episode―11
取り付く島がないとはこの事だろう。
憑き物でも取れたかのように別人格のまま仕事をする田所とは、仕事初めの日以来仕事の話しかしていない。
仕事が終わればお互い自宅に帰って、無駄に連絡を取り合う事もなくなった。
甘いもの食べに行きませんか、なんて言える様なフランクさは田所にはもうどこにも無くて、東日本代表を務める仕事の出来る冷徹な男だけが田所の実家から帰って来た様だった。
本来なら同じ人間の中に、
それでも見惚れてしまう。
パソコンの画面を食い入るように見入るその横顔に、口淋しそうに片手で唇を弄る癖に、伏した瞼から伸びる長い睫毛の影に――。
「いや、最初から男だったんだっけ……」
だから女になろうと必死だったんだっけ。
なりたくて仕方ないものを捨てて、そうやって男として生きていくのはやっぱり
事務所に残った田所の姿を遠くから眺めて「お先です」と声を掛け、自宅に戻る。
来週から出張続きで、土日の内に冷蔵庫を空にしておかねばならない。
買い物もせずに帰宅すると、自宅の前に見知らぬ男が立っている。
「あ……」
短くそう声を上げた男はペコリと頭を下げた。
二十代前半の若い男だ。
どっかのスタッフではない。見覚えがない。
記憶を辿りつつも、何の用事か分からないその男に「うちに何か?」と問いかける。
「と、突然すみません。ぼ、僕は……
あぁ、と思い当たったが、その浅田が自分に何の用事があって自宅まで来たのか見当も付かない。
この寒い中、一体いつからそこで待っていたのか。
浅田の鼻先は真っ赤になっていて、いたたまれずに楢崎は中へ入れた。
「良くここが分かりましたね」
「あ、天音に教えて貰って……一緒に行くと言われたんですけど、あっちでは今日も雪が降っていて、外に出るのは危なかったので僕一人で来ました」
「あぁ……そうですか……」
珈琲を淹れて目の前においてやると、小さく正座して俯いている浅田は言葉なく会釈して俯いた。
体型は普通の成人男子だが、愛くるしい丸みのある眸の形や童顔も手伝って、優しい印象のある男だった。
多分、天音の婚約者だと言われなければ未成年と言われても信じたかもしれない。
「それで、俺に何か御用があって来られたんでしょう?」
浅田に対面するかのように向かいに腰を下ろした楢崎は、愛用のマグカップを片手に白々しく話を切り出した。
楢崎からしてみたら、天音の婚約者が田所の所では無く自分の所に来た時点で天音の思惑が絡んでいるのだろうと察していたからだ。
自分に何か頼もうとしている事くらいは、この萎縮して話辛そうな態度を見れば分かる。
「楢崎さんは
「いいえ、聞いてませんよ。本人が言う気がないみたいだから。仕事辞めて実家継ぐって言うのは聞いてますけど……」
「ぼ、僕達が結婚式に出て欲しいとお願いしたばっかりに、お義父さんは天象さんに条件を出したんです」
「ちょっとストップ、浅田さん。それ、俺に話して良いわけ? 俺は部外者で、天音ちゃんがどう言うつもりでここを教えたか分からないけど、テンさんはそれを望んではいないと思うよ?」
「あ、天音が……楢崎さんしかいないって言うんです……」
「何が?」
「お兄ちゃんを助けてあげられるのは、楢崎さんしかいないって……泣くんです」
浅田は自分の不甲斐なさを噛み締めるかのように、正座した膝頭の上で握りしめた両の拳を震わせる。
自分を頼ってくれた天音には申し訳ないが、楢崎は自分に出来る事が無い様に思えて、素直に話を聞く気にはなれなかった。だが、寒い中楢崎の帰りを玄関先で待っていた浅田は、真摯な眸で真っ直ぐに楢崎を見て「聞いて下さい」と言った。
その眸は甘えているわけでもなく、切羽詰まっているわけでもない。
微動だにすれば食って掛かられるのではないかと言う程の熱を孕んでいる。
「……分かりました。聞くだけ、聞きます」
「あ、ありがとうございますっ!」
浅田の話は楢崎の予想の斜め上を良く展開を見せた。
田所の父親が出した条件が実家を継ぐ事なのだろうと言う予想は付いていた。
そして、それに輪をかけて男として振る舞う事もその条件に含まれているであろう事も。
「僕の両親は天音との結婚を田所グループを継ぐと言う条件の元に許してくれました」
「田所グループ?」
「天音の実家は地元じゃ有名な企業です。元は小さな建設会社らしいですけど会社を大きくしたのは現社長である天音のお義父さんで、天象さんは田所グループを継ぐただ一人の後継ぎだったはずなんです」
良い所の生まれだと言う話は噂で聞いていたけど、実家の話を好まない田所に詳しい事を聞いた事がなかった楢崎は、そんな事情があったなんて全く知らなかった。
