3章 ドキドキ体育祭、ときめき雨の日

第17話 体育祭サプライズ

 高校生になってから二度目の六月。梅雨時期であることから雨が降ることを願うもむなしく、体育祭というイベントはどうにも晴れてしまうようだった。

 せめてもの日光浴が苦にならない程度の曇りであればいいと思うのだが、残念ながら当日は雲一つない晴天。これでは日光浴どころか岩盤浴ほどに汗をかいてしまいそうだと佳乃は憂鬱な気分になっていた。


 一つでも種目にでれば参加したとみなされるため、佳乃が選んだ種目はパン食い競走だったが、これは午前の早々に終わってしまった。

 何事もなく走り出し、ぶら下がったパンを口で咥え、ゴールラインを踏み越えた時には安定のビリである。運動が得意ではない佳乃にとって順位とは最下位が定位置なのだ、今回の順位も慣れているし恥ずかしく思うこともない。

 ただ悔やむことがあるとすればパンがよくなかった。最下位を走る佳乃に残されていたのは当たりのクリームパンではなく外れのあんパンで、これだけが不満だった。


 こうして体育祭の参加種目は終えて、あとは日光を浴びるだけである。グラウンドの端は紅組と白組で区分けされ、さらにクラス別に分けられている。佳乃は二年A組の紅組用観客席に腰かけながら、日光浴に勤しんでいた。


「今年は紅組勝ちそうだね」


 隣に座っているのは佳乃と同じく紅組のハチマキをつけた菜乃花だった。暇な日光浴の時間も話せる子がいるのだから、つくづく仲のいい子が同じ組でよかったと思ってしまう。


「まだ午前の部だからわからないよ。私はどっちが勝っても構わないけど」

「確かにね。勝ったチームにもらえるのはお菓子セット、だっけ」

「いらないなぁ……私、あんパン食べたし」

「今年も迫力あったよ、佳乃ちゃんのかぶりつき」

「だってそれしか楽しみないもん」


 紅組の席は騒がしく、皆が種目に参加している生徒を応援しているようだった。最後尾でだらけて座る佳乃は応援する気もなく、ただ時間を持て余しているだけである。たいした景品でもないというのによく応援なんてできるものだと思ってしまうのだが、これは佳乃が運動嫌いのため体育祭に苦手意識があるからだろう。


「この種目が終わったらお昼休憩、それから午後の部だね。もう少しの辛抱だよ」

「長い……帰りたい……」


「あっれー? パン食い最下位女王の佳乃ちゃんじゃなーい?」


 そこへ声をかけてきたのは、浮島紫音だった。

 白いハチマキをつけた三年生の彼はここよりも遠い場所が自席となっているはずである。わざわざ佳乃をからかいにやってきたのだろう。

 俯きかけた佳乃は浮島の顔を見て、さらに表情を暗くした。なんたってこんな、憂鬱な時に問題ばかり持ち込んでくる先輩まで来なければならないのか。日光浴の疲労が倍以上に膨れ上がった気がする。


「いやぁ。見ごたえがあったね。パン食い競走。ばっちり録画しちゃった」

「相変わらずの変態録画っぷりですね……」


 うんざり言い返す佳乃と逆に浮島は楽しそうである。ちょうど空席となっていた佳乃の隣に座り、午前の部最終種目である障害物競走が行われているグラウンド中央に目を向けた。

