episode―12

 楢崎ならさきは大きく息を吸って、腹の中に溜まった淀みが全てが出て行く程の息を吐いた。

 良く晴れた土曜日の朝、身支度をして自宅の玄関先でアーミーブーツの靴紐を結ぶ手が震えてしまう。

 別に寒いからと言うわけじゃない。

 これから自分がしようとしている事を想像するだけで、口から心臓が飛び出て来そうで吐き気さえ覚える。


 浅田が帰った後、田所を今の会社に留める方法を一晩中思案した。

 天音あまねは兄が結婚式に出る事と、兄が兄の望むままに生きていく道を両方取りたいと望んでいる。その為には田所が会社を辞めて男として生きていくと言う事は、望まない事実であり、それを阻止すると言うのが今回の楢崎の役目だ。

 浅田が田所の父親を説得できるかどうかはさておき、これだけ困難な事案を更に結果を求めて妥協しない姿勢は「似たもの兄妹」と言わざるを得ないのかも知れないが、早々に妥協した兄の事を振り返れば、妹の方が一枚上手なのかも知れない。


 逃亡と反故を阻止する為に田所にはアポを取っていない。

 逃げられる可能性を鑑みて、特攻するのが最善策だと言う結論に至った。

 頭の良いあの人の事だから、事態を想像し逆算し、不味い事になると思えば早々に雲隠れする事など想像に容易かった。

 その位の事が分かる程度には、楢崎も付き合いは長い。


 これまでの田所の生活を元に考えれば、土曜のこの時間ならまだ寝ているはずだ。

 

