第24話 嘘に変えてあげる

 放課後の階段踊り場は薄暗い。封鎖された屋上に繋がる扉の隙間と、その小窓から差しこむ光だけだが、東向きなこともあってひんやりとした空気が流れていた。


「三笠さん、よかった。きてくれたんだね」


 階段を駆けのぼると、ふんわりと微笑む伊達と目が合った。優しく目を細めて、表情を緩めている。彼の持つ穏やかな雰囲気が佳乃は好きだった。


「遅くなってごめんね」

「大丈夫だよ。急に呼びだした僕が悪いから」

「それで……話って?」


 佳乃が聞くと、伊達は悲しげに顔を伏せた。


「三笠さんが、嫌がらせを受けているって聞いたんだ。たぶん、僕たちが日曜日に会っていたのを誰かに見られてしまったんだと思う。三笠さんに迷惑をかけてしまったから謝りたくて……」


 日中の、手紙や黒板の落書きを思いだす。あれを伊達にも知られていたのかと思うと情けない気持ちになる。特に黒板の落書きは、見られたくないものだった。


 大丈夫だよ、と強がろうとして首を横にふる。これでは呪いが発動してしまう。素直にならなければ。


「ショックは受けてる。一人だったら落ち込んでいたかもしれない……けど、菜乃花や剣淵がいるから、なんとか平気だよ」


 佳乃が答えると、伊達は安堵の息をはいた。


「北郷さんや剣淵くんが三笠さんを守ってくれているんだね……少し、うらやましいな。僕は違うクラスだから、何かあってもすぐに駆けつけることができない。北郷さんや剣淵くんがうらやましいよ」


 その言葉に胸がどきりと跳ねる。夢でもみているのかと頬をつねって確かめたくなるほど、嬉しい言葉だった。もしや伊達と両想いかもしれない、なんて淡い期待が浮かんだ。


「伊達くんの方は嫌がらせされてない?」

「僕は大丈夫だよ。誰かに言われることも、変なことをされることもない」


 佳乃だけでなく伊達にまで被害がでていたらと不安だったのだ。佳乃は「よかった、安心したよ」と言って、胸をなでおろした。


 だが伊達は、まだ不安そうに佳乃を見つめている。そのまなざしに憂いの色が滲んでいた。


「でもやっぱり心配だな。明日はもっとひどい嫌がらせになるかもしれない。犯人がわかれば僕から言うこともできるんだけど……」

「そこまでしてもらわなくて大丈夫! もうすぐ夏休みがくるから、嫌がらせもいまだけだよ」


 明日はどんな嫌がらせをされるだろうかと不安はあるのだが、そこまで気持ちは沈んでいない。もしひどいことをされたとしてもなんとかなる。そう信じていられるのは、菜乃花や剣淵といった理解者の存在が大きい。


 強く前を見据えた佳乃に、伊達の不安は晴れたのだろう。険しかった表情は緩み、どこかに潜んでいた穏やかな空気が戻ってくる。


「なにかあったら相談してね。悲しいこととか困ったことがあったら隠さないで教えて」

「うん。相談する」


 伊達が階段をおりる。そして佳乃に数歩近づくと、照れくさそうにしながら可愛らしく首を傾げた。


「こんなことになって心配だったけど、本当は三笠さんに会いたかったんだ」


 その仕草が、言葉が、佳乃の羞恥心を煽る。目を合わせているのが恥ずかしくなって、佳乃は赤くなった顔を隠すように俯いた。


「三笠さんにキスをしてしまったから、嫌われていたらどうしようって怖かったんだ」

「嫌うなんて、そんなこと……」

「こうして二人で話すことができて、ほっとしてる。三笠さんの力になりたいから、辛いことがあったら僕に相談して」


 心臓が早鐘を打ち、呼吸すら疎ましくなるほど思考が鈍い。ここは階段なのに、じっとりと海の中に沈んで溺れていくような感覚。


 いまなら、伊達に告白できるのではないかと思った。両想いかもしれないという淡い期待がいよいよ大きくなって、喉元まで這いあがる。


「だ、伊達くん!」


 好きだ、と言ってしまえばこの苦しさから解放されると思ったのだ。顔をあげ、じっと伊達を見つめる。あとはその一言を絞り出す、ほんのすこしの勇気だけ。


「じゃあ、僕は帰るね」

「あ……」


 気持ちを伝えようと意を決した佳乃に気づかず、伊達が背を向ける。そしてとんとん、と軽快な靴音を響かせながら階段をおりていった。


 数秒あれば。わずかな時間があれば、佳乃は伊達に思いを伝えていただろう。去っていく背は佳乃を置いてけぼりにするようで、告白をする隙はなかった。



***


 思いを伝えることはできなかったが、こうして伊達と話すことができた。デートの気まずさもなく、普段通りに会話ができていたと思う。そのことにほっとし、伊達が去ってしばらくしてから、佳乃も階段をおりていく。


