第18話 怒る剣淵、リレーで活躍

 一歩目から転倒するなんて、ここまで運動神経が悪いとは思っていなかった。いや、運動神経だけの問題ではないのかもしれない。

 指示通り左足を出しただけである。それなのに佳乃が着地した場所だけぬかるみだったかのように滑った。バランスを崩して前のめりに体が傾き、足を繋いでいた伊達までも引っ張るようにして佳乃は地面に倒れた。


「い、痛っ!」


 地面に打ち付けた膝にはグラウンドの砂利が食いこみ、ハチマキで繋いだ足首もぴりぴりと痛む。伊達の服を掴んでいた左手は離したものの、手をつく間はなかった。


 隣を見れば、佳乃が引っ張ってしまったため伊達も地面に膝をつけていた。転んでいないことにほっとしたものの、文字通り足を引っ張る結果となってしまったことが情けなく、申し訳ない気持ちになってくる。一緒に走るのが佳乃でよかったと言ってくれたのに、これでは期待に応えることもできていないのだ。


 足の痛みと、心の痛み。じわじわと視界が滲んで泣きそうになる。これでは伊達どころかチャンスを与えてくれた剣淵にも呆れられてしまう。なんて恥ずかしいのだろう。


「伊達くん、ごめん」


 タイムロスにはなってしまったがまだ追いつけるかもしれない。慌てて立ち上がろうとした時、先に伊達が動いた。素早い動きでハチマキをほどき、佳乃に言う。


「動かないで」


 そして訳も分からずにいる佳乃の体を起こしたと思いきや、体がふわりと宙に浮いた。膝裏と背中に手を差し込み、軽々と佳乃を抱き上げたのだ。


 抱えられてようやく、お姫様抱っこというものをされているのだと気づく。安定はしているものの足がついていないことが怖く、伊達の服をぎゅっと掴んでその顔を見上げた。


「伊達くん! 大丈夫だよ、歩けるから!」

「だめ。保健室に連れていくから、掴まっていて」


 女子生徒に人気の王子様が、運動神経ゼロのタヌキを抱きかかえているのだ。佳乃の転倒に唖然としていた観客席がざわつきだす。


 それでも伊達は佳乃を下ろそうとしなかった。細い体に隠し持っていた力強さで、佳乃を抱き上げたまま走る。


 幸せな夢なのかもしれない。抱きかかえられて伊達の甘い香りを近くに感じ、その距離が足の痛みを忘れさせてくれるようだった。申し訳ないと思いながら、赤くなった頬を隠すべく伊達の服に顔を埋めた。



***


「あら。王子様とお姫様の到着じゃない。ここは舞踏会じゃないわよ」


 保健室に入るなり、ニヤニヤと笑みを浮かべて茶化したのは白衣を身にまとった養護教諭の蘭香らんかだった。そして「そこに座らせて。診てあげる」と保健室の一角にある長椅子を指さした。


 蘭香はこの学校の有名人である。羽織った白衣の下には、胸元の開いたブラウスと黒いタイトスカート。化粧は濃く、唇は真っ赤なルージュが塗られ、爪は切りそろえているものの薄桃色と白色に塗り分けられている。どこを見ても養護教諭とは思えないのだが、有名なのはそれだけではない。


 伊達は長椅子に佳乃をおろすと、蘭香に向き直って言った。


「お願いします、北郷先生」


 その言葉に蘭香は頷き、つかつかとヒールの音を鳴らしながら佳乃が座る長椅子に向かう。


「二人三脚見てたわよ。一歩目で転ぶなんて佳乃ったら本当に運動音痴ね。しばらく笑いがとまらなかったわ」

「蘭香さん、見てたんですね」

「誰もこないからヒマなのよ。ほら、靴下脱いで」


 養護教諭、北郷きたごう蘭香らんか

 菜乃花の姉であり、学内では美形姉妹と有名である。ハーフのため顔つきはやや濃く、陶器のような白い肌は菜乃花と同じだが、異なるのは髪の色。蘭香の場合は赤く染めているため天然の色ではない。さらに性格も菜乃花と違ってお嬢様らしさはなく、どちらかといえばさばさばとした男っぽい印象だ。


 菜乃花と仲のいい佳乃は、蘭香のことをよく知っていた。最近では学校で顔を合わせる程度だが、小さな頃は一緒に遊んだりしたものだ。その切れ長の瞳がすっと細くなって佳乃の足首を凝視する。