 田所の部屋の前でドアスコープを指で潰してインターフォンを押した。

 悪徳な商売人みたいだ、と自分のしている行動に呆れそうになる。でも一晩考えて部屋に押し入るには、これしか方法がないと思ったのだ。


「はーい? どちら様……」

「宅配便です」


 ベタ過ぎるけれど、楢崎は元々策を弄するのには向いていない。


「……」


 不審に思っているのが伺える間があった。

 それでもガチャンと言う鍵を開ける音が聞こえて、その瞬間に楢崎はアーミーブーツの靴先を玄関の隙間に突っ込む。


「なっ……」

「開けて下さい」

「楢崎っ!? な、何してっ……」

「部屋に入れて下さい」

「嫌に決まってる!」

「もし入れてくれないのなら、このまま田所家に行きます」

「はぁ? 何言って……」

「昨日うちに浅田あさださんが来ました。その時に実家の住所も伺ったので、開けてくれないならそっち行きます」


 浅田の名前と実家の住所と言う単語を聞いて、実行可能だと判断した田所は「分かった」と小さく零して、内鍵を開け中へ入れてくれた。

 とは言え、楢崎にしてみたらここからが本番だった。


「何しに来た……」

「上司に相談に」

「相談?」


 中に入れてはくれたが、玄関から先へと入れる様子を見せない田所は寝起きを物語る部屋着でその場に仁王立ちになり、寝癖の付いた髪を掻いた。


「俺、会社辞めようと思います」

「はぁああ!?」

「好きな人が会社辞めて実家帰るらしいので、俺、今の会社にいる意味ないんです」

「何、バカな事言って……それじゃ、誰がわ、俺の後釜になるって……」


 驚いて私と言い掛けた田所は、返す言葉よりも後から理解が追い付いて来たらしい。

 楢崎が吐いた言葉の意味をようやく理解し、「ん?」と片眉を顰めた。


「今なんて……?」

「好きな人がいない会社に用はないって言ってんですよ」

「バッカ! そんなの気の迷いよ! 男がそんなんで会社辞めてどうすんの!」

「バカで良いです。あんたのいない事務所であんたの事ばっかり考えて、あんたのしてきた仕事をやる苦痛に比べたら、新し職場で新しい事した方がよっぽどマシです」


 楢崎にとってこれは賭けだった。

 田所を理由に会社を辞めると言えば、少なくとも田所は一度は自分を止めるだろう事は推測出来たし、その上で辞めないで欲しいと伝えるチャンスが欲しかった。


「そんな吐いて捨てられる様な理由では認められん。仕事を何だと思っている。失恋くらいでお前のキャリアは捨てられるって言うのか?」


 ワザとらしい男言葉が演技に見えてしょうがない。

 自分は怯んでいないと誇張表現されている様なそれは、楢崎には動揺している様にしか見えなかった。


「大事ですよ。何年、あんたの尻拭いして来たと思ってんすか。大体、スタッフに好かれようとしない上司の元で、俺がどれだけ苦労させられたかあんたに分かるって言うんですか? それとも、出来の悪い部下から離れられて、清々してますか?」

「何言ってんだ! お前を上に上げる為に俺は社長に頼んで……」

「俺にとって仕事のキャリアよりも大事に出来るとしたら、あんたしかいねぇんだ!」


 言った! 言ってやった! くそ、震える。


「あんたはそうやって自分の守りたいもんの為に自分を犠牲にして自己満足してれば良いだろうけど、俺はそんなあんたを手も足も出ない所で眺めてるなんて嫌なんだよ! 自分の好きな人が犠牲になって不幸になって行くのを黙って見てろって言う方が酷い話だろ!」

「じゃあ、どうすれば良いって言うのよ! 天音に結婚するなって? 父親に会社潰せって言えばいいのっ!? 私に出来る事があるなら、してやりたいと思うのがそんなにいけない事なのっ!?」

「ちげぇよ!」

「何が違うのよ!」

「そうやって、自分一人が盾になれば良いみたいなやり方……見てていたたまれねぇんだよ……。俺ってそんなに頼りないですか? 相談も出来ないくらい? 俺はあんたが望めば何でも捨てられるよ。その位、あんたの事が大事で、俺の世界はあんた中心に回ってる」

「言ったでしょ……私は誰も好きにならないわ……。仕事の件はもう一度冷静に話し合いましょう」

「話す事なんかありませんよ」

「楢崎っ!」

「週明けに辞表出します。好きになってすみませんでした。あんたが人に好かれたくないの、知ってたのに……それじゃ……」


 嫌われても良い。

 いや、嫌われる覚悟じゃないとこの人を留める事なんて出来ない。

 楢崎が吐き気を催す程覚悟したのはこの為だった。

 田所を理由に辞めると言えば、傷つける事なんて分かり切っていた。それを敢えてやって見せて、フラれる覚悟でここへ来た。

 勝手にしろ、と言えない田所の情に賭けてみたのだ。

 自分を会社に残そうと思えば、田所は会社を辞められなくなる。会社を辞めれば、楢崎が退社する事に目を瞑らなければならない。

 今、相当な葛藤が田所を襲っている事だろう。

 もうこれは説得と言うより恐喝に近い事も楢崎には分かっていた。

 だからこそ、嫌われてでもやってのけなきゃならないと腹をくくった。


 自分を犠牲にして――なんて、人に言えた話じゃない事も分かっている。

 黒須が言っていた、人を幸せにする権利を自分はまだ持たないのかも知れない。


 玄関を出てしばらく動けずにいた楢崎は、扉に預けていた背中を起こして、ゆっくりと歩き出した。

 これで終わりじゃない。あの人が会社に残ると言ってくれるまで、あの手この手で彼を苦しめなければならない。

 ただ、残ってくれと追い縋るだけでは決して残ってはくれない事位分かっている。

 でもそれが田所の為なのだから、天音が言う様に自分にしか出来ない仕事なのかも知れない。


「ははっ……フラれたぁ――――……」


 胸が痛い。鼻の奥が痛い。

 あの人しか見えない世界が滲んで行く。

 冷たい風のせいにするには、今日は天気が良すぎる。

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