episode―8

 楢崎ならさきは縋る様に田所の項に両手を掛けて、少し高い所にある田所の鎖骨に額を当てた。いつもなら髪に触れるはずの手が、肌に触れて息を飲む。

 少し高い位の体温は、多分暖房が効いた部屋のせいだろう。

 昨日してやれなかった事を、する権利をもう一度与えて欲しかった。

 生歩いぶは期限切れのものを開封するヤツなんかいないって言ったけど、一日くらいなら開けてみるヤツだっているだろう。


「凄い、頑張って伸ばしたの……何年も、何年も……」


 田所の声は震えていた。


「うん……」

「毎月一回は美容院に行って、トリートメントして貰ってたのよ」

「うん、凄く綺麗だったよ」


 元から女に生まれて来た人の中には、ズボラで全く気に掛けない人もいるんだろう。

 でも自分が女である事を大事にする彼女は、髪の一本から爪の先まで妥協しない。

 それは少しでも妥協すればただの女装に成り下がると言う田所のプライドで、自分と言う個体の根幹に関わる事だ。

 

「髪型も、ね……色々勉強してね……」

「うん」

「うぅ……寒いよ、スースーする……本当は短いの嫌だ……嫌なの……」


 いつの間にか、いつものように左肩に埋められた田所の顔は見えないけれど、チリチリジワジワと胸を焼く熱を持った雫が分厚いダウンの上から沁みて来る様だ。

 短くなった田所の髪の先が、楢崎の耳朶を擽る様に揺れた。

 生歩に男として好きなのか? 女として認識しているのか? そう問われた時、楢崎はこの人を男だと思った事がないな、と気付いた。

 世界がこの人を男だと指差して糾弾したとしても、自分にとって田所天象たどころてんしょうと言う人はとても繊細で傷つきやすい女の人そのものだ。


「ねぇテンさん、俺ね……テンさんの事、女の人だってちゃんと思ってるよ。髪が短くなっても、体が俺と同じでも、俺にとってテンさんは女の人なんだ」

「ぐすっ……ひ、びき……」

「俺はテンさんの事が……」


 言ってしまって良いだろうか。

 生歩は案外上手く行くなんて簡単に言っていたけれど、もしここでフラれたらと臆病風が噴き上がる。

 イタリアへ行くと言った生歩に好きだと言えなかったのは、友達と言う居場所を失うのが怖かったから。

 今躊躇っているのは、部下と言う居場所を失う事になるかもしれないと言う危機感に苛まれるから。


「響……?」


 田所の短くなった襟足の髪を、細い項を、落ち着かない心を閉じ込める様に引き寄せた。田所がいつもつけている香水のウォーターリリーの様な鼻腔を抜ける水っぽく甘い芳香が首筋から香る。

 顔を上げた楢崎は、言う事は決まっているのに次の言葉を選ぶような素振りで開けない下唇を噛んだ。


「どうしたのよ? あんたの方が泣きそうね」


 本当に、泣きそうだ。情けないが、怖い。

 でもそれでも、もうこの人を一人で泣かせるのは嫌だ。

 社長の前で泣かせるのはもっと嫌だ。


「お、俺は……テンさんが男でも、女でも、本当はどっちでも良いんだ」


 ただ好きと言えば良いのに、その言葉を避ける様にして楢崎は喋り出してしまった。失敗フラグだと気付いた所で、口から零れた言葉は取り返せない。


「テンさんからしてみたら、そんなのふざけんなって話かもしれないんだけど……。俺は……俺はね……」


 あぁ、もう……。

 雄弁じゃないのに、喋り出してどうすんだ。

 

「あんたが世界中の人から非難されても、後ろ指差されても、俺はテンさんの味方だし、えっと……それで……」

「ぷっ……何よ、それ」

「ごめん……上手く言えないや……」


 ヘタレ! 意気地なし! 唐変木! 死ねっ!!

 自虐の言葉を脳裏で叫んだところで、たった二文字の好きと言う言葉が言えない弱さは今更拭えない。


「そう言えば昔さ、社長に言われたことあんのよね」

「え?」

「お前は動物のてんみたいだな、って」

「テン?」

「そう、知ってる? ちょっとぽやんとした狸なのか鼬なのか分からない様な動物」

「あぁ……何となく……?」


 唐突な会話の流れに、楢崎は呆気に取られて床に膝を付いたまま田所を見上げる。


「なんか貂ってね、二人で狩りに行ってはいけないって言う昔話があるらしいの」

「何で……?」

「毛皮が高過ぎて二人で行くと狩人が殺し合いになるから」

「あぁ……」

「その話をしてくれた時、社長がさ。貂はただ生まれて来ただけなのに周りで勝手に争われて、いい迷惑だろうなって……。社長は私の家の事情とか諸々知ってるから、私の事を貂みたいだって言いたかったんだろうけど、その時社長に言われたのよ」