 そしてグラウンドを指さし、佳乃に言う。


「あ、ほら、伊達くん出てるよ」

「え、ええっ!? ど、どこですか!」


 はっとして顔をあげ浮島の指が示す先を見やる――のだが、そこにいるのは伊達ではない男子生徒である。


「はい、うそでーす。ほんっと面白いね、佳乃ちゃん」


 佳乃の反応は浮島の予想を超えていた。ケタケタと笑い声をあげながら、悪魔は顔をゆがめて笑う。


「……だまされた」

「伊達くんが参加する種目を覚えておかない佳乃ちゃんが悪いんだよ」

「こればかりは私も浮島先輩に賛成かしら」

「菜乃花まで……」


 菜乃花が浮島側についたことで味方がいなくなり、佳乃は肩を落とす。まったくロクなことのない体育祭だ。


 借り物競走も終盤に近付き、男子の最終レースが始まる。スタートラインに並んだ生徒の中に、見知った顔がいた。


「あれ。また剣淵くんが走るんだ」


 菜乃花がそう呟いた。紅組のハチマキをつけた剣淵がやる気なさそうにしながらスタートラインに立っている。


「ほとんどの種目に出てるんじゃない? オレは絶対無理ー」

「でも綱引きは出ていなかったと思います。剣淵くん、疲れた顔して席に座っていましたから」


 会話を聞きながら、佳乃の視線は剣淵を追う。


 この体育祭を楽しんでいないのが佳乃だとしたら剣淵は逆である。紅組勝利のためにと頼まれて様々な種目に出場することになっていた。体育祭を楽しんでいるようで何よりだ。


 スタートの合図と共に剣淵が走り出し、佳乃なら足をひっかけて転んでしまいそうなハードルもやすやすと飛び越えて、他の生徒を置き去りにして先頭を走っていく。


「もったいないよなぁ」


 自然と、佳乃は呟いていた。

 剣淵は走ることが好きなのだろう。やる気なさそうだった顔は真剣なものに変わっていて、まるでこの瞬間を楽しんでいるようだった。それほど走っている姿が似合うのに、合宿の時に剣淵が語っていたものが頭から離れない。


 部活にかける時間が惜しくなるほど、確かめたいものとは何だろうか。剣淵が後悔して引きずるほどのものなのだ、少しだけ好奇心が疼いてしまう。


「あーあ。結局剣淵くんが一位か、つまんないの」


 走り終えたところで浮島が落胆の息をついた。


「カッコイイことばっかりしやがって。今日だけで剣淵ファン増えそうだなぁ。悔しいから前歯動画バラまいてやりたい。剣淵おもしろ動画拡散希望ーって」

「浮島先輩! だめですよ!」

「もー、佳乃ちゃんはオレに厳しいよねぇ」


 浮島の言う通り、剣淵の活躍っぷりは的確に女子生徒を射止めている。佳乃の周辺から「あの人すごい」だの「かっこいい」だの聞こえてくるのだ。白組の席でも同様に騒いでいることだろう。


 かっこいい、だろうか。と改めて剣淵を見てみるが、やはり佳乃の好みとは外れている。伊達のように甘い顔つきの方がかっこいいという言葉にふさわしい気がしてしまう。


「剣淵くんといえば……午後の部は面白そうよね」


 体育祭プログラムを開いた菜乃花が、午後の部のとある種目を指さして言った。それは昼休憩の後すぐに行われる二人三脚である。


 二人三脚は同性ペアでも異性ペアでも構わないが、組む者は同じ紅組もしくは白組でなければならない。この性別問わずのルールが人気を呼び、参加する生徒の大半は仲良しっぷりを見せつけたいカップルやその一歩手前の人たち。あとは同性の友達で参加するか、優勝に燃える体育会系ペアぐらいなのだ。見ていて面白い競技ではないのだが、菜乃花はニヤニヤと口元を緩ませて「知らないの?」と佳乃を煽る。


「今年はね……なんと、剣淵くんが出るんだよ」


 もったいぶって言うから何事かと思えば、また剣淵が出場するという話である。肩透かしを食らった気分で呆れ気味に答えた。


「剣淵、何でも出場するんだね……」


 午前ラストの種目に出たと思えば、午後の部最初の種目にも出場である。ここまでくると剣淵が少し可哀相になってくる。


 そういえば女子たちから二人三脚の申し込みをされていたところを見たかもしれない。どんな返答をしたのかはわからないが、女子と並んで走ったところで騒ぐこともない。これが剣淵でなく伊達なら、女子とペアを組んでいる姿に動揺してしまうかもしれないが。