「痛い?」

「ズキズキします。でも歩けないほどじゃないです」

「……軽い捻挫ね。すぐに治ると思うけど、少し腫れてるから湿布を貼って様子見。派手に転んだから心配だったけど、これなら大丈夫よ。運がよかったわね」


 そう言って蘭香は立ち上がり、湿布をとるべく棚の前に移動した。その間、黙って佳乃たちの様子を見ていた伊達に声をかける。


「しかし、王子様ったらさすがね。佳乃をお姫様抱っこで運んでくるなんて、とんだ力持ちじゃない」

「いやだな、からかわないでください。僕は王子様じゃないですよ。それに三笠さんは軽かったので、僕でも抱き上げることができました」

「あらあら、青春ね」


 蘭香はからかうように笑い、「よかったわね、佳乃」と話を振った。

 こんなタイミングで話を振られてもどう反応していいのかわからない。お姫様抱っこや軽かったなどの赤面必須のワードに耐えながら、佳乃はなんとか平静を装う。


「それじゃ、お姫様抱っこの王子様に手当をお願いしてもいいかしら。あたし、これから職員室に行かなきゃいけないのよ。湿布を貼るだけだからできるでしょう?」

「はい、わかりました」

「佳乃は……パン食い競走終わっているからこの後走ることはないだろうけど、今日は安静にしていなさい」


 取り出した湿布を渡して後の手当を伊達に託すと、蘭香は佳乃に近づく。

 そして伊達に気づかれぬよう、顔を寄せて囁いた。


「二人きりにしてあげる。でも、嘘には気をつけなさいよ」


 赤いルージュで彩られた唇が綺麗な弧を描く。この囁きによって、職員室に行くというのは嘘で、蘭香が気をつかってくれたのだと佳乃は察した。


 佳乃が伊達に片思いをしていることは蘭香も知っている。年齢の離れた蘭香は幼い頃から頼れる姉のような存在だった。菜乃花と遊んでいる時によく蘭香がやってきて、悩みごとを話したりしたものだ。

 そして呪いのことも。嘘をついたらキスをされる呪いについて知っているのは、菜乃花と蘭香の信頼できる二人だけだった――のだが、いまは浮島が混ざってしまった。


 気遣ってくれたことに感謝をして佳乃が頭をさげると、蘭香は保健室を出て行った。最近は蘭香が忙しいらしく学校外で会うことはないのだが、今度会った時にはお礼をしなければ。


 王子様だのお姫様抱っこだのと蘭香にからかわれていたからか、伊達と二人きりになった瞬間、恥ずかしさが蘇る。湿布を貼ろうと佳乃の前で屈む伊達を直視することもできず、佳乃は視線を泳がせながら、二人三脚のことを謝った。


「……転んじゃってごめんね。伊達くんに迷惑かけちゃった」

「気にしないで。それよりも三笠さんの怪我が軽くてよかった」


 足首に、ひやりと冷たい感触。伊達の指先が足に触れて羞恥心を生んでいるというのに、なぜか虚しくなっていく。足首に貼られた湿布から漂うメンソールの爽やかな香りが、目の奥まで沁みわたって、切なさに視界が滲んだ。


「転んで、抱えてもらって――伊達くんに恥ずかしい思いをさせちゃった。私じゃなくて他の人が走った方がよかったのかも」


 あはは、とつよがって笑いながら「ごめんね」と続ける。せっかくのチャンスも生かせず、伊達に嫌われてもおかしくないことばかり。こんな情けない姿を好きな人に見られるなんて、このまま消え去ってしまいたい。


 足首よりも心の方が痛い。ずきずきと疼いて、後悔ばかりが頭に浮かぶ。


「……僕は、」


 手当を終えた伊達が、佳乃を見上げる。


「剣淵くんの代わりが三笠さんでうれしかったよ。ラッキーだな、って思っていたんだ」


 柔らかくて蕩けてしまいそうな微笑み。少し照れくさそうにしながらも瞳はまっすぐ佳乃だけを見つめている。


 この時間が幻なのかもしれないと思うほど、伊達が紡いだ言葉は佳乃にとって幸せなもので、急いた心臓の音が保健室に響いてしまいそうだ。もしもこれが幻でないとしたら伊達は佳乃のことを――そんな淡い期待が浮かんで、縋りつきたくなる。この場で想いを告げてもいいのではないかと悩んでしまう。


