episodeー9
出来上がったホットケーキに蜂蜜とバター、それから田所の実家に出入りしているお手伝いさんが送ってくれた林檎のジャムを添えて二人して並んで食べた。
誰も好きにならない田所の事を、ずっと前から知っていたはずなのに
甘いはずのホットケーキが粉っぽく何の味わいも感じられず、嚥下するのが苦しい程勝手に咽喉が干乾びて行く。
お手伝いさんの林檎のジャムだけが、異様に甘い糖度を舌に残していた。
*
田所は大晦日に実家へ帰ると言った。
元旦を迎えた午前零時丁度に送ったラインには、すぐに既読は付かなかった。
元旦の昼頃、正月仕様のスタンプがペタッと返って来ただけで、父親との話し合いが難航しているのだろうかと、気を揉んでしまう。
初詣に行かないか? と
「……えーっと、誰?」
生歩が知らない男を一人連れて来ていた。
仕立ての良さそうな美光沢のある黒いウールコートを着ているその男は、どう見ても年上だし、どう見ても生歩と友達と言う雰囲気でも無い。
「初めまして、
「ど、どうも……」
展開に付いて行けない楢崎の事を構うつもりはないらしい生歩は、さっさと境内への階段を登ろうとしている。
「待ってよ、生歩。ちゃんと彼の事紹介してくれないと」
「高校の時の友達。
「ちょっ! 生歩、おまっ!」
「何? 何か間違ってた?」
階段に片足を掛けたまま相変わらずの無表情で振り返った生歩は、ネイビーのダッフルコートのポケットに両手を突っ込んだまま首を傾げた。
「あぁ、大丈夫。この人照れてるだけだから」
黒須と言う男はそう言って「宜しく」と余裕の笑みを向けている。
「はぁ? 誰が照れてっ……」
「俺をどう説明しよっかなぁーとか、考えてたんでしょ?」
「うるっさいな! 黒須さんが勝手に付いて来たんでしょ!」
「一緒に行ってもいい? って聞いたら、良いよって言ったのは生歩じゃん」
楢崎は黒須と生歩のこなれたやり取りに、微妙な違和感を感じてそれを黙って見ていた。楢崎の中では落ち着いていてクールな生歩が掌で転がされている様にしか見えなくて、その違和感が二人の仲を友達とも先輩後輩とも違うのだと教えてくれる。
「え、何? もしかして黒須さんって生歩の……」
「ちっ、違う! 仕事の、関係の人……だよ」
「えー、そんな全力で否定しなくても良いと思うんだけどなぁ」
「だって、違うし……」
「ふぅん?」
隣の芝生は青々として、真冬の寒気の中でも煌めいている。
違うと言った生歩の顔が、小学生みたいに真っ赤になっているのを見れば違わないのだろうと察するしかない。
あの生歩が男と付き合っているのか、と楢崎はかつての自分を振り返って失笑した。告白さえ出来なかった自分は黒須に嫉妬するのも烏滸がましいけれど、目の前にいる長身の年上の男の前で調子を狂わされている生歩は何だか可愛らしくて、表情の乏しい生歩にこんな顔をさせる黒須と言う男を少し羨ましく思う。
神様にはお願い事じゃ無くてお礼を述べるものだ、と誰かに聞いた事がある。
それでも楢崎は、田所が天音の結婚式に参列出来るようにと手を合わせた。
神頼みだろうと何であろうと、縋れるものには縋っておきたい気分だった。
自分ではそう長い時間黙祷していたつもりもなかったけれど、瞼を開けると呆然とこっちを見る生歩の視線とぶつかる。
「お前……懇願し過ぎじゃね?」
「……うっせーな」
「響、神様に頼んでも、神様は告白してくれないぜ?」
「黙ってろ!」
「お、楢崎君には好きな人がいるんだ?」
「えっ? あ、いや……」
「上司なんだって。な? 響」
「生歩、黙ってろ!」
「へぇ……社内恋愛かぁ」
「いやあの、黒須さん……」
店の商売繁盛の熊手を買うと言う生歩に付き合い、三人で神社から歩いて帰る。
小さな町の小さな神社には、見知った顔の御近所さんがチラホラ初詣に来ていて、周りに聞こえやしないかと楢崎は声を落とした。
「今日はその女装男子の上司は何してんのさ?」
「生歩ッ!」
「へぇ……女装男子なんだ? 可愛い?」
余りにも黒須が普通に聞いて来るので、楢崎は呆気に取られた。
「響、黒須さんはそんな事で偏見持つような人じゃないから、安心しろよ」
「別に……」
「まぁ、楢崎君が気を遣うのも無理はないかもだけど、俺はそう言うのはあんまり気にしないよ。生歩もそれが分かってるから言っただけだし、許してあげて」
「あ……はい、すいません……。別に黒須さんを疑ったわけじゃないんですけど……」
いや、それは嘘だな。疑ったんだ。
結局は相手がどう反応するのか疑って、出来るだけ田所を矢面に立たせたくない、なんて思いながら自分が嫌な思いをしたくなかっただけだ。
