ねる。
「あ、お兄ちゃん、帰って来た」
「あ、うん……」
玄関から少し擦って歩く様な独特な足音がリビングに近づいて来て、天音はリビングの扉が開くのを待ち構える様に視線を凝らした。
まるで主人の帰りを待つ子犬の様だ。
足が動かないから扉に駆け寄る事出来なくて、ソファに座ったまま身を捩って見ている事しか出来ないけれど、扉が開くのを今か今かと待っている。
「お兄ちゃんっ! お帰りなさいっ」
「ただいまっ、あまねぇ~」
ばっちりメイクして女装している兄を見ても、妹は狼狽える事もない。
彼女の中でお兄ちゃんがそうである事は、特別問題では無いらしい。
お兄ちゃんに抱き締められて天音にある筈のない尻尾すら見えそうで、楢崎はコッソリと笑ってしまった。
「もう、一人で来るとか言うからビックリしちゃったじゃない」
「ふふ、だって一人で来れるって証明したかったんだもん」
「もう、この子ったら……」
まるで本当にペットを抱きしめて揉みくちゃにしている様に見える。
「響もありがとうね」
「あぁ、いえ。全然……」
「晩御飯、食べて行きなさいよ。あんたの分も作るから」
「やっほぃ! いただきまっす!」
田所が作ってくれた晩御飯は天音の好きなグラタンと、楢崎が好きなオニオンスープだった。さりげない田所の気配りが楢崎の胸をじんわりと温める。
それを平らげてリビングのソファで寛いでいると、徐に天音が口を開く。
「今日は話したい事があって来たの、お兄ちゃん」
「話? なぁに?」
「な、楢崎さんも……聞いて」
「あ、うん……」
「わ、私ね……来年、結婚する事になったの」
「……結婚……?」
そう一言零した田所は、持っていた珈琲カップから危うく珈琲を零すのではないかと思う程傾けて、呆然としている。
「あ、ちょっ! テンさんっ、零れるって!」
「あ、ごめ……ん。結婚って、誰と……?」
「今通ってる仕事場の人で、
「そ、そんなのっ……信用出来るのっ? もしかして、うちの財産目当てとかじゃっ……」
「ちょ、お兄ちゃん! そ、そんな人じゃないよぅ」
「そ、そうですよ、テンさん……。まずはおめでとうって言ってあげる所でしょ」
「あ、あぁ……そっか、ごめん。おめでとう、天音」
「それに、お兄ちゃんの話もしたの。お姉ちゃんみたいなお兄ちゃんだけど良い? って……そしたらそんな事は気にしないって言ってくれて、今度挨拶に行きたいって言ってくれて……結婚式にも勿論出て貰いたいって」
「結婚式……ははっ、天音、それは無理だよ。あの父親が許すはずないんだから」
「お父さんの事は、私が説得する」
「天音……何言ってるのよ! そんなの絶対ダメッ! また殴られでもしたらどうすんのよっ……」
田所は勢い余ってソファから立ち上がったが、天音はそれに動じることなく田所を見上げていた。
「私だってもう、お父さんの言い成りになるだけの子供じゃない。お兄ちゃんが家族で、お兄ちゃんがお父さんの子供である事を、無視させたりしない!」
「あ、天音……」
「お父さんが頑固なのは知ってる。でも、私もお父さんに負けないくらい頑固なの。頑固さでお父さんに負ける気はしない」
「……何よ、それ……」
「お父さんが折れるまで、結婚式しないって真和と決めたの。真和も私と一緒に頑張ってくれるから、お兄ちゃん、結婚式に来て下さい」
天音はソファに腰掛けたまま上半身を深々と折って頭を下げた。
楢崎はただ黙って兄妹の会話を聞きながら、田所の表情に気を配る。
茫然自失としている様だが、多分内心では軽くパニックを起こしているに違いない。なんせ、自分の命より大事な妹が、何処の馬の骨とも分からない男と結婚すると言い出したのだ。
