第2話 ワンモア目撃

 人生最も最悪な日を選ぶとしたら、迷うことなく昨日だと答えるだろう。憂鬱な気持ちを抱えて眠りについたものの、目が覚めても気分が晴れることはなかった。

 朝の身支度をするべく洗面台の前に立ち、鏡に映る自分自身を見る。タヌキと呼ばれた佳乃の垂れ気味な瞳は赤く腫れていた。


 乱入者とのキスの後、佳乃がとった行動は逃げ出すことだった。伊達に見られてしまったのだと思うと胸の奥が切り付けられたように痛んで、どんな顔をしているのか確認してしまえば二度と立ち上がれない気がしたのだ。

 唇が解放された瞬間、乱入者を押しのけて教室を飛び出し――家に帰ってからしばらく泣き続けていたのだ、瞼が腫れてしまうのも仕方のないこと。


 伊達はどう思っているだろう。昨日のことは事故なのだと説明したいのに会うのが怖い。誤解され、軽蔑されてしまったらと想像するだけで、瞳の奥がじわりと熱くなる。


「ねーちゃん。顔洗いたいから早くして」

「あ、ごめん……」


 洗面台の順番待ちをしていたらしい弟に声をかけられて我に返る。どんより暗い表情の佳乃とは逆に、弟は楽しそうに鼻歌を響かせていた。


「……そういえば、」


 鏡に映る制服を見て、ふと思い出す。乱入者は制服を着ていたが、それはこの学校で指定されているものではなかった。


「あの人、誰なんだろ……」


 他校の生徒だとしても近くの学校ではないだろう。あの制服、あの男も見た覚えがない。

 逃げ去ってしまったため、乱入者をまじまじと見ていなかった。覚えている特徴は、伊達よりも背が高いこととアッシュグレーの髪色だけ。


「ひとり言はいいからさ、早く場所空けてよ。遅刻しちゃう」


 なかなか場所を空けようとしない佳乃にしびれを切らした弟が不満そうに呟いた。


***


 忘れてしまいたいものほど追いかけてくる。

 朝のホームルーム。佳乃は、忘れかけていた乱入者の特徴をはっきりと思い出すことになる。というのもホームルームがはじまってすぐ、その乱入者が教室に入ってきたからだ。


「転校生を紹介します」


 担任の横に並ぶ新顔男子生徒に女子は騒いでいた。転校生の男子なんて夢見る女の子が憧れてしまうキーワードだ。

 だが佳乃だけは、複雑な顔をして動きを止めたまま。

 転校生だと紹介されたその男こそ、昨日キスをした相手なのだ。


剣淵けんぶち 奏斗かなとだ。よろしく」


 色めき立つ女子とは対照的に、剣淵は不機嫌そうに眉を寄せて定番の転校生挨拶を述べた。


 昨日と違い、今日は佳乃と同じ学校の制服を着ている。転校初日からシャツのボタンを外してネクタイも緩くした剣淵の姿にだらしなさを感じてしまうが、騒ぐ女子たちは異なるらしい。


 佳乃は、きっちりした真面目な男が好きだ。制服は綺麗に着こなして、ネクタイだって緩めることなく、つまりは伊達のような男が好みであって、剣淵のようなだらしない男は嫌いなのだ。

 それに髪だって。自分で染めているのだろうアッシュグレーの髪は好きじゃない。髪は男にしてはやや長めで、襟足は肩に届きそうなほど伸ばしている。アップバングにセットした前髪はワックスで固められていて、サラサラと指とおりよさそうな伊達の髪とは大違いだ。


 真逆なのは髪や着こなしだけでなく顔も、だ。

 優しい性格を表に出した甘いルックスの伊達に対し、剣淵は目つき鋭く、表情の変化があるとすれば眉間にシワがあるかないか。自己紹介の挨拶もぶっきらぼうだったように、優しさなんて欠片も持っていない印象だ。

 スタイリッシュで細身の伊達はスーツの似合う男だ。去年の学園祭で執事喫茶をした時は執事服を着ていたが、企画した生徒に感謝状を贈りたいほどよく似合っていた。その美しい姿を目に焼き付けようとしていたのは佳乃だけではないだろう。対して剣淵は体格がよく、スーツというよりもスポーツをしている方が似合うだろう。


 嫌悪を丸出しにして、佳乃は剣淵を観察する。昨日は逃げ出してしまったが今日はまだ冷静でいられる。どんな男とキスをしてしまったのか知っていくたびに、好きな人とは真逆で、どちらかといえば嫌いなタイプである。

 佳乃が呪いを発動させてしまったことが一番の原因ではあるが、こんな男に唇を奪われてしまったのだと思うと怒りがわいてくる。剣淵が乱入しなければ、教室にこなければよかったのに。


 じろじろと眺めていると、剣淵と目が合った。


「お前、昨日の……!」


 教科書で顔を隠すも遅く、剣淵の声が佳乃に向けられる。

 それに反応したのは佳乃ではなく担任だった。


「剣淵は三笠と知り合いなのか」

「違います! この変態は――」


 言いかけたところで気づく。クラスメイトの視線が佳乃に向けられていた。「変態?」

「いまなんて言った?」等とざわついている。

 教室前方を見れば黒板前に立つ剣淵は、先ほどよりも不機嫌そうに眉間に深いシワを刻んで、佳乃を睨みつけていた。


「知り合いならちょうどいいな。三笠の隣が空いているから、剣淵の席はそこだ」


 まったくありがちな展開である。佳乃は頭を抱えた。転校生の男の子が隣の席に座るだなんて恋愛小説によくある話じゃないか。ただ違うことがあるとすれば。佳乃が呪われていることと、その転校生と呪いによるキスをしてしまったぐらいで。