 剣淵や浮島はもう帰っているだろう。菜乃花への連絡は明日するとして、今日はもう帰ろう。階段をおりて、廊下に出ようとしたところで伊達ではない声が佳乃の鼓膜を揺らした。


「聞いちゃった」


 弾む声と共に階段の影から男が顔を出す。それはここにいると予想だにしていなかった人物、浮島紫音だった。


 なぜ彼がここにいるのかという疑問はなかった。何度も接しているために浮島がとりそうな行動はある程度想像がつく。面白いことが起こると嗅ぎつけて空き教室を出て行った佳乃を追いかけてきたのだろう。その嗅覚が優秀すぎることに佳乃はがっくりと肩を落とす。

 問題は浮島がどこまで話を聞いてしまったかである。ニタニタと怪しげな笑みを浮かべながら浮島が佳乃に歩み寄る。


「ねえ、憧れの伊達くんとキスをしたんでしょ? 二人は付き合ってるの?」

「ばっちり盗み聞きしていたんですね……付き合ってないです、けど」


 答えているつもりが、日曜日のキスをまざまざと思いだしてしまって、佳乃の顔が赤くなっていく。血気集いそうな頬を抑えようと唇を噛みしめて視線を逸らす。その姿は浮島にとって面白くないものだった。恥じらう女子の姿は可愛らしいものだが、どういうわけか浮島の表情は硬い。普段ならにやついている口端が垂れさがって不満を表していた。


「面白くない」


 数秒も経たずにそれは爆発する。


「そんな呪いを持っている癖に恥ずかしがるなんて、純情なふり? オレが知っているだけで四回目、しかも付き合ってもいない二人の男と。純情どころか真っ黒じゃん、唇の大安売り」

「……っ! そんな言い方!」

「ああ、佳乃ちゃんを嫌いなわけじゃないから。オレ、ビッチな女の子大好き。だから腹決めて、呪いを悪用して色んな男をひっかければいいじゃん」


 じり、と靴音を間近に感じるまで、思考は浮島に奪われていた。浮島は何かに怒っているようだとはわかるのだが、その原因がほんのわずかな恥じらいの表情なのだと、佳乃はまだ気づかなかったのだ。そうして、手を伸ばせば届きそうなほど近くに浮島を許していた。


「軽く踏み込んで遊ぶなとか、人を傷つけるなとか、オレにお説教してきた子と思えないよね。佳乃ちゃんの方が、もっとずるいことしてるじゃん」


 浮島の言う通りかもしれない、と佳乃は反論を飲みこんだ。呪いがあるとはいえ、剣淵や伊達とキスをしている。特に剣淵には呪いのことも黙っているのだ。キスだけではないデートだってそうだ。剣淵の元へ行くからと伊達を傷つけた。

 ずるいことを、しているのかもしれない。ずきり、と頭が痛む。


「本気になれ、なんて言っておきながら佳乃ちゃんだって変わらない。剣淵くんと伊達くんとキスできてうれしかった? でもすぐに飽きて、他の男とキスをするよ。どんなに好きな人だろうがコロッと気持ちが変わって捨てていくんだ。女なんてそういう生き物なんだから」


 佳乃に向けられたまなざしは階段踊り場の空気よりも冷えていて、夕暮れよりも濃い赤色を秘め、血液に似ているのだ。古傷が開いてそこからしたたり落ちる血の音。


 佳乃は顔をあげて浮島を見る。珍しく無表情で真意は読み取れないが、浮島が傷ついているような気がした。


「女なんてそういう生き物なんて……ひどすぎる」

「ひどいのは佳乃ちゃんだよ。好きな人がいるなんてピュアな女子高生のふりをしておきながら、呪いを言い訳にして付き合ってもいない男たちとキスをしているんだもん。オレはそういう子好きだから大歓迎だけど、ちょっと寂しくなっちゃうよねぇ」

