第8話 悪いことをしたらこうなります

 逃げ道を奪うように顔の横は手で塞がれ、佳乃より体格の大きい男が覆いかぶさっている。机と剣淵に挟まれてしまえば、二人の間に残っているのは呼吸を感じるほどの距離しかない。

 そして鼻をくすぐる、男物の香水。爽やかなシトラスの香りに春らしさはなく、密着して高まる温度が夏を思わせた。


「お願いだから、やめ――!」


 咄嗟の出来事だった最初のキスと違い今回はゆっくりと起きてしまったものだから、唇が触れ合う瞬間の柔らかく潰れていくものまではっきりと伝わってくる。この世にこれ以上に柔らかなものが存在するのだろうかと考えてしまうほど、佳乃の唇に合わせて形を変え、押し潰れた。

 唇なんて体全体で見ればほんの一部、だというのに感覚は妙に鋭くて押し付けられた唇の薄皮までわかる。その奥にひそむ熱を帯びた芯が生々しく、この時間が幻や夢ではないと示していた。


 言わなきゃ、よかった。肉食獣が淡々と食事をこなすように、色気の欠片も感情もこもっていない無機質なキスが佳乃の心に後悔を生んでいく。

 暑いわけでもないのに嫌な汗が吹き出てくる。この机だけ雨雲が集まっているのだと言われたら信じてしまうだろう。


 うすら目を開けて剣淵を見ればぼうっとした様子をしていた。キスされるのだと構えて目を閉じてしまった佳乃と異なり、唇が重なった瞬間だろうがうつろな瞳を向けたまま。

 唇が重なるぐらいの超至近距離にいるのに、剣淵が佳乃ではないものに意識を向け、別のことを考えているのだと思うと腹立たしくなった。これじゃ、ただ唇の安売りだ。


 酸素が奪われて頭がくらくらと揺れだしたところで、熱と余韻をたっぷり残して唇が離れていく。詰めていた息をついた瞬間、剣淵の表情が一変した。


「……み、三笠!?」


 正気に戻った、という方が正しいだろう。驚きに見開かれた目からうつろな影は消え、慌てて体を起こした。


「な、なんで俺……また……」


 どうしてキスをしてしまったのか、剣淵自身もわかっていない様子だった。起き上がり数歩ほど後ずさりをしたものの、動揺のために足がふらついている。

 剣淵からすれば、気がついた時には唇が重なっていたのだ。佳乃に忘れろと言っておきながら、どうしてまたキスをしてしまったのか。現状を理解できず困惑し、手で顔を覆う。


 佳乃はというと、剣淵よりは冷静さを保っていたが心臓がうるさく騒いでいた。肌が触れてしまうほど近くに異性を許してしまったのだと、離れてはじめてゼロ距離の恥ずかしさを知る。顔から火がでそうで、めまいがしそうだ。


「クソッ! お前といると妙なことばかり起きる。勘弁してくれよ……」


 剣淵は床に置いていたかばんを手に取ると佳乃に背を向けた。


「とにかく、協力ってやつはしてやるから今回のことも忘れろ! 俺は帰る」


 佳乃と目を合わせることせず、足早に去っていく。

 引き止めようと「待って」と言いかけた佳乃だったが、それは言い切る前に飲み込んだ。剣淵が教室を出ていく瞬間、その表情が見えてしまったのだ。


「なんで……あいつ、」


 それを知らなければ、剣淵を引きとめてまだ話していたかもしれないのに。


 一人教室に残された佳乃は呟く。ここには佳乃しかいないはずなのに、まぶたにはっきりと焼き付いて離れない、あの表情。


「剣淵……顔、赤かった」


 向き合っていた時は手で隠していたからわからなかったのだ。でも知ってしまった。たぶん、同じ色をしていた。佳乃も剣淵も、それは教室に差し込む西日と似た色。



 『嘘をついたらキスをされる』この呪いは佳乃を傷つけ、同時に他の人も傷つけてしまうのだと初めて知った。

 『嘘をついたらキスをさせてしまう』改めてこの呪いを疎ましく思う。発動させてしまえば、たくさんの人を傷つけてしまうのだ。嘘をついてはならない、二度と悪用なんてせず正直に生きなければ。決意して、手を強く握りしめる。


 そして正直に向き合った結果、佳乃は一つの答えを出す。

 剣淵は嫌いだ。でもキスを忘れることなんて、できない。唇に残った熱が切なく疼いていた。


***


 誰もいなくなった教室に残る理由はない。深呼吸をして興奮した気持ちを鎮めると、佳乃も教室を出た。

 静かな廊下を歩き、このまま下校――となるはずだったのだが。


「なるほどなるほど」


 隣の空き教室前を通り過ぎようとした時、扉の開く音がして佳乃は歩みを止めた。

 聞き覚えがあるどころか、聞きたくない声がしたのだ。

 まさか、いやいやそんな、用事があるから帰ったはず。聴覚がおかしくなっているだけであってほしいと願いながら、おそるおそる空き教室の方を見やる。


「いやあ捗るね。楽しい学生生活だ」


 ああ、お使いの聴覚は正常でした。ニタニタと笑みを浮かべる浮島紫音の姿を見た瞬間、佳乃は落胆のあまり座りこみそうになった。

 目の前にいるのはいまもっとも会いたくない男で、それが不気味なほど楽しそうにしているのだ。さらに浮島の手にはスマートフォンが握られていた。画面は暗くなっていたが、この男には佳乃と菜乃花の会話を盗撮した前科があるのだ。嫌な予感しかしない。