「足の不自由な天音との結婚をそんな形で合意して貰うのは僕としては納得いきませんでしたが、どんな形でも天音と結婚出来るならそれで良かったと言うのも事実です。僕の両親が田所グループの財力を当てにしていると言うのも分かっていましたが、天音はそれでも良いと言ってくれていました」
「でもそれじゃあ、テンさんが実家を継ぐのはお門違いじゃないのか?」
「お義父さんは僕の両親がそんな事を言っているなんて知らないので、天象さんが男性として会社を継ぐなら結婚式に出てもいいと仰って、でもそうなれば僕は田所グループを継げなくなる。天音と二人で頭を悩ませていた時、その話を天象さんに聞かれてしまって……」
「あの人、相当怒ったんじゃないの?」
「首絞められました」
「ははっ……」
余りにも予想が付き過ぎて、乾いた笑いしか出て来なかった。
自分の命より大事な天音と結婚する男が、自分の実家の財産目当てではないかと疑っていた兄だ。そんな話を聞けば、食って掛かるに決まっている。
「あんまり本気で締められるもので、思わず拳を振り上げちゃって……」
「……もしかして、あのテンさんの顔の痣って浅田さんが?」
「……はい」
殴ってしまった事でお互い冷静になって話をし、納得しない田所に浅田は土下座して結婚の許しを乞うたらしい。
「認めてくれたわけではない様でしたけど、天象さんは天音を悲しませるのは本意じゃないと仰って……数年の間、会社を預かると言われたんです」
「は?」
「一度会社を継いで数年経ったら譲ってやるから、それで両親の許しを貰えと……」
「それで男装に男言葉で、決算終わったら退社って事か……」
「天音は天象さんが性同一性障害である事で、母親が家を出て行った事とか、自分の足の事とか、家族が天象さんを苦しめている事をずっと気に病んでいて……今回もまた、自分のせいだと落ち込んでしまって……このままでは、天音も結婚しないと言い出しかねない状況なんです」
「……でも、だからと言って俺にはどうする事も出来ない」
確かに田所は押しに弱い所がある。
浅田が土下座して、天音に縋られたら、そんな事を言い出しそうだと言うのは楢崎にも想像がついた。
だが、だからと言って自分に何か出来るとは到底思えない。
この話に置いて一番のネックは田所の父親だ。
彼が結婚式に出る条件を撤回する以外には、全てをチャラにする事なんて出来ない上に、田所が選んだ策はその次に来る最善策だと思えた。
天音の婚約を破棄する事無く、天音の結婚式に出て欲しいと言う願いを叶える為にはハリボテでも一度は田所グループを継いで、実の父親との条件を満たすしかない。
「楢崎さん、天象さんを説得して貰えませんか……?」
「説得?」
「今の会社に残る様に、説得して欲しいんです」
「それは浅田さんが会社を継ぐ為?」
「違います。まぁ現実的にそうなってしまうので説得力はないんですけど、天音の旦那になる男として、田所のお義父さんは僕が説得してみせます」
「だから義理の兄は俺に説得しろって事ですか?」
「天音が……それが出来るのは楢崎さんしかいないと……」
なるほど。
天音が何故この男を自分の自宅前に寄越して来たのか、やっと合点がいった。
でも田所はもう退社を腹に決めている様子だし、自分がここで駄々を捏ねた所で踏みとどまるとも思えない。事が事なだけに、天音を差し置いて自分を選んでくれる事はあり得ないだろうし、田所の父親に直接対峙出来るわけでもない。
「天音が言うには、なんですけど……田所のお義父さんは、天象さんの事を目に入れても痛くない程可愛がってらっしゃったそうです。それが性同一性障害だと気付いて、夫婦の間ではどっちが原因なのかで酷く揉めた。息子が可愛いが余りそれが認められないんだと、天音は言っていました。だから、お義父さんはお兄ちゃんの我儘なら聞ける筈なのに、手元に返ってこないから強硬手段に出ているだけだと」
「つまり、天音ちゃんはテンさんに自分を貫いて欲しいと思っている……そう言う理解で良いですか?」
「はい……。お兄ちゃんを我儘に出来るのは、楢崎さんだけだとも言ってました」
流石は田所天象の妹だ。
要領がよく、どうすれば人が動くかよく分かっている。賢いのは血筋かもしれないが、面識のない婚約者を自分の元に差し向け、田所に恋慕の情を抱えた自分を動かし、結果を手に入れる為の最善の策を実行して来る。
天音には楢崎が浅田を邪険にしない事も、それを聞けば断れない事もお見通しなのだ。
「天音ちゃんには負けるなぁ……」
「全くです」
浅田はそう言うと、ここへ来て初めて俄かに笑顔を見せた。
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