 担任に言われた通り、剣淵が隣の席に着く。椅子を引いたり座ったりという動作もわざとらしく大きな音を立てるものだから腹が立った。


 ちらりと見れば、剣淵は片肘ついて顔を背けている。表情はわからなくても剣淵の機嫌が最悪なことはひしひしと伝わってきた。

 昨日キスをした相手に対し、挨拶も謝罪もなくそれどころか視線も合わせようとしない。佳乃の怒りは頂点に達した。


 『話があるので放課後ついて来て。来なかったら変態野郎って呼ぶ』

 ノートの切れ端に走り書きをすると、剣淵の席へ乱暴に放り投げた。


***


 放課後になるまで、剣淵は佳乃と一言も交わさなかった。佳乃の方を見ることだってしない。かろうじて手紙は読んだらしいが。

 チャイムが鳴ると同時に佳乃は立ち上がり、剣淵の机を強く叩いた。


「剣淵、ちょっと来て」

「めんどくせえな。なんで俺が行かなきゃならねーんだよ」

「変態野郎って呼ばれたいの?」


 それでなくてもこの一日。剣淵の態度に苛立ちをためこんできた佳乃だったのだ。二人にしか聞こえない小さな声量だったが、有無を言わせぬ迫力がこめられていた。



 佳乃が選んだのは、特別教室棟の階段だった。屋上に繋がっているものの普段は閉鎖されているため、生徒が近寄ることはない。

 人の気配がない階段踊り場に着いて足を止めると、剣淵が口を開いた。


「早く用件を言えよ」


 大人しくついてきた剣淵だったが、その表情からさっさと話し終えて帰りたいのだろうと察した。


「昨日のことよ。忘れたなんて言わせないからね。いきなり教室にやってきて、その……キス、したでしょ……」

「なんだよ、その話か」


 昨日の感触を思い出しそうになって、恥じらって声量が弱まる。対して剣淵は興味なしと佳乃に背を向けた。


「なんであんなことしたの? どうしてあんたがキスをしたの?」

「うるせーな。話すことねーよ」


 話は終わりだ、とばかりに剣淵が立ち去ろうとしていく。

 だが佳乃はまだもやもやとした気持ちを抱えたままなのだ。その後を追いかけ、さらに質問を投げつけていく。


「何その態度! ちょっとはこっちを見なさいよ」

「俺に構うな」

「話はまだ終わってないんだから、待ってよ」


 何度声をかけても剣淵は逃げていく。階段の半ばまで追いかけたところで、佳乃は挑発に出た。


「あ。もしかして私のことが好きだからキスした、とか?」


 瞬間。剣淵の体がぴたりと止まった。


「でもごめんね! 私、好きな人がいるから気持ちに答えることは――」

「あー、クソッ! ごちゃごちゃうるせーって言ってんだろ!」

 剣淵の怒りが爆発し、怒鳴ると共にずかずかと佳乃に歩み寄る。

 その姿は、獲物に襲い掛かる肉食獣。体格のいい剣淵が迫ってくるのは恐ろしく、佳乃は怯えて階段の壁に身を寄せた。


「……ご、ごめ」


 言い過ぎた。と謝るよりも先に剣淵が押し迫る。

 逃げ腰になって壁に張り付いた佳乃の退路を塞ぐように近づくと、何も言わず手を振り上げた。


「――っ!」


 その動作にきゅっと身をこわばらせる佳乃だったが、聞こえてきたのは壁を叩く音。

 剣淵は壁に手をつき、苛立ちにこめかみを震わせながら佳乃に顔を近づけていた。


 いわゆる壁ドンというものなのだが、その単語が持ち合わせている恋愛の甘さはまったくない。佳乃が感じているのは、ただ恐怖のみ。


「俺は、」


 恐怖の塊となった剣淵が、怒気こもった低い声で呟く。


「お前のこと好きじゃねぇから。勘違いすんな」

「……じ、じゃあ、なんでキスなんてしたのよ」

「あれは――」


 佳乃にとって最も気になる言葉だったが、それを聞き取ることはできなかった。

 被せるようにして階下から声がする。それは佳乃でも剣淵でもない、三人目のもの。


「三笠さん?」


 声の主は、佳乃もよく知っている者。身にしみついた片思いによって反射的に目で追ってしまった。

 伊達享。奇しくも、昨日と同じ面子がここに揃ったのだ。


 普段は笑顔を浮かべている伊達は険しい表情をして、佳乃と剣淵を見つめていた。そのまなざしに軽蔑が込められているようで、佳乃の体から血の気がひいていく。

 昨日はキスシーン、今日は壁ドン現場を目撃されてしまったのだ。誤解を解くどころではない、誤解の上乗せ状態である。

 昨晩わんわんと泣いていたからか、緩みんでいた涙腺が揺れだす。視界がじわじわと滲んで、瞳の奥が熱い。


 ああ、悪いことを考えてしまったから罰が当たったのだ。嘘の罪はなんて重たいのだろう。後悔しても戻ることはない。静まりかえった場で、ぽたりと涙がすべり落ちた。

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