「そんなの、当たり前じゃない……。あの父親がダメって言っても、行くに決まってるじゃない……」
「お兄ちゃん、ありがと……。お兄ちゃんのいない結婚式なんて、絶対嫌なの」
天音は薄らと潤んだ眸で眉尻を下げている癖に、その眸は甘えている様には見えなかった。
覚悟を決めた女の、意志のある眸。
でもその眸は何となく、田所に似ている様な気がして楢崎は息を飲んだ。
明日も仕事がある、と一旦話を打ち切った田所は、天音を風呂に入れそのまま抱きかかえて天音を寝室へと運ぶ。
楢崎は言われていた通りに寝室へ車椅子を移動させ、ベッドのシーツを替えて用意しておいた。
「ありがとう、響」
「あ、おかえりなさい。天音ちゃん、あったまった?」
「はい」
「よいせっと、天音ちょっと重くなった?」
「なっ! そんな事ないもんっ」
「ははっ、怒らないでよ。ほら、ちゃんと布団かけて」
いつもは一緒に寝るはずなのに、今日は天音を一人で寝室に寝かせるつもりらしい。
「ほら、ここにあんたの携帯置いとくから。トイレとか、何かあったら時間気にしないで携帯で呼びなさいよ。お漏らししても怒らないけど」
「もうっ! 楢崎さんの前で酷いっ! お兄ちゃんっ」
「あはは、ごめんごめん。じゃあ、おやすみ」
「おやすみ、天音ちゃん」
楢崎は寝室の扉を閉め、先に出た田所の背中をジッと見た。
心なしか肩が落ちている様に見える。
「テンさん? 大丈夫?」
「……お風呂、入って来るわ」
「あぁ、はい。じゃあ、俺適当に帰りますね」
「あんたも来なさいよ」
「え……」
振り返りもしないまま田所は片手を後ろへと伸ばしている。
あぁ、と楢崎はいつもの如くその手を握り返した。
そのまま無言で連れて行かれる様に脱衣所まで来ると、田所は僅かに肩を震わせて動こうとしない。
洟を啜る音が聞こえて、楢崎は同じ位の身長の田所を後ろから抱き締めた。
「何が悲しいんすか? 良い事じゃないっすか。淋しいんですか?」
田所は振り向くと出来るだけ顔を見られたくないのか、楢崎の左肩の上に顎を乗せる様にして両腕を腰に回し、只管洟を啜る。
「もしかして、旦那になる人の家族の事とか気にしてるんすか?」
旦那は良くても、旦那の親兄弟は嫁の兄が女装癖のある男だと言う事を何処まで受け入れるかなんて分からない。
多分この人は、そう言う事まで考えて一人で背負ってしまう。
自分が一度不幸にしてしまった妹を、ずっと苦しめてしまうかも知れない重圧は、きっと彼の中で計り知れない罪悪感となって彼の心を沈めてしまう。
「うっ……ん……。どう、しよ……また、私のせいで……あ、まねが……」
「良い旦那さんみたいだし、大丈夫ですよ。それに何かあったら俺も、社長も付いてますから」
背中を擦って、そんなありきたりな事しか言えない自分に腹が立つ。
本当はか弱くて繊細で、人一倍人の事ばかり気にするこの優しい人が、男の体の中に女の心を持って生まれて来たと言う事が、どんな罪になると言うのだろうか。
誰にも迷惑をかけていないはずなのに、彼はいつも他人に傷つけられてはその傷を当たり前として受け入れて、自分から他人を傷つける事で守ろうとさえする。
自分に関わらなければ、誰も傷つかない。
好きな人がそんな悲しい毎日を送っているのに、ただ抱き締める事しか出来ない。
楢崎は両腕に力を込めてその震える肢体を愛おしむ。
分かってなんてやれない事も分かっているから、彼がこうして人肌を求め、泣き場所を求める時にだけ腕の中で休ませてやる事しか出来なくて、その不甲斐なさに貰い泣きしそうで下唇を噛んだ。
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