episodeー5
あの時の彼の震えがまだ手の内に残っている。
肩に沁みた
明日から年末の休みに入ろうとしている今日、田所は別行動で外回りに出ている。
時々、本当に年に数回ではあるけれど、この間の様な事がある。
その僅かに必要とされる時間があるから、楢崎は田所から心を動かす事が出来ない。でも、ただ抱き締めあうだけで、それ以上の事があるわけでもない。
言うなれば気を許した友達の様でもあり、何の気兼ねもない弟の様でもあるその役は、地味に楢崎の
好きと言う気持ちが、抱き合った体温に解けて彼に沁み込めば良いと何度思っただろう。
言葉にして言えない癖に、気付いて欲しい欲だけが募って行く。
自分を選んで自分の腕の中で崩れていく彼を零さない様に、崩さない様にと、必死になって抱き締めるあの時間は自分だけの特別な物だ。
だけど、彼が本当に欲しいのは自分じゃない。
本当に欲しい人に出来ない事を、代理でやっているだけの身代わりだ。
そんな事も分かっているから、手放した後の急激な温度の下降にひ弱な心が気怠く重くなって行く。
それは楢崎の中にジワジワと深海に堕ちて行く様な感覚さえ生んでしまう。
大人ぶって平気な振りをしていられるのもいつまでだろうか、と体内酸素濃度が薄まるにつれて首を絞められる様な息苦しさがあった。
社内の喫煙所は茶渋の付いた様な汚れた窓のせいで、部屋全体が鄙びて見える。
余り意味を成して無い空気清浄器の唸りに紛れて、楢崎はぽつりと零した。
「もう、やめよっかな……」
「え、何? 楢崎辞めんの? 仕事」
「はっ?」
自分一人だと思っていた喫煙所に先輩の一人が入って来て、その独り言を拾う。
「いや違っ……」
「まぁ、お前ん所はアレだもんな。田所が退職するか、部署移動しない限り上に上がれないだろうしな」
「だから、違いますって!」
「いやまぁ、誰にも言わねぇよ。お前も田所に良い様に使われて、皆お前の事は不憫に思ってるんだぜ? 何なら、俺の部署に異動とか出してみるか?」
「別に俺は、田所さんとの仕事に不満があるわけじゃありません」
「でも上には上がりたいんだろ? 邪魔だとは思ってんだろう? 慕われない上司の下でいつまでも尻拭いするのも辛かろうしなぁ」
「そんな事、思ってませんっ!」
「なっ、そ、そんな怒んなって……」
「失礼します」
確かに田所はみんなの前じゃ
遣いパシリも多々あるし、スケジュールは殺人的で周りから見たら田所は楢崎を使い物にしていると言われても仕方がないのかも知れない。
それでも、あの人は逆算して現実的に必要な事しか指示しない。
「ホレた方の負けって、本当なんだな……」
今更、そんなセオリーに気付いた所で、何の慰めにもなりはしなかった。
事務所へ戻る途中、ふと人の声に気付いて振り返る。
事務所の奥にある社長室へと折れる角の辺りに、社長である
テンさん――――?
外回りに出ている筈の田所は、朝一度だけ顔を合わせた時、白いスカートを履いていた。
「あんまり泣くと、お化粧が剥がれてしまうだろう?」
聞こえてきた阿久津のその言葉に、耳を疑って楢崎はそこから微動だに出来ない。
泣いている。あの田所が、阿久津の前で、泣いている。
仕事を認められ、阿久津の会社の車輪の一部として絶対的なプライドを持った彼は、今まで阿久津の前で弱みを曝す事なんて一度もなかった。
田所は口癖のように「社長にダサい所見せらんないでしょ」と泣いた翌日でも仕事場では毅然とした態度を貫いていた。
なのに――――。
泣けるようになってしまったのなら、自分の存在はいずれ必要なくなる。
そう考えるだけで持っていたスペアキーを取り上げられて、二度と入れなくなった様な気になってしまう。
あの人の一番柔かい所を抱きしめる事は、もう二度と出来ないかもしれない。
「ははっ、ダセ」
考える事を拒否する様に、事務所に戻った楢崎は今日で仕事納めと言う事もあって溜まっていた書類を一心不乱に片付けた。
暫くして事務所に戻って来た田所に声を掛けられても、愛想のない返事を返して視線すら合わせる事が出来なかった。
いつもと違う楢崎の態度に、「何よ」と不満げに零した田所だったが、デスクに積んだ書類を見て邪魔しない方が良いと判断したらしく、それ以上話し掛けて来る事は無かった。
もう、止めよう。
手に入らない不毛な片思いを五年。
三十路手前になって成就する事のない片思いにしがみ付いていても、痛いだけだ。
都合が良い事に明日からは一週間ほど田所の顔を見ないで済む。
今日はこのまま仕事を終わらせて、自宅に帰って記憶が飛ぶまで一人で飲むのも悪くない。
絞られる様な胃の痛みを忘れてしまえるなら、何でも良い。
その日の夜は、寒波のせいで珍しく深々と雪が降った。
もう誰もいなくなった事務所を出た所で、阿久津と擦れ違う。
四十は過ぎているであろう社長の阿久津は、アパレル会社の社長と言うだけあって見た目はまだ三十代に見えるが、いつもスーツを着ているせいか
物腰は柔らかいのに、眸の奥にどんな熱を孕んでいるのか危ぶまれる。
「お、楢崎。まだ居たのか?」
「……今、帰るところです」
「今年もお疲れ様だったな。来年もよろしく頼むよ」
「はい……」
「どうした? 具合でも悪いのか?」
「いえ、少し疲れただけです。お疲れ様です」
足早に去ろうとした楢崎の背中に、阿久津の一言が投げられる。
「楢崎」
「……はい?」
「田所の様子がオカシイが、お前何か知っているか?」
「知りません」
「そうか。あの田所がお前に話して無いなんてな……」
「社長の方が詳しいんじゃないですか? 俺なんかよりも……」
別に社長が悪いわけじゃないと頭では分かっているのに、棘のある言葉が苦々しく喉元から逆流してくる。
その言葉が挑発に聞こえてしまったのか、阿久津は穏やかに喋っていた片眉を上げて意味あり気に口角を上げた。
「楢崎、来年、田所は私が貰うぞ」
「え……?」
「発表は決算の後にしようと思っているが、私の右腕に田所を貰う。お前は東日本代表として、今度は田所の後を任せる。そのつもりでいてくれ」
「……」
止めようと思ったから。
神様は意気地のない人間には容赦がないらしい。
年が明ければ仕事でも、プライベートでも、もう彼の傍にいる事は出来なくなる。
「別に、田所さんは俺のもんじゃないっす」
精一杯の強がりは、語尾が震えて格好も付かなかった。
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