episode―10

 田所が自分の体を女性へと変えないのは、現実的な金銭問題の為だった。

 天音の治療費や、天音の為の介護用の車、田所の収入は天音の生活を基準に考えられていて、聞きかじった知識で言えば性転換治療には十年の年月と三百万程の治療費が必要なのだと言う。

 車一台くらいの金額と十年と言う歳月はそう無謀な金額では無い様にも聞こえる。

 それでも、治療したからと言って望んだ体に成れるとは分からず、ホルモン注射での副作用や世間からのバッシング、無勢で戦わなければならないリスクを十年も背負う事はとても簡単な事ではないだろう。


 だが、そもそも田所は自分の体に使う治療費など計算には入れてない。

 願望はあるが、天音以上に優先されるものはないと言う事が見て取れる。

 そんな田所からはついぞ『恋』の話を聞いた事がなかった。


 楢崎が田所の好きな人が社長だと思っていたのは、社長の前で見せる態度や絶対服従の姿勢、何より自分でさえ知らない田所の事情を知っていそうな社長の素振りが、二人の関係を経営者と従業員を超えた、特別な物に見せていたからだ。


 実家から帰ってきているであろう田所からはラインの一つも来る事無く、沈黙を破る上手い言葉が出て来ない楢崎は、そう簡単に田所の父親が折れてくれるような人柄でない事も察していて、余計にこちらから不躾に「どうでしたか?」等と聞く気にはなれなかった。


 正月休みが明けて仕事初めに出て来た田所を見て、会社の人間は無遠慮に舐める様な視線で追い掛けた。

 髪が短くなったのもあるだろうが、実家から帰って来た田所は口元に大きな痣を作って帰って来たからだ。肌理の細かい白い肌に痛々しく残った柘榴の様な色の痣は、降り積もった雪の上に首から落ちた椿の花の様に鮮やかに目立つ。

 その上、ビジネスマンらしく男物のスーツを着て出社している。

 流石に楢崎もそれには度肝を抜かれた。

 ショーや社長命令で苦言を呈され男装しているのを何度か見た事ある。

 阿久津は理解のある社長だが、場所や相手によってそれが許されない時もあった。

 

「なぁ、あれどうしたよ?」

「さぁ? つーか、ザマァって感じだよね。顔のアレ、絶対殴られてるでしょ」

「彼氏にでも振られたんじゃね?」

「いっつも人の事小馬鹿にしてるからいい気味よ。ちょっと顔が良くて社長の覚えが良いってだけであのポジなんだから、たまには良い薬になるんじゃね?」


 事務所での聞えよがしな悪口も、田所はいつものように聞こえない振りを決め込んでいる。だが楢崎にはそれがいつもの飄々として賺した顔ではなく、無愛想に居心地悪そうな顔をしている様に見えた。


「楢崎、行くぞ!」


 唐突に呼ばれて呆気に取られたのは、楢崎だけでは無かった。

 事務所にいた全員が、その一言に絶句し振り返る。


「……あ、はい」


 呆けた様に返事を返して、痛々しい視線を潜って事務所を出る。

 窮屈そうにネクタイの結び目を触る田所はエレベーターの中でも喋る事はなく、楢崎はついさっき感じた違和感を気のせいかも知れないと反芻した。


 田所は歩きながら矢継早に今日の予定を喋り出す。


「今日は新年の挨拶がてら、取引先に今後お前が担当すると言う事を引継ぎする。駅周辺から網羅して、来週は北海道から順に南下するからそのつもりでいろ。泊まりになるから、土日の予定は入れるな」

「あ、はい……」

「お前もずっと一緒に廻ってたから、大方問題ないだろうが……」

「えぇ……」


 何だか、別人と歩いている様だった。

 目の前にいるこの綺麗な男は、一体誰だろう。


「俺はこの一月の決算が終わったら、退社する。しっかりやれよ、楢崎」


 耳が壊れたのだと思った。

 言われている事の意味が分からなくて、足を前に出す事さえ記憶から飛んだ様に動けなくなってしまった。


「何している、早く来い!」

「……ねぇ、テンさん……何でそんな喋り方なんすか……? 辞めるって、何? 俺、何も聞いてないっす……」


 泣いてはいけない。でも目の前が滲んでしまいそうなのを堪えると、口元に力が入ってそれ以上の言葉は零せない。


「言葉通りだ。決算が終わったら、俺はこの会社辞めて実家を継ぐことになった。言わなかったのは悪かったが、もう決まった事だ」


 行くぞ、と冷たくあしらうかのように身を翻した田所の背中は、男のものだ。

 いつものように甘いもので釣って、そこんとこ詳しく、なんておどけて言える様子でも無い。私では無くと言う一人称を使い、細身の小洒落たスーツを着て姿勢良く歩いている目の前の男は、きっと誰から見ても普通のサラリーマンだ。

 遠くなって行く田所の背中を追い掛け、必死になって左肩に手を伸ばした。


「な、何があったんですか……? お父さんと……」

「楢崎、時間がない。後にしろ」

「後になんて出来るわけないでしょう? 今、すぐに説明して下さい!」

「楢崎ッ!」


 今まで聞いた事のない低い声で怒鳴られて、楢崎はビクリと肩を震わせた。


「今は仕事中だ。プライベートな事をお前に話すつもりはない。次の電車に乗れなかったら、今日予定している最後の店舗は回れない。そうすれば明日からの仕事が全てズレる。分かるな」

「……はい」

「感情的に仕事をするな。冷静に現実的になれ、楢崎。お前の弱い所は、そう言う所だぞ」


 分かり切った事を、当たり前に上司のような口ぶりで窘められて、楢崎は拳を握って耐えるしかなかった。

 他にどう言えば良い。


 あの時、好きと言えていたら何かが変わっていたのだろうか――――?

 

 賞味期限が過ぎれば、こんなにも目も当てられない現実となって異臭を放つ。

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