 菜乃花はまだ喋りたそうにしていたが、それを打ち切るように佳乃が呟く。


「……お腹減った、お昼休みこないかな」


 じりじりと照り付ける太陽の光に呼び出された汗を拭いながら呟くと、浮島が「パン食べたのにまだ食べるの?」と笑った。



***


 昼休憩も終わりに近づいた頃である。教室に戻って菜乃花と共に昼食をとっていた佳乃の元に、体育祭のスターこと剣淵が近づいてきた。


「おい」


 相変わらずの不機嫌そうな表情で声をかけるものだから、怒られているような気になってしまう。身構える佳乃に剣淵が耳打ちした。


「顔かせ。こないだ言っただろ。お前に用事があるんだよ」


 そういえば、と佳乃は思い出す。合宿の時に『昼食休憩の後空けておけ』と剣淵が言っていたのだ。理由を教えてもらえなかったことからすっかり忘れてしまっていた。慌てて佳乃は立ち上がる。


「じゃグラウンドに行くぞ」

「うえぇ……外でたくない」

「うるせー。早く行くぞ」


 あの炎天下に戻るなんて嫌だ、と救いを求めるように振り返って菜乃花を見る。


「がんばってね、佳乃ちゃん」


 呑気にひらひらと手を振る菜乃花は動きそうになく、どうやら助けてはくれなさそうだ。




 剣淵と共にグラウンドを目指して歩く途中のことである。


「これ、渡しとく」


 差し出されたのは紅色のハチマキだった。だが佳乃も剣淵もすでに頭に巻いている。どう使えというのか意味が理解できず、佳乃は首を傾げた。


「それ、二人三脚で使うヤツだからな」


 剣淵が出場すると聞いていたが、まさか一緒に走れということだろうか。二人並んで走る姿を想像するだけで嫌な汗が浮かびそうになる。


 それでなくても運動神経抜群で目立つ剣淵なのだ。注目を浴びるに違いない。それと一緒に走るのが運動神経最悪の佳乃とくれば――足を引っ張る佳乃の姿に生徒たちは笑うことだろう。


 それだけではない。カップルが参加することの多い二人三脚で剣淵と一緒に走れば変な噂が立つ。今日の活躍で増えてしまった剣淵ファンから恨まれるに違いない。


「勘弁して。あんたと一緒に走りたくない」


 先を歩く剣淵を追いながら佳乃が言うと、剣淵が苦笑した。


「だろうな」


 わかっていて佳乃と共に走ろうとしているのか。つまりこれは嫌がらせなのか。悶々と考えながらもついにグラウンドに到着する。

 昼休みで教室に戻っていた生徒たちが集まりだし、二人三脚出場者は列を作って待機していた。それが見えたところで、剣淵はぴたりと足を止めた。


「ほら。行ってこい」

「行ってこいって……剣淵は?」


 一緒に走るのでは、と佳乃が聞くと剣淵は「知らなかったのか、お前」と目を丸くして言った。


「俺と一緒に走るヤツが伊達なんだよ」

「え? なんで二人が……」

「変な女子と走って騒がれるぐらいなら野郎と走るって決めてたんだよ。んで、伊達に誘われたから受けた」


 見れば二人三脚の待機列に伊達の姿があった。剣淵がくるのを待っているのだろう。伊達と並んで走るのだ、と考えるだけで頭の奥が沸騰しておかしくなりそうになる。


「俺は疲れたから休む。代わりにお前が走るって言えば、なんとかなんだろ」

「嬉しいけど……私、運動神経悪くて――」

「んなもん気合でどうにかしろ。とにかく俺は休む、わかったな」


 有無は言わせないとばかりに鋭く睨まれ、佳乃は反射的に頷いていた。


「じゃ、頑張れよ」


 その一言を残して、剣淵が歩いていく。


 佳乃と伊達が仲良くなるよう応援してくれているのかもしれない。剣淵の優しさによって与えられたチャンスなのだ、去り際に見せた微笑みを思い返し、手にしたハチマキをぎゅっと握りしめる。