正月早々、自分のヘタレ具合に嫌気が差す。
帰りに生歩の店に寄った楢崎は、温かい珈琲を淹れて貰って誰もいない店内で黒須と三人で話すと言う、変な状況に陥っていた。
「なるほど、じゃあ今その上司さんは実家でお父さんを説得中なわけだ」
「ですね……。連絡もないし、あんまり上手く行ってないのかも知れません」
今日会ったばかりの男に、どうしてこんな話までしているんだろう。
この黒須と言う男には不思議な雰囲気があって、気が付くと喋らされている。
「で、響はいつ告白すんの?」
「……いつって……わ、わかんねぇよ、そんなの……」
「え、何で好きなのに言わないの?」
「だから、言ったじゃない、黒須さん。響はヘタレなんだってば」
「生歩、うるせぇよ! ヘタレ連呼すんな!」
「いやでもだって、楢崎君はその人の事いつから好きなの?」
「…………ご、五年前……くらい」
「え、聖人君子みたいな子だな、君。俺だったら五年も待てない。すぐ言ってすぐ落とす」
「黒須さん、皆が皆、黒須さんみたいにメンタル強くないんだってば……」
確かに黒須は失敗なんてした事がない上等な男に見えるし、メンタルも強そうだ。
自信に満ちた姿勢の良い体躯、仕事柄なのか饒舌で滑らかな喋り方、男らしく清々しい見た目の割に、人懐っこい敷居の低さは人に好かれそうでもある。
見た目を飾りたてて威嚇している様な自分とは、根本的な所が違うと思い知らされて地味に沈んで行くのが分かった。
「でも楢崎君の話聞いてたらその上司さんも君も、自分が幸せになろうとしないのはちょっと狡いかもね」
「狡い……?」
「うん、だって、楢崎君を心配してる生歩とか君の家族とか、生歩を介して知り合った俺も、君の幸せを望んでいる人はいつまでたっても朗報が聞けないんだからさ」
「お、俺は……あの人が幸せならそれで……」
「自分自身を幸せに出来ない奴が、誰かを幸せにしたいなんて詭弁だよ」
唐突に言い切られた黒須のその言葉が、楢崎の弱い心に深く刺さった。
「黒須さん、もうちょい優しく言ってあげて」
「あぁ、そっか……ごめん、な? 別に苛めたい訳じゃないんだ……」
「いえ……」
「例えばさ、自分が作った事のない料理を人に教えるなんて無理だろ? 知識があって、こうすれば良いって分かってても、作った事ないと自信持って言えないじゃん」
「え? あ、はい……」
「俺は幸せってのも同じだと思ってんだよね。自分がどうやって勝ち取って来たか知ってないと、誰かを幸せにしてやるとか、難しいと思うんだよ。こうすれば良いなんて簡単に言えるけど、自分に出来ない事は証明するのも難しいだろ?」
「そう……ですね……」
「家庭料理に千差万別の味があるのと同じで、幸せってのも人それぞれだろうけどさ……自分が幸せになろうとしなきゃ、他人を幸せにするのはもっと難しいと思う。それに、生歩がここまで気に掛ける楢崎君には幸せになって欲しいと俺も思うし。君の幸せは君の周りの幸せと同等の価値がある事を、君はすっかり忘れてる」
その上司さんもね、と付け加えた黒須は泣きたくなる程優しい笑みでこっちを見ている。
まるで、幸せになるのをサボっているかの様な言われ様だ。
でも的を射ている黒須の言葉は、痛みを伴いながらも頭ではちゃんと理解出来たし、頭が理解したものがストンと腹に落ちて来た感じがした。
田所が幸せに成れたらそれで良い。そう思っているのは事実だ。
でも黒須のその言葉は妙に説得力があって、まるで自分に力がないから田所を掬い上げる事が出来てないと言う事を糾弾されている様にも聞こえる。
田所にしたってそうだ。
収入の殆どを
でもそれで天音は幸せだろうか――――?
田所本人は人に好かれようとはしていないし、去年の秋にやったジェンダーレスのショーの時も、戦う場所だと言いながらそれは自分の為では無かったと思う。
その他大勢の性同一性障害の人や同性愛者への偏見を緩和させる為のプロジェクトとして、会社のイメージを払拭する為にも自分が一肌脱がなければならないと言う使命感はあっても、自分が楽になる為では決してなかった。
兄が自分の幸せを放棄して尽くしてくれたとして、妹は幸せと言えるのか?
「響はさ、もうちょっと我儘になって良いんじゃないの? 俺はお前がフラれたら慰める位の情はあるし、恋人が出来たって言われたら嬉しいと思う位の情もあるよ」
生歩はそう言うと、照れ臭かったのか片手で口元を隠してそっぽを向いた。
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