「……用事があるって言ってましたよね?」

「嘘じゃないよ。この教室に用事があっただけ」

「それってまさか……また、撮ったんですか?」

「あれ、言ってなかった? オレ、動画撮影が趣味なんだよねー。無意識のうちに録画ボタン押しちゃうんだ」

「その変な趣味、初めて聞きましたけど」


 この教室にいるのは浮島だけで、他の生徒がいた形跡は見当たらない。本人は否定しているが、用事があると言っていたのは嘘だったのだろう。


 つまり、浮島は罠を仕掛けていた。そして佳乃はそれに引っかかってしまったのだ。だから浮島はこんなにも上機嫌でいる。


 ではなぜ罠を仕掛けたのかと、浮島がいない間の出来事を思い返す。剣淵と話をして、それから呪いが発動して――知られたくないものばかりだ。特に問題児で何をするかわからない浮島には絶対に知られなくなかった。他人にキスシーンを見られる恥ずかしさもあったが、それよりも怒りが勝る。抵抗として浮島を睨みつけて佳乃だったが、怒気はまったく届いていないようでケタケタと笑っていた。


「いやあ用事があってよかったよ。おかげで佳乃ちゃんの呪いが本物だとわかったからね」

「……それを確かめるために、私と剣淵を二人きりにさせたんですか?」

「そうだよ。キミたちを残したら面白いことになるんじゃないかと思ったんだ。大正解だったね、あー楽しすぎて笑いがとまらないよ」


 剣淵を呼び出したのも二人を残したのも、すべては呪いを確認するため。考えれば考えるほど腹が立ってくる。よわみを握られていなければ平手打ちしていたかもしれない。それが悔しさを込めて、低い声で呟く。


「……最低」

「あはは、ほめ言葉だよ! 青春なんて最低なもので作られているんだから。それに、オレが最低なら佳乃ちゃんはどうなの? 呪いのことを隠して、剣淵くんと二回もキスをしてる」

「……っ!」

「その上、好きな人と付き合いたいから協力しろ。なんて最高じゃないか。正直者のタヌキどころか策士タヌキだよ。オレよりも佳乃ちゃんの方がよっぽど最低なことをしてる」


 何も言い返せないでいる佳乃に、浮島が詰め寄る。真意の読めない薄っぺらな笑顔を張り付け、しかしそのまなざしは佳乃を責めるものだった。


「伊達くんカッコイイもんねぇ。オレでもクラッとしちゃうもん。佳乃ちゃんが片思いする気持ちはよーくわかるよ」

「……どうして、こんなことをするんですか?」


 浮島が佳乃に執着する理由がわからなかった。盗撮だけでなく佳乃を脅すような発言までしているのだ、一体なにが目的なのだろう。

 近づいてくる浮島が恐ろしく、気を抜けば足が震えてしまいそうだった。だが弱る姿を見せれば喜ばせるだけだ。屈してしまいそうな心をなんとか保ち、向き合う。


「オレ、楽しいことが大好きなんだよね。こんな面白い呪い、見逃すわけないでしょ。サイコーのおもちゃだよ」

「おもちゃって……そんなのひどすぎる」

「ひどいのはどっち。まさかキミに拒否権があると思ってる?」


 浮島はそう言って、スマートフォンを指で叩いた。コツコツと無機質な音を響かせるそれが、佳乃の立場を示す。


「なにもとって食べようってわけじゃないから安心してよ。伊達くんと仲良くなれるように、オレも手伝ってあげるから。ね?」


 土下座してでもやめていただきたいところだが、拒否しようとすればまた脅してくるのだろう。後悔しても遅く、ずるずると獲物を追いつめて遊ぶ紫色の蛇からは逃げ出せそうにない。

 悔しさに唇を噛みながら、佳乃は決断する。


「……わかりました」

「あれれ? 言い方が違うよ。自分の立場をよーく考えたら?」

「……お願いします浮島先輩」


 まるで悪魔の契約だ、と思った。

 選択肢なんて最初から与えられていなかった。空き教室に呼び出された時から、浮島によってこの未来が定められていたのだ。


 厄介な人物に関わってしまった。これからの学校生活を思うと頭が痛くなる。


「呪いのことを知っているのは、北郷ちゃんとオレだけ?」

「あともう一人、ですね」


 もう一人とは菜乃花の姉である。だが浮島の前で名前は出したくないと思い、名前は伏せた。

 そこでふと剣淵の顔が浮かんだ。


「……剣淵には、呪いのこと言わないでください」

「ふうん? まあいいけど」

「それから。私と剣淵のやりとりを浮島先輩に撮られてしまったことも……知られたくないです」


 二回目のキスを浮島先輩に見られたのだと知ったら、剣淵はまた傷ついた顔をするのだろうか。それを想像し胸の奥が苦しくなる。嫌いな男といえど、呪いによってここまで振り回していることに罪悪感を抱いた。


「それも知られたくないんだ? クズ策士タヌキだと思ったら健気で可愛らしいところもあるんだ。妬いちゃうなぁー」


 願いは聞き入れてもらえただろうか、とちらりと浮島を見上げる。

 すると、浮島はスマートフォンの画面を数度操作して、佳乃に見せる。


 そこにはチャットアプリが表示されていた。グループチャットの参加者リストには、連絡先を交換したばかりの佳乃と剣淵、浮島の名前がある。

 だが気になったのは参加者リストではない。グループチャットの名前である。目を疑いたくなるその名を読み上げる。


「『剣淵と佳乃ちゃん二回目のキスを祝う会』……って、これは!」

「ごめーん。オレも仲間に入れたのが嬉しくって、さっき変えちゃった」


 目眩がした。いっそのこと意識を失って倒れてしまいたい。この現実から誰か連れ出してくれないものか。

 絶望感に瞼を閉じると、このグループ名に頭を抱えている剣淵の姿が見えた気がした。

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