 このチャンスを無駄にしない。気合で走ってみせる。決意を固くした佳乃は待機列で待つ伊達の元に向かった。



***


「なるほど。それで剣淵くんは来なかったのか」


 事情説明はスムーズに行うことができた。剣淵が様々な種目で活躍していたおかげで、あれほど走り回っていたら疲れるだろう、と納得したようだ。


「代走が私でごめんね。運動神経悪いから、剣淵みたいに走れないと思う……けど」

「ううん。一緒に走ってくれてうれしいよ」


 佳乃が走ることについて、伊達は嫌な顔一つせず、いつものように完璧な微笑みを浮かべていた。



 いよいよ午後の部がはじまる。二人三脚出場者の列が動き出し、最初のレースを走る生徒たちがスタートラインに並んだ。


 じっと見つめているだけで蕩けてしまいそうになる、甘くて美しい容姿。王子様と呼ぶのがふさわしい伊達と並んで走るのだ。先に走り出していく生徒たちを見ながら、まもなく佳乃もあのように走るのだと思えば、心臓が破裂してしまいそうなほど高鳴っていく。


「足、結んでもいい?」


 ただ二人三脚の準備をするだけなのに、その言葉が妙に艶っぽく感じた。興奮して血気集う頬を隠すように頷くと、伊達が身を屈めた。


 おずおずと伸びた指先が、佳乃の左足に触れた。足首のほんのわずかな場所に指が当たっただけで、恥ずかしさがこみあげてくる。靴下を履いているのにそれを忘れてしまいそうなほど、指先の動きを敏感に感じ取ろうとしていた。


 露骨な反応はしたくないと平静を装っているのだが、緊張して体が強張ってしまう。そんな佳乃に気づいたのか、伊達が呟いた。


「なんだか、少し、恥ずかしいね」


 屈んでいるために伊達の表情はわからなかったが、声音は照れくさそうにしていた。佳乃が抱いている気持ちと同じものを伊達も感じているのかもしれない。そう考えると嬉しくて、頬が熱くなっていくのがわかる。


「できたよ」

「あ、ありがとう……」


 足元を見れば、紅色のハチマキが二人の足を繋いでいる。足を並べれば伊達のスニーカーは佳乃よりも大きく、隣に立つ肩の位置だって佳乃よりも高い。近づけば改めて伊達が男なのだと感じてしまう。


「最初は左足からでいいかな」

「左足だね、わかったよ」

「あとは掛け声に合わせて足を代えて――」


 佳乃たちの前にいた生徒がスタートラインに立った。そして合図の音と共に走り出していく。


 この夢のような二人三脚は剣淵のおかげである。校舎に戻っただろう剣淵もどこかで見ているだろうか。後でもう一度お礼を伝えなければ。

 そこまで考えていた時、佳乃の肩に伊達が触れた。強く引き寄せるように肩を掴まれて、体がびくりと跳ねる。


「だ、伊達くん!?」

「もうすぐだから、三笠さんも僕の肩掴んで」


 そう言ってすぐに「身長差があるから掴みやすいところでいいよ」と言い直して、伊達が前を向く。


 こんなに近づいてしまえば、騒がしく急いた心臓の音も聞こえてしまうのではないかと思いながら、佳乃は伊達の服を掴んだ。


 この距離だけで、伊達に触れているだけで、頭が真っ白になっていく。

 前走者がゴールを切り、いよいよ出番という時――佳乃にだけ聞こえる声量で、伊達が呟いた。


「一緒に走るのが三笠さんでよかった。すごく、うれしい」



 その言葉を噛み締める間を奪うように、ピストルの音が鼓膜を揺らす。スタートの合図に弾かれるようにして、佳乃と伊達が駆け出していく――つもりだったのだが。


「あ、あれれ……」


 これだけ伊達の近くにいて心拍数も上昇し続け、蕩けきった思考だったのだ。踏み出した左足が、ぐにゃりと滑る。


「三笠さん!?」


 スローモーションのように沈んでいく体。伊達の声が遠くに感じてしまう錯覚。運動神経の悪さをカバーするための気合なんて残っていなかったのだ。


 三笠佳乃。一歩目から転倒する。

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