「寂しい? どうして?」

「だってオレだけ仲間外れじゃん――ねえ、オレには嘘をついてくれないの? 呪いを言い訳にしていいから、オレともキスしてよ」


 その言葉を聞いた瞬間、ぞわりと背筋が粟立った。


 浮島は誤解している。伊達とのキスは呪いにかかわるものではない。佳乃は嘘をついていないのに、伊達からキスをしてきたのだ。だが浮島はそれが佳乃の呪いによるものだと思っているのだろう。


 そもそも浮島が語るように、佳乃は喜んでキスをしているわけではない。剣淵との接触は呪いによるものであるし、憧れていた伊達とのキスは剣淵との喧嘩騒動があったために素直に喜ぶことができず複雑な思いを抱えている。挙句に浮島までとなれば――簡単に捕まえられてしまいそうな距離から逃げようと、佳乃は無意識のうちに後ずさりをしていた。


 わずかに開いた二人の間で、浮島の瞳が揺れた。鋭く責め立てていた声音は一転して沈んだものになり、悲しみを宿した顔を伏せる。


「女の子は好きだよ、すごく好き。あたたかくて、やさしくて、柔らかい。近くにいるだけで幸せになれるいい匂いがする」

「浮島……先輩?」

「でもどうせみんなすぐに飽きて捨てていく……違うね、女の子だけじゃない。人間は誰だってそうだ。どれだけ信頼を築いていたとしても興味を失えばおしまいだ」


 凪いだ水面、のようだと思った。あれほど荒れ狂っていたものが急に姿を変えて、いまは穏やかさを取り戻している。


「……浮島先輩はそれが理由で、本気で人と向き合うことをしないんですか?」


 その言葉が大波を生んだのだと気づいたのは、顔をあげた浮島と目が合った時だった。細い瞳はめいっぱいに見開かれ、無機質に佳乃を見つめている。


「佳乃ちゃんにはオレがそう見えてるの?」

「色んな女の人と付き合っても本気になるのがこわくて……だから浮島先輩から突き放している」


 もう逃げられないと思った。目をそらさず、佳乃も浮島を見つめ返す。


「さっき先輩が言ったことは……私を試している。浮島先輩に嘘をついてキスをしたら、先輩が言っていた通りの純情じゃない、飽きたら捨てる意地悪な私だと証明してしまう。それを先輩は確かめようとしてる、きっと」


 浮島は答えない。唇を真一文字に結んで、獲物を狙う蛇のように正面から佳乃を睨みつけていた。



 当たっているのかはわからない。だが佳乃はそう感じたのだ。一言ずつゆっくりと噛みしめ、嘘偽りのないものを紡いでいく。


「怒っている浮島先輩は少し怖かった……けど嫌いじゃないです。いつもより真剣で、臆病なところもあって、でも本気で私を試そうとしてる」


 浮島が語ったように、純情なふりをして様々な男とキスを楽しむ佳乃ならば、誘いにのって嘘をついたかもしれない。もしも誘いにのっていたならば、浮島は佳乃が自らの想像通りだったことに落胆していただろう。そういう子は好きだと何度も浮島は口にしていたが、あれは嘘であって、本気で踏みこんでいい存在なのかと確認している気がした。


 佳乃の考えは間違ってはいないのかもしれない。浮島紫音は険しい顔つきをぴくりとも動かさず、黙って聞きこんでいた。


 その無言が崩れたのは、佳乃が言い終えてからしばらく経ってからのことだ。実際は数秒ほどの間だったのだが、重たい無言によって長く時間が経過した気になっていた。


「合宿の時も今日も、本気になれ、って同じことばかり言うね」

「偉そうなことばかり言ってごめんなさい! でも……私はいまみたいに本気でぶつかってくる浮島先輩の方が好きです」

「じゃあ――本気になるよ」


 浮島が纏う空気が変わっていく。そこに怒気はなく、普段の飄々としたもの――なのだが、違和感があった。


「オレ、佳乃ちゃんが好きだよ」


 違和感の正体は、鼓膜から脳へ。いつもはスムーズに行われる伝達作業が、今回ばかりは鈍くて動かない。伝達経路のどこかで渋滞が起きているのかもしれないというほど、飲みこむのに時間がかかる。さらには、階段踊り場は涼しいとか、今日の夕飯はなにだろうとか。無駄なことを考えて誤魔化そうとしてしまう。


