episodeー2
翌々日、本社のデスクに珈琲片手にパソコンの画面を開いて楢崎は「キタコレ!」とデカイ独り言を零しガッツポーズした。
「楢崎、うるせぇぞ!」
「あ、すんませんっす」
田所と二人で店内レイアウトを弄ったあの店の翌日の売上が、三十万を超えている。平日に三十万売れるなんて事は、この店じゃ早々ない。
「まぁ、だからと言ってずっと継続出来るわけじゃねぇけども」
店にいるスタッフ達がこれを機に足掻きまくってくれるなら、それだけでも価値がある。
自分達の弱い所を他人のせいにしていては売れるものも売れるはずがないのだ。
楢崎は入社当時から田所を見ているから、自分が店長になった時でさえ田所に幻滅されるのだけは避けたい一心でやって来た。
センスも技量も年長者に追いつけるわけではないけれど、田所の過去の話を知ってしまったから、田所に必要とされる男になりたかった。
「響~」
「あ、はいっ! 何すか? テンさん」
「ちょっとお願い」
「……?」
浮かない顔した田所が事務所の出入り口を顎でしゃくる。
アイスグレーの毛足の長いモヘアのニットに淡いピンクのカシミアストールを肩から巻いて、今年流行のグレンチェックのガウチョパンツを履いた田所は、パンツスタイルの時でも男性を思わせない気配りをしている。
何か人に聞かれては不味い事でも起きたのだろうか、と楢崎は片眉を訝しげに上げて先に出た田所の背中を追い掛けた。
「こんな所に呼び出して、何かトラブルでも起きたんすか?」
田所が入って行ったのは、事務員以外は殆ど出入りしないであろう備品室だ。
埃臭いスチール棚と小窓が一つあるだけのそこは、寒空から漏れる掠れた光が俄かに差し込んでいるだけの薄暗い部屋だった。
「あ、
「天音ちゃんが?」
「あんた、迎えに行ってやってくんない?」
「そりゃいいっすけど……テンさん行かないんすか?」
「家に戻ってメイク落として着替える時間がないのよ……。夕方は社長に呼ばれてるし、遅くなってあの子を駅に一人にさせるわけにも行かないでしょ……」
「分かりました」
「ごめん……こんなプライベートな事、頼んで……」
「何、水臭い事言ってんすか!」
田所が自宅のスペアキーと車の鍵を差し出した。
「勝手に入ってて。仕事終わったら会社から直帰するから」
「了解っす」
朝から個人的な事を田所に頼まれて、満更でも無い楢崎は自分の仕事を極力早めに終わらせ、残業を押し付けられる前にさっさと本社を出た。
一旦本社近くにある田所の自宅へと向かい、車を借りて駅まで走らせる。
夕方から社長室に呼ばれている田所は、多分戦略会議で遅くなるだろう。
それに田所はあんな風だが社長にだけは我儘が言えない。
「あ、楢崎さん」
「天音ちゃん!」
甘栗の様な色した茶髪の可愛い女の子。
楢崎より一つ年下なだけだが、童顔と顎のラインで切り揃えられたボブカットの印象もあって、彼女は凄く幼く見える。
「お久しぶりです」
「よく来たね。ごめん、テンさんまだ仕事で……」
「いえ、私が急に来るって言ったから……楢崎さんにご迷惑掛けちゃって……。私、一人でも平気って言ったんですけど」
「って、え? 一人で来たの?」
「はい」
顔は余り似ていないが、彼女は田所の歳の離れた妹だ。
大学に通う為に家を出て以来田所は実家に戻ってないらしい。
彼の実家からこの街までは新幹線で二時間ほどだが、田所は家の敷居を跨ぐ資格がないと思っている所がある。
二十代も後半になった妹に対して他人の自分を迎えに行かせる等、過保護すぎると思われるかも知れないが、それには理由があった。
「駅まではお手伝いさんに送って貰ったんですけど、後は駅員さんに手伝って貰って……」
「そっか……頑張ったね」
「ふふ、電車に乗るくらい私にだって出来ますってば!」
「そ、そっか……ごめん」
「車椅子に乗ってても、ちゃんと助けてくれる人が沢山いるから平気です」
そう、彼女は下半身が麻痺している為車椅子での生活をしている。
彼女は不運な事故によって陸橋から転落し、今の様な生活を余儀なくされた。
田所はこの歳の離れた身体に不自由を負っている妹を、自分の命よりも大事にしている。今日だって本当は自分が迎えに来たかったはずなのだが、メイクをして女装した男が公衆の面前で妹の車椅子を押す事を本人が良しとしなかったのだろう。
「テンさん帰って来るまでは、俺も一緒にいるから」
「ありがとう、楢崎さん」
田所の車はバックハッチを開けるとスロープが下せる様になっていて、車椅子ごと後部座席に乗り込めるようになっている。
これも車椅子になった妹の為に、時々しか使わないにも関わらず高い金を出して介護用の車を買ったのだ。
「でも何で急に……? 実家で何かあったの?」
「んふ、ちょっとお兄ちゃんに話したい事あって」
「そっか。テンさんも天音ちゃんに会えるの楽しみにしてるから喜ぶよ」
「楢崎さんにも、聞いて欲しい……かな」
「え、俺?」
「ちょっと、話した後のお兄ちゃんが心配って言うか……」
「ま、また親父さんから何か言われたのか?」
「んーん、そうじゃないんだけど……」
田所は今の会社に入る前、実家と揉めて家出同然で出て来ていると聞いている。
父親しかいないらしいが、良い所の嫡男として生まれて、田所の性同一性障害の事で父親とは相容れない関係のまま、現在まで来ているらしい。
昔、天音が黙って兄のいるこの街へ来ようとして、父親から打たれた事があった。
その時、楢崎は初めて田所の過去の話を聞いたのだ。
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