 二人の間に静かな時間が流れる。お互いに見つめあったまま、次に紡ぐ言葉と勇気を探して、唇を閉ざしていた。


「……ねえ、三笠さん」


 口火を切ったのは伊達だった。静寂流れる保健室がようやく動き出し、伊達も立ち上がる。


「来週末、空いてるかな?」

「あ、空いてます!」

「前のデートの埋め合わせがしたいんだ。今度は買い出しじゃなくて、三笠さんの好きなところに行こう」


 今度こそ伊達とデートができるのだ! その喜びに、血気が頭に集って、くらくらと揺れる。興奮のあまり声が出せず、ぱくぱくと口を動かしながら佳乃が頷くと、伊達はほっとしたように「断られなくてよかった」と微笑んだ。


「僕はそろそろ戻るね。次の種目がはじまる前に行かないと」


 グラウンドから次の種目の案内と出場生徒の集合を呼びかける放送が聞こえてくる。


 佳乃と違い、伊達は参加する種目がまだ残っている。そんな中で、保健室まで運び、さらに手当までさせて時間を取ってしまったのだ。


「ごめん! 私のことは気にしないで戻って!」


 名残惜しそうにしながらも、伊達は保健室を出て行った。廊下から聞こえる足音が小走りなことから、集合時間が迫っているのだろう。


 佳乃も立ち上がる。保健室に一人残っているわけにもいかない、無理せずゆっくり歩きながらグラウンドに戻ろうとした。


 そして生徒玄関に着いた時である。


「……あれ?」


 生徒玄関のベンチに座りこむ生徒に見覚えがあり、佳乃は近づいた。

 どっかりとベンチに座りこんで長い足を組む。特徴的な髪型に、遠くからでもわかる不機嫌なオーラ。


「剣淵、ここにいたんだ」


 声をかけると、その人物は怠そうに顔をあげた。


「……おう」


 それは剣淵奏斗なのだが、眉間に皺が寄っていて、むすっと苛立った表情で佳乃を睨みつけている。昼食後に会った時よりも機嫌が悪くなっているようだった。


 あまりの態度に避けて通りたいところだが、剣淵には恩がある。佳乃は剣淵に近づいて、改めてお礼を伝えた。


「二人三脚のこと。ありがとう」

「別に。俺もサボりたかったから――まさか転ぶとは思わなかったけどな」

「期待に添えずごめん。気合でどうにかできる問題じゃなかった……剣淵は、次何の種目にでるの?」


 合宿の後から剣淵に対しての意識は変わっていた。嫌なやつだとばかり思っていたが、合宿で話したことや雨の日曜日に助けてもらったことから、警戒心が和らいでいた。


 それは佳乃だけでなく剣淵もそうなのかもしれない、と思っていたのだ。だから二人三脚のパートナーを代わってくれた、少しは仲良くなってきたのかもしれない。


 そう考えて剣淵の返答を待っていた佳乃だったが、固く閉ざされた唇が動くことはない。何も語らず、佳乃を突き放すようにそっぽを向いていた。


 触れたら怪我をしそうな針のように鋭く、誰も寄せ付けない怒りの空気を放っているのだ。怒らせることをしてしまったかと考えてみるが、思いつくのは二人三脚の転倒程度。しかし転んだ程度でここまで機嫌が悪くなるとは思えない。


「……私、戻るね」


 居心地が悪く、佳乃は剣淵から逃げることを選んだ。言い残して背を向けても、剣淵から言葉が返ってくることはない。


 一体何が、剣淵を怒らせたのだろう。デートの喜びでいっぱいだったはずの頭が、急にしんと冷えていく。甘いものを食べたつもりが苦味しか感じない、そんな戸惑いを抱きながら佳乃は観客席に戻っていった。



***


 席に戻ってからは大変な目にあった。二人三脚の出来事を目撃した生徒たちから「伊達くんと付き合っているの?」と質問攻めである。伊達が女子生徒に人気なために、生徒たちの動揺は大きかったようだ。

 付き合っていない、剣淵の代走だと説明するのも時間がかかり、ようやく解放されたのは午後の部の最終種目、学年選抜リレーがはじまる頃だった。


 この学校でのリレーは学年男女別となっており、それぞれの学年の紅組、白組から選ばれた四人の選手が走ることになっている。足の速い者はアンカーを担当するのが決まりで、今年の二年生紅組男子のアンカーは剣淵が選ばれていた。


「リレー、楽しみだね」


 見知った顔がリレーに出るからか、菜乃花の声はいつもより弾んでいる。

 対して佳乃はというと、女子生徒に弁明するのに疲れていて、体育祭どころではなかった。それに生徒玄関でのことを引きずっていて、剣淵の姿を見るのも憂鬱である。何について怒っていたのかわからず、悶々と考えてしまうのだ。