 もしかしたら現実ではないかもしれない、と改めて浮島紫音を見やるのだが、あの静けさが嘘だったかのように、にっこりと微笑んでいる。


「オレになびかない女の子なんて初めてだよ。ずっとそばにいたいし、からかっていたい。だからオレ、佳乃ちゃんが、」

「ちょ、ちょっとまってください! そ、その好きってそれは――」


 ようやく声を発することができ、浮島の発言を遮る。

 慌てふためく佳乃と違い、浮島はあっさりと答えた。


「恋愛として好きだよ。本気になれって言ったの佳乃ちゃんでしょ」

「それは……言いましたけど! でも意味は違います」

「そうかなぁ、意味あってると思うけど。それで返事は? オレと付き合ってくれないの?」


 からかっているのだとわかっているのに、恥ずかしくなってしまう。この階段踊り場が西向きだったのなら、佳乃の顔を赤く染めているのは夕日のせいだと言えたのに。

 佳乃は浮島から視線を外す。


「わ、私は……伊達くんが好きなので……先輩の好きには答えられなくて、その……」


 その言葉に嘘はないはずだった。


 素直に、いまの気持ちを口にしただけなのに。

 浮島が目を伏せ、それからゆっくりと瞼を開いた時――そこに光はなかった。同時に、じり、と距離を詰める。そこに言葉はなく、浮島の動きも操られているかのように不自然だ。


「う、浮島先輩……?」


 浮島の指先が佳乃の顔をぐいと持ち上げる。


 まさか、呪いが発動したのだろうか。いやそんなことはない。嘘はついていないのだ。だというのに――


「せんぱ――っぅ、」


 落ちる。

 重なる影と、重なる唇と、重なる温度。



 浮島の長い髪が揺れて佳乃の頬にかかる。まるで周りから佳乃を隠すカーテンだ。その隙間から覗く二つの唇は、やわらかく形を変えてぶつかりあう。


 これで、三人目。その味を確かめる余裕なんてない。ただ翻弄されるだけ。

 薄目を開ければ、間近に浮島がいる。彼が持つ独特の色香に包まれて、頭の奥まで熱に浮かされてしまう。


 その唇が離れた後、残されたのは戸惑いだった。数歩ほど後ずさりをして壁に背をつけながら、へなへなと力なく佳乃は座りこむ。


「な、なんで……呪いが……私、伊達くんのこと……どうして……」


 伊達のことが好きなのに、どうして嘘になってしまったのか。その疑問は佳乃を傷つけるものだった。自分の感情や記憶に従い、素直に生きていれば呪いは発動しないのだと思っていたのだ。それが、これでは――


「ふふ、佳乃ちゃん、面白い顔してる」


 動揺する佳乃を笑ったのは浮島紫音だ。唇をぺろりと舐めた後、浮島は言う。


「あれだけオレに鋭いこと言ってたくせに、まだ気づかないんだ」


 顔をくしゃくしゃに歪ませて、浮島は軽快な笑い声をあげている。彼が笑う理由がわからず首を傾げていると、浮島が答えた。


「呪いは発動してないよ。呪いが発動したフリをしただけ」

「じゃあいまのキスは――」

「他の男が好きだなんて、それが佳乃ちゃんの本音だとしても、オレが嘘に変えてあげる。そういうこと」


 佳乃は嘘をついていなかったのだが、浮島はキスをしたのだ。呪いは関係なく、浮島の意思で。

 そのことを理解するのに時間がかかった。佳乃の思考は、ぎりぎりと鈍い音を立てて、普段よりもゆっくり動いている。


「佳乃ちゃんを攻略する。オレ、本気になるから」


 本気になれとは確かに言ったが、佳乃の想像とは別のものに火をつけてしまったのかもしれない。



 浮島が去った後も、佳乃は呆然と座りこんで、動くことができなかった。


 唇が、ぼんやりと熱を持って、重たく感じる。柔く沈む感触や湿度も焼き付いて離れてはくれない。

 たぶんこのキスも忘れることはできないのだろう。それは、これから先の波乱を報せる、三人目の唇だった。

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