「何て?」

「殺すのが惜しいと思わせる女になれって」


 まだ濡れた眸を綻ばせる様に眦を下げた田所に視線を合されて、一瞬ドクッと心臓が鳴る。

 この人が良い女で在ろうとするのは全てあの阿久津清人あくつきよひとの為。

 一代で自分が立ち上げた会社を全国区へと成長させた挙句、日本企業の五本の指と言われているアパレル関連企業にも一目置かれている男、阿久津清人。

 そんな男を追い掛けるこの人に、自分みたいなヘタレを選んで貰えるはずがない。


 ふと気付いたかのように無言で立ち上がった田所は、キッチンの方へと向かって歩き楢崎に目線で買って来たものを寄越せ、と訴えた。

 楢崎は後を追ってシンクの前に立っている田所に、コンビニ袋から買ってみたモノを取り出し、渡す。


「社長と出会った頃、私まだ大学生だったの」


 徐にホットケーキを作る準備をしながら、昔話を始めた田所の少し俯いた故に骨の浮き出た項に目を惹かれた。

 いつもなら下した髪に隠れているその白い項は、隠れていなければならない恥部が明け透けにされているかのような、淫奔な香りを漂わせる。


 僅かにまた申し訳ない気持ちになって、田所の隣に立ってホットケーキミックスを掻き混ぜる田所の指先を目で追う。

 

 天音あまねの事故があった数日後、自暴自棄になった田所が事故現場の陸橋で声を掛けられたのが阿久津だった。その頃既に企業していた阿久津は、陸橋から飛び降りるのではいかと思って田所に声を掛けたと言ったそうだ。


「私も若かったし自棄もいい所で、社長に体売ったのよ」

「は?」

「色んな事を忘れてしまいたくて、死なせてくれないなら抱いてくれって。別に死ぬつもりはなかったんだけど、勘違いされてたから利用してやれって思って……」

「それで、抱いて……貰ったんすか……?」

「ホテルに行って、シャワーを浴びて、バスルームから出て来たら」

「……出て来たら?」

「説教された」

「え?」

「何か色々言われたけど、長すぎてもう覚えてない。無性に腹が立って自分の事もぶちまけちゃって、だけどそれが縁で今の会社に入って、さっきの事言われたの」

「それで好きになったんすか……社長の事」

「はぁ?」

「だって、テンさんが好きなのは社長なんでしょう?」


 あぁ、ほらまた失敗フラグ自分で立ててどうすんだ。


「バッカじゃないの? あんな蟒蛇うわばみみたいな人好きになったら、こっちが飲まれて死んじゃうわよ」

「え、蟒蛇? だって……」

「今でこそあんなに穏やかな中年になっちゃったけど、若い時はもっとギラギラしてて、鬼みたいな人だったんだから! 入社して現場研修終わったら、いきなりアメリカに飛ばされたのよ!? 意味分かんなくない?」


 楢崎が入社してすぐの頃、田所は渡米していたと噂で聞いた事があった。


「あの人はねぇ、人材こそが金を産むと思っている守銭奴なんだから! だから、使えるヤツは使いこまなきゃ損だと思ってんのよっ!」


 グリグリとボールの中身を掻き混ぜる田所の鼻息が荒い。


「ど、どうどう、落ち着いて……テンさん……」

「つか、響っ! フライパン取って!」

「あ、はい……」

「アメリカ行ってVMDの専属コーチャーの元で二年勉強して、戻って来てからは新規店のオープンに全国どこでも駆り出されて、その数年で落ち込んでる暇もなくなった。感謝はしてるけど、好きになるなんてあり得ないわ。いつか、吠え面かかせてやろうとは思ってるけど」

「でもテンさんは社長にだけは逆らわないじゃないですか……」

「だってあの人、ムカつくくらい間違わないもの」

「間違わない?」

「間違うって事は結果であって、私がどんなに逆算してリスクを弾き出しても、途中軌道修正が尋常じゃなく早いから、結果的に利益が生まれている。だから、反論も抵抗も止めたのよ。時間の無駄だって分かったから」

  

 フライパンを熱して一度布巾の上で余熱を取ってから、乳白色の種を流し込む。 

 少し黄味がかった白い液体が指先に付いて、田所はそれを舌で舐め取った。

 またいらぬ妄想をしてしまった楢崎は、フライパンの熱に焼かれてポツポツと空気を弾かせて穴の開くホットケーキの表面をジッと見ていた。


 じゃあ、何であの時泣いていたんだろう――――。 


「それに、私は誰の事も好きにならない。あんたも知ってるでしょ」


 漂っている甘いバニラの香りと、無駄に上品な田所の笑顔は、その科白に余りにも似合わなくて、楢崎はただ言葉を失ってその場に立ち尽くした。

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