「……転べばいいのに」

「こら。応援してあげないと」


 佳乃が恨み言を呟いている間に、二年生男子のレースが始まった。ピストルの合図と共に、第一走者が走り出す。

 四人でトラックを一周。佳乃たちの席の前はアンカーである第四走者が走ることになっている。ゴール間際の白熱した戦いを目の当たりにできる好スポットだ。


「今年は白組が勝つかもね」

「どうして?」

「白組、陸上部の子が多いの」


 菜乃花は詳しいな、と感心しながらレースを追いかける。菜乃花の予想通り、第一走者の争いは白組が優勢だった。みるみる差が広がっていく。


 第二走者にバトンが渡っても、やはり白組がリードしていた。広がった差はなかなか縮まりそうにない。

 佳乃から見れば憧れである。選抜選手に選ばれるなんて羨ましい話だ。ぜひ一度でも選ばれてみたいものだが転びそうなので、妄想だけに留めておく。


「第三走者も白組の方が速いんだよね……この差なら厳しいかも」

「でも最後が剣淵でしょ? なんとかなるんじゃない」


 佳乃が言うと、菜乃花は「うーん」と渋い表情で答えた。


「さすがの剣淵くんでも、厳しいと思う……かな」


 第二走者から第三走者へと移る。じわじわと差が縮まってはきているが、追い越すのは難しそうだ。


 リレーがはじまり応援にわいていた観客席も、次第に諦めの空気が漂ってくる。


「……佳乃ちゃんはどう思う? 紅組勝つと思う?」

「私は――」


 ゆるやかなカーブを走り、第三走者がアンカーに近づいていく。それと共に剣淵が姿勢を整えた。

 第三走者の頑張りによって差は縮まったが、追い越せるのだろうか。じっと剣淵を睨みつけて考えていた時、ふと合宿の会話を思い出した。


 剣淵が走りこんだり体を鍛える理由を聞いた時、眩しいと感じたのだ。それは夏の太陽に似てじりじりと照り付ける、しかし一度知ってしまえば忘れられない強烈なひかり。

 今日だって不機嫌で怒っていて近寄りがたい男だが、ひたむきな一面を持っているのだ。だから剣淵なら――


「剣淵なら、勝つと思う」


 トラックをぐるりと駆け抜けてきた風が、近づく。白組はアンカーへバトンが渡ったところだが、まだ剣淵は動き出していなかった。


 そして第三走者が運んできた荒々しい風が、剣淵の手に託される。


 駆けていく。グラウンドの喧騒を飲みこみ、ねじ伏せていく圧倒的な速さで。


 その長い足が地に着いたと思えば、弾け飛ぶように蹴りあげる。

 まるで後悔を振り切るように、まっすぐ前だけを見て進んでいく。普段と少し違うその表情は悔しいけれどかっこいいのかもしれない。女子たちが黄色い声をあげるのも、いまだけは納得できる。佳乃は息を呑んで、観客席前を通過する剣淵を目で追っていた。


 前を走っていた白組のアンカーとの差が縮まっていく。これなら紅組は逆転できるのかもしれない。周囲は起こるかもしれない逆転劇に思いを馳せて、剣淵に声援を飛ばしている。


 剣淵が通り過ぎて最後の直線に向かおうとした時、隣にいた菜乃花が首を傾げた。


「剣淵くん、いつもと少し違ったね」

「あー……そうだね……」

「うん。なんだか、怒っているみたいな」


 他の生徒たちにはわからない。佳乃と菜乃花だけが気づいたもの。

 怒っているのではないか、と言われた剣淵はそのまま直線コースで白組走者を抜き、一着でゴールラインを踏み越えていった。


「……私、怒らせることしたのかなぁ」


 佳乃が呟いても、それがグラウンドの中央にいる剣淵に届くことはない。走り終えて息苦しそうな剣淵は、やはり怒っているようだった。


 二年男子リレーの大逆転劇に歓声があがる中、佳乃は複雑な思いを抱えて剣淵を見つめる。いくら考えても彼の怒る理由がわからず、近づいたかと思えば離れていくこの状況に寂しいと思ってしまった。


***


 剣淵と佳乃の仲は冷えこみ、体育祭は終わる。体育祭の晴天が幻だったかのように天気は崩れだし、ぐずついた天気は二人の関係を示しているようだった。顔を合わせても会話すらせず、特に剣淵は機嫌が悪いまま。


 そして、日曜日。佳乃にとって待ち遠しかったデートである。だが外にでれば、肌に纏わりつく湿度、どんよりと重たい空。

 その日は雨が降っていた。

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