episodeー7
>何よ、忙しいって言ったの、あんたでしょ。
>暇になったんで、何してるかなぁって思って。
>何様よ。
>甘いもの、食べに行きません?
>嫌。
>そう言わずに……
土下座のスタンプを貼る。
暫く経ってから既読が付いて、返信があった。
>買って持って来なさいよ。
>らじゃ。
我儘な彼女のお願いを聞くみたいに、押しに弱い田所を誘うのが結構好きだ。
他の人には絶対折れないのに、自分が言うと何だかんだで折れてくれる所とか、甘いものに釣られてくれる可愛い所とか、多分きっと今頃はスマホの画面の前で不貞腐れているだろう。
「
「おぅ、今度は金払って食いに来いよ」
「わーったわーった」
玄関先まで見送ってくれた生歩は、休み特有の気怠さと十年前より柔らかくなった表情のせいで無駄に色気がある。
「なぁ、
「んあ? 何よ?」
靴を履きながら振り返りもせずに答える。
「あの頃俺は、お前がいつ好きって言うのか、待ってたよ」
聞き間違いかと思う科白に思わず振り返ると、壁に寄り掛かって腕を組んだまま立っている生歩は伏し目がちに口角を上げて笑っていた。
「な……に、それ……?」
「お前はそんなナリの癖に熟考して発酵して腐らせちまうけどさ。相手には伝わってると思うから、案外上手く行くと思うよ?」
「じゃあ、あの時お前も俺の事好きだったって事?」
「さぁ?」
「てめぇ……」
「だって、賞味期限切れたものを開封するバカはいないだろ?」
片眉を上げて意地の悪い笑い方をする生歩はどことなく綺麗で、男の癖に濡れた様な唇だとか、Vネックの襟開きから見える鎖骨が艶めかしいとか、あの頃より全然良い男なのに胸が高鳴る事はない。
生歩の自宅を出てローカル線に乗ってまた一時間。
田所の家の最寄駅近くにある田所が通っているケーキ屋は閉まっていた。
「……年末だって事、忘れてた」
個人営業の店は流石に閉まっている。
だからと言ってコンビニのケーキを持って行くのも、どうなんだと自問自答して他に選択肢を探してみたものの、奇策は思い付かずコンビニの自動ドアの前に立った。
「お、怒られるかなぁ……」
商品陳列棚を眺めながらどれにしようかと悩んでいると、棚の下段にいつもなら絶対に目につかないものが目に入った。
手に取ってパッケージの裏を見てみる。
「牛乳、卵、そんだけっ? マジか……。あ、なるほど蜂蜜とバターね」
独り言を零しながら、全ての材料がコンビニで揃う事を確認して、そこに書いてある材料をカゴに投げ入れ会計を済ませる。
「温めますか?」
「……え、どれを?」
「あ、すいません。癖で……つい……へへっ」
「あぁ、年末までお疲れ様」
ちょっと頭の螺子が緩そうなバイトに労いの言葉を掛けて、田所の自宅へと急いぐ。
>なぁ、ホットケーキってどうやったら上手く出来んの?
生歩にラインしてみた。
>卵白を綿菓子みたいになるまで必死こいて混ぜろ。
>りょ。
インターフォンを鳴らして一階のエントランスの扉を開けて貰い、最上階の田所の部屋の前まで来てコンビニの袋をチラ見した。
懐かしい赤いパッケージのホットケーキミックス。
自分で作った事なんて無いけど、そう言うのもたまにはいいか、なんて思ってしまった。
「遅かったわね」
不機嫌そうな声、よりも不機嫌そうな顔と異様な出で立ちに
「なっ……何でっ!?」
「……何よ」
若い時から短くした事のない綺麗に手入れされた髪は、田所が一番気を遣っている所のハズなのに、目の前にいる田所はショートカットになっていて一見すると男に見える。
「ど、どうしちゃったんすか……? その髪……」
「切っちゃった……」
田所は眉尻を下げて少し悲しげに項に片手を当てて、笑った。
「だ、だから、何でっ!? 長い髪、気に入ってたんでしょ?」
「まぁ、良いから上がってよ。って言うか、何買って来たの? ケーキは?」
「あはは、流石に年末でケーキ屋閉まってて。コンビニケーキよりはこっちの方が楽しいかもなって思って」
買って来たホットケーキミックスの箱を袋から出して見せると「子供か!」と突っ込まれたけど、田所も気を悪くはしていない様だ。
だが、楢崎はホットケーキよりも短くなった田所の髪の方が一大事で、無言で強請る様に田所の顔を見遣る。
もしかして、社長の前で泣いていたのは――――そう言う事だったのか?
無粋な事を脳裏に浮かべて、一瞬浮ついた自分に腹が立った。
「そ、そんなに見ないでよ」
「何で、髪切ったんすか?」
「……父親に会いに行こうと思って」
「お父さんに?」
「
妹の天音の結婚式に参列する事を、直談判しに行くつもりらしい。
髪が長いまま父親に会いに行かないのは、天音の婚約者やその家族、親類の前で女装はしないと言う意思表示の為だと田所は言った。
「凄く、迷ったの。自分のまま、ありのまま、行くべきなんじゃないかって……。私が世間体を気にして彼女作ったりしていたせいで、天音はあんな足になってしまったのに、また偽るのかって……すごく悩んで、どうしようもなくてあんたに会えないかって連絡したら、忙しいとか言うし……」
「……すいません」
ちょっと色々腐ってたもんで。
なんて、言い訳する気にもなれない。
ましてやさっき、社長にフラれたんじゃないかとまで想像した自分はもう自己愛に塗れた下衆だ、と自己嫌悪という名のウイルスが体中を這い廻る。
バカ過ぎる。どうして、ちゃんと会いに行かなかったんだろう。
どうでも良い事で自分が臍を曲げていた時に、この人は女の命である髪を捨ててまで自分を偽ってまで、妹の為に出来る事を探していたと言うのに。
この人が傍にいて欲しいと思った時に傍にいてやれないなんて、本末転倒じゃないか。
「それで、髪を切って男装で行くって決めたんすか……?」
リビングのソファに促す様に田所を座らせて、自分は床に膝を付いた。
少し下がった所から顔を覗く様にして、楢崎は眉間に皺を寄せる。
生まれた時から女である人が髪を切るよりも、女になりたくて堪らない男の体を持った田所のその決断は一晩で下すには大き過ぎたはずだ。
「ショートカットでも女に見える自信はあるのよ?」
「えぇ、似合ってます。可愛いっす」
「でもだって……天音にとっては、私は兄なんだもの。お色直しの時にエスコートして、とか言うし……あの子はこんな私を許してくれてるけど、お姉ちゃんとは呼ばないもの」
兄として、結婚式に出る。
そう決めたのだと、田所はしっかりとした口調でそう言った。
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