貂の祈りは氷空に響く。
篁 あれん
episodeー1
今日も俺は部下の愚痴を一身に浴び、尻拭いに勤しんでいる。
メンズアパレルメーカーの東日本エリア代表である
この人を初めて見た時は、細い体にゆったりとしたニットワンピースを着て、ニーハイブーツを履いていた。
オフホワイトのローゲージニットが女性らしさに拍車をかけ、表革の硬質な黒いブーツとのミキシングが全体的にシンプルなコーディネートなのに、色気がある。
色白で堀が深く、女性にしては長身だが百七十ちょいくらいの身長でヒールを履いていたから、モデルみたいだと思った。
だが、もう一度言う。彼は男だ。
間近で会話してその首元に喉仏が動いているのを見て初めて、絶句する程驚いた。
声はそう高くはないけど、こんな声の女の人もいる、と言う位のもので声で判別が付いたわけじゃない。
辛辣で遠慮のない物言いが気の強い女そのもので、それでも田所の下で働いて田所の金魚のフンと言われ様とも、楢崎は田所以外の上司につく気はなかった。
部下に嫌われまくっている田所と一緒に店を回れば、いつもこうなる。
取引先に挨拶に行った田所を見送って早々、その店の店長からバックヤードに引き摺り込まれた。
「何なんですか、あの言い方っ! そりゃ俺達が未熟なのかも知れないけど、それならどこをどうすれば良いのか教えるのがあの人の仕事でしょ! 大体メンズショップなのにあの恰好ってどうなんですか! 男なんだから男の格好したらいいでしょ!」
「あぁ、まぁ、落ち着けよ……」
「それに口で言うだけであの人が仕事してる所なんて見た事ないし、社長が奇才だとか言う理由を俺達は見た事無いんです。信用しろって方が無理な話でしょ! 俺にだって店長のプライドがあるんです。部下の前であんなコテンパンに言われちゃ……」
二時間ほど前、とあるショップに入店して第一声が「きったな」だもんな。
そりゃスタッフも怒るわ……。
「売れるわけない。あんた達は会社潰したいの? 何がしたいのか分かんないし、基礎からやり直した方がいいんじゃない? 店長さん」
真顔で正論を言っているだけなのだが、それが部下のメンタルを容赦なく削る。
ただそれが正論である事に気付けない程、ここのスタッフが少し勘違いしている事も確かで、楢崎は溜息交じりに後頭部を掻いた。
「なら、田所さんの実力を見たらお前達は納得すんのかよ?」
「はぁ? そりゃ、あの人が店弄るだけで明日爆発的に売れたなら、文句のつけようもないですけどね! そんなスゴ技があるんなら、誰も苦労はしませんよ!」
「まぁ、爆発的に売れるかどうかは分からんけども、実感させる事は出来ると思うぜ。ただ、あの人がやると言ってくれるかどうかは、俺にも断言出来んけどな」
「やるって、何を……?」
「お前達、田所さんの仕事が見たいんだろ?」
「はい……」
「その代わり、それ見て納得したら今後つべこべ言うなよ。それから、田所さんの服装や嗜好について次口に出したら俺が許さん」
「わ、分かりました……」
これ以上変な風に田所さんが悪目立ちすれば、辞めるなんて事も言い出しかねない。楢崎は別にそれを危惧しているわけでもないが、辞めて行く時に必ずそいつらは田所さんの事を理由に辞めて行く。
社長からも少し穏便に、と釘を刺されていた。
「楢崎、帰るわよ」
黒いロング丈のテーラードジャケットの中にシフォン系のフリルの付いた黒いブラウスを着て、三十路を超えているとは思えない程の美脚をミニ丈のフレアスカートから覗かせた田所が事務所から戻って来た。
「田所さん、お願いがあるんですけど……」
「何?」
「一緒に店、弄ってくれません?」
「はぁ? 何言ってんのよ、時間ないでしょうが」
「お願いしますよ。ちょっとこの店、触りたくなっちゃって」
「この後、二店舗もあんのよ? 店のレイアウトなんてしてたら間に合わないわよ」
「後の二店舗は取引先にアポ取ってあるわけじゃないですし、俺が責任もってスケジュールの調整しますから。久しぶりに一緒にやってくんないですか?」
「何よ、響。いつもならあんたの方から急げって言って来るのに。タダじゃやんない」
「たまにはテンさんと現場やりたいなって思ったんですよ……後でケーキ奢ります」
「ったく、いつまで経っても店長気分じゃ困るわよ? 今日だけだからね!」
田所は甘いものに目がない上、心は女性なので可愛い我儘を聞いてやると意外とすんなり大人しくなってくれる。
彼は別に悪人でも何でもなく、自分が傍に置いている人間だけ、選りすぐった人間にしか優しくしないと決めているだけなのだ。
その内の一人である事は、楢崎にとって特別な優越感を齎してくれる。
「あざっす!」
「じゃあ、どうしよっか」
そう言いながら一旦外に出た田所の後ろに付いて行く。
店の外、同線沿いに歩いて店の手前から奥までじっくりと見渡して、田所はもう一度小さく「きたねーな」と顔を顰めた。
そう言う時の声は普段より低くて、ちょっと男っぽい。
「テンさんが一番気になる所から行きましょ」
「そりゃあんた、あのゴッチャリして何売りたいのか分からない中央正面の棚でしょ。それからメインもダサいし、壁面のフェイスも何売りたいのかサッパリ分からんし、どうしてこんなお高いジャケットが店先の低いラックに平然と放置されているのかも全く分からない。そんでラックの高さが右の全面は低いのに左の全面は高過ぎる。つーか、寧ろ良い所がない」
「えーっと、じゃあ……前から順番にお願いしやっす!」
エンジンさえかけてしまえば、後は黙々とやってくれる。
田所は社長が奇才と言うだけあって、店頭展開においては社内で右に出るものはいないとまで言われ、彼が店頭を触って売上が上がらないショップは今まで見た事がない。ただ、田所は自分のポリシーとして「答えを教えない」事にしているらしい。
これがダメ、と言う「弱点を見つけられない」スタッフは自分の部下には要らないとさえ断言してしまうのだ。
「響、髪留め持ってる?」
「ゴムならありますけど」
「貸して」
「はい、これ」
唇にヘアゴムを啄んで、緩くパーマの掛かった長い髪を緩く掻き上げる。
昔から髪を短くした事がないと言う田所の項は、その辺の女の項より綺麗だ。
「響これ、このセットでここのボディに着せて。アクセは任す」
「了解」
「それから、あそこの壁面使って価格戦略のパーカー見せるから、スタッフにストック出すように指示。後、こっちは畳みで良いから誰かにやらせて」
「おっけーっす」
彼の仕事を間近で見る度に、楢崎は前に社長が言っていた事を思い出す。
それは昔社長が田所に聞いた話だった。
仕事をする時に、何を考えているのか? と言う社長の問いに、彼はこう答えた。
「逆算してます」
「逆算?」
「えぇ、このラックに十本掛かるとして、ここで三十万売ろうと思ったらいくらの商品を何本用意すべきなのか……」
勿論その計算は芸術的な絵画のデッサンで、見えてはならないものですけど――。
今、彼の頭の中では計算式が飛び交っている事だろう。
高学歴の田所は女性の様にしなやかな見た目の癖に、徹底したリアリストであり全て逆算思考で計算し尽くしてしまう様な理系で、皆それを知らないが故に社長に媚びて仕事が出来ないオカマくらいにしか思ってないヤツも多い。美しいレイアウトの中に、計算し尽くされたVMDが見る人が見ればすぐに分かる。
ビジュアルマーチャンダイジング。アパレルに置いて、視覚的に購買意欲を促す技術であり、その技術は誰しもが均等に習得できるものではない。
店全体の構築が出来る様になるにはそれ相応の経験と、センス、流行に対する瞬発力、アドリブが効くだけの実力がなければならない。
ボディ一体を上手く着せれるセンスの良いスタッフが、店全体をやると全然ダメな事なんて多々ある。
やっぱ痺れる位カッコいいっすよ、テンさん。
「おーい、店長」
「は、はいっ」
「ちょっとこっち手伝って」
「はいっ」
「目ぇ、かっぽじってよーく見とけよ」
「……うぃっす」
田所がスタッフに嫌われてしまうのは楢崎の中では受け入れがたい事ではあるが、田所に態度を改めろと言うつもりは毛頭なかった。
何故彼がそうであるかを楢崎は知っている。
そして楢崎はその田所の心を守りたいとさえ